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「神が偽ることのできない事柄」

「このように神は、約束を継ぐ者たちにみ旨の変わらないことをさらにじゅうぶんに示そうとされた時に、誓いを加えられた。それは神が偽ることのできない、二つの不変の事柄によって、自分の前に置かれた希望をとらえるためにのがれた我々に強い奨励を与えるためである」---ヘブル、6:17,18。新世訳
以上[1]

「神が偽ることのできない事柄」

      1965年 英文発行
      1966年日本文発行

      出版者

   WATCHTOWER BIBLE AND TRACT SOCIETY
        OF NEW YORK,INC.

   Inter National Bible Studennts Associatin

       Blooklyn,N.Y.,U.S.A.

      英文初版 2,000,000 部

以下略。

以下[20]
 第二章  どの宗教の正典が真理か

 今日、世界で行われているおもな宗教は、それぞれ古くからの聖典を基にしています。読者の中に儒教の信者がおられるならば、中国の九つの古典すなわち礼と徳を説いた四書ならびに五経を読まれたかもしれません。あるいは黄色の仏教信者ならば、仏教のパーリ語聖典の三蔵すなわち経蔵、律蔵、論蔵を読まれたことでしょう。

 2 読者の中にヒンズー教徒がおられるならばどうですか。一九六四年十一月八日、ニューヨーク市の合同教会はヒンズー教寺院の観を呈しました。信者がディワリと呼ばれるインドの光の祭礼の行事を行い、二人の信者がインドのバガバッド・ギーダーすなわち「主の歌」を誦詠(しょうえい)しました。*ヒンズー教ならばこの本を読んだことがあるでしょう。またブラーフマナ(梵(ぼん)書)、ウ
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  • 一九六四年十一月九日付ニューヨークタイムズ

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1 儒教徒、仏教徒の聖典とされているのはどんな本ですか。
2 ヒンズー教徒、神道信者、回教徒にはどんな聖典がありますか。

[21]
パニシャッド(奥義書)の他に知識の四書すなわちリグ・ベーダ、ヤジュル・ベーダ、サーマ・ベーダ、アタルバ・ベーダ*……しかし日本人ならば、神道の神話、伝承を含み、西暦七一二年に成立した古事記(史籍)あるいは西暦九二七年に完成された延喜式(えんぎしき)(儀式、作法などの規範)を読んでいるかもしれません。あるいは回教徒ならば……回教徒の聖書コーランを熱心に読み、……しかしコーランがヘブル語聖書……クリスチャンの聖書に加えられたことは一度もありません。

 3 ……ここにあげた聖典を用いる人々はそれを真理と考え、法廷で証言する際、それによって宣誓……しかしこれらの聖典が互いに異なり、相反しているとすれば、どうしてその全部が真理であり得ますか。内部にそれ自体の矛盾が無く、首尾一貫して真理なのはどの聖典ですか。努めて大きな寛容を示し……「それはあなたにとって真理だが、わたしにとってはこれが真理です」と言います。……無益なことです。宗教の上でこの立場をとっても、商売の上でそれを主張する人はいません。一たす一たす一は三であって一ではなく、二たす二は四であって五ではないことを主張し、損をしないようにするでしょう。
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  • ヒンズー教のベーダはうちわに見積もって紀元前一五〇〇年から一〇〇〇年頃にはじまったものとされています。

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3 (イ)これらさまざまの聖典は、それを使う人々からどのように評価されていますか。しかし、どんな質問をすることは妥当ですか。(ロ)真理に関してどんな態度をとるのは、賢明ではありませんか。

[22]
 4 真理はそれ自体矛盾せず、事実を否定しません。それはあるがままの現実と矛盾せず、人によって別のもの、まして相反するものではありません。真理はひとつで、それを認めるかどうかには関係なく、すべての人にあてはまります。それは場所あるいは時によって変化しないものです。真理は現実の事実によって証明可能です。真理は純粋で実在のものであり、現実と一致しているゆえに永続します。宗教についてもこのすべてを認めなければなりません。古い宗教のあらゆる聖典の中で、どれが真理ですか。どれが真実で、自己矛盾をきたさず、また実際の事実に照らして真理であり、はじめから終わりまで正しいですか。純粋の真理、絶対の真理を求める人は、この問いに気を悪くせず、またそれを狭量で不寛容なものと考えないでしょう。

 5 神の崇拝に用いられる宗教の本が真理であるためには、真理を源としていなければなりません。その著者は真理にみち、事実、現実、真理に通じていなければならず、真理を愛してそれを求める人々の益をはかって大胆に真理を語らねばなりません。まさしくそれは真理の神から湧き出たもので、神の属性、地位、目的とわざを示し、神とは何かを正しく伝えることが必要です。さまざまな宗教の基となっている本を調べると、真理の唯一の聖典を別にして、それ以外のものはすべて悪霊崇拝と関係があり、悪霊崇拝をすすめ、許容し、またその基となっていることがわかります。

 6 占星術、魔術、呪詛、占い、霊媒を通して死人に問うこと、先祖の崇拝特養、自然界のものや宇宙に魂が内在し、あるいは関連を持つという考えは、すべて悪霊崇拝のあらわれです。事
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4 (イ)真理に関して何を認めるべきですか。(ロ)これらの事は宗教にもあてはまりますか。(ハ)純粋の真理を求める人は、宗教の聖典に関するどんな質問を狭量として退けませんか。 5 (イ)宗教の本が真理であるためには、その源に関して何が言えなければなりませんか。(ロ)しかし、いろいろな宗教の基となっている本を調べると、何が明らかですか。 6 (イ)これらの本には悪霊崇拝のどんなしるしが見られますか。(ロ)この事からこれらの本の源に関して何が言えますか。

[23]
実が示しているように、悪霊は偽り者で悪意に満ち、人類の大多数を惑わしてきました。ゆえに悪霊崇拝とかかわりのあるものは、どの宗教の古い本であっても真理の唯一の源から出たものではありません。

            悪霊崇拝と無縁の本
   7 唯一の真理の本は、悪霊崇拝とは絶対に無縁のものです。バイブルと呼ばれる聖書はたしかにこのような本です。聖書は紀元前十六世紀すなわち紀元前一五一三年に書き始められ、十九世紀前の通俗ギリシャ語で書き終えられました。それを書いたのは西南アジアの人々です。そのすべては紀元前二十一世紀に生まれたヘブル人の族長アブラハムの子孫でした。唯一の生けるまことの神はアブラハムに命じて、バビロンに近い、カルデヤ人のウルを去らせました。バビロンは、占星術、魔術、偶像礼拝、政治権力者の神格化などの形をとった悪霊崇拝の発祥地です。

