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『神を編集

  眞とすべし』編集

      『されどもいかんせん、ここに信ぜざる者あり

       とも、その不信は神の真実を棄つべきか。

       してしからず、人をみな偽り者とすとも神を

        真とすべし。しるして、なんじはその言葉に

       て義とせられ、……とあるがごとし。』


                  ---ロマ書、三ノ三、四         [以上3]


     『神を真とすべし』


      1946年 英文発行

      1952年 日本文発行


WATCHTOWER BIBLE AND TRACT SOCIETY

     OF NEW YORK,  INC.


INTERNATIONALE BIBLE STUDENTS ASSOCIATION


     Brooklyn,  N. Y.,   U.  S.  A.


  初版 10,003,000冊


 1952年  4月 1日 改訂版


  再版 4,000,000冊


   45 の言語で印刷


 ’’LET  GOD  BE  TRUE’’ (SECOND  EDITION)


     Japanese


Made  in  the  United  States  of   America


   アメリカ合衆国にて製本             [以上4]


正しい羊飼の『ほかの羊』の福祉を図 


りつつ、『真理の神』なる最高  


者にこの本を献[:ささ]げる。


        ----申命記32:4, ヨハネ伝10:11,14,16


     この本に用いた聖書の略語


ア  標ーーーーアメリカ標準訳、アメリカ改訳委員会による


ア  訳ーーーーアメリカ訳、ジェー・エム・ピー・スミスとイー・ジ


        グッドスピードの訳したもの


新  世ーーーークリスチャン・ギリシャ語聖書の新世訳


新  口----1955年改訳(日本聖書協会)


この本に用いられている引用聖句で特記されていない  


ものは、日本語標準訳聖書からの引用句です。  


[以上5]


      目次                   ページ          [6]


第一章『神を真実なものとせよ』・・・・・・・・・・・・・・七



第二章『ヱホバとは誰ですか』・・・・・・・・・・・・・・・二〇



第三章『メシヤについて何と言うか』・・・・・・・・・・・・三〇


第四章 真実の記録を伝える・・・・・・・・・・・・・・・・四〇


第五章 悪魔サタン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・五三


第六章 人間とは何ですか・・・・・・・・・・・・・・・・・六四


第七章 進化論はなぜ正しくないか・・・・・・・・・・・・・七四


第八章 地獄ー希望のある休息の場所・・・・・・・・・・・・八七


第九章 三位一体はありますか・・・・・・・・・・・・・・・九九


第十章『多くの人のあがない』・・・・・・・・・・・・・・・一一一


第十一章『神の会衆』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一二一


第十二章『神の御国』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一三二


第十三章 崇拝の際に偶像の使用・・・・・・・・・・・・・・一四ニ


第十四章 祈りによって神に達する道・・・・・・・・・・・・一五一


第十五章 安息日、前影と実体・・・・・・・・・・・・・・・一六二


第十六章『律法の下にあるのではなく、過


     分のご親切の下にある』・・・・・・・・・・・・・一七五


第十七章 キリストの再臨・・・・・・・・・・・・・・・・・一八八


第十八章 イスラエルのパレスチナ復帰・・・・・・・・・・・一九八


第十九章 ヱホバの証者とは誰ですか・・・・・・・・・・・・二〇九


第廿章『カイザルのものはカイザルに』・・・・・・・・・・・二二三


第廿一章 世の終り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二三七


第廿二章『新しい地』・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ニ四八


第廿三章 復活・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二五八


第廿四章 裁きの日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二六九


第廿五章 神への献身ー生命に達する道・・・・・・・・・・・ニ七九


第廿六章 心を替えて生活を変化する・・・・・・・・・・・・ニ八九


ーーーーーーーーーー<>----------ー


[7]      『神を真とすべし』


  第一章   『神を真実なものとせよ』                


 1 神は絶対に真であられる故に、智力を持つ生物の信頼を得ることができます。神は、ご自分の約束を確実に守り、またその予言に忠実であられると共に、証明されている科学の事実とも矛盾いたしません。そのような真理の神は確かに存在しています。しかし、公(おおやけ)に神の敵であるという人はもちろんのこと、神の僕と自称する祭司や牧師たちも神をないがしろにしてきました、この宗教的な偽善者たちは、神の御言葉、律法、そして御目的に敵対して、自分たちの言葉(ことば)、知恵(ちえ)、哲学(てつがく)、予言、そして計画を立てることすらしています。それで、根拠のない理論や制度がまったく根こそぎに揺るがされている現在では、神が真であるか、或いは人間が真であるかという問題が生じています。


 2 私たちの見る宇宙は、真理を基礎(きそ)にしています。それで地上の人間がどれ程変動しようとも、いつも秩序正しく、整然と運航しているのです。大宇宙の創造者は、真理の大いなる神です。キリスト教国に属(ぞく)する人々はみなこの神に共通の崇拝を捧げている、と自称(じしょう)していますが、しかし幾世紀にも亘(わた)る宗教的な食(く)い違(ちが)い、


_______


➊神は何である故に、私たちの信頼を得ていますか。今日の問題は何ですか。    ➋(イ)なぜ古臭いいろいろの解釈を聖書に下すことはできませんか。(ロ)この本の読者は、どのような聖書研究をしますか。


[8] 争い、そして間ちがいは、神の誉(ほまれ)を汚(きず)つけると共に、神が人類に与え給うた神の御言葉、聖書の価値に非難をもたらしています。真理を求めている人々は、途方に暮れて希望を失い、多くの場合に『ああ、聖書なんかどうせ古臭いもので、解釈はどのようにもつけられるんだ』と言います。もしそれが正しいならば、聖書の著者は全く無秩序で、自ら分裂していることになります。しかし、神の造り給うた目に見えるこの宇宙が、すばらしい調和と一致を保っている故に、そのようなことは、決してあり得ないことです。全く、神の書物である聖書にはすべてのものが混ぜこまれていて、どんな解釈でもできる、というものではありません。いわゆる『キリスト教国』の宗教指導者たちは、いろいろの勝手な解釈を聖書に下して不調和な多くの偽りをつくり上げており、互いの意見は一致することなく、時には烈(はげ)しく相争うこともあります。このわけで、この本を用いつつ聖書研究する読者は、キリスト教国の不調和で、わけの分からぬ宗教的間ちがいに従うことなく、神の御言葉を研究します。この本の読者は、聖書の中に言われている神自身の言葉に従って研究いたします。『神は無秩序の神ではなく、平和の神である。*』


 3 真理に達するためには、宗教的な偏見をまったく取り除くことが必要です。そして、神の御言葉を聴かねばなりません。これ以外の事をしたところで、それは混乱を更に増すのみです。宗教を持つ人も持たぬ人もみな聖書を軽んじて、人間の意見や言伝えを重んじているかもしれません。宗教指導者たちは、聖書の明白な証しをうけいれないかもしれません。また、人々の尊敬をうけているキリスト教国の牧師たちが偽り者で、人々


_______


*コリント前書十四章卅三節新口語訳の引用


_______


❸➍(イ)真理に達するために、私たちは何をしなければなりませんか。(ロ)人々は不真実な者であっても、私たちはどんな立場を取るべきですか。


[9] を欺(あざむ)いているかもしれません。しかし、そのような全く非情な悲しい事実があるにしても、聖書自体は変るでしょうか。また、聖書の真理の音信(おとずれ)は変るでしょうか、分別をもって物事を考えるなら、真実の生ける神は、神を求める人類に対して、霊感によって書いたものを与え給うて、ご自身についての啓示を知らせられた、ということが悟り得ます。それで、私たちは次の言葉を述べた聖書記者の立場を取るべきであります。『すると、どうなるのか。もし彼らのうちに不真実な者があったとしたら、その不真実によって、神の真実は無になるであろうか。断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神・を・真・実・な・も・の・と・す・べ・き・で・あ・る・。それは、「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」と書いてある通りである。』¥


 4 この聖句の中の引用句を書いた人は、心の正しい人であって、自分の間ちがいをする罪人であり、かついかなる場合にも神は真実な御方であると、臆(おく)せずに告白(こくはく)しています。そして、神にむかい次の言葉を述べました、『我はなんじにむかいて、ただ汝に罪を犯し、聖前(みまえ)に悪しきことを行えり、されば汝もの言うときは義[:ただ]しとせられ、なんじ裁くときは咎[:とが] めなしとせられ給う。*』神を真実なものとするなら、神は記録された御言葉の真理により、私たちを教えます。


 5 神を真実なものとするとは、つまり神の御言葉を聴いて、人間を自由にする真理とは何かを知ることです。


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¥ロマ書三章三、四節、新口の引用


*詩篇五一篇四節の引用


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➎(イ)神を真実なものとするとは、どういうことですか。(ロ)この本の研究方法は、なぜイザヤ書八章廿節と一致していますか。


[10] すなわち、神の御言葉である聖書を真理としてうけ入れることであります。それで、この書物は、いつも聖書の真理に頼ります。この書物に言われている事柄については、つねに聖句を引用することによってその真実さと確実さを裏づけます。霊感をうけて聖書を書いた人や、聖書の中に録(しる)されている忠実な人々は、そのような方法を用いたのであり、かつその方法を推奨(すいしょう)しているのです。大予言者(だいよげんしゃ)であるイザヤは、神の選民にむかい、次のように言いました。霊媒術(れいばいじゅつ)者があなたがたにむかって、「さえずるように、ささやくように語る霊媒者(れいばいしゃ)および魔術者に求めよ」と言う時、神の民であるあなた方は、自分たちの神に求めるべきではないか。生ける者のために死者に問いますか。それから、イザヤは正しい助言を告(つ)げています、『律法と証(あか)しの言葉に従いなさい。もしこの言葉に従って語らないならば、その中に光はない。』(イザヤ、八ノ十九、廿、リーサー訳)、『むしろ、律法と証(あか)しの言葉に頼りなさい。もしこの言葉に従って語らないなら、朝の光はないであろう。』(イザヤ、八ノ廿、ドーエイ訳)、この世の人々は、超人間の見えざる悪鬼共、悪しき霊者共の支配を受けているため、その教えには真理の光がありません。それら悪しき霊者共は、この世に暗黒の状態をもたらした責任者だからです。神の書き給うた御言葉の律法と証言を直接求めないならば、私たちは決して光を得ることができないでしょう。いまや光は輝き始めており、新しい正義の世の間近いことを示しています。


 6 マラキは、昔のヘブル人の預言者の中でも一番最後の預言者です。このマラキも、イザヤと同じ態度を取り、神の書かれた言葉に頼りました。霊感を受けた神の代弁者、マラキは、こう述べています、「あなたがたは、私のしもべモーセの律法、すなわち私がホレブで、イスラエル全体のために、彼に命じた定めと、おきてとを覚えよ。』(マラキ、四ノ四、リーサー訳)マラキよりも千年以上も昔の人、予言者モーセの書いたものは、


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➏昔のヘブル語聖書の最初の部分を書いた人や、最後の部分を書いた人、そしてその両者の期間中に書いた人々は、どのような態度をとり、私たちに教訓を与えていますか。


[11] 聖書の最初の五書です。それでも、昔のヘブル人の最後の予言者マラキは、聖書を始めて書いた人と全く一致調和していたのです。モーセからマラキにいたるまでの期間に聖書を書いた人は、みな同じ立場を取っています。また、モーセ以前の神の予言者は、神からの霊感をうけて、言葉を語りましたが、モーセはその言葉を自分の記録の中に書き留めました。


 7 マラキからさかのぼってモーセにいたるまでのあいだに聖書を書いた人で、神の書かれた御言葉の他(ほか)に、伝承(でんしょう)や言伝えがある、などと述べている人は一人もいません。そして、宗教的な人々の告げる言伝えは、神の記録された御言葉と等しく大切であるとか、あるいはそのような言伝えがないなら神の記録された言葉は不完全である、などということは聖書の何処にも述べられていません。神からの霊感なしに語った人間の言伝えを、神の与えたもうた律法および証につけ加えることに対して、予言者モーセは強く反対しています。モーセは次のように語りました、『私があなたがたに命じる言葉に付(つ)け加えてはならない。また減(へ)らしてはならない。私が命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。』(申命、四ノニ、リーサー訳)、神の書き給うたみ言葉は清いものであり、人間のつくるそのような言伝えなどを必要としません。それで、そのような言伝えを教えたり、また従ったりして、言伝えは書かれている神のみ言葉と等しい価値を持つか、またはそれ以上の価値を持つと言う人々は、偽り者であります。「神の言葉はみな清いものである。神は彼に寄り頼むものの盾[:たて] である。その言葉に付け加えてはならない。彼があなたを責め、あなたを偽り者とされないためだ」---シンゲン、卅ノ五、六、リーサー訳。


 8 表向きには神の民であると言いながら、実際には霊感を受けて書かれた聖書よりも人間の教えや、言伝え


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➐いわゆる「伝承」である言伝えに対してモーセとシンゲンの書は何を示していますか。     ➑人間の言伝えや戒めに従っている人々に対して、イザヤはどんな強い言葉を語っていますか。


[12] に従って偽善の行をする人がいます。神はそのような人々に憎まれており、そして予言者イザヤを霊感して、次のような強い言葉を述べさせています、『主は言われた、「この民は口をもって私に近づき、くちびるをもって私を敬うけれども、その心は私から遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒(いまし)めによるのである。それゆえ、見よ、私はこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は失われ、さとい人の知識は隠される。」』ーーーイザヤ、廿ノ十三、十四、リーサー訳。


       書かれた御言葉 対 言伝え


 9 ナザレから来た大いなる指導者は、宗教指導者達の言伝えや、いましめに全く反対されたため、西暦第一世紀の宗教指導者たちと真向(まっこう)から衝突(しょうとつ)しました。それについては、次のように書かれています、『ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません。」イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。神は言われた、『父と母を敬(うやま)え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と、それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供(そな)え物です、と言えば、父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切(てきせつ)な予言をしている、『この民は、口さきでは私を敬うが、その心は遠く離れている。人間のいましめを教えとして教え、無意味に私を拝(おが)んでいる。』」』(マタイ、十


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➒マタイ伝十五ノ一ー九節には、言伝えについてのどんな論争が記録されていますか、誰が直実な者であり、誰が偽り者でしたか。


[13] 五ノ一ー九、新口)それで、言伝えを守る宗教的な人々は、偽り者であるとともに神の書かれた律法を破っていたのです。しかし、ナザレから来た心の正しい指導者は、神の書かれた御言葉に頼って、それに従ったために、神を真としていました。


 10 次のことは確かな事柄です。古いヘブル語聖書は、宗教家達の言伝えを信ぜよ、とは教えていません。ヘブル語聖書の書かれた後に、人々はそのような言伝えを記録して発行しました。そして霊感を受けて書かれた聖書の教えと同じ価値を持つもの、叉は聖書以上の価値をもつものと見なしていたのです。西暦一世紀に、クリスチャン・ギリシャ語聖書は霊感を受けて書かれました。だが、このギリシャ語聖書も、キリスト教牧師と称する人々の言伝えやいましめをうけいれて信ぜよ、とは教えていません。このクリスチャン・ギリシャ語聖書は、幾百回となくヘブル語聖書中の神の書かれた御言葉を引用したり、参照したりしています。イエスの当時には、ヘブル語聖書のみが存在していました。そして、イエスは弟子たちのために神に祈りを捧げ、ヘブル語聖書についてはこう言われました、「真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言葉は真理であります。』(ヨハネ、十七ノ十七、新口)イエスが人里離れた荒野に四十日居られたとき、大敵対者は彼を誘惑しました。その時イ


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➓(イ)人間の言伝えに対する聖書全部の立場は、どのようにはっきりしていますか。(ロ)祈りを捧げた時と、誘惑をうけた時のイエスは、書かれた神の御言葉を重んずる態度をどのように示しましたか。


[14] エスは、神の書かれた御言葉を用いることによって、敵の攻撃をしりぞけると共に、敵は偽り者であることをはっきり示しました。最初の誘惑に対して、イエスはこう言われました、『「人はパンだけではなく、ヱホバの口から来るすべての言葉によって生きなければならない」と聖・書・に・書・か・れ・て・い・る・。』第二番目の誘惑をしりぞ けたイエスは、こう言われました、『「あなた方の神であるヱホバを試みてはならない」と聖・書・に・書・か・れ・て・い・る・。』さらに、第三番目の誘惑をしりぞけたイエスは、こう言われました、「サタンよ、さがれ、「あなた方の神ヱホバを崇拝しヱホバ神のみに聖なる奉仕を捧げねばならない」と聖・書・に・書・か・れ・て・い・る・。』いずれの場合にも、イエスは予言者モーセの書いた神の御言葉を引用いたしました。---マタイ、四ノ四、七、十、新世。申命、八ノ三。六ノ十六。六ノ十三。


 11 ナザレの会堂にいたイエスは、イザヤの予言が録されている聖書の巻を取り寄せ、その六一章一、二節を読み上げて御自分の地上における使命(しめい)を人々に知らせました。(ルカ、四ノ十六ー廿一)イエスは、後日次のように語っています。『私が律法や予言者を廃(はい)するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく、天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。」イエスを信じない宗教家たちに対し、イエスは神の書かれた御言葉に信仰を持て、と諭しておられます。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は私についてあかしをするものである。しかし、もし、あなたがたがモーセを信じないならば、どうして私の言葉を信じるだろうか。』ーーーマタイ、五ノ十七、十八そしてヨハネ、五ノ卅九、四六、四七、新口。


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⓫伝道の業を行い、かつイエスを信じない宗教家たちを諭された時、イエスは聖書を重んずる態度をどのように示されましたか。


[15] 12 イエスの宗教的な敵は、叛逆者の助けを借りて、不法にも、遂にイエスを逮捕(たいほ)しました。なぜ、イエスは、彼らを拒(こば)まなかったのですか。神の御言葉が真実である、と証されたためです。彼は弟子たちに次の言葉を語り、神の御言葉を立証(りっしょう)されました、『あなたがたに言うが、「彼は罪人の一人に数(かぞ)えられた」としるしてあることは、私の身に成しとげられねばならない。そうだ、私に係(かか)わることは成就している。』(ルカ、廿二ノ卅七、新口)それから幾日かたって後、イエスは驚き怪(あやし)しむ弟子たちに御自身に生じた不思議な事柄を説明されました。その時神の書かれた御言葉が御自身にいかに成就されたかを指摘(してき)することにより、神の書き給うた御言葉の真実性を確証されたのです。弟子の二人と取交(とりかわ)されたイエスの会話は、次のようです、「モーセやすべての預言者から初めて、聖書全体にわたり、ご自身について記してある事どもを説(と)きあかされた。』後日、多数の弟子たちに向ってイエスは次のように言われました、『私が以前あなた方と一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、私について書いてあることは必ずことごとく成就する。』『そこでイエスは、聖書を悟(さと)らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。」』(ルカ、廿四ノ廿七、四四ー四六、新口)イエスが、人のいましめを奉じている宗教指導者たちの教えに頼ったことは、一度もありません。イエスは弟子たちをしていつも神の言葉に頼らせ、かくして、神は真実である、と立証するかたわら、人々の尊敬する宗教指導者たちは偽り者である、と曝露(ばくろ)されたのです。


 13 ナザレのイエスは、一つの例です。故に、宗教家たちの解釈(かいしゃく)に従って、聖書よりも人間の言伝えを重んず


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⓬イエスの敵が彼を逮捕した時、彼はなぜ拒まなかったのですか。それから幾日かたって後、イエスは弟子たちにむかい神の御言葉をどのように立証されましたか。   ⓭イエスの例により言伝えに従う人々は、必ずどういうことをなしますか。イエスの弟子パウロは、どのように自分自身をその例の引き合いに出していますか。


[16] る人々は、神の清い御言葉を宣伝(のべつた)えるイエスの忠実な弟子たちに必ず反対して迫害を加えます。イエスの弟子の一人は、自分自身をその例の引合いに出しています。そして、宗教的な言伝えや制度に盲目に従うならば、真実の御言葉を受け入れる人々に反対するようになる、と示しました。イエスの弟子であるパウロは、次のように打(う)ちあけています、『ユダヤ教を信じていたころの私の行動については、あなたがたはすでによく聞いている。すなわち、私は激(はげ)しく神の会衆を迫害し、また荒(あら)しまわっていた。そして、同国人の中で私と同年輩(どうねんぱい)の多くの者にまさってユダヤ教に精進(しょうじん)し、先祖(せんぞ)たちの言伝えに対して、だれよりもはるかに熱心であった。』ーーーガラテヤ、一ノ十三、十四、新世。


 14 宗教的な言伝えで盲[:めくら]にされていたパウロは、かつて、モーセや他の預言者や、そして詩篇に書かれている真理を見ることができなかったのです。またキリスト教の牧師のごとき振[:ふり]をする人々は、宗教的な言伝えやいましめをつくりあげてしまうため、宗教的な制度に属する者たちに真理を知らされないであろう、と言うこともパウロの予見していた事柄でした。パウロは、次のように書いています、「あなたがたは、むなしいだましごとの哲学で、人のとりこにされないように、気をつけなさい。それはキリストに従わず、世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基(もとず)くものに過ぎない。』(コロサイ、二ノ八、新口)そのような言伝えは嘘であるだけでなく、霊感されて書かれた御言葉に録(しる)されているものとは異(ことな)る救いの道を示す、とパウロは知っていました。宗教的な言伝えの欺きにかかっているために、いま聖書の中の良いたよりを受け入れない人々は、パウロの次の助言に注意すべきでありましょう、『ある種の人々があなた方をかき乱(みだ)し、キリストの福音(ふくいん)を曲げようとしているだけのことである。しかし、たとい私たちであろうと、天からの御使であろうと、私たちが宣べ伝えた福音(ふくいん)に反することをあなた方に述べ伝えるなら、その人はのろわれるべきである。私たちが前に言っておいた


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⓮宗教的な言伝えをつくり上げることについて、パウロはどんな警告の言葉を書きましたか。


ように、今私は重(かさ)ねて言う。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、その人はのろわれるべきである。』ーーーガラテヤ、一ノ七ー九、新口。


 15 それで、パウロは、神の書かれた御言葉にかたくつき従って人々に教えたり、伝道したりしました。また彼の話を聞く者に、それぞれの聖書を開かせ、はたしてパウロの話が正しか否(いな)かを調(しら)べさせました。パウロにつき添っていた医者のルカは、聖書を読んで使徒の話の真偽(しんぎ)を調べる人々を、非難するどころか、かえって素直(すなお)な人と述べています。ルカは次のように書いています、『そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。二人はベレヤに到着(とうちゃく)すると、ユダヤ人の会堂に行った。ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直(すなお)であって、心から教えをうけいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。』(使行、十七ノ十、十一、新口)このことから、ある宗教制度が会員に聖書研究を禁じ、かつ牧師の教えることを、聖書との参照なしに、鵜呑(うの)みに信じさせるならば、使徒の仕方に従っ[て]いるというその宗教制度の主張は全くの偽りである、と分ります。


      御言葉に関するペテロの態度


 16 パウロの友なる使徒ペテロも、同じく聖書を最重要なものに見なしていました。ペテロは、再三再四ヘブル語聖書を引用しており、そして次のように書いています、『しかし、主の言葉は、とこしえに残る。これが、あなたがたに宣(の)べ伝(つた)えられた御言葉である。』---ペテロ前、一ノ廿五、新口。


 17 ペテロの書き残した手紙や記録のどこを見ても、自分は絶対に間ちがいをしない、などとペテロは言って


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⓯それで、パウロは神の御言葉にたいしてどにょうな態度を取りましたか。伝道する人々に対する素直な態度とは何ですか。   ⓰ペテロは、パウロと同じ心で聖書を見なした、ということをどのように示しましたか。


⓱ペテロは自分を高めようとしていますか。ペテロは、なぜ神の書かれた御言葉に注意するようにクリスチャンにすすめていますか。


[18] いません。またペテロは立派な宗教的な称号を持つこともなく、人々の崇拝を求めることもなかったのです。ペテロは、彼の話を聴く人や、彼の手紙を読む人をして、いつも変わることのない神の御言葉に頼らせると共に、神の御国の日が明ける時までの導きは、神の御言葉である、と示しています。ペテロはこう書いています、『こうして、予言の言葉は、私たちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照らすまで、この予言の言葉を暗闇に輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、予言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。しかし、民の間に、にせ予言者が起こったことがあるが、それと同じく、あなたがたの間にも、にせ教師が現われるであろう。彼らは、亡びに至らせる異端(いたん)をひそかに持ち込み、自分たちをあがなって下(くだ)さった主をも否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招(まね)いている。………聖なる予言者たちがあらかじめ語った言葉(ことば)と、あなたがたの使徒たちが伝えた主なる救主(すくいぬし)の戒(いまし)めとを、思い出させるためである。』ーーーペテロ後、一ノ十九より二ノ一。三ノ二、新口。


 18 そのわけで、読者の手元にあるこの本は、使徒の残した仕方に従っています。この本は読者をして朽ちざる聖書に頼らせることにより、神を真実なものにしています。神は聖霊により聖書を霊感して書かさせられたため、聖書は確かなものです。それで、私たちは神の解釈に従います。どのように?成就された予言の記録により、また、私たちの現代において予言を成就せしめる事柄によって、私たちは神の解釈に従います。『解(と)くことは神によるのではないか。』(創世、四〇ノ八、ドーエイ訳)全くその通りです。そして、神の解釈は真実なものです。このわけで、この本には聖句の引用や参照が多く録(しる)されています。故に読者は御自分の聖


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⓲この本は、どのように使徒の残した方法に従いますか。


[19] 書を開いて、この本の中に引用されていない聖句を全部読むようおすすめします。


 19 読者もすぐお気づきになる通り、この本の中で使用されている引用聖句は、言語のヘブル語とギリシャ語の聖句の意味を最もよく表現するために、ユダヤ教、ローマ・カトリック教そして他のいろいろな聖書の版から取られています。この本の五頁にある引用聖書の表を見て下さい。叉各頁の左欄にある質問は、読んだ節についての読者の研究のためと、他の人々と群れになってする聖書研究のために備えられているものです。次の章からは、聖書の基礎的で大切な教えが順次に研究されるようになっています。


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⓳この本の引用句、印刷された質問、そして章の内容についてはどうですか。


[20]  第二章    『ヱホバとは誰ですか』


 1 『ヱホバとは誰ですか』という質問は、古い昔からなされています。キリスト前十六世紀前、エジプト王は反抗の気持と侮べつの態度をこめて、この質問を始めていたしました。エジプト王は、さらにこうつけ加えて語っています。『我その声にしたがいてイスラエルを去(さら)しむべき。我ヱホバを知らずまたイスラエルを去らしめじ。』この誇り高ぶった言葉に対して、ヱホバは予言者モーセに次のような慰めを告げられています、『されどパロ(エジプト王)なんじに聴(きか)ざるべし。我すなわち吾手(わがて)をエジプトに加え、大いなる罰をほどこして吾軍隊わが民イスラエルの子孫(ひとびと)をエジプトの国より出さん。我わが手をエジプトの上に伸(のべ)てイスラエルの子孫(ひとびと)をエジプト人の中より出す時には、彼ら我のヱホバなるを知(しら)ん。』--出エジプト、五ノ二そして七ノ四、五。


 2 聖書の中では、エジプトは今日の全世界の小規模な模型に用いられています。それで、エジプトについてのその言葉から、次のことが予言的に示されています。すなわち唯一の生ける真の神は、ヱホバという御名を持つ方である、ということを、全世界はいやいやながらも、間もなく学び知るということです。そのわけでヱホバとは誰でまた何であるかを今学ぶことは全く有益なことであり、かくして神の恩恵(めぐみ)を受ける行(おこない)をすることができます。


3 モーセはエジプトの王の前に立って、神の命ぜられたことを告げました。その時モーセは、自分を遣わされ


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➊➋『ヱホバとはだれですか。』という質問は、初めて何時なされましたか。それには、どのような重要性がついていますか。     ❸エジプト王やイスラエルの前に立ったモーセは、どんな言葉を用いて、特定な神を指し示しましたか。



[21] た神の御名を語っています。エジプト王やエジプト人は、自分たちの神々を主と認めて崇拝していたために、モーセは『主・は・こう言われる』とは語らなかったのです。モーセは、エジプトにいた同国人のところに戻ってきた理由を説明した際に、自分をエジプトに戻し給うた特定の御方をはっきり示すため、神の御名を語りました。聖書には、こう書かれています。『神モーセにいたまいけるは、我・は・有・り・て・在・(あ)・る・者・な・り・。叉いいたまいけるは、汝かくイスラエルの子孫(ひとびと)に言うべし、我有(われあり)という者(ヘブル語でエヒエ)我をなんじらに遣わしたもうと。神またモーセにいいたまいけるは、汝かくイスラエルの子孫に言うべし。なんじらの先祖たちの神アブラハムの神イサクの神ヤコブの神ヱホバわれを汝らにつかわし給うと。是は永遠(とこしえ)にわが名となり、世々にわがしるしとなるべし。』(出エジプト、三ノ十四、十五)モーセとその兄アロンが、はじめてエジプトの王の前に立ってから後、聖書には、こう書かれています。「神モーセに語りてこれに言いたまいけるは、我はヱホバなり。我全能の神と言いてアブラハム、イサク、ヤコブに顕(あらわ)れたり。されど我名(わがな)のヱホバの事は彼ら知(しら)ざりき。」---出エジプト、六ノ二、三。


 4 神の書かれた御言葉を読むなら、神の御名を必らず読みます。それを避けることはできません。み名の正しい発音はヱホバでないなどと言い張ることは、まったく無益なことです。キリスト以前に書かれた聖書は、先ず殆どがヘブル語で書かれ、その一部はアラミヤ語で書かれました。そのヘブル語聖書の全巻を通して神の御名に相応する文字は、Yodヨド,Heヘイ,Wawワウ,Heヘイ(יהוהすなわちYHWH(ワイエッチダヴリュエッチ))です。この四つのヘブル語子音字で象徴される神の御名は、ヘブル語聖書中に全部で六、八二三回*現われています。キリスト前二八〇年頃になって、ヘブル語聖書はギリシャ語聖書に訳されるようになりました。しかし、それ以前か