 8 聖書は六十六冊の本を集めたものですが、これらの本は最初のものから最後のものに至るまで互いに調和しています。今日、創世記と呼ばれるその最初の本から、黙示録と呼ばれる最後の本に至るまで、聖書は悪霊崇拝を悪とし、それが偽りのものであり、唯一の
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7 (イ)悪霊崇拝とまったく無縁なのは、どの聖典ですか。(ロ)この本はいつ書かれ、またどの言語で書かれましたか。
8 (イ)聖書に含まれるすべての本は調和していますか。(ロ)悪霊に敵する神のどんなことばが、聖書の最初の本に記録されていますか。

[24]
まことの神に敵対することを明らかにしています。その聖書の最初の本は、西南アジアの美しい国において神がへびに言われたことばを伝えています。「おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう、わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に、彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼の踵を砕くであろう」。神はここで間接的に一人の悪霊にむかって語っていました。そして言うまでもなく、その者に敵して語っています。(創世記 三ノ一四、一五)聖書の五番目の本の中でこの同じ神は、悪霊崇拝を禁ずる次の律法をご自身の崇拝者に与えられました。

 9 「あなたの神エホバがあなたに賜わる地にはいる時、あなたはこれらの国々の民を憎むべきしわざをならい行ってはならない。あなたの中にそのむすこあるいは娘を火の中に通らせる者、占いをする者、魔術を使う者、まじないをする者、あるいは魔法使い、あるいは呪文で他の人をしばる者、霊媒に聞く者あるいは易者あるいは死人に問う者があってはならない。すべてこれらの事を行う者は、エホバから憎まれる。これらの憎むべき者のために、あなたの神エホバは彼らをあなたの前から追い払われるのである。あなたの神エホバの前に、あなたは全き者でなければならない。あなたが追いはらう、これらの国々の民は、魔術を使う者、占いをする者に聞き従うことをした。しかし、あなたの神エホバはこのような事を何ひとつ許さなかった」--申命記(第二の律法)一八ノ九-一四、新世訳。

10 聖書の最後の本からも、悪霊崇拝を非とすることばをいくつかあげましょう。「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され、そして、全く姿を消してしまう……すべての国民はおまえ
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9 申命記十八章九節から十四節にあるとおり、神は悪霊崇拝のあらわれであるどんな事柄を、ご自身の崇拝者に警告されましたか。
10 悪霊崇拝に反対するどんなことばが、聖書の巻末の本にありますか。

[25]
のまじないでだまされ……たからである」(黙示録 一八ノ二一-二三)「しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべての偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼等の受くべき報いである。これが第二の死である」。また「犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている」--黙示録 二一ノ八と二二ノ一五。

 11 預言者モーセからクリスチャン使徒ヨハネに至るまで、聖書を書いた人々は一致して悪霊崇拝に反対しました。したがって聖書を書くのに悪霊の助けを求めたことはありません。悪霊すなわち汚れた霊は神の目的あるいは神に選ばれたしもべたちに関して語ることを許されません。十九世紀前、ナザレから出て油注がれ、中東でわざを遂行した預言者は、その宗教活動に悪霊の加わることを拒絶しました。次のようにしるされています。「イエスは、さまざまの病をわずらっている多くの人々をいやし、また多くの悪霊を追い出された。また、悪霊どもに、物言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスを知っていたからである」。(マルコ 一ノ三四)「また汚れた霊どもはイエスの見るごとに、みまえにひれ伏し、叫んで、『あなたこそ神の子です』と言った。イエスは、御自身のことを人にあらわさないようにと、彼らをきびしく戒められた」。(マルコ 三ノ一一、一二)「そのひとりびとりに手を置いて、おいやしになった。悪霊も『あなたこそ神の子です』と叫びながら多くの人々から出ていった。しかし、イエスは彼らを戒めて、物を言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスはキリストだと知っていたからである」。(ルカ 四ノ四〇、四一)キリストの使徒は、この点でキリストにならいました。
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11 (イ)聖書の筆者は、どんな源から助けを得ませんでしたか。(ロ)ナザレから出て神に油そそがれた預言者は、悪霊が何をすることを許しませんでしたか。そのことは聖書からどのように証明されますか。

[26]
 12 たとえばパウロがいます。パウロがギリシャのピリピで伝道していた「ある時、わたしたちが、祈りの場に行く途中、占いの霊につかれた女奴隷に出会った。彼女は占いをして、その主人たちに多くの利益を得させていた者である。この女が、パウロやわたしたちのあとを追ってきては、『この人たちは、いと高き神の僕たちで、あなた方に救いの道を伝えるかただ』と、叫び出すのであった。そして、そんなことを幾日間もつづけていた。パウロは困りはてて、その霊にむかい『イエス・キリストの名によって命じる。その女から出て行け』と言った。すると、その瞬間に霊が女から出て行った」--使徒行伝一六ノ一六-一八。

 13 この女奴隷についていた霊はいとたかき神のしもべをよそおい、その時までこの女が神の霊感によって、信頼できる真実の預言をしたかのように思い込ませようとしていました。使徒パウロはこの偽善と欺きを見破り、悪霊との協力をいっさい拒絶しました。そのために女奴隷の主人たちから訴えられたパウロと仲間のシラスは投獄されました。しかし神は、その夜、彼らを救い出されました。--使徒行伝、一六ノ一九-三四。

 14 したがって聖書六十六巻を書くに際して悪霊の力が用いられたことはありません。それは確かです。実を言えば、悪霊が聖書のような本を書いたり、作り出すことは決してできません。ヘブル人の

[27]
族長アブラハムの曽孫ヨセフがエジプトの王パロの前に出た時の経験は、そのことを証明する一つの例で、それは聖書の最初の本の四十一章に記録されています。ヨセフが不当にもまだ投獄されていた時、アブラハムまたヨセフの神はある晩二つの夢をパロに見せました。夢の解き明かしを求めるため、パロは何をしましたか。

 15 創世記 四十一章八節にこう出ています。「朝になって、パロは心が騒ぎ、人をつかわして、エジプトのすべての魔術師とすべての知者とを呼び寄せ、彼らに夢を告げたが、これをパロに解き明かし得る者がなかった」。意味深長なパロの夢は、悪霊の霊感したものではありません。また夢を解こうとしたエジプトの魔術師や知者にとって、悪霊は力になりません。ついにパロはヨセフを獄から出して夢を解かせることが必要でした。夢を解く前にヨセフはパロにこう語っています。「いいえ、わたしではありません。神がパロに平安をお告げになりましょう……パロの夢は一つです。神がこれからしようとすることをパロに示されたのです」。(創世記 四一ノ一六、二五)パロの夢とヨセフの解き明かし、およびエジプトの地において夢が少しもたがわずに成就したことは、聖書の最初の本にしるされています。言うまでもなく、それは悪霊とその魔術師の関与しないことです。