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➍ヘブル語聖書の中で、神の御名はどのように現われていますか。ギリシャ語七十人訳の中で、神の御名は現われていましたか。


[22] ら、迷信深いヘブル人たちは、御名を妄りに述べてはならないと心配したために御名の発音をやめ始めました。それで、御名の箇所に來ると、彼らは御名を読まないで、むしろアドナイ(主)とかエロヒム(神)と読みました。しかし、最初のギリシャ語七十人訳の聖書翻訳をした翻訳者たちは、この習慣に従わず、神の御名を示す四つのヘブル語文字(יהוה)をギリシャ語訳の中に書いたのです。


 5 クリスチャン・ギリシャ語聖書を書いた人々は、全能の神の御名の記されている七十人訳を用いて、ギリシャ語の聖句をそのまま引用していました。しかし、後になって七十人訳の写筆者たちは、ヘブル語文字で書き表わされている神の御名を取り除き、その代わりに『主』または『神』を意味するギリシャ語を使用するようになったのです。[:個人注:K_Yとか、K_Cとか書いたと!!略語なのは神の御名であったためであろうと思われると!!] それ以後の聖書翻訳者たちは、この写筆者の習慣に従い始めました。それが、クリスチャン・ギリシャ語聖書の多くの訳の中で神の御名が示されていない理由の一つです。ラテン・バルゲート訳を造ったジェロームは、その仕方に従っており、出エジプト記六章三節では、ヱ・ホ・バ・の代りにア・ド・ナ・イ・という称号を用いています。それですから、英語のローマ・カトリック、ドーエイ訳の聖書の中で、ヱホバの御名が一度も出ていないのも当然なわけです。英文欽定訳の中では、「ヱホバ」という御名は、出エジプト記六章三節、詩篇八十ノ十八。イザヤ、十二ノ二と二十六ノ四に出ているだけです。ジェー・ビー・ロザハムのつくったエンハサイズド聖書の中では、神の御名は『ヤウエ』と訳出されて六、八二三回示されています。


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*ロプトゴーヂス著「作成された聖書写本」(英文)第二節卅九頁。またコエフラーバアガート[:「ケーラー・及び・バウムガルトナー」かも?!:個人訳?!「旧約聖書辞典」かも??!]著『べテリス・テスタメンティ・リブロスのレキシコン』


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➎クリスチャン・ギリシャ語聖書の中で、なぜ『ヱホバ』という御名が現われませんか。しかし、その御名を用いることはなぜ有益ですか。


しかし、アメリカ標準訳では、みな『ヱホバ[:ジェホー(ハウ??!と訊かれる?!)ヴァ]』と訳出されています。この御名の発音は、神がモーセに告げられた通りの発音でなくても、その御名によって誰のことを意味しているかが直ぐに分かります。同じことは『イエス』という名前についても言えます。ヘブル語もしくはアラミヤ語で、イエス[:ジーザス?!]とは言わなかったにしても、しかし原音に似ているこの発音によって、誰のことを意味しているかが分かります。しかも、それはイエスを軽んずるとか、侮蔑することではないのです。


 6 一つの例を示します。カトリック・ドーエイ訳は詩篇一〇九篇一、二節を次のように訳しています。『わが主に対する、主の御言葉「我は、汝の敵を汝の足元に踏み台とするまで、汝は右に坐せ」と。主はシオンより、汝の統治の笏をいださしめ、汝の敵の只中に支配せよ。』しかし、ダビデ王のこの同じ詩(詩篇一一〇ノ二)を、アメリカ標準訳は次のように訳しています、『ヱホバはわが主に言われる。我はなんじの敵を汝の足台にするまではなんじ我右(わがみぎ)に坐すべし。ヱホバは汝の力の杖をシオンよりつきいださしめん。汝は汝の敵の中で支配すべし。』それで、神の御名を正しく尊重している後の翻訳によって、聖句の意味ははっきり分かります。すなわち、『わが主』とダビデの述べている方は、メシヤであって、ヱホバは、このメシヤをしてメルキゼデクの状(さま)に似た王なる祭司にならせ給うのです。英文欽定訳が『主』または『神』という称号を用いて神のみ名を訳出するときには大文字を使用しており、普通一般の『主』や『神』とは区別しています。---詩篇一一〇ノ一(英文)を参照してください。


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➏この御名を用いることの有益さを示すどんな良い例がありますか。


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[30]   第三章    『メシヤについて何というか』


 1 アラミヤ語を用いていた西暦第一世紀のユダヤ人たちは、彼を『イェシュ・ミシハ[:個人研究:ヘブライ語:マ(メ??!とアラミヤ語と勘違いも?!)ーシーアッハ??!] 』と呼びました。ギリシャ語を用いていたユダヤ人や異邦人は、彼を『イエスス・メシアス』すなわち『イエス・キリスト』と呼びました。アラミヤ語でもギリシャ語でも、それは『油注がれたイエス』という意味です。そしてイ・エ・ス・またはエシュアという名前は、「ヱホバは救い主」という意味のヘブル語、エ・ホ・シ・ュ・ア・を短くしたものです。第一世紀の前半の時期にその名称を持った一人のユダヤ人はパレスチナの各地を徒歩伝道し、人々を教えていました。歴史はその事実をはっきり証明しているため、いまさらその証拠を述べる必要はありません。そのユダヤ人と一緒にいた人々や友たちの書き記した正確な記録を調べることにより、その人に関する事柄をくわしく学ぶことにします。


 2 このユダヤ人の生涯と教えは、全人類の歴史に影響を及ぼしました。そして、次の千年でも、全人類の歴史に影響を及ぼすでしょう。このユダヤ人は、地上に現われる以前に、すばらしい過去を持っておられました。このユダヤ人についてのいろいろな事実を知るために、ひとりの人の言葉を調べてみましょう。この人はもとそのユダヤ人にひどく反対していましたが、のちにはそのユダヤ人の忠実な友になりました。そして、自分自身について、こう述べています、『私は八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心な点では会衆の迫害者、律法の義につ


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➊『イエス・キリスト』という名前の全部は、何を意味しますか。    ➋もと敵であった人は、イエスが人間になる以前に存在していたことに関して、何と書いていますか。


[31] いては落ち度のないものである。』(ピリピ、三ノ五、六、新世)ピリピにいるキリスト教信者に宛てて書いた同じ手紙の中で、そのヘブル人は、人間になる以前のイエスの過去について次のように述べています。「あなたがたは、キリスト・イエスと同じ心を持ちなさい。彼は神の形であられたが、神と等しくなるとの考えを固執しないで、かえって自らを空しくし、僕の形を取られ、人間の状(さま)をなして生まれたもうた。そして自らをひくくして、人の形をもって現れ、死にいたるまで苦しみの杭に死にいたるまで従順であられた。それゆえに神は彼を勝(すぐ)れた地位に高めて、すべての名に優(まさ)る名を彼に与えられたのである。これは、イエスの名にあって、天にあるもの、地にあるもの地下にあるものすべてが膝まづき、またすべての下は、イエス・キリストは主である、と言い表わして、父なる神に栄光を帰するためである。』---二ノ五ー十一、新世。


 3 ここに述べられている方は、ヱホバ神ではありませんが、『神の像(かたち)』であられました。どのように?『神は霊者である』ように、彼も霊者でした。ヱホバ神のごとき全能者ではなかったにせよ、彼は力ある強い霊者でした。神が彼のものをつくられる前に、彼は存在しておられました。彼はヱホバ神のつくり給うた最初の子です。彼が神の『独り子』と呼ばれるのは、そのわけです。神は、他の強力者なしに御一人でこの独り子をつくられました。彼はヱホバ神の創造せられたものの最初のものです。黙示録三章十四節の中で、彼はそのことを認めており、自分自身について次のように述べています。『アーメンたる者、すなわち忠実で神の証者、また神による創造の最初の者は、こう言う。』(新世)またコロサイ書一章十五節(新口)では、彼は『見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先立って生まれた方」と述べられています。それで、彼は神によって造られた方です。彼は最初に創造せられ、つくられたものの中で一番愛せられると共に、いちばん多くの恩寵をいただきました。彼は神の創造の根源者ではありません。しかし、神は独り子として彼を創造せられた


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❸彼はどのように『神の像で』存在していましたか。

[32] 後、彼をご自分の協力者に用いて他のすべてのものを創造いたしました。そのことは、コロサイ書一章十六ー十八節、そしてヨハネ伝一章一ー三節に述べられています。

 4 ヨハネ伝の一章の中で、彼は神の言・葉・と呼ばれています。つまり、神の代りに話をする代弁者ということです。ギリシャ語の聖書の中では、言・葉・はロ・ゴ・ス・です。それで、彼は『言・葉・叉は・ロ・ゴ・ス・』とも呼ばれます。彼は力のある霊者であると共に、ロゴスという高い地位を持っており、かつつくられた他のすべてのものよりも以前に存在しておられました。彼は神でしたが、しかし全能の神ではありません。この区別は、ヨハネ伝一章一ー三節のエンハ[:ファ] ティック・ダイアグロット訳にはっきり示されています。『はじめにロゴスがあった。ロゴスは'と共にいて、ロゴスは神であった。これは、はじめと共にあった。ロゴスを通してすべての事はなされ、ロゴスなしでは何一つとしてなされなかった。』この引用聖句の中にある神と神の活字上の違いは、ダイアグロット訳聖書に出ています。ギリシャ語の各巻をみな訳しているダイアグロットの行間の翻訳は「」ヱホバと「神」ロゴスのちがいを、一層はっきり示しています。「はじめに言葉があった。言葉はと共にあり、言葉はひとりの神であった。これは、はじめと共にあった。』(一九五〇年に発行された)クリスチャン・ギリシャ語聖書の新世訳は、ヨハネ伝一章一、二節を正確に次のように訳出(やくしゅつ)しています、『最初に言葉があった。言葉はと共にいて、言葉はひとりの神であった。このものは最初と共にいた。』それで、神が後につくったものの一人が自(みずか)ら悪魔になり、コリント後書四章四節(新世)に述べられているように、「この世の組織制度(そしきせいど)の神」になるずっと以前から、言葉またはロゴスは存在していました。

 5 イエス・キリストは、人間になられる前に、すでに存在しておられました。イエス自身もそのことを証明

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➍人間になる以前のイエスは、どんな職務についていましたか。   ➎イエスは、自分が人間になる前に存在していたことを、どのように証言しましたか。

[33] して、次のように述べています。『それでは、もし人の子が前にいた所に上(のぼ)るのを見たら、どうなるのか。』(ヨハネ、六ノ六二、新口)「あなたがたは下からのものだが、私は上からのものである。……アブラハムの生まれる前から私はいたのである。』(ヨハネ、八ノ二十三、五八、新世)弟子たちと共に神に捧げた最後の祈りの中で、イエスは神にこう語られました、『私は、私にさせるためにお授(さず)けになった業(わざ)をなしとげて、地上であなたの栄光をあらわしました。父よ、世が造られる前に、私がみそばで持っていた栄光で、今み前に私を輝かせて下さい。……私はもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、私はみもとに参ります。』(ヨハネ、十七ノ四ー十一、新口)これより二カ月経(た)たぬ中[:うち] に、イエスの証者である忠実な弟子たちは、彼が天に上って行き、視界から消え去るのを見ました。そして、十日の後に神はイエスを通して聖霊を彼らに注がれたために、彼らはイエスが天の御父の御もとに行かれたことを、はっきり知りました。---使徒行伝一章と二章。

 6 神のこの独(ひと)り子は、地上に来る前に、ヱホバ神と同等(どうとう)であるなどと考えたことはなく、また、全能の神の『力と栄光(えいこう)に等(ひと)しい』とも思ったことがありません。神の独り子は、悪魔の道に従ったことは一度もなく、最高の神と同等になろうとも企(たくら)まず、神の地位を奪(うば)おうともしなかったのです。彼は全能の御手(みて)の下に自分を低くし、至上者(しじょうしゃ)である神に従いました。苦しみの杭(くい)の上にかけられて不名誉な死をうけようとも、彼はまったく神に従順でした。ピリピ書二章五ー八節のエンハ[:ファ] ティックダイアグロット訳を次に引用します、「キリスト・イエスは、神の形であられたが、神の如くなろうというやましい考えを持たなかった。彼は自分を空(むな)しくして奴隷(どれい)の形をとり、人間の状(さま)に現われた。そして、人間になった彼は自分を卑下(ひげ)し、死に至るまで、まったく十字架の死にいたるまで従順であられた。』

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➏イエスが、神のようになりたいという野心を持っていたか、否かについて、聖書はどう示していますか。

[34]  7 イエスはメシヤの血統について、ユダヤ人にこう尋ねました、『あなたがたは、メシヤについて何と言うか。メシヤは誰の子ですか。』イエスの敵たちは、『ダビデの子です』と答え、誰の血統からメシヤが来るかを示しました。(マタイ、廿二ノ四一、四ニ、デリッチ訳)それで、地上に来られた神の子はダビデの血統をひいて生まれました。イエスの母親である処女マリヤはダビデの子孫でした。またマリヤの許婚であるヨセフもダビデの子孫です。しかし、二人が結婚する以前に天の御使いは、マリヤに子供が産まれることをつげました、『あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名付けなさい。……聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なる者であり、神の子ととなえられるでしょう。」---ルカ、一ノ卅五、新口。

 8 マリヤの子は、『神の子』ととなえられる、と御使いは告げました。それで、マリヤを『神の母』と呼ぶのは、はなはだしい間ちがいであります。ローマ・カトリックの牧師は、その『神の母』という言葉を異教のバビロンから取りましたが、異教のバビロンでは、リア(セミラミス)すなわちヴィーナスが『神々の母』として崇拝されていました。イエスが、「祝福された母」という言葉を用いてマリヤに話しかけたことはありません。聖書の記録を見ると、どの場合でも、イエスは『女』という言葉を用いてマリヤに呼びかけています。(ヨハネ二ノ四。十九ノ廿六。マタイ、十二ノ四六ー五〇)また、イエスの使徒であるパウロは、こう書いています『時の満ちるに及んで、神は御子を女から生まれさせ、……おつかわしになった。』(ガラテヤ、四ノ四、新口)全能の神の奇蹟の力によって処女マリヤが身ごもった時、神の子の生命は、天におられる御父の神のみそばで持っていた栄光ある地位から、人間の胎児に移されました。

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➐どのように、イエスはメシヤの血統をひいて生まれましたか。   ➑マリヤを『神の母』と呼ぶことはなぜ正しくありませんか。