……………

[42]
……
            神ご自身のみ名にかけて
 51 聖書にしるされた神の預言は、「神が偽ることのできない事柄」です。神はご自身のみ名によって預言され、いわばこれらの預言にご自身のみ名の印を押されました。この事実と一致して、神の固有のみ名を啓示している本は、宗教の古典の中でも聖書だけです。神の御名はその最初の本の第二章に啓示されており、ヘブル語の四つの文字(ヨード、ヘー、ワウ、ヘー。והוה。英語のYHWHに相当する)でつづられるこのみ名は、ヘブル語聖書三十九巻の中に六千九百一回しるされています。西暦十二世紀以来、ヨーロッパの人々はこのみ名を「エホバ」と呼んできました。しかし今日多くの学者は「ヤーウェ」をその正しい発音としています。エホバ神はご自身が約束を守られる忠節な神であって、そのことばに偽りのないことを証明するため、そしてみ名ほまれのためにみことばを成し遂げ、預言を成就させなければなりません。すでに成就した多くの預言は、エホバのみ名にほまれとなってきました。エホバのみ名は今後なおまったく立証されます。それによって「人々は、エホバという名をお持ちになるあなたのみが全地を治める最高至上者であることを知る」に至るでしょう。--詩篇 八三ノ一八、新世訳、欽定訳、アメリカ標準訳、ヤング訳。

[43]
 52 ご自身のみが真実の預言の神であり、預言を成就させる全能の神であることを証明したエホバは、ご自身があらゆる偽りの宗教の偽りの神々と異なることを示されました。聖書にあるエホバのことばは諸国民の神々にいどみ、真実の預言の神であることを証明せよと述べています。これらの神々は神であることを証明するために悪霊の助けを求めるがよいでしょう。これら偽りの神々に証人を出させなさい。彼らの神々は真実の預言の神であり、ゆえに神として崇拝するにふさわしいことを示す証拠を、他のあらゆる宗教の聖典から、これらの証人に提出させなさい。

 53 エホバご自身について言えば、エホバにはそのみわざを目撃した証人がいます。エホバのみわざは、今日に至るまで行われており、かつ歴史の事実です。今日エホバの証人は、文字に書かれた預言の成就によってエホバのみわざとみ手の働きを認め、それを見分けることができます。彼らは文字に書かれた神のことば聖書を取り出し、成就しつつある預言を示して「これは真実だ」と言えるのです。イザヤの預言にあるエホバのことばは、エホバのためにあかしを立てる忠実な崇拝者に次のことばを述べています。(文語聖書によれば)「エホバ宣給(のたま)はく、なんぢらはわが証人(あかしびと)……われ前(さき)につげ、また救(すくひ)をほどこし、また此事(このこと)をきかせたり、汝らの中には他神(あだしかみ)なかりき、なんぢらはわが証人なり、われは神なり、これエホバ宣(のたま)へるなり 今よりわれは主なり、わが手より救いだし得るものなし、われ行(おこな)はば誰かとどむることを得んや」--イザヤ 四三ノ一〇-一三。

[44]
 54 文字に書かれた神のことば聖書の存在は、この理由で他のあらゆる宗教の古い聖典に対し挑戦となっています。真実の預言の本であり、したがって唯一の生けるまことの神の絶対確実な言葉として聖書に代わる聖典はありません。真理の唯一の本聖書は矛盾を生ぜず、また真実の事柄、現実、創造のわざ、人間の確実な歴史そして今日科学的に証明されている事実とさえ矛盾しないのです。初めから終わりまで聖書をつらぬく一つの主題があります。聖書の主題、主要な教えは、神の約束のメシアすなわち油そそがれた者が治めて地のあらゆる民族を祝福する神の国です。

 55 聖書が真理の唯一の本であることをご自分で証明して下さい。聖書を読み、学び、実行して、生涯の最大の祝福を享(う)けてください。

………………………

  第十四章  あなたは週の安息日を守るべきですか

[289]
 ある国々では政府の施行する法律によって、毎週の安息日つまり休日を宗教的に守ることが行なわれています。その日に営業したり、またある特定の仕事をする者は、安息日を汚す者として罰金を科せられることさえあるのです。最も大きな宗教の守る特定の安息日となっていることもあって、その場合には問題が起きます。というのは、たとえば回教徒は金曜日を安息日にしている野に、割礼のある生来のユダヤ人は週の第七日の土曜日に安息日を守り、またキリスト教のカトリック信徒および新教徒は日曜日を集の安息日また聖日として、その日に礼拝のために教会に行くからです。このようにいろいろな安息日が毎週行われ、しかもそれが同じ一つの神を崇拝するために行なわれているとすれば、いったいどれが正しい安息日かという疑問が生じます。あるいは、たとえだいそれた質問のように思えても、今日のわたしたちが神の前に週毎の安息日を守る必要があるだろうか。といった質問さえ出るかもしれません。

[290]
世界中に散らされていた、西暦一世紀のユダヤ人は、金曜の日没から土曜に日没までを週毎の安息日にしていました。その時ユダヤ人の会堂では宗教儀式の行われるのが常でした。ユダヤ人が守った週毎の安息日は四番目のいましめである次のことばに従ったものです。「安息日をおぼえて、これを聖とせよ。六日の間働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちに住む他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた」--出エジプト記 二〇ノ八-一一、トーラー。

 3 主なる神は、律法契約の下に遇ったご自分の民が週毎の安息日を守ることに関してきわめて厳格でした。神は次のようにモーセに言われました。「あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず、民のうちから断たれるであろう。六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう」--出エジプト記 三一ノ一四、一五、トーラー。

 4 この刑罰は執行されました。例えば「イスラエルの人々が荒野におるとき、安息日にひとりの人が、たきぎを集めるのを見た」ので、その人は閉じ込められました。この人の処置に関してモーセが伺うと、「そのとき、主はモーセに言われた、『その人は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で撃ち殺さなければならない』」会衆はそのとおりにしました。--民数記 一五ノ三二-三六、トーラー。