[35]  9 マリヤは、ガリラヤのナザレの町で妊娠しました。しかし、ローマ皇帝の登録に関する勅令に従うため、マリヤはユダヤのベツレヘムに行きました。ダビデ王がそれより約十一世紀前に生まれた所もこのベツレヘムです。イエスは、キリスト前二年の十月一日ころ、このベツレヘムで生まれ、ミカ書五章ニ節の予言を成就しました。その秋の夜、野外にいたユダヤ人の羊飼(ひつじかい)たちに向かって御使は次のように告げました。『きょうダビデの町にあなたがたのために救主(すくいぬし)がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである。』そして、おびただしい天の軍勢が現われ、『いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、善意の人々に平和があるように。』と言いました。(ルカ、ニノ八ー十四、新世)生まれてから八日目にイエスは普通のユダヤ人の男の児と同じく割礼(かつれい)をうけ、そして四十日後に、マリヤはエルサレムの宮に入ってイエスを神に捧げました。後日、ヘロデ王の兵士によって殺されるのを避(さ)けるため、イエスはエジプトに連れて行かれ、そしてヘロデ王が死んで後になってナザレに帰り、その地に住んで成長しました。これは、『我わが子をエジプトより呼びい出したり。』というホセア書十一章一節の予言を成就しています。----マタイ、二ノ十三ー廿三。

 10 マリヤの親族は祭司ザカリヤと結婚し、イエスのいとこにあたるヨハネを生みました。イエスが卅歳になる六か月前に、ヨハネはイエスに先がけて伝道し始め、伝道するかたわら水による洗礼を施しました。ヨハネはユダヤ人だけに伝道し、『悔い改めよ、天の御国は近づいた。』と告げたのです。ヨハネが御国のことを述べた後に、イエスはヨハネのところに行き、自分が地に来られた第一の目的を示されました。その目的とは、すなわちヱホバ神の至上権と聖なる御名を立証する神の御国について証言することです。それから三年半の後、裁きをうけるために総督ポンテオ・ピラトの前に立ったイエスは、次のように言いました、『私の御国はこの

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➒マリヤは何処でイエスを妊娠しましたか、そして、イエスは何処で生まれて、どこで成長しましたか。

➓イエスは、自分が地に来た第一の目的をどのように示しましたか。

[36] 世のものではない。……実際に、私の御国はこの世のものではない。』『そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのか。」イエスは答えられた、「私が王であると、あなたは言う。この目的のために私は生まれ、この目的のために私は世に来た。すなわち、真理について証言するためである。真理の側にいる者は、誰でも私の声を聴く。」』(ヨハネ、十八ノ卅六、卅七、新世)イエスが油注がれたのは、実はこの神の御国のメシヤなる王に成るためだったのです。イエスが油そそがれたのは何時ですか?

 11 卅歳になったイエスは、洗礼者であるヨハネのところに行き、水による浸礼(しんれい)をうけました。ヨハネがヨルダン河にイエスを沈(しず)め、それからイエスが水より出られた後、「天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたは私の愛する子、私の心にかなう者である。』」(ルカ、三ノ廿一ー廿三、新口)水の洗礼を受けたイエスは、神の御意(みこころ)に従順に従うことをしましました。そして、神は聖霊を注ぐことによりイエスを聖別(せいべつ)したのです。神はイエスを自分の愛する子と認めることにより、イエスを人間の子より再び霊的な子に産み出されました。洗礼を受けたイエスに聖霊を注がれた神は、イエスに御霊によって油を注ぎ、ずっと昔から約束されていた神の御国の王にならせたのです。このように、御霊を注がれたイエスは、メシヤ、すなわち、キリストなるマシヤになりました。それらの言葉は、みな『油そそがれた者』という意味です。それで、イエスはイエス・キ・リ・ス・ト・、またはイエス、油・注・が・れ・た・者・となりました。イエスの弟子であるユダヤ人ペテロは、こう述べています、『神はナザレから来たイエスに、聖霊と力でもって油を注がれた。』---使徒行、十ノ卅八、新世。

 12 イエスは荒野で四〇日を過ごし、悪魔の誘惑に打ち克ってから、ヨハネいる所に戻り、自分の最初の弟子

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⓫イエスが洗礼をうけた時いちじるしいどんな事柄が起こりましたか。  ⓬洗礼者ヨハネの言葉から分かるように、地に来られたイエスは、第二のどんな目的を成就しましたか。

[37] たちを集められました。イエスの近よるのを見たヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とまわりの人々に言いました。(ヨハネ、一ノ廿九、卅六、新口)ここで、ヨハネは神の子が地に来た第二の目的を示しています。すなわち、ヱホバ神に捧げられる聖なる犠牲(ぎせい)になって死ぬことです。イエスのこの犠牲の死により、信ずる人たちの罪は取り除かれて、死から救われ、神が創造すると約束し給うた正義の新しい世における永遠の生命が得られます。イエスは、そのような贖(あがない)の犠牲になるのに全くふさわしい御方(おかた)です。イエスの完全で罪のない生命は天からユダヤ人の処女の胎に移されたため、彼は完全な人間に生まれ、完全な人間に成長し、罪や、汚れや、悪をすこしも持っていなかったのです。(ヘブル、七ノ廿六)神の御意(みこころ)に全く献身したイエスが自分自身を神に捧げたとき、ヱホバ神は人類の贖主(あがないぬし)なるイエスの犠牲を嘉納(かのう)されました。人類の贖(あがない)主であるイエスは、犠牲として自分の人間としての生命を永遠に棄てねばならなかったため、神は聖霊によってイエスを生み出し、神の霊的な子に再びならせました。それで、イエスはこう言われています、『人の子がきたのも、仕(つか)えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。』(マタイ、廿の廿八、新口)それで、イエスは自分の人間としての生命を永遠に棄(す)てられました。

 13 油注がれたイエスは、ナザレに戻られた際に、その会堂で話をしました。そして、イザヤ書六一章一、二節の予言をご自分に適用(てきよう)し、自分は神の聖霊によって油注がれているが、それは罪と宗教的な間ちがいに捕らわれている束縛(そくばく)の状態からの解放(かいほう)を望む心のへりくだった人々に、良いたより、つまり福音(ふくいん)を伝道するためであると告げました。(ルカ、四ノ十六ー廿一)その後、イエスはユダヤ、ガリラヤ、そしてトランスーヨルダンの各地をくまなく伝道師『天の御国は近づいた』と宣(の)べ伝えました。イエスは十二人の使徒と他の弟子たち

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⓭地上にいたイエスは、自分の油注がれたことを、どのように成就しましたか。そのため、人間イエスにどういう結果が生じましたか。

[38] を集められ、そして自分が油注がれている天の御国を伝道するように教えました。イエスは、宗教的な言伝えや間ちがいをはっきり指摘(してき)すると共に、人間を自由にせしめる真理を伝道したのです。このため宗教家や、祭司や、宗派の指導者たちは彼に敵対(てきたい)するようになり、彼らはイエスの死を図(はか)りました。西暦卅三年の過越(すぎこ)しの時、彼らは裏切り者の使徒、ユダ・イスカリオテの助けをかりて、イエスを捕らえ、そして不正な裁判を開いてから異邦人の手に渡し、ポンテオ・ピラトやヘロデ・アンテパスの裁判にかけました。それだけに止まらず、ユダヤ人を悪く指導して煽動(せんどう)し、暴動を企(たくら)む法律違反者(いはんしゃ)か冒瀆者(ぼうとくしゃ)のごとくに、イエスを苦しみの杭(くい)に懸(か)けよと叫ばせて、イエスの自由釈放(しゃくほう)を妨げたのです。イエスは、神の御国を否認(ひにん)せずに、神に従順を保(たも)ちつつ死にました。

 14 イエスが死んで墓の中に置かれてから三日目に、不滅の父、ヱホバ神は、イエスを死からよみがえしました。よみがえされたイエスは、人間の子にはならず、最高の神の下にあって天と地のすべての権力を持つ力ある不滅な霊の子になりました。ユダヤ人の証者ペテロは、次のように言っています、『キリストも……肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。』(ペテロ前、三ノ十八、新口)それから後四〇日のあいだ、以前の御使いたちがしたように、イエスは、人間の姿に表われ、証者である御自分の弟子たちに自分の生きていることを示しました。そして、神の大祭司であるイエスは天に上られ、自分の人間としての犠牲の価値(かち)をたずさえて神の御前に表われました。イエスは、彼を信ずるすべての者のために、その犠牲の価値を用いられたのです。---ヘブル、九ノ十一、廿三、廿四。十ノ十二、十三。

 15 神は御子イエスを高め、イエスが人間として生活し、また死ぬ以前に持っていた地位よりも高い地位につ

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⓮イエスが死んでから三日目と、その後の四〇日のあいだに、どんな事柄が起こりましたか。   ⓯復活されたイエスはどのように高められましたか。

[39] けられました。イエスが最高至上者(さいこうしじょうしゃ)と『同等の力と栄光』を持っていたなら、ヱホバ神は、人間になる前のイエスの持っていた地位以上にイエスを高めることはできなかったはずです。しかし、今やイエスは、ヱホバの下にいて、全宇宙を支配する神の首要な制度の頭(かしら)になっています。使徒ペテロは、こう述べています、『イエス・キリストの復活による。キリストは天に上(のぼ)って神の右に座し、天使たちともろもろの権威(けんい)、権力(けんりょく)を従えておられるのである。』(ペテロ前、三ノ廿一、廿二、新口)この聖句の証明するごとく、イエスは御自分の人間としての体を天にたずさえて、天界で永遠に人間でいようとはしなかったのです。もしそうしたなら、イエスは御使いたちよりも低いことになります。人間になったイエスについて、聖書はこう記しています、『御使いたちよりも低い者とされたイエスが、死の苦しみのゆえに、栄光と誉とを冠(かんむり)として与えられたのを見る。』(ヘブル、二ノ六ー九、新口)イエスが肉の人間として永久に存在し、永遠に低い状態に止まるということは神の目的でありません。それで、イエスが自分の完全な人間性を犠牲にされた後、神は彼を栄光に輝く霊者によみがえし、不死の生命を与えました。神はすべての御使いたちや、神の宇宙的な制度の他の部分よりもイエスを高め、最高の神である御自身の次の地位につけました。この高められた地位にいるイエスが何をするかについては後章で述べられています。


[40]    第四章  真実の記録を伝える

 1 『これを、記念するため本に書け、とヱホバはモーセに言われた。』それは、キリスト前一五一三年の時でした。このときに、神は書け、という命令を始めて与えられましたが、このことから、大切な事柄を記録させるのは神の御目的であることが分ります。事柄を記憶するために、口伝えに依存することはできません。不完全な人間の記憶に頼る口伝えは不純になるからです。大切な事柄を記録させるという神の御目的が成就されてできたものは、神の御言葉である聖書です。聖書の六六冊は、神の霊感をうけて書かれているために、その著者は御一人です。しかし、十六世紀以上の期間をかけて、卅五人以上の人々が聖書を書きました。モーセは、キリスト前一五一三年に聖書を書き始め、使徒ヨハネは西暦九六年頃に聖書の最後の本を書き上げました。この二つの年代から、次の質問が生じます。すなわち、モーセは、聖書の最初の本である創世記の中で、自分の生まれる以前の幾千年も昔の創造の業や、歴史的な出来事を書いていますが、いったい彼はどのようにしてその正確な資料を得たのでしょうか。また、聖書の最後の本が書かれてから約十九世紀も経っている現在、私たちの手元にある聖書が昔と同じく正確で信頼できるもの、ということがどうして分りますか。

 2 ヱホバは創世記の資料をモーセに啓示することができ、神の御霊である活動力はこのことをなし得たはずです。聖書をつくるときに、神の御霊は働きました。聖書を書いた人たちも、そのことを認めています。ダビデは、『ヱホバの御霊わが中にありて言いたもう』と述べており、ルカは、『古い昔から、神は聖なる予言者

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➊聖書は何時書きはじめられ、何時書き終りましたか。そして、どんな質問が生じますか。 ➋ヱホバは創世記の資料をモーセにどのように啓示し得ましたか。

[41] たちの口を通して語られた。』ペテロは、次のような証の言葉をつけ加えています。「聖書の予言は一つとして個人勝手の解釈をするべきではない。預言は決して人の意(こころ)から出たものではなく、人々が神によって語り、聖霊を通じて語ったものだからである。』パウロは、『聖書はすべて神の霊感を受けて書かれた』とはっきり述べ、この事柄については一点の疑いも残していません。(サムエル後、廿三ノ二。ルカ、一ノ七〇、使徒行、一ノ十六。テモテ後、三ノ十六、十七。ペテロ前、一ノ十、十一。ペテロ後、一ノ廿、廿一、新世)それで、神の『昔の聖なる予言者』であるモーセが、創世記に記録されているすべての言葉を、一語一語、神から直接に啓示された、ということもあり得ることです。しかし、そう断定している言葉は、聖書に書かれていません。また、モーセは人の口を通して伝えられた言伝えによって資料を得ることができたかもしれません。モーセとアダムのあいだは、五人の人だけ(メトセラ、セム、イサク、レビ、そしてアムラム)で結ばれています。しかし、聖書はそのことをも示していません。



 3 現代、聖書と関係を持ついろいろな地で、考古学上の発見がなされています。そして、書くという技術は、ノアの洪水以前にも在ったと判明したことから、モーセはむかしに書かれていた記録から創世記を編集したもの、と思われます。レオナード・ウーリー卿は、カルデヤのウルで、ノアの洪水前の人々の所持していた印象を発見しましたが、それには所持者の名前が当時のくさびがた文字で刻まれています。ノアの時代にあったくさびがた文字の粘土版が、幾千となく発見されております。アシャバニパル(聖書の中ではオスナパル

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❸ノアの洪水前でも、人々が書くことを知っていたことを裏書きするどんな証拠がありますか。



[42] と呼ばれています)の述べた『洪水前の石碑に書かれている言葉が読めて、うれしく思う。』という言葉から人々はノアの洪水前でも書いていたということが分かります。さらに、人類の創造の時にまでさかのぼってみると、アダムは書くことを知っていて、書いた記録を持っていたことが解かります。創世記五章一節(英文欽定訳)の言葉、『アダムの代の書はこれなり。』は、そのことを裏書きしています。

 4 『代』という言葉と、その言葉の用い方は、きわめて意味深いものです。創世記二章四節(欽定訳)「天地の創造(つく)られたるその代は是なり。」にこの言葉が初めて出ています。理知を持たない天と地が、代をつくる、つまり子孫を生むことは決してありません。故に、原語のヘブル語、トレドスを代と訳すことは正しくないのです。トレドスを『歴史』または『歴史的な起源』と訳すべきです。ダービーの訳した聖書は、創世記二章四節で『歴史』と訳出していますが、後のところでは『歴史』と訳出していません。創世記二章四節で、モハット訳は「物語」という言葉を用い、アメリカ訳は「起源」という言葉を用いていますが、その後の箇所では別の言葉を用いていて、どちらの訳も首尾一貫(しゅびいっかん)していません。創世記二章四節と五章一節の後に、この「代」という言葉は九回出ています。そして、その出て来る箇所のそれぞれには、ノア、ノアの子たち、セム、テラ、イシマエル、イサク、エサウ(二回)そしてヤコブのような固有名詞が先行しています。---創世、六ノ九、十ノ一、十一ノ十、廿七、廿五ノ十二、十九、卅六ノ一、九。卅七ノ二(欽定訳)