[291]
週の安息日に会衆に集まるのは、神の律法がイスラエル人に命じたことではありません。しかし時を経るにつれて、そうすることがしだいにならわしとなりました。地上の人としてイエス・キリストも、そうすることをならわしとされました。ルカによる福音書四章十六節には次のように記録されています。「それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた」。これはイエスの弟子たちの会衆が同じことをするように、イエスが例を示したものですか。この問題を考慮するにあたっては、イエスが「女から生まれ」「律法の下に生まれ」たことに留意しなければなりません。(ガラテヤ 四ノ四)それ故、ユダヤ人として生まれ、八日目に割礼を受けたイエスには、四番目の戒めに従って週毎の安息日を守る義務がありました。しかしまら生来のユダヤ人としてユダヤ人の過ぎ越し、五旬節、仮庵の祭りを祝うことも、イエスの務めでした。聖書の記録は、イエスがそうされたことを示しています。では週毎の安息日のみならず、ユダヤ人の他の祭り全部を守り行なうことが、イエスの弟子に要求されていますか。一つの祭りを行なうべきだとすれば、全部の祭りを行なうのが当然ではありませんか。

 6 クリスチャン使徒パウロの例は、キリストの会衆の成員がユダヤ人と同じく毎週、安息日を守るべきことを示していますか。パウロの例に注目してください。第二回伝道旅行の途上パウロヨーロッパに足をふみいれた時のことについて、使徒行伝十七章一節から三節は次のように述べています。「一行[パウロの一行]は、アムピリポスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った、ここにはユダヤ人の会堂があた。パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの

[292]
安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また『わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである』とのことを説明もし論証もした」。

 7 しかしこれはクリスチャンの使徒パウロが、いまなお安息日の律法を守り、かつてパリサイ人のユダヤ人として行ったことをつづけていたという証拠にはなりません。テサロニケに行ったパウロがクリスチャンとして週の安息日を守っていたのであれば、ユダヤ人の安息日にクリスチャン会衆へ行って仲間のクリスチャンと会うはずです、聖書に記録されているように、パウロがユダヤ人の安息日にユダヤ人の会堂に行ったのはなぜですか。

 8 明らかにそれは、ユダヤ人が安息日を守ってその日に会堂に集まったからであり、したがってパウロにとっては、彼らの集まりの時期に会堂へ行くことが、全部の人々に伝道するのに好都合であったからです。ゆえにテサロニケにおけるパウロの行動をとりあげて、このクリスチャンの使徒がクリスチャンの安息を守っていたと論じ、あるいは「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならうものになりなさい」と仲間のクリスチャンに書き送ったこの使徒が、安息日を守ることの手本を示したと論ずることはできません。(コリント第一 一々の一)もしそれが安息日を守る行いであったとすれば、クリスチャンは週の安息を守るのにユダヤ人の会堂に行ってユダヤ人と一緒に集まることが必要になります。

 9 そのうえ安息日にユダヤ人の会堂に行ったパウロの場合、その安息日は金曜日の日没から土曜日の日没まででした。ところがキリスト教国のカトリック信徒や新教徒の安息日は日曜日であり、夜半から夜半までを一日としています。ゆえに週の安息を守っていはいても、キリスト教国の宗教的

[293]
な人々は、クリスチャンの使徒パウロにもイエス・キリストにもならってはいません。

 10 しかし安息日を守る義務は、紀元前一五一三年シナイ山において十戒が授けられる以前からあり、安息日を守ることは、エデンにおける人間創造のときから始まったと論ずる人もいます。この説をとなえる安息日厳守主義者は、創世記二章三節の次の句を指摘します、「神は第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」。(トーラー)主なる神が祝福し、聖別し、聖なる日と宣言された第七日は、地に対する創造のわざが行なわれた週の最後の日です。

 11 しかし創世記二章三節は律法として書かれているのではありません。それは単なる事実を述べているにすぎず、全人類が毎週の第七日(金曜日日没から土曜日日没まで)に、世俗的な、この世の不必要な仕事を休んで安息日を守ることを命じてはいません。創世記の最初の五つの章に収められた「天地創造の由来」と「アダムの歴史の本」を見ても、エデンの園において最初の男と女、アダムとエバが週の安息の律法を神から課せられたという記録はありません。(創世記二ノ四。五ノ一、新世訳)アダムとエバが死を宣告されてエデンの園を追われたのは、安息日の律法を破ったからではなく、禁断の木の実を食べて、布告されていたおきてを破ったです。へびは安息日の律法を破るようにエバを誘惑したのではありません。完全な男と女に対して安息日の律法が施行されていなかった以上、そのことでへびがエバを誘惑することは不可能です。アダムとエバの創造が六日目の終わりごろであり、その次の日が神から祝福され、きよめられた第七日であったにしても、へびがそうすることはできませんでした。--創世記二ノ一五-一七。三ノ一-三。 ……………………

[295]
………………
 16 洪水後のあとむすこのセム、ハム、ヤペテあるいはアブラハム、イサク、ヤコブ、あるいはエジプトにいたヤコブ(イスラエル)の十二部族が、週の第七日を聖日とする安息日の律法を守った

[296]
ことを示す記録は、聖書にはありません。エジプト人は、イスラエル人が毎週一日どれいの仕事を休んで安息日を守ることなどを許しませんでした。人間が安息日を守ったことを示す聖書の最初の記録は、エジプトの束縛をはなれ、神から十戒を授けられるためシナイ山にむかって進んだイスラエル人の記録の中にあります。

………………………

[298]
……………………
 21 週の安息日の律法は、安息の年と同じく、仲保者モーセを通してエホバとイスラエルとの間に結ばれた律法契約の一部でした。神とイスラエル国民との律法契約が有効であった期間、安息日を守ることはイスラエル人の義務でした。ゆえに完全なイスラエル人イエス・キリストのなだめの犠牲によって律法契約が廃止されたとき、その契約の一部であった週の安息日の律法も廃止されました。たとえ今日のユダヤ人がこの事実を認めなくても、週の安息日を守ったからと言って、神に義と認められることはありません。--エペソ 二ノ一五。

……………

[299]
……………

 23 キリストの会衆は、週の安息を守りません。それはユダヤ人の新月、過ぎ越し、あるいはユダヤ人の他の祭りをしないのと同様です。使徒パウロはコロサイ人への手紙に章十三節から十七節において、そのことに注意を喚起しています。「神はあなたがたを彼と共に生かされた。神は恵みをもってわたしたちのすべてのとがを許し、わたしたちを責める、手で書いた証書をぬり消された。それはさまざまの規定から成り、わたしたちにさからうものである。神は刑柱に釘づけにすることによって、それを取り除かれた………ゆえにあなたがたは食べること、飲むことにつき、あるいは祭り、あるいは新月また安息日を守ることについて、だれもさばかれてはならない。これらは来たるべきものの影であって、その実体はキリストに属する」。(新世訳)それで、週の安息日を守らないからと言って、安息日厳守主義の宗教家から非難されたり、さばかれる必要はありません。モーセを通して与えられた律法の中の影を、ユダヤ人が今なお守ろうとするならば、それはその人の自由です。新しい契約下にあるまことのクリスチャンは実体を守り、神の是認を得ます。

 24 創造の第六日を終えて以来、エホバ神は地に関する創造のわざをやめ、ご自身の大安息日をすごしてこられました。(出エジプト記 二〇ノ一一)キリストの弟子は、自分を義とすることに努め

[300]
る自分自身のわざをやめることによって、神の守っていられる安息にはいります。神のみ子の義と犠牲に対する信仰によって、彼らは安息を守ります。ヘブル人への手紙 三章十九節から四章十一節までの言葉は、新しい契約下のクリスチャンがどのように神の安息にはいって週のあいだ日ごとに安息を楽しむかを述べており、ユダヤ人とクリスチャンを対照させています。

 25 「こうして、彼ら[信じなかったユダヤ人]がはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが聞いた者たちに、信仰によって結ぼつけられていなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、『わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように』と[神が]言われているとおりである。しかも、みわざは世の初め[紀元前四〇二六年]に、でき上っていた。すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、またここで[紀元前十一世紀ダビデの時代に書かれた詩篇 九五ノ一一]、「かれらをわたしの安息[神の安息]に、はいらせることはしない」と言われている。

 26 「そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々[ユダヤ人]は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を『今日』として定め、長く時がたってから[人間創造からダビデ王の時まで二千年以上をへたのち]、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。[紀元前一四七三年イ

[301]
スラエルが約束の地にはいった時]もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって[ダビデの日に]、ほかの日のことについて語られたはずはない。こういう訳で、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、[紀元前四〇二六年に]神がみわざをやめて休まれたように、自分のわざを休んだからである。

 27 「したがって、わたしたち[西暦一世紀のクリスチャン]は、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって[ユダヤ人のように]落ちて行く者が出るかもしれない」。

 28 さて、はじめの質問にもどりますが、あなたは週の安息を守るべきですか。守らなくてもよいと、聖書は答えています。むしろ、しなければならないのは、み子イエス・キリストを通して生命を救う神のご準備に信仰を働かせて、「神の安息」にはいることです。アダムとエバの創造を最後に創造の六日目が終わって以来、神は地に関する創造活動を二度と行なわれていません。創世記二章一節から三節のことばも、それと異なることを示してはいません。神はその時以来いまに至るまで、大いなる安息の日を楽しんでいられます。渡した近く人は自分を義とするための「わざを休」み、神の大いなることばを信じ、イエス・キリストを通して施される神の救いのご準備に信仰をいだくことによって、神とともに安息にはいることを神から勧められています。ですから神の安息を毎日守ろうではありませんか。

          第十五章  神が悪を許さない時は近い

[302]
 「神があるなら、どうしてこんなに悲しみや苦しみがあり、悪が許されているのか」。こう言って悲しみの涙にくれた人はいくらでもいます。この疑問を解くことのできない人は、神への信仰を失いました。それで、理解を欠くための無神論者や不可知論者また不信仰な人になりたくないとすれば、わたしたちは聖書をひもとき、神が悪を許した理由について神ご自身の説明を聞かなければなりません。

 2 次のような質問をするのは妥当なことです。何千年にもわたって悪が地に栄えるのを許した神は、人類に悪い仕打ちをしたと言えるのだろうか。あるいは神は無力であって、事態を正すことができないのだろうか。神が悪を許したことに憤慨して不信仰に陥るのは正しいか。世界のどこにも悪があって、わたしたちに害を及ぼしているために、わたしたちは神を否定し、神を無視した生活をすべきであろうか。

 3 どんなに正しい人間でも、事態が思わしくなくなり、悪人の手で幸福を奪われるならば神をいなむだろうと、サタン悪魔は公言しました。聖書はそのことを示しています。神の子たちである天

[303]
使が天に集まったとき、サタン悪魔もやってきました。サタン悪魔は「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてき」たのです。そこでエホバ神は、地上のひとりの人間にサタンの注意を向けさせました。それはウヅの地のヨブです。ヨブは「ひととなりの全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった」ため、他のすべての人の中できわだつ存在でした。それでもサタンは感心せず、ヨブが神を恐れているのは、神の守護を受けて富に恵まれた、安楽な生活をしているからであると述べました。

 4 「しかしこんどはあなたの手をのばして、彼のすべての持ち物を撃ってごらんなさい。そうすればあなたの顔にむかってあなたをのろうでしょう」と、サタンはつづけています。神はヨブに対してみずから手をのばすことはされませんでした。神がそうする理由はありません。それでもヨブを試みるため、またサタン悪魔を沈黙させるために、神はサタンがその手をのばしてヨブを撃つことを許しました。「ただ彼の身に手をふれてはならない」。そこでサタンはシバ人、カルデヤ人の悪人たちをヨブに立ちむかわせ、彼らは何千頭に上るヨブの家畜を奪いました。天からの火つまり落雷でヨブの羊七千頭が死にました。ヨブの七人のむすこと三人の娘は宴を開いているところをあらしに襲われ、家の下敷きになってみな死にました。このあいつぐ災いの知らせを聞いたとき、ヨブはサタンの言ったように神の顔にむかって神をのろいましたか。もしあなたがその時のヨブであったら、どうしたと思いますか。ヨブは悲しみながらも次のように言いました。

 5 「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でそこ[ヨブが指さすことのできた地]に帰ろう。エホバは与え、エホバは取ることをされた。エホバのみ名は常にほむべきかな」--ヨブ 一ノ一-二一、新世訳。

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 6 サタンはこれでひきさがることなく、こんどはヨブの骨と肉を撃ってヨブをさらに苦しめる許しを求めます。そうすればヨブは必ず神に敵対して神をのろうでしょうと言って、サタンは神に挑戦したのです。サタンは神の許しによってヨブを撃ち、頭から足まで病気にならせました。それは人の嫌悪する、いやな病気でした。ヨブの息はその妻にとっても忌むべきものとなり、妻はヨブにこう語っています。「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」。次いで三人の友がやって来て、ヨブのありさまを見、これは神がヨブのかくれた罪を公に罰しているのであり、ヨブは偽善者で罪人であると述べました。ヨブは自分の私生活にやましいところはなく、したがって罰を受けているのではないと言明します。しかしヨブはたとえ自分が常に正しくても、神には彼をよくも悪くもあしらう権利があることを認めました。ヨブを責めた友人は口をつぐみます。そして今まで耳を傾けていた若者がエホバ神を擁護する発言をし、神は人を立ちなおらせてくださることを述べます。