 5 多くの聖書学者たちは、この『代』という言葉が、以後の記録を書出しであると考えていますが、それは間ちがいです。なぜなら、その言葉は、実際には以前にある記録を結論づけているものだからです。それで、創世記二章四節を『次のあるものは天と地の起源である」と訳して『次・に・あ・る・も・の・』という言葉をつけ加えた

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➍創世記にある『代』という言葉は、どのように訳されるべきですか。そしてなぜ?   ➎この言葉は、どんな間ちがいの考えにもかかわらず、何を示していますか。

[43] アメリカ訳は間ちがいです。起源の話は、創世記二章四節の前に述べられているからです。モハットはこのことに気がついて、創世記二章四節の聖句を創世記一章一節の前に入れました。しかし、この方法は昔の書く形式を無必要にも破るものです。モーセの時代やモーセよりも幾世紀も以前の時代では、歴史的な記録の書に『これは何々の代である』、あるいはもっと良い訳に従えば『これは何々の歴史である』という言葉で、結論づけるのが習わしでした。それによって、誰がその記録の書を書いたか、または持っているかが分かります。現代の本では、この記述は本の最初の頁に書かれます。しかし、モーセの時代やそれ以前の時代では、本の終りに書かれていたのです。近代の考古学は、この事実を確かに証明しています。

 6 モーセ自身も、自分の書いた書物の特定な所にこの結論の形式を用いました。レビ記の最後の節には、こう書かれています、「これらはヱホバがシナイ山においてイスラエルの子孫のためにモーセに命じたまいし誡命なり。』モーセは、シナイ山で与えられたヱホバのいましめを結論づけたのであって、次に続く民数記略に書かれているイスラエルの旅の記録を紹介したのではありません。民数記略の本の終りで、モーセは次のような結論の言葉を用いています。『これらはエリコに対するヨルダンの辺(ほとり)なるモアブの平野(ひらの)において、ヱホバがモーセによりてイスラエルの子孫に命じたまいし命令と律法(おきて)なり。』この言葉は、次に続く申命記の序文ではありません。それで、アメリカ訳によると、それらの節のところは「これはいましめであ・っ・た・」と訳出されています。

 7 前述のことから、モーセが、以前に書かれていた十一の記録の資料を集めて、創世記卅七章ニ節までを編集したことが分かります。多分アダムは、創造の最初の記録を始めて書いた人でしょう。第二番目の記録を書い

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➏モーセ自身も、この形式をどこで用いましたか。     ➐それで、モーセが創世記を編集したことについてどのような結論の言葉が言われますか。


[44] た人は、アダムである、と示されています。そして残りの他の記録を書いた人、或いは持っていた人が誰であるかは、それぞれの結論によって分かります。モーセは、奥附と言われていたこのような結論の言葉を記入することにより、当時の作文の方法にかたく従うと共に、また記録の資料を何処から得たかを示し、創世記の編集が正しいことを証明しました。創世記卅七章三節(欽定訳)以後では『の代は是なり』の言葉は表われていません。このことから、モーセ自身が創世記の残りの部分と聖書の最初の五書を書いたことが分かります。モーセ以前の出来事については、ヨセフの兄弟なるレビの家系に生まれた父アムラムを通して、モーセはその資料を集めることができました。

 8 モーセの死後、忠実な他のヘブル人たちが、霊感をうけて書きました。そして、モーセの時より千年以上も経って後、ヘブル語聖書卅九冊の最後の本が、キリスト前四四ニ年頃マラキによって書かれました。それ以後の期間中、聖書を書くことは中止していました。キリストが地上に来て、伝道し、死なれて、天に上られ、そしてのちに自分の弟子たちに聖霊を注がれました。聖霊を注がれた弟子たちは、将来の子孫のためにも書き残して置かねばならない大切な真理や、またキリストと地上における人間キリストの生涯、そしてヘブル語聖書の成就された多くの予言や、新しい予言についての事柄を想い起しました。それで、御霊はふたたび忠実なヘブル人の上に働いて、聖書を書かせました。マタイは、おそらく(西暦)四一年頃から五〇年頃までのあいだに、イエス・キリストの伝記を書きました。他のヘブル人たちも本や手紙を書き加えて行き、使徒ヨハネは西暦九八年頃にクリスチャン・ギリシャ語聖書廿七冊の最後の本を書きあげました。---ヨハネ、十四ノ廿六。ロマ、三ノ一、二。

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➑モーセの死後、聖書はどのように完成されましたか。


[45]        記録を現在まで保存

 9 最初に書かれた聖書の原本は、今日一つも残っていません。しかし、聖書の言葉は、たくさんの写本によって今日まで保存されてきたのです。ヘブル人は、崇拝の中心の場所にあった契約の箱と友に聖書の写本を保存していました。(申命、卅一ノ廿六。列王記略下、廿二ノ八)キリスト前六〇七年、バビロン人が最初の宮を亡ぼした時に、聖書の写本は保存されました。敵に捕らわれていたダニエルは、その写本を研究しています。(ダニエル、九ノ二)イスラエル人が捕らわれの状態から再帰した後、エズラは人々に律法を読み聞かせました。このことから、その危険な時期にも聖書の写本の保存されたことが分ります。(ネヘミヤ、八ノ一ー三)ネヘミヤ書とマラキ書以外のヘブル語聖書の巻本を編集して最後的な形態(けいたい)にまとめ上げた人はエズラである、と信ぜられています。その後、ヘブル語聖書の写本がおびただしくつくられました。なぜなら、捕らわれの状態から自由に解放された後でも、ユダヤ人の全部がエルサレムに戻ったわけではないからです。多くのユダヤ人は、そのまま居残って、崇拝のための会堂を建てました。それで、方々に散在している会堂に聖書を備え付ける必要が生じたのです。今日約一、七〇〇のヘブル語聖書の昔の写本は現存しています。

 10 ヘブル人の写本専門家たちは、細心の注意を払い、十分の念を入れてこれらの写本を写しました。彼らは言葉を数えるだけでなく、文字をも数えました。記憶に頼って言葉を一つでも書けば、それは大きな罪と見なされたのです。キリストの在世前と在世中、ヘブル人の写本家達は筆記者(スクライブス)または学者(ソヘ[:フェ] リム)と呼ばれました。彼らは間違いを避けながらも、聖句を勝手に変えてしまい、『ヱホバ』の代りにしばしば『神』叉は『主』という言葉を用いました。しかし、その後『評釈者(マソレテス)』と呼ばれる熟練(じゅくれん)のユダヤ人の学者たちは、綿密な注意を払いつ

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➒聖書の写本は、どのように保存されましたか。なぜその数量が増しましたか。     ➓『評釈者写本(マソレティック写本)』とは何ですか。

[46] つ写本を正確に筆記しました。字句を少しも変えなかったことは勿論(もちろん)のこと、以前のユダヤ学者(ソヘ[:フェ] リム)のなした変更には記号をつけることによって読者の注意を向けさせました。そして、彼らは『評釈者写本(マソレティック写本)』をつくりあげましたが、現在のヘブル語聖書の写本や翻訳は、この写本を原本にしてつくられているのです。一番古い日付のついているこの写本は、西暦九一六年のコデックス・バビロニカス・ペテロポリタナスです。

​ 11 最近、聖書の写本が発見されましたが、それは『評釈者写本(マソレティック写本)』の驚くべき正確さをはっきり証明しています。一九四七年、現在では有名になっているイザヤ書の「死海写本」が発見されました。それはキリスト前二世紀に書かれたと信ぜられていますから、いちばん古い日付を持つ『評釈者写本』よりも千年以上も昔のものです。しかし、学者たちの驚いたことには、取るに足らないような僅かな綴りの変化をのぞけば、この発見されたイザヤ書は『評釈者写本』と同じものなのです。千年以上もの期間、写本されていて、しかも大きな変化はすこしも無いのです。聖書が正しく保存されてきたことを証明するなんと素晴らしい証(あかし)なのでしょう。

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⓫何がそれらの正確さを証明していますか。



イザヤ書の『死海写本の一部』を写真したもの。これはイザヤ書28章2-12節。学者たちはこの写本が西暦前2世紀と述べていたが、科学の放射能カーボン時計により、その正しいことが証明された。写本を包んでいたリンネル布は200年前後の誤差を持つ1900年の年数を有していることが判った。その誤差を合わせるとキリスト前二世紀のものとなる。

[47]  12 ヘブル語聖書の写本の場合と同じく、原本のギリシャ語聖書の写本を多くつくることは、必要でした。それは、先ず神の言葉を急速にひろめるためであり、後には時が経(た)つにつれて写本の損耗するのを補うためでもありました。原語で書かれている約四、〇〇〇のギリシャ語聖書の写本が、今日現存(げんそん)しています。(それ以外に、ラテン語の写本が八、〇〇〇そして他の言語で書かれた一、〇〇〇の写本があります。)専門のヘブル人学者は正確に写本していましたが、同じくギリシャ語聖書を写本した人々も、たとえ写本するのが専門でないにしても、かなり正確に書き写(うつ)しました。もちろん、細心の注意を払ったにもかかわらず、写本する人々は間ちがえて書き写すことがありました。しかし、その間ちがいは、ごく小さいものであって、意味には何らの影響をも与えていません。

 13 非常に古いイザヤの書が発見されて、ヘブル語聖書の「評釈者写本」の正確さがはっきり証明されています。同じように、二世紀と三世紀に書かれたギリシャ語聖書の草紙(パピルス)写本が近年に発見されて、ギリシャ語聖書写本の正確さも、明白に証明されています。有名な英国の学者フレーデリック・ケンヨン卿は次のように述べています、『聖書が最初に書かれた時から、現存している一番古い証跡(しょうせき)の時までの期間は、まったく短いものであるから、実際には問題にする必要がない。現在、我々の持つ聖書は、最初に書かれたものと実質的に同じである。それを疑う根拠は、もはやひとつもない。』---聖書と考古学(英文)二八八、二八九

 14 ある人々は、『外典』も霊感を受けて書かれた聖書の一部である、と見なし、それらの『外典』を保存しようと努めています。キリスト後四世紀に、ローマ・カトリック教会がこのことを始め、三九七年のカルタゴ会議のときには『外典』を含む増大した聖書を採用しました。しかし、カトリック内の多くの人々も、これ

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⓬ギリシャ語聖書の写本は、なぜそして誰によってつくられましたか。     ⓭これらの写本の正確な事は、どのように確証されていますか。  ⓮外典は、なぜ聖書の一部ではないのですか。

[48] には反対し、カトリック教職制度の人々も新教徒の宗教改革の時まで反対し続けていました。外典は聖書の一部ではありません。そのことをどうして知りますか。西暦が始まって最初の四世紀中、クリスチャン会衆の採用した霊感の書物の目録の中に、外典の名前は一つも出ていないからです。また、クリスチャン・ギリシャ語聖書を調べると分かるように、キリストやその弟子たちは、外典の言葉を一度も引用しなければ、外典のことをほのめかすこともなかったのです。さらに、ユダヤ人たちは、一番最初のギリシャ語の七十人訳の中に外典を一つも入れていません。後のヘブル語聖書写本の中に、外典が記入されたのです。霊感されたヘブル語聖書の巻本は、図書室の棚に陳列され、ユダヤ人の学者たちはそれらの本を参照しました。しかし、神の霊感をうけて書かれていない本は、一般公共の目の見えないところにかくされ、『外典』と呼ばれるようになりました。『外典(アポクリハ[:ファ] )』とは『かくされたもの』という意味です。


 15 七十人訳聖書と言うことから、聖書の翻訳ということを調べましょう。聖書の音信を保存するために聖書の翻訳は必要なものでした。バビロンの捕らわれから戻って後、学者たちはヘブル語聖書を読みながらその意味をアラミヤ語で説明しました。(ネヘミヤ、八ノ八)ヘブル語は、使用されない廃語になり、程[:ほど] なくして平俗[:へいぞく](コイネー)ギリシャ語が国際的な言語になりました。七十人訳聖書は、エジプトにいたギリシャ語を話すユダヤ人のためにつくられたものです。この翻訳の仕事はキリスト前二八〇年頃に始められ、ヘブル語聖書をみなギリシャ語に翻訳しました。イエスの死後、聖書は書き加えられました。このとき、ヱホバの御霊の働きにより、当時の世界で最もひろく理解されていた平俗[:へいぞく](コイネー)ギリシャ語で、聖書は記録されたのです。今日のローマ・カトリック教会は、廃語になったラテン語を尊重(そんちょう)して神聖視していますが、ヱホバ神はローマ・カトリック教会とは全くちがう態度を取られました。ヱホバ神は、廃語(はいご)になったヘブル語も尊重もしなければ、特別に神聖視することも


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⓯七十人訳聖書はなぜつくられましたか。聖書、なぜギリシャ語で書かれるようになったのですか。


[49] なさらなかったのです。聖書を保存して来られたヱホバの目的はすべての人が聖書を読んで理解するためなのです。聖書は、ごく僅[:わず] かな宗教指導者達だけが読んで理解する本ではありません。


 16 人々に通用している言葉で聖書を保存するために、聖書の翻訳はもちろん必要です。また、できるだけ多くの言葉で聖書を訳すことも是非必要です。そうするならば、すべての国で聖書を読んだり、伝道したりすることができます。(マタイ、廿八ノ十九、廿。使行一ノ八)ギリシャ語聖書は、つくられてから間もなく、ラテン語や他の言語に訳されました。なかでも有名なのは、三八二年から四〇四年までの期間を要してつくったジェロームのラテン・バルゲート訳です。これは、原語のヘブル語とギリシャ語で書かれている聖書全部をラテン語に訳したものです。そして、一千年のあいだ聖書学者は、バルゲート訳に頼っていました。今日、聖書の翻訳は多く行われており、その全部にせよ、その一部にせよ、合計一、一二五以上の言語に訳されています。


 17 しかし、聖書を訳して通用している言葉の本となし、多くの国の大衆にも理解できるようにする仕事は、反対をうけたのです。その一番の反対者は、ローマ・カトリックの教職制度である、と歴史は明白に示しています。ローマ・カトリックが聖書を保存してきた、というその主張(しゅちょう)は、偽りです。ローマ・カトリックは大衆に理解できない廃語(はいご)で聖書を保存しようと努(つと)めました。ラテン・バルゲート訳がつくられて後に、ローマ・カトリックの教職制度は強大な権力を握るようになったのです。そして、通用語で書かれている聖書を人々が読んではこまると、ローマ・カトリックは思っていましたから、ラテン語が廃語(はいご)になって、一般大衆には理解できなくなったとき、ローマ・カトリックは大いによろこびました。十一世紀のローマ法王グレゴリー七世は人々がラテン語を理解できない、ということについて神に感謝の言葉を述べています。しかし、聖書を廃語(はいご)のま