 7 最後にエホバ神ご自身がヨブに語り、人間の助けを必要としない神の大きな力にくらべて人間がどんなに弱小な存在かを示されます。ヨブはそのことの真実を認め、「わたしは………ちりと灰の中で悔います」とついに述べました。神はヨブを責めた者たちを罪に定め、ヨブが彼らのために祈るであろうと言われます。神はヨブをいやして健康な体にされたので、ヨブはその後百四十年生きながらえました。ヨブの妻はむすこ七人と娘三人、合わせて十人の子供をふたたびヨブに産みました。ヨブはふたたび栄え、元の二倍の家畜を持つようになりました。(ヨブ二ノ一-四二の一七)

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このことに照らして、わたしたちは次のように尋ねます。神の許しによって身にふりかかった悪のゆえにひどく苦しんだにもかかわらず、ヨブが神につき従ったことは報われましたか。ヨブの忍耐の結果は、ヨブが報われたことを示しています。この試みを許すことによって、神はサタン悪魔が偽り者であることを証明し、ご自身の正しいことを立証されました。神は少しの不正もないことが証明されました。

 8 これはおとぎ話や神話ではなく、教訓を与えるためのつくり話でもありません。これは実際にあった、歴史の上で証明されているできごとであり、神ご自身によって保証されている事実です。(エゼキエル 一四ノ一四、二〇。ヤコブ 五ノ一一)これから教訓を学びましょう。神を悪者にしてはなりません。

 9 もちろんわたしたちは、神の正しいことを問題にして論ずることができます。族長アブラハムは、神が天から火と硫黄を降らせてソドムとゴモラを滅ぼす前にそのことをしました。ソドムにいたおいのロトとその家族のことを思い、アブラハムは次のような問いを発しています。ロトは正しい人でした。「全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。(創世記 一八ノ二五)人間の中にはわいろを受け取って正義をまげるさばき人

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がいても、「全地をさばく者」は完全な正義を行うものと、わたしたちは期待しなければなりません。たしかに神は常にそうされます。クリスチャン使徒パウロは聖書からこの問いに答えています。「ではわたしたちは何と言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。神モーセに言われた、『わたしは自分のあわれもうとする者をあわれみ、いつくしもうとする者を、いつくしむ』。ゆえに、それは人間の意思や努力によるのではなく、ただ神のあわれみによるのである」。--ローマ 九ノ一四-一六。

 10 では現在すなわち、かつてないほど悪の増し加わった今に至るまで神が悪を許したことは、あなたに対して不正な仕打ちであるどころか、神があなたにあわれみといつくしみを示されたのではありませんか。次のことを考えてみましょう。

 11 およそ六千年前エデンの園において、アダムとエバは神のおきてを破ったことを自白しました。ふたりは死にあたるものとなったのです。そのときエホバ神が判決を下すことが必要でした。それはのちのちまでにも影響を及ぼさずにはおきません。神はまったく厳格に正義だけを行ない、罪を犯したすべての者にあわれみを示さないこともできました。人間の創造者であり、律法の与え主である神は、エデンの園のアダムに対し、「善悪を知る木の実を食べてはならない。それを食べる日にあなたは必ず死ぬ」と告げておかれました。(創世記 二ノ一七、新世訳)さばき主である神は、この律法の述べる「日」が二十四時間の日を意味するものと解釈して、その同じ日にアダムとエバを死刑にすることもできました。それは正義にかなったことです。

 12 きわめて当然に神がこのことをされたとすれば、どんな結果になったはずですか。アダムとエ

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バは子供を残さないで死んだはずです。するとあなたはどうなりますか。あなたはアダムの腰にあって死んだことになり、決して生まれてこなかったでしょう。たとえ罪と不完全さと死の定めを負って生まれたにしても、生をうけたことに対して神を悪く言うことができますか。そのようなことはできません。神はあなたにもあわれみを示されたのです。

 13 もう一つの問題は、神ご自身にいっそう深い関連があります。エバを創造してアダムにめあわせた時、神はふたりを祝福して次のように言われました。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世記 二ノ一八-二四、一ノ二六-二八)さてふたりが罪を犯した、二十四時間のその同じ日に、神が子供のないアダムとエバを死刑にしたとすれば、楽園に住む正義の人類で地を満たす神の目的はどうなりますか。その成就は、神の長い安息の日が終わるまで待たなければなりません。神が地的な創造を休まれたその日は今なお終わらず、あと少なくとも千年を残しているのです。どうしてそう言えますか。

 14 なぜならば、エホバ神がアダムとエバを創造してから創造の第六日は終わり、神が地的な創造のわざを休まれた第七日が始まった[:どの位か時間はタイムラグは地的な業をやめた時はあったが時には何年も何十年も?!]からです。神は第七日を祝福して、それを聖日とされました。これに照らしてみるとき、アダムとエバを死刑にしてのち、ふたりのかわりにもうひとりづつの完全な男と女を創造して地的な創造に携わるならば、安息のために定められた神ご自身の聖なる「日」を汚すことになります。偽ることなく、ご自身を否定することのない神は、そのようなことをされません。そこで神はご自身の安息の日の終るまで待ち、それが終わってから、別の完全な男女を創造し、正義の人類で地を満たすことになります。そして言うまでもなく、このふたりの従順もア

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ダムとエバの場合と同じくその完全さを試みられます。しかし神はあえて待つことをされませんでした。神はどうされましたか。神はあわれみを示すことにされました。

 15 神の子イエス・キリストは、かつてのユダヤ人の安息日に次の質問をしました。「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。それからイエスは、右手のなえた人を奇跡的にいやしました。(ルカ 六ノ六-一〇。マタイ一二ノ九-一三)イエスの弟子たちが安息日を破るものとして非難されたとき、イエスは非難した者たちの間違いを示し、次のことばを加えています。「『わたしが好むのは,あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう」。(マタイ 一二ノ一-七)それでイエス・キリストの天の父は、むかしエデンの園であわれみを示したとき、ご自身の長い安息の日を破ったのではありません。だれにあわれみが示されましたか。

 16 神が二十四時間のその日にアダムとエバの生命をとることなく、法の上で一日を千年とみられたことは、罪を犯したアダムとエバに対して示されたあわれみにほかなりません。(ペテロ第二 三ノ八)それで「アダム(は)……男子と女子を生んだ。アダムの生きた年は合わせて九百三十歳であった。そして彼は死んだ」と書かれています。(創世記 五ノ四、五)このようにアダムは千年たたないうちに死んだのです。これに照らしてみるとき、昔エデンの園でエホバ神は、あなたをも含めて、そのときまだ生まれていなかったアダムの子孫に対しておもに、あわれみといつくしみを示されたことがわかります。神はアダムの子孫のためにあわれみ深いとりきめを設けることをもくろまれました。この場合大きく働いたのは厳格な正義よりも神の愛でした。