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⓰なぜ、そしてどのように聖書の翻訳は現在まで続けてなされましたか。    ⓱ローマ・カトリックの教職制度は、どのように聖書を保存しようと図ったのですか。


[50] ま保存することはできなかったのです。十四世紀の終り頃、ジョン・ウィクリフとその友たちは、聖書を英語に翻訳しました。ローマ・カトリックの教職制度が激怒(げきど)して、非常な迫害を加えようとも、聖書の他の翻訳が続いて出てきました。ローマ・カトリックの教職制度は、大衆の言葉で書かれている聖書の所有者を、丁度獣(けもの)を狩り立てるように、探し出し、それからその聖書を頸(くび)のまわりに結びつけて、杭(くい)の上でそれらの人々を焼いてしまったのです。それは、歴史上において全く残忍な流血の惨事(さんじ)になっています。  

 18 十五世紀と十六世紀の大半にかけて、ローマ・カトリックの教職制度はラテン語以外の言葉で書かれている聖書に猛烈に反対し、そのような聖書を無くそうと努(つと)めました。しかし、その努力の失敗したことが、明白に表われたため、聖書の翻訳を禁止できないと知った教職制度は、対抗手段として、遅ればせながらローマ・カトリックの英語訳、すなわちドーエイ訳を発行しました。このギリシャ語聖書の部分は一五八二年に、そしてヘブル語部分は一六一〇年に発行されています。このドーエイ訳は、意味がはっきりせず、それに分りにくい言葉が多く用いられています。カトリック百科事典によると、『普通の読者が、読んでも言葉の意味が分からないため、読むのを止[:や] めてその意味を尋ねる』ために、この訳がつくられたとのことです。カトリック信者は、もちろん牧師[:教会の司祭か司教か??!聖公会は牧師??!] に意味を尋ねるでしょう。そして牧師は思うとおりに聖句の意味を悪く枉(ま)げて教えます。[:ダニエル11章とかの脚注が善い証言??!脚注の無い聖書もカトリック教会内に事実上ラテン訳からあるが??!ルターがエラスムス版のギリシャ語からドイツ語に訳してからは約一世紀が経っていると?!ウィクリフ訳、ヴルガータ訳からの英訳は、約2-3世紀?!~:西暦1,610年、アルミニウス条項が提出された年??!自分の思いとか考えは、アウグスチンの悪い言葉、悪い神学=予定説、奴隷意志では無いんだが??!カトリックも新約の外典には反対し、ローマ庁の指示の方で、その限界の中で、『新約外典などを読んでいる連中(やから)は誤謬の者で、地獄(最終処罰状態のゲヘナ??!第二の死??!)に落ちる?!』等(など)と言われていると?!]


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⓲ローマ・カトリックは遅ればせながら何をしましたか。     ⓳ローマ・カトリック教職制度の偽りの主張は、さらにどのように暴露されていますか。


 19 一番貴重な聖書の写本は、おそらくバチカン一、二〇九でしょう。これは、西暦四世紀に書かれました。この写本にしても、または他の古くて価値のある写本も、ローマ・カトリックの教職制度の支配する地域で見出されたものではありません。十五世紀になって、ローマ・カトリックの教職制度は、バチカン一、二〇九の写本を入手したのです。十五世紀まで誰がその写本を保存したのですか。ローマ・カトリックの教職制度でない [51] ことは、明らかです。しかも一度入手してからは、カトリック信者でない学者たちによるその写本の研究調査は許可されていなかったのです。西暦四世紀につくられた別の有名な写本、コデックス・シナイティカスが十九世紀に発見された後になって、はじめてローマ・カトリックの教職制度は自分たちの持っている写本の複写を発行しました。つまり、自分の所持する写本の名声(めいせい)を保つためだったのです。ローマ・カトリックの教職制度は聖書を焼きました。そして、自己弁護するために、聖書はカトリック信者でない者たちが翻訳したからだ、と言うことでしょう。それなら、なぜ英語のカトリック訳を作らなかったのですか。そして、なぜ人々の求めに応じようとはしなかったのですか。ローマ・カトリックの教職制度は、他の聖書翻訳を禁止して、聖書を廃語のままに保存し、明るみに出そうとはしなかったのです。バチカン一、二〇九の写本を明るみに出さなかったのも、そのわけなのです。聖書の解明が進んできたため、しぶしぶながらどうしても已むを得ない部分だけを発表する、というのがローマ・カトリック教職制度の偽らざる実情です。そして、進歩している今日の民主主義の国々の中でこそ、ローマ・カトリックは聖書を読むことをすすめている振(ふり)をしています。しかし、カトリックの勢力が強い後進国(こうしんこく)では、カトリックは聖書を読むことをすすめていません。[:個人概観:カトリックの神学によって、聖書の宗教は保存されたと!!ルターが聖書を著したが、聖書の言葉だけで!!神学思想はカトリックが保っている!!とも言えると!!聖書はアルミニヤンが聖書的だとも、アルミニヤンはローマン・カトリック(ウルトラモンタニ派??!)だとも!!カトリック(:イエズス会派??!:派もあるに違いないから~~:正しい人が誰かが解かるため~~??!ドミニコ会じゃ無いのは、予定説を信じないから~~先行恩恵もあるかも知れないが~~??!「教会」だから一方的な恩恵??!ウィキペディアの「アルミニウス主義」??!)の神学思想が聖書だとも?!!そう思う、そう思うと!!ヱレミヤの新しい契約によって、カトリックの契約が保たれ、キリストの契約は、カトリックが思想を保っていると!!無知の蒙昧(もうまい)を利用してカトリック支配をしているが??!貧しき者、へりくだった者(後進国?!)は幸いだと?!慰められる。今満ちているあなた方は、災いだ、乏しくなると??!近年エホ証の活動が盛んなのはアンゴラ、ドミニカ共和国??!インドネシア地方、オーストレーシア?!カトリック信者の方も可哀想なので、命には代えられないので、証言もしているが??!カトリックとは宗教的な会話が比較的に可能なのだそうだと??!索引の話題の項が多くって!!応じて下さって?!良心的な人も居てとか?!唯だカトリックって、ローマ教で無いならば、偶像只だの??!ということも考えられるが??!男子七千人じゃ無かったの??!たっけって?!だったから、最(もっと)も優(すぐ)れたドイツのカトリックの若者を……、、ナチ時代の話しで?!普遍的なカトリックの兄弟だったから~優れた自由意志普遍的ローマ教徒(普遍的ロマニスト)の人にも?!ドアを大きく広く開けて置いて?!啓示7:9の大いなる大群衆とか?!汝の敵をも愛し、救われるように(兄弟に成るように?!兄弟を得るように?!和睦すること憐み(深い者の:目をしている者は幸いだとか?!)は犠牲よりも望ましい?!祭壇の犠牲の物を置いといて…後にして?!)する為に祈り続けよ!!自分の仲間、愛してくれる人(カトリックの同宗教??!)を愛したからといって何の善いことをしたか…?!諸国の人、異邦人でもしていると!!反対に汝を憎む者のために善を行い?!侮辱する者やののしる者?!たちが救われるようになさせるために祈り続けよ!!(ルカ6:27,8)~~というキリストからの御言葉だったから!!「ののしられれば祝福し、迫害されれば忍び……」(コリ第一4:12!!)って正しかったんだと!!思い出して?受け入れると!聖霊の影響の下のバプテスマを受けた下で可能な?!!「一つのバプテスマ」(エフェソ4:5!!)っていう聖句は、一回限りの、真(まこと)のバプテスマは一回限り??!っていう意味にもとれて居るって注解で??!死ぬことはただの一回であったが??!一回死んでしまえば戻って来れない??!罪なる肉において死んで、霊に対しては生きるようにという祈りでもあってとか!!カトリックの幼児洗礼(強制洗礼であっても??!:カトリックが幼児洗礼も受けているので、有利な、優利な?!優れた所があると??!聖霊に真実に??!業で以って報いる??!生きた信仰であることも??!)も、堅信礼(カトリック・キリスト教を自・分・の・意・志・で・信・ず・る・ことを受・け・入・れ・象徴する??!是非ともキリスト教を信・じ・た・い・??!正しく(外典偽典では無くって?!)聖書も信・じ・た・い・??!霊的バプティスマ?!神に対して正しい良心を祈求(きぐ)すること:苦しみの杭を取り上げてキリストに従って(:遠くから~~何度もあきらめずに、アルミニウス主義みたいに)来ること??!)で完成でとか?!!非予定説アルミニウス派のコモンセンス(共通認識?!)、自分の自由(にあまっている?!神に従う)意志で(決して自分の力ではないが:先行恩恵が無いと?!神とキリストに呼ばれ無ければ来ることはもちろん出来無いが?!)神のもとに来るって、イエズス会の主義、モリナ主義自由意志で神に従がう、に親(した)しく、親(ちか)しいから!!クリスチャンで、同じであると!!卑(いや)しい宗派分派で区別するのはやめようとか??!愛すべき者の為に死ぬこと?!自分が犠牲に成る、成りたい!!と!!それ十四万四千人??!大会の講演で、異端審問って言っていたと?!「派も」在り得るが、「あるに違いないから」だが、是認される人が見分けられるため??!(コリ第一11:19??!)改革派教会系の中のアルミニウス派の信条、「アルミニウス条項」がアメリカのウィキペディアにもあってとか??!だったか??!ルターから、個人の自覚で、自分の聖書、宗教観解釈を述べて善いと言うから??!イエズス会には、予定説は信じられ無いんだとか!!でも教派(:破壊的な分派??!ペテロ第一2:1!!とか言われていたよとか?!)とか言うプロテス…は間違っていたと!!オホラとオホリバで?!!プロテス…はカトリックを赦していない??!……んじゃ無くって?!決してプロテス…って上から目線じゃなくって?!カトリックの信条の欠陥をそのまま受け継いでいるから、ルターから~~プロテス…ってそんなに偉い訳じゃ無くって!?!誉められたもんじゃ無くって!?!カトリックが高く掲げられた教職制度で、神学も高められていて、プロテス…は貧困のレイマンー神学も貧困?!!だったから、カトリックを許していないんじゃ無くって?!カトリックが上で!!そう思うが??!カトリックを許していない?!そんなに聖書的でも、誉められても無くって!!聖書主義はスローガンで!!聖書に帰れ!?!って?!使徒信条を受け入れられない人みたいなそんなに純粋に聖書主義ではも無くって?!!ローマ・カトリックからの枠内から分離したこと?!教皇さまに背を向けた?!英国々教会みたいに?!!教皇さまに反逆しただけで?!!カトリックの体制はそのままで?!!薄い白い上皮のを被せだけで、内側はこの世の悪い罪人と良心がなんら本当に変わりなくって?!!なんら変化して居なくってで?!!ルターの反応って古臭いカトリック的現象だったでしょとか?!!その位の事で!!メルシー!メルシー!(お恵みを!!お恵みを!!)って悲願で!!善きサマリア人みたいにお恵みを?!!異邦人、仲間だけじゃ無くって、隣人愛はも?!敵を憎め??!ってパリサイ人じゃ無かったの?!!サドカイ人(魂が死滅?!がを敢えて主張する人が居て??!)では無かったのかとか?!カトリックにプロテス…異端者??!ヱホバの証人??!(敵?!)も進んで赦せば、ヱホヴァの神の大いなる憐みが臨むかもよ?!!アルフォンソ・サモラの言葉みたいに?!懐(ふところ)が大きいことを現わせば?!改革派は一部、アニーローリーの歌も聖歌じゃんとか?!!信頼性があってとか?!カトリックに対する反逆者(:悪意の人?!ルターみたいな反逆の??!)はいいから、平和を差し伸べる信者にから憐みを出せば??!(アルミニウス条項の信者とか??!ルター自身じゃ無くって、アニーローリーも聖歌に成ったでは無いかとか?!改革長老派の??!)敵に対しても?!!みんな同じ神様を崇拝しているキリストに属する神さまの一家の家族?!!なのですとか?!カトリックにそう勝て無いことは解かっているから、そういう信者に??!カトリシズムのエホ証にも??!それお互い様だよとか?!豚に真珠、犬に聖なるモノはそうだったけれど、聖書を信じるって善いこと(:善意の人?!)じゃ無かったのとか?!ローマ教に反対していないって、味方しているんじゃないかって?!!(マルコ9:40、ルカ9:50で!!)とか?!教皇さまで無かったら、ルターのプロテスタンティズム(純粋に宗教改革じゃなくって、ローマ教皇に反逆した?!:「宗教は人類の為に…」の本でも??! )でも善いことに、正当化されて仕舞うからだと?!!小学校の時は唯だ単にサタン悪魔この世の神が喜ぶ、悪しき事のみで!!神にはも喜ばれず、自分もカトリックの幼児洗礼も受けてい無かったから~~洗礼はバプテスマで、善いことをする可能性~有利な:優利な??!~神に対して正しい良心を得ること!!でも神に対する正しい良心は妥協にもつながるかも?!成功しない、自分の考えはも?!ヱホヴァ、あなたは正しく、自分は罪人ですと!!~~正しいカトリックよりも人文書みたいに有利なこと?!は無い!!と?!~~すべての人殺しが裁かれればいいんだが??!~~自分は赤ちゃんの頃より殺されようとして来た。会衆でも小学校の頃と同じって、サタンが喜んでいるのだが??!聖・霊・が・喜ぶ??!と言・う・のかとか!!サ・タ・ン・の・世・の・神・が喜・ぶ・ことを、聖・霊・様・??!が・喜・ぶ・?!!とか、聖霊の意・志・だとか?!聖・霊・様・??!に・誓・っ・て・言・う・つもりか??!ザマ見ろ!!と言いたいと!!こっちも感情があるんだと!!ただそれだけで!!ただ聖・霊・が・……と・実・際・に・は・言・う・のか一・つ・だ・け・一・言・だ・け・聞・き・た・い・と!!予測して、ザマザマと!!サタンが会衆の集会に自分の都合が善い時にだけしか来ないと言っていたけれど??!それはどうなるんだと!!使徒信経でも聖・霊・に・続・い・て・聖なる唯一のカトリックの教会と続くんだが??!世・俗・政・府・は(ローマ十三章の)聖・書・の・神・の・許・し・(聖・霊・も・許・し・?!)でもあって、ただ100%・悪・魔・でもは無いんだが??!た・だ・100%・悪・霊・でもは??!無・い・と?!聖霊の許・し・予・定・で・配・置・された??!ル・タ・ー・冒・瀆・は・成・功・し・無・い・と!!(カトリックだから100%・否・定・される??!それ予・定・説・で・とか!!地獄は予・定・で・??!とは冒・瀆・で・!!!)ただ本・当・に・聖・霊・が・であれば、それは善・い・ことだと認めざるを得ないが??!(三位一体と地獄煉獄の教会の何処が聖・霊・の・?!聖なるなんだか?!:ただ本・当・に・カトリックって、聖・霊・だ・と反論しても、ただ、本・当・に・聖霊冒瀆の・み・かもよ??!)]


 20 いかなる反対があろうとも、神の御言葉は永遠に存続し、神の真実なることは立証せられるでしょう。神は御言葉を保存いたします。ユダヤ人の学者(ソヘ[:フェ] リム)たちは、御言葉を変えようとしましたが、今やその変えた箇所は判明しています。ローマ・カトリックの写本家や神学者たちは、偽りの言葉を聖句の中に入れましたが、現代の学問によりその言葉は曝露(ばくろ)されています。その良い例は、三位一体の教理を支持するためにヨハネ第一書五章七節に入れられた偽りの聖句です。聖書の書かれた原語の知識も増し、また古い写本が最近発見されたため、現代の翻訳は原語の真意を良く表わしています。アダムの日より私たちのところまで伝えられてきた記録


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⓴誰が聖書の保存者ですか。今日、どのように聖書につけ加えられた不純な箇所は、取り除かれていますか。



[52] は真実の記録です。それは、全く確かな事実でもあります。--イザヤ、四〇ノ八。ペテロ前、一ノ廿五。


[53]   第五章    悪魔サタン


 1 過去四千年のあいだ、この世を次々に支配してきたいろいろの国の運命が良く似ているため、歴史家たちは、『歴史は繰り返す』という論を唱(とな)えるにいたりました。世界の強国が起きて、隆盛(りゅうせい)にむかい、それから衰(おとろ)えて行(い)ってついには影を止(とど)めなくなる、ということは、世の常(つね)のことと考えられています。どの場合にも、戦争はつきもので、そして、圧迫(あっぱく)や脅迫(きょうはく)はいつも行(おこな)われていました。どの場合にも、宗教は大きな影響を及ぼしています。


 2 現代の世までずっと行われてきたこの似(に)かよっている状態を見て、考え深い人たちは次のような質問を発しています、『人間の目には見えない共通の力が、すべての国を支配しているのであろうか。この見えない支配力のために、暴力を用いる行(おこない)がなされてきたのであろうか。なぜ歴史はくり返すように見えるのか。いつまでも歴史はくり返すのであろうか。』


 3 この事柄について、いろいろ思い悩(なや)む必要はありません。神の書かれた御言葉、すなわち聖書は、問題をはっきり解明しているからです。創造されて以来の人間の歴史の中で、悪賢(わるがしこ)い超自然の勢力が人間と諸国家に影響をおよぼしているという考えは単なる想像でないと神は証明しています。それは事実です。


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➊歴史家たちは、なぜ『歴史はくり返す』という論を唱えるようにいたりましたか。    ➋この事柄を見ている考え深い人々は、どんな質問を発していますか。     ❸私たちは、なぜこの事柄についていろいろと思い悩む必要がありませんか。

[54]  4 この地上で伝道を始められた時のキリストの場合を考えてごらんなさい。聖書のマタイ伝四章によると、キリストは、ヨルダン河で、洗礼をうけてすぐ後に、『悪魔に試(こころ)みられるため』御霊(みたま)によって荒野に導(みちび)かれました。悪魔は三つの事柄をキリストに申し出て、誘惑しようとしました。その第三番目の誘惑(ゆうわく)は、次のようです。

 5 『次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華(えいが)とを見せて、言った、「もしあなたが、ひれ伏して私を拝(おが)むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう。」』---マタイ、四ノ八、九、新口。

 6 この聖句から、悪魔は、世界の政府をことごとく所有していることが判明(はんめい)します。もしそうでないなら、キリストに国々を与えるなどと申し出ることはできないでしょう。悪魔は、この世の政府の見えざる支配者でした。それで、キリストは次のように語られたのです。『私の国はこの世のものではない』『この世の支配者は来つつある。だが、彼は私にたいして何の力もない。』(ヨハネ、十八ノ卅六。十四ノ卅、新世)貪欲(どんよく)、残酷(ざんこく)、そして利己主義という悪魔の性質は、地上のどの政府にも反映されています。悪魔は『この世の組織制度の神』です。---コリント後、四ノ四、新世。

 7 悪魔サタンは何処(どこ)から来ましたか。正義の神は、なぜ悪魔サタンの存在を許し、人類に対する悪い影響を許しているのですか。これは、いつもそうなのでしょうか。心の正しい人々が、その影響から離れる方法はないのでしょうか。

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➍➎キリストが宣教し始めた時に起きたどんな出来事は、この事柄をはっきり示していますか。   ➏マタイ伝四章八、九節の聖句からどんな結論が得られますか。それで、キリストは何と言いましたか。

➐いま適当などんな質問が発せられていますか。

[55]  8 悪魔は、初めから悪魔ではなかったのです。むかし、悪魔は神の家族内で高い地位を持っていました。神の霊的な子だったのです。ある人々は、悪魔は角(つの)と尾のある醜(みにく)いものと考えています。しかし、それとは正反対に、彼は美しいものでした。聖書のエゼキエル廿八章十二、十三節は、次のような象徴的(しょうちょうてき)な言葉で悪魔をこう表わしています『汝(なんぢ)は全く整(ととの)えられたる者の印(いん)、知恵の充ち美の極(きわま)れる者なり。汝の園(その)エデンにありき。もろもろの宝石……汝を覆[:おお] えり。』

 9 彼は神の子であったために、大きな信用と責任の地位、つまり人類の監督者(かんとくしゃ)という地位についていました。この職務に対する名称(めいしょう)は、聖書のエゼキエル書廿八章十四節(欽定訳)に『覆うことをなす油そそがれたケルブ』と述べられています。

 10 神は完全な人間の男女をエデンの園(その)に置きました。それで、この二人を助けて神のいましめを守らせ、かつ二人を教育して創造主との正しい関係を保たせることは、霊者であるこのケルブの義務でした。そのわけでこの霊者について「汝神の園エデンにありき」と言われているのです。

 11 しばらくのあいだ、宇宙のすべての事柄は順調におこなわれ、正義の世界には完全な平和が存在していました。しかし、その平和は永続しなかったのです。貪欲と強い欲望が入ってきました。覆うことをなすケルブは、大きな幻(まぼろし)を抱(いだ)いたのです。つまり、完全な地上に住む人間がみな一致してヱホバに献身し、そして大いなる王であると共にあらゆる良きものの与え主であるヱホバに感謝の念を捧げるのを見たのです。このケルブは、その献身と崇拝を自分のものにしようと欲したため、彼の心は悪い思に充ちてきました。そして神権的な

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➑悪魔は何処から来ましたか。悪魔はどのように表わし示されましたか。  ➒神の子であった彼には、どんな地位が与えられていましたか。   ➓『油そそがれたケルブ』の義務は何でしたか。   ⓫エデンに存在していた神権的な取極 [:とりきめ] は、どのように終りましたか。聖書は、このことについて何と述べていますか。

[56]取極(とりきめ)に反逆したのです。このことは彼に付けられたサタンという新しい名前からわかります。サタンという言葉は、「反対者」という意味だからです。---歴代志略上、廿一ノ一。ヨブ、一ノ六ー十二。

 12 それで、この覆うことをなすケルブは、不完全になり、有罪者(ゆうざいしゃ)になりました。なぜ?彼の滅亡(めつぼう)を告(つ)げる神の宣告(せんこく)の言葉は次のようです、『汝はその立てられし日より終(つい)に汝の中に悪の見ゆるにいたるまでは、その行(おこない)全かりき。汝その美麗(うるわしき)のために心に高ぶり、その栄耀(かがやき)のために汝の智恵(ちえ)を汚(けが)したり。』---エゼキエル、廿八ノ十五、十七。

 13 彼は自分を崇(あが)めて自分の利益を図(はか)る悪い心を抱(いだ)きました。その悪い心は、ひそかに、しかも狡猾(こうかつ)にも、この世に罪をもたらしたことによって表立(おもてだ)って示されたのです。神は完全な人間の男女に、善と悪を知る樹(き)の実(み)を食べてはならない、もし食べるなら死ぬであろう、と告げられていました。しかし、覆うことをなすケルブは、エバを惑(まどわ)して神に背(そむ)かせました。このケルブは、蛇を自分の目に見える代弁者となし、エバに向かって『汝かならず死(しぬ)る事あらじ』と語りました。それは一番最初の噓です。このケルブは、不名誉にも「噓の父」と表示されました。---ヨハネ、八ノ四四。

 14 神は反逆したこのケルブに死の宣告(せんこく)を告げられました。しかし、その宣告の言葉によると、長い期間を経過(けいか)した後になってケルブは亡ぼされる、ということが分ります。『我なんじと女とのあいだ、および汝の裔(すえ)と女の裔(すえ)の間に怨恨(うらみ)を置かん、彼はなんじの頭(かしら)を砕き、汝は彼の踵(くびす)を砕かん。』(創成、三ノ十五)この反逆したケルブは、自分の裔を産(う)み出すための時間を持つでしょう。聖書に記されているこの時以来、反逆したケル

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⓬そのケルブは、どのように不完全になり、有罪者になりましたか。    ⓭ケルブの心の状態は、どのように表し示されましたか。その述べた言葉によって彼は何になりましたか。    ⓮このケルブに対する死の宣告は、なぜすぐに執行されなかったのですか。それ以来、このケルブは何と呼ばれましたか。

[57]ブは、サタン悪魔そしてといわれています。---黙示、十二ノ九。

 15 サタンは最初の人間男女を神から引き離す、という悪(あ)しき行(おこない)をなし、今やすべての人間を神から引き離して、ヱホバの宇宙的(うちゅうてき)な至上権(しじょうけん)に反逆せしめ得る、と考えるにいたりました。そして、次のような嘲笑(ちょうしょう)と挑戦の言葉を、神にむかい公然(こうぜん)と言い放つ根拠を持っていると考えるに至っているようです、『ヱホバよ、あなたに離反しない人間を、あなたはこの地上に置くことはできないだろう。私は何らかの手段を講じて、人間をあなたから引き離してしまうのだから。』

 16 この言葉は、聖書の中に出ていません。しかし、悪魔サタンが実質的にはそのようなことを言った、ということは、間ちがいのない事実です。その事柄(ことがら)については、ヨブ記一章六ー十一節を読んでください、『ある日神の子たちがきたりてヱホバの前に立つ、サタンも来りてその中にあり。ヱホバ、サタンにいたまいけるは、なんじ何処(いづく)より来たりしや。サタン、ヱホバに応(こた)えて言いけるは、地を行きめぐり、ここかしこ経(へ)あるきて来たれり。ヱホバ、サタンに言いたまいけるは、汝心をもちいてわが僕ヨブを見しや。彼のごとく完全(まったく)かつ正しくして神を畏れ悪に遠ざかる人世(ひとよ)にあらざるなり。サタン、ヱホバに応(こた)えて言いけるは、ヨブ、あに、もとむることなくして神を畏れんや。…………汝(なんじ)かれが手に為(な)すところを尽(ことごと)く成就せしむ…………されど汝の手を伸(のべ)て彼のすべての所有物(もちもの)を撃(う)ち給え、然(さ)らばかならず汝の面(かお)にむかいて汝(なんじ)を呪(のろ)わん。』

 17 その会話の言葉から、長い期間にわたる神とサタンの間の大論争が示されています。『サタンよ、なんじ何処(いづく)より来りしや。』と神が尋ね、また「地を行きめぐり、ここかしこ経(へ)あるきて来たれり」というサタン

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⓯悪魔はいま何を考えるにいたりましたか。彼は何にもとづいて、そのような考えを抱くようになったのですか。

⓰サタンがヱホバを嘲笑した事実は、どのように示されていますか。       ⓱その会話から、長い期間にわたるどんな事柄が示されますか。この論争には、何が含まれていますか。

[58]の答えの言葉から、次のことが分かります。すなわち、サタンはヱホバの許可(きょか)をうけているために、人間の中から自分の裔(すえ)を自由に産(う)み出(だ)すことができる、ということです。そして、サタンはヱホバの宇宙的な至上権を覆(くつがえ)し得ると主張していますが、その主張は全くの偽りであるとも証明されています。さらに、この論争には創造主にたいして人間は果たして忠実を保ち得るであろうか、という事柄も含まれているのです。

 18 ヨブは実際に存在した人です。彼はアブラハムの三代目の甥にあたり、キリスト前一、七〇〇年ころ、つまりエデンで反逆があってから約二、三〇〇年後の時に存在していました。この二、三〇〇年のあいだに生存した人々は、最高の神に自分の忠実を証明し得る機会が与えられていたため、この論争は、なにもヨブの時代に始まった新しいものではありません。

     虚言者なることは明白

 19 聖書の中には、サタンの攻撃を受けて創造主に忠実を保ち得なかった人々の記録が多く記(しる)されています。しかし、その反面に、敵の加えるあらゆる攻撃にも耐(た)え忍(しの)び、悪魔サタンを『嘘の父』と暴露(ばくろ)するだけでなく悪魔は最高の神のような宇宙の支配者に絶対になり得ないということを証明したヨブの如き人々もいました。

​ 20 ユダヤ人は、神に忠実を保ち得なかった国民としての例を残しています。ユダヤの国民が神に仕えて神のいましめを守ろう、とできるだけの努力をしたとき、神は彼らとともにいて彼らの為に戦いをなし、そして経済的な繁栄を彼らに与えられました。しかし、ユダヤの国民が悪魔の誘惑に負けてしまい、まわりの国々の異教国民の行をしたとき、ヱホバは保護することを止められました。そのため、ユダヤ国民の全体も、各人も、みな

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​⓲この論争がヨブの時代に初まった新しいものでない、ということをどうして知ることができますか。    ⓳サタンの攻撃をうけた人々について、聖書は何を示していますか。      ⓴国家全体としてどんな例がありますか。ヱホバは、その時のいろいろな状態に対処して、どのように取り扱われましたか。

​[59]サタンの災(わざわい)をうけて苦しみました。

​ 21 しかし、いつの時代であっても、悪魔サタンは、創造主からすべての人間を引き離すことはできなかったのです。アベル以後に、忠実な人々はいつも存在していました。彼らは神に対して、非の打ちどころのない忠実を保ちました。悪魔は真の崇拝から彼らを引き離すことはできなかったのです。

​ 22 キリスト・イエスの場合がそうでした。キリストはサタンに従う者共の手にかかって不名誉な死をとげました。しかし、キリストは次のことをはっきり立証せられたのです。すなわち悪魔のもたらすどんな状態下にいようとも人間は神に対して忠実を保ち得る、ということです。

​ 23 聖書に示されているように、キリストこそ蛇の頭(かしら)を砕く約束の裔(すえ)であります。キリストは王になるとすぐにその行為を開始しました。その幻は、黙示録十二章七ー九節(新口)に記されています、『さて、天では戦いが起こった、ミカエルとその御使いたちとが、龍と戦ったのである。龍もその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落とされ、その使いたちも、もろともに投げ落とされた。』この幻は西暦一九一四年から一九一八年までのあいだに実現しました。それについての証拠は、数多くあります。

 24 折々、歴史はくり返してきたように見えます。しかし、現在の世の不安定な状態は、その規模といい深刻さといい、まったく今までかつてない事柄です。その理由は、サタンはもはや天に行くことができず、この地