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          その悪しき者はなぜ生きることを許されているか
 17 エバに語りかけ、偽りによって欺き、創造者に対して罪を犯すように誘惑したエデンのへびの背後には、確かに何者かがいたに違いありません。その者は大きな悪を行ないました。この悪事を働いたのは何者ですか。それは天使であり、神の子のひとりです。この者は天の父に反逆し、神の地上の子たちをも誘惑して自分と同じことをさせようとしていました。それはみずからなったサタン悪魔です。口をきくことのないへびを用いて語ったのはこの者でした。みずから反逆して父なる神をそしっただけでなく、エバとアダムを誘惑して罪を犯させ、神にそむかせたこの者には、二倍の罪があります。サタン悪魔がアダムとエバを堕落させてのち、神はなぜただちにサタン悪魔を滅ぼさなかったのですか。

 18 サタン悪魔が偽り者であり、偽りの神であることを証明しなければなりません。彼はエバにむかって、禁断の木の実を食べるとき、エバも夫も神のようになると語りました。そのことの偽りが証明されるには、いくらかの時が必要でした。(創世記 三ノ一-五)サタン悪魔は、人間を神にそむかせ、自分の側につけることによって、みずから人類の神になりました。ゆえにサタンは偽りの神[:偶像とイスラムみたいに言葉を使えば、サタンも偶像の偽りの神:当人の霊も反逆(者:サタン)と関係なくは無い:バアルみたいに善い事柄に関して力が無いか?!]であって、その崇拝は悪と災いと死に終わるにすぎないことが証明されねばなりません。そのうえサタン悪魔は地上の最初の男と女を堕落させました。では神は正義の人類で地を満たすために完全な男と女を地に置き、彼らが、サタン悪魔に誘惑された時にも悪くならないようにできますか。この点を証明するには時間が必要です。エホバ神に対する忠実のゆるがない完全な人間がいることを証明するために、エホバ神は、ご自身の安息の日が終わるまで待ってもうひとりずつの完全な男

[310]
と女を創造しなければなりませんか。サタン悪魔が、もう一組の完全な人間夫婦を手中に陥れないというどんな保証がありましたか。エホバ神はご自身の安息の日にご自身を立証することを決定されたのです。どのようにですか。

 19 全能の神は、エデンにいたそのへびを殺さず、また大いなるへびサタン悪魔をただちに滅ぼしませんでした。比類のない知恵を持たれるエホバ神はそれとは別の方法をとり、大いなるへびにむかって次のように言われました。「わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に、彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。(創世記 三ノ一四、一五)ここに言われている「女」がすえを生み出すには時間が必要です。また大いなるへびが女のすえのくびすを砕き、また女のすえがへびのかしらを砕くのも、すぐというわけにはいきません。女のすえのくびすを砕くのは悪いことであり、したがって全能の神はしばらくのあいだ、悪を許すことになります。しかしどれだけの時を必要とするにしても、大いなるへびとそのすえは、神の怒りを受けて永遠に滅びることが定められ、一方で女のすえは神のあわれみを受けて永遠の生命に救われることが定められています。

 20 すでに引用した(三〇六頁)ローマ人への手紙九章十四節から十六節において、使徒パウロは前述のように論じ、神が悪人をすぐに滅ぼさないのは、心の正しい人を救うためであることを示し

[311]
ています。ローマ人への手紙九章十七節から二十六節にまず出エジプト記九章十六節を引用した使徒パウロは、次のように論議をすすめました。

 21 「聖書はパロ[:ファラオ]にこう言っている、『わたしがあなたを立てた[すなわちイスラエル十二部族に悪を行なって、なお滅ぼされない]のは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである』。だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、[エジプトのパロに対して行なわれたように]かたくなにしようと思う者を、かたくなにされるのである。

 22 「そこで、あなたは言うであろう、『なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか』。ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、『なぜ、わたしをこのように造ったのか」と言うことがあろうか。陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。

 23 「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自分の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではな

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く、異邦人の中からも召されたのである。それは、ホセアの書でも言われているとおりである、『わたしは、わたしの民ではない者を、わたしの民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。あなたがたはわたしの民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう』」--ホセア 二ノ二三。 一ノ一〇。

 24 エジプトのパロは、イスラエル人をエジプトから解放してほしいという、預言者モーセの最初の願いを拒絶しましたが、神はその直後にパロを滅ぼしませんでした。そのかわりに神はエジプト全土に災いを下しはじめました。それはエホバの民を解放するようにパロを動かすためです。パロの願いによって神が災いをとどめるたびに、パロは心をかたくなにしました。もちろんエホバ神は、それ以上容赦せずにパロを滅ぼすこともできたでしょう。そうすれば、パロが心をかたくなにすることはできません。エホバはパロの滅びをはやめず、パロがますます心をかたくなにする一方であったにもかかわらず、「大いなる寛容をもって」パロを忍ばれたのです。それはなぜでしたか。エホバ神はそのわけをパロに告げました。

 25 六番目の災いが去って立ちなおったパロがふたたびかたくなになってのち、エホバはモーセによってパロに次のように言われました。「私の民を去らせて、わたしに仕えさせなさい。わたしは、こんどは、もろもろの災いを、あなたと、あなたの家来と、あなたの民にくだし、わたしに並ぶものが[偶像にみちたエジプトをも含めて]全地にないことを知らせるであろう。わたしがもし、手をさし伸べ、疫病をもって、あなたと、あなたの民を打っていたならば、あなたは地から断ち滅ぼされていたであろう。しかし、わたしがあなたをながらえさせたのは、あなたにわたしの力を見

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させるため、そして、わたしの名が全地に宣べ伝えられるためにほかならない」--出エジプト記 九ノ一三-一六。

 26 エホバが初めからパロを断ち滅ぼしたならば、エジプトの魔術師、うらない、占星家にまねのできないエホバの多様な力は示されずに終わったことでしょう。エホバがエジプトに対して行なわれつつあったことは、災いのくだされるごとに全世界の注目を集め、全世界の人々が神の名を口にするようになりました。パロの男のうい子とパロの家畜のういごをことごとく殺した十番目の、そして最後の災いをくだしたときにさえ、エホバ神はエホバのような神が全地にないことを証明する最大の力をパロの前にまだ表わしていません。その後エホバはパロが心をかたくなにすることを許したので、パロは去って行くイスラエル人を追跡しました。イスラエル人は紅海の西岸で袋のねずみになっているように見えたのです。[:ピハヒロトの所:横側は断崖絶壁、後方には一方は光、一方は闇と言う雲のエホバの臨在の雲、エジプト軍には闇、前方には紅海と言う絶望的状態にあった。そこで神は紅海の水を分ける奇跡を行ない始められた。その前に呟(つぶや)くこと(:神エホバよとエホバの御名に呼び求めることは善い。呟(つぶや)きは決してイケナイ)があったが、モーセは「怖れることは無い、エホバの大いなる救いを見よ!!」と言って居た!]

 27 危機一髪のところで、紅海の東岸に渡る道が全能の神によってイスラエル人に開かれました。神はパロと追跡するパロの軍勢を「滅びることになっていた怒りの器に」定めたのです。そこで神は、両側に垣となった水の壁の間にパロとその軍勢がはいるまで[:エジプト軍の車輪と輪を外させられた]、海の底を渡る道を開いておかれました。そして東の岸に無事についたモーセが海のほうに手を伸ばした時、神はいまや逃げ場を失ったエジプト人の上に水の壁をくずれ落ちさせ、彼らを溺死させました。

 28 ノアの時代の大洪水以来、エホバの力がこのように示されたことはありません。そのできごとによって、エホバのみ名は全地にひろめられました。約束の地の異教の住民は四十年後になっても、大きな恐れをいだいてそのことを語っています。(出エジプト記 九ノ一七から一五ノ一六。ヨ

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シュア 二ノ八-一一)紅海において神の力と栄光が示される時まで、エホバ神はご自身の選民を「あわれみの器」として保ってこられました。その時までイスラエル人は、「滅びることになっている怒りの器」の圧制に苦しめられたのです。しかし神の栄光と神の民のまったき救いのために神の力がこのように示されたことは見るに値しました。そして神の民は、長年にわたるエジプトの悪を全能の神が許した理由を理解できたのです。

 29 創世記 三章十四、十五節に記録されているとおり、神はエデンの園において大いなるへび(すなわちサタン悪魔)とそのすえに関して、預言的なことばを述べておられました。以来これらの者たちは「滅びることになっている怒りの器」でした。全体としてみれば、彼らは今日に至るまでほとんど六千年のあいだ存在を許されています。この長いあいだ、大いなるへびとそのすえの活動によって多くの悪が地に行なわれてきました。十九世紀前、神は彼らが「女」のすえのくびすを砕くことを許しました。その代表的なのがイエス・キリストの場合です。この何千年の間そして今日の恐るべき状態[:核戦争による全滅の殲滅の時代?!]に達するまで、神はなぜ悪を許してこられたのですか。

 30 エジプトのパロ[:ファラオ]が生きながらえて、エホバの民に対する悪をほしいままにすることを神から許されていたのと同様に、サタン悪魔は今までその存在をゆるされてきました。それはヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所における「全能の神の大いなる日の戦い」において、サタンの地上の悪人に対し、間もなく神の力が表われるためです。そのあと神はサタン悪魔と悪霊たちをつなぎ、約束の御国の支配のあいだ、彼らを底のない所に閉じ込めます。--黙示録一六ノ一三-一六、新世訳。二〇ノ一-三。

[315]
 31 全能の神は何千年ものあいだ、サタンおよび天と地にいるサタンの悪しき手先の存在を許した一方で、その間に約束の「女」の「すえ」を生み出すための時間の余裕をみてこられました。この女のすえを生み出すことを始めるに先だって、神は多くのことをされたのです。この事前の活動の期間に、神はアベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、モーセなど多くの忠実な男女の信仰と献身と忍耐をためしました。サタン悪魔にひどく苦しめられても最後まで忍耐したヨブのことを思い起こしてください。それは全能の神がなぜ悪を許したか、また最後まで忍耐して信仰を守る忠実な人にどんな報いが与えられるかを示す小規模な例です。

 32 千九百年前に神は女のすえの中で最初の、そして主要な者イエス・キリストを生み出されました。それ以来、神は女のすえの残りの者すなわち天国の栄光のうちにイエス・キリストとともになる人々をととのえてこられました。十四万四千人を数えるこれらの人々は、使徒パウロの言う「あわれみの器」です。これらの人々をととのえるあいだ、神は「怒りの器」である悪人の滅びをさしひかえて、大きな寛容と忍耐を示されたのです。なぜですか。「栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされた……神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、[西暦三六年以後]異邦人の中からも召されたのである」--ローマ 九ノ二二-二四。黙示録 七ノ四-八。一四ノ一、三。

 33 神は、あらかじめ定められた数十四万四千の人々を選んでととのえることを、いまやほとんど終えられました。そこでとくに西暦一九三五年以来、人類の世の悪の中から羊にたとえられる「大

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ぜいの群衆」が集められています。これらの人たちは十四万四千人の残りの人々とともになり、「ひとりの羊飼い」のもとに「一つの群れ」となっています。(黙示録 七ノ九-一七。ヨハネ 一〇ノ一六。マタイ ニ五ノ三一-四六)これら「他の羊」もまた、長くさしひかえられた神の怒りが、悪を行なう者の上にそそがれようとしている今の時にあって神のあわれみを味わっています。

 34 このすべての事実に照らしてみるとき、悪を許した神の猶予の時はまもなく終わり、全地は人類を祝福する神の正義の国の支配下にまもなくおかれることがわかります。   

 35 ゆえに今の終わりの時に悪が大きく増し加わるのを見ても、心を悩ましてはなりません。それは預言されていたことであり、もはや神が悪を許さない時が近い証拠です。「悪人が草のようにもえ出て、不義を行なう者がすべて栄えても、彼らは永遠に滅ぼされる、しかしエホバよ、あなたは定めのない時にいたるまで高いところにいます。エホバよ、ああ、あなたの敵、ああ、あなたの敵は滅びる。悪を行なう者はことごとく散らされるであろう」。(詩編 九二ノ七-九、新世訳)現存する悪の事物の制度の終わりについて語ったイエス・キリストは、次のように言われました。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう、しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。(マタイ ニ四ノ一に、一三)救われるために、いま神のあわれみにすがって益を得、知恵の神がもはや悪を許さない時がくるまで、ひきつづき耐え忍んでください。そうすれば、あなたはサタン悪魔が偽り者であることをイエス・キリストとともに証明し、エホバ神こそ正しいかたであることをイエス・キリストとともに立証することになります。



 [:無条件に角括弧[……]の附いている所は原本文注、角括弧。:と条件を出して、:がついている所は個人注。であることを許可されよ。認識されよ。それは事実であるからだと!!]