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21サタンの迫害した人々について、歴史はどんな著しい事実を示していますか。    22イエスの死は、サタンの主張が偽りである、とどのように証明しましたか?    23キリストは、どのように蛇の頭を砕く行為を継続的に開始せられましたか。そして何時?       24現在の不安定な世の状態は、その規模といい深刻さといい、なぜかつてない程の事柄ですか。

[60]上に投げ落とされてしまい、そして悪しき使いたちである悪鬼共も、サタンともろとも地に投げ落とされてしまったからです。彼はいまでも不従順な人類を支配する見えざる霊者です。天から地に追い落とされた後であっても人類を支配し続けるか、叉は人類に滅亡をもたらそうと決意しています。

………………………


[64]   第六章   人間とは何ですか

 1 幾世紀ものあいだ、人間とは何ですか。人間は不滅の魂を持っていますか。そして人間の運命は何ですか、という質問は、世の思想界の指導者たちによって大いに論ぜられてきました。宗教家や、科学者や、また外科医たちはこれらの質問に対する満足な回答を得ようとして、多くの時間と労力を費(ついや)してきました。科学者や外科医(げかい)たちは、人間を解剖(かいぼう)研究して得た事実から判断(はんだん)して、解答を与えています。この世の宗教指導者たちは、神学校で得た知識から判断して解答を与えています。

 2 科学者や外科医は、次のような結論に達しています。すなわち、人間は単なる高等動物であって、他の動物よりもずっと複雑な構造(こうぞう)を持ち、そして多くの機能(きのう)を有しているにすぎない、というのです。そして、人間に不滅性がある、という明白な証拠(しょうこ)を見出すことができませんでした。また人間は不滅の魂(たましい)を持っていると示す証拠をも見出すことができません。しかし、宗教指導者たちは、人間には不滅の魂があって、この点が人間と他の動物との大きな違いなのだ、と主張しています。そして、魂とは人間の不滅なる部分、精神的な部分であると言います。

 3 神を真実なものとするために、、これらの質問についての研究は、神の御言葉である聖書の答を確かめるこ

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➊(イ)どんな質問をこれから研究しますか。(ロ)宗教家、科学者、そして外科医たちは、どんな知識にもとづいて解答を与えますか。     ➋(イ)科学者や外科医の言葉によると、人間とは何ですか。(ロ)この世の宗教指導者たちによると、人間とは何ですか。    ❸私たちはどのように、人間に関する質問の正しい答えを得ることができますか。

[65]とでなければなりません。他の人々は、人間の考えたことや、書いたものに頼って解答することでしょう。しかし、その考えたことや書いたものが聖書にかたくもとづいていないなら、その答えは正しいものではありません。心の正しい人々の望んでいるものは、間ちがいのない答です。それで、聖書を引用すべきです。聖書に述べられている事柄(ことがら)は、みな権威あるものです。詩篇(しへん)を書いた人は、次の言葉を語り、正しい心の持ち方を表わし示しました、『ヱホバよ、なんぢの大路(おおじ)を我にしめし、なんぢの道をわれに教えたまえ。我をなんぢの真理(まこと)に導き、我ををしえ給え、なんぢはわが救(すくい)の神なり。』---詩、廿五ノ四、五。

 4 さて、本題に戻って、人間とは何ですか。詩篇を書いた人は、同じような質問を詩篇八篇四ー八節で次のように尋ねております、『人はいかなるものなれば、これを御意(みこころ)にとめたもうや。人の子はいかなるものなれば、これを顧(かえり)みたもうや、只(ただ)すこしく人を神よりも卑(ひく)くつくりて栄(さかえ)と尊貴(とうとき)とをこうぶらせ、またこれに御手(みて)のわざを治(おさ)めしめ、万物(よろずのもの)をその足下(あしのした)におきたまえり。すべての羊、牛、また野の獣(けもの)、空の鳥、海の魚、もろもろの海路を通うものをまで皆しかなせり。』この言葉は、実際には予言でした。使徒パウロは、そのことをヘブル書二章五ー十節で述べています。そして、『人間キリスト・イエス』になられた神の子に、その言葉を適用(てきよう)しています。キリストは、また『人の子』と呼ばれ、天で栄(さかえ)と尊貴(とうとき)を被(こうぶ)らせられました。---マタイ、十六ノ十三、廿七、廿八。テモテ前、二ノ五、六。

      人間は魂

 5 創世記二章七節(欽定訳)は、最初の人間がどのように創造されたかを示し、簡明にこう述べています、『主なる神は土の塵から人間をつくられ、人間の鼻に生命の息を吹き入れられた。そして人間は生ける魂にな

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➍詩篇八章四ー八節は、実際には誰に適用しますか。どのように、そのことが分かりますか。    ➎(イ)聖書は最初に創造された人間について、どのように述べていますか。(ロ)魂とは何ですか、人間だけが魂ですか。

[66]った。』それで、人間は二つのもの、すなわち『土の塵』と『生命の息』の結(むす)び合わせられたものである、ということが分かります。この二つのもの(或いは要素)を結び合わせることによって、生ける魂である人間という生物がつくり出されました。聖句の欄外(らんがい)に註のついている聖書(英文)を持っておられるなら、創世記一章廿節と卅節を見てください。魚や鳥や動物が『生ける魂』であることを知りますーーー欄外の註は、聖句の『生物(いきもの)』そして『生命』の代わりに『魂』という言葉を用いています。獣も人間と同じく魂である、という聖書の真理は、民数記卅一章廿八節(欽定訳)でも示されています。その聖句は、こうです、『戦(いくさ)に出(いで)し軍人(いくさびと)をして(捕えた)人または牛または驢馬(ろば)または羊おのおの五百ごとに、一つの魂をとりて主に貢(みつぎ)として奉(たてま)つらしめよ。』

 6 人間は不滅の魂を持っていて、その点で人間は獣と違っている、と言う宗教家たちの主張が、聖書の教えに反するもの、と分かります。人間と獣の両方は魂である、と聖書は示しています。人間は獣よりも勝っていますが、それは、人間が高等の生物であるのと、叉もともと下等動物に対する支配権が与えられていた、という事実によるのです。(伝道の書、三ノ十八ー廿一)最初の人間アダムは、生ける魂に創造されました。そして、聖書の何処を見ても、アダムに不滅の魂が与えられた、などと述べている聖句はありません。---コリント前、十五ノ四五。

 7 さらに調べてみると、欽定訳聖書の中にある英語の『魂』という言葉は、ヘブル語のネ・フ・ェ・シ・ュ・[:נפש]、そしてギリシャ語のプ・ス・ケ・ィ・[:現行訳:プシュケー:ΨυΧη]を訳した言葉であることが分かります。ヘブル語聖書の中でネフェシュという言葉は七四

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➏人間は不滅の魂を持っていますか。      ➐(イ)『魂』と訳されているヘブル語とギリシャ語の原語は何ですか。(ロ)これらの言葉は、何度聖書に出ていますか。それらの言葉の出ている各箇所を、どのように知ることができますか。

[67]五回現われており、プスケィという言葉はギリシャ語聖書の中で、一〇二回現われています。(ウェストコットとホートのギリシャ語聖書)ヤングの作った分析索引(ぶんせきさくいん)を使用してみると、ネフェシュとプスケィという言葉の出ている各箇所を知ることができます。それを丹念に研究してゆくなら、『魂』と訳されるこのネフェシュにせよプスケィにせよ、そのどちらにも『不滅、永遠、永久、不死』などの言葉と結びついている聖句が一つもないことが分かります。人間の魂が不滅である、と述べている聖句は、一つもありません。人間の哲学に従わず神の御言葉の述べる事実に従いましょう。

 8 ネ・フ・ェ・シ・ュ・とプ・ス・ケ・ィ・という原語は、多くの違った英語に訳されて、妹尾署の中で用いられています。この二つの言語の適用する範囲は広く、人間の魂のいろいろな力、機能、そして特性をも意味しています。それで、翻訳者たちはいろいろな英語を用いて、その意味を正しく表わそうとしました。時々、ネ・フ・ェ・シ・ュ・やプ・ス・ケ・イ・が英語の『生命、気持ち、心、食欲、体、自己』その他の言葉に訳されているのは、そのわけなのです。

      人間の魂は死ぬもの

 9 聖書を注意深く調(しら)べてみるとき、人間の魂が死ぬ、という事実は明白に証明されます。不滅の魂は死ぬことができません。しかし、エゼキエル書十八章四節に述べられている神の言葉は、人間について次のように述べています、『それすべての魂は我に属す。父の魂も子の魂も我に属するなり。罪を犯せる魂は死(しぬ)べし。』

 10 魂を殺すことができます。ネ・フ・ェ・シ・ュ・(魂)という言葉が、それを示すために用いられている聖句は、ヘ

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➑ネフェシュとプスケィの訳語として、『魂』という言葉以外に英語のどんな言葉が用いられていますか。     

➒聖書は、魂について何を証明しますか。      ➓(イ)魂を殺すことができますか。(ロ)どんな聖書の例がありますか。

[68]ブル語聖書中に少なくとも五四あります。その一つの例は、ヨシュア記十章廿八ー卅九節(欽定訳)です。そこでは、魂が殺され得る、滅ぼし得ると示す七つの例が記されています。

 11 生きている生物(せいぶつ)の体内(たいない)に血が流れていることは、明白な事実です。予言者であったエレミヤは、当時流血の罪を持っていたユダヤ人の組織制度に向かい、次のように述べています。『また汝の裾に罪なき貧しき者の魂の血あり。』(エレミヤ、二ノ廿四、欽定訳)この聖句は『魂』という言葉が、肉と血を持つ生物を意味していることを、はっきり証明しています。聖書の中にはこれに似た例が多くあります。

 12 人間は死ぬるもので、様々な死方(しにかた)をします。しかし、人間は死から救われて、生命は生き延びることができます。そのことを示す為に、ネ・フ・ェ・シ・ュ・という言葉が用いられている聖句は、ヘブル語聖書の中で二四三あります。その一つの例は、詩篇廿二編廿九節に書かれています、『わが魂を剣(つるぎ)より助けいだし、わが生命を犬のたけきいきおいより逃(のが)れしめたまえ。地の肥(こ)えたるものは、皆くらいてヱホバを拝(おが)み、塵にくだるものと己が魂を存(ながら)うること能(あた)わざるものと皆そのみまえに拝跪(ひざまづ)かん。』ギリシャ語聖書の中でも、プ・ス・ケ・ィ・という言葉は同様に用いられています。

 13 イザヤ書五三章は、メシヤであるキリストの受ける苦難(くなん)を予言している章です。これは、聖書中の『魂』という言葉の使用を説明している良い例です。その十ー十二節には、こう書かれています。『されどヱホバは彼を砕(くだ)くことをよろこびて之(これ)をなやまし給えり。かくて彼の魂、咎(とが)の獻物(そなえもの)をなすにいたらば、彼その裔(すえ)を見るを得その日は永(なが)からん。かつヱホバの悦(よろこ)びたまうことは、彼の手よりて栄(さか)ゆべし。彼は己が魂の煩労(いたづき)をみて

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⓫魂は血を持っていますか。どうして、そのことが分かりますか。      ⓬人間が死滅する魂である、と示すのに、ネ・フ・ェ・シ・ュ・という言葉は、何回用いられていますか。   ⓭イザヤ書五三章十ー十二節は、魂について何を証明していますか。

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[87]     第八章   地獄ー希望のある休息の場所

 1 『地獄、おおなんと恐ろしいいやな事柄なのでしょう! 地獄のことなどは話したくもなければ、聞きたくもありません。いまの世の苦しみが、地獄でありませんか。もうそれでけっこうです。そんな事柄なんか仰らないでください。』と、ヱホバの証者と話をしていた一婦人は、むかついた態度で言いました。

 2 そう言ったこの婦人を責めることは、決してできません。この婦人の言葉は尤(もっと)もな言葉です。キリスト教国は、意識のある人間の魂を永遠に苦しめるために火の燃える地獄があるなどと教えています。そして、そのような神を冒瀆するキリスト教国の教を信ずる人々が、この婦人と同じような態度を取るのも当然であります。しかし、もし読者が正直な心を持っておられ、かつ創造者より理智と探求心を与えられておられるなら、地獄がなんであるかを知りたいと思われるでしょう。地獄は、どんなものですか。何時、誰によって、そして何の目的のために、地獄は創造され、発見されましたか。誰が、そしてどのくらいの期間のあいだ、そこに行きますか。

 3 古い英語の訳本の中で、地獄(ヘル)という言葉は、場所の名に用いられています。この言葉は、ドイツ語でヘルル、ポルトガル語でインハーノ[:ラテン語系で、インフェルノ?!] 、スペイン語でインフィアーノ、フランス語でオンハ、、ギリシャ語でハイデス[:よみ、黄泉:文語訳]です。古いヘブル語聖書の中では、ショオール[:現行訳:シェオール:よみ、陰府:文語訳]という言葉です。このショオールという言葉が、このように違った言語に訳されているのです。

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➊➋地獄について普通の人々はどう考えていますか。探求心を持つ人々は、どのような疑問を発しますか。

❸ー➏いろいろの言語は、その場所を何と云いますか。英語や他の原語の翻訳者たちは、どのように意見が一致しませんか。

[88] 4 ヘブル語聖書中に、ショオールという言葉は六五回出ています。英文の欽定訳聖書をつくった翻訳者たちは、そのショオールという言葉を訳出するに際して、卅一回を『地獄』卅一回を『墓』そして三回を『坑』としています。

 5 英文のカトリック・ドーエイ訳聖書の翻訳者たちは、ショオールという言葉を訳するに際して、六三回を『地獄』一回を『坑』(ヨブ、十七ノ十六)そして別の一回を『死』(オゼエ[:ホセア??!]、十三ノ十四)と訳しています。このドーエイ訳の詩篇九三篇十七節と一一三篇十七節で、『地獄』という言葉が出ています。しかし、そのところにショオールという言葉は出ておらず、またそれに相応する欽定訳聖書の聖句(詩、九四ノ十七そして一一五ノ十七)では『音無きところ』となっています。ドーエイ訳のシンゲン二章十八節と伝道の書九章三節には、『地獄』という言葉が出ていますが、欽定訳では『死者』という言葉が使われています。ドーエイ訳のイザヤ書七章十一節には『地獄の深み』という言葉が出ていますが、欽定訳では『深み』という言葉が使われています。ドーエイ訳聖書には偽りの外典が編入されていますが、その外典の中にギリシャ語のタホ[:フォ] ス([:個々個人の] 埋葬の場所)ハイデス、そしてアビソス[:現行訳:アビュッソス:スペル:Abys・sos](底無き坑)という言葉を訳した『地獄』という言葉が十九回出ています。

 6 いろいろの外国語の翻訳者たちも、このヘブル語ショオールと、それと同じ意味の言葉、ギリシャ語ハイデスを訳出するに際しては、意見の一致が得られていません。しかし、欽定訳が一つのヘブル語ショオールを三つの違った言葉に訳している事実から判断すると『地獄』、『墓』、『坑』は、同じ一つのものを意味していることが分かります。つまり、『地獄』は人類の普通の墓、埋葬の坑を意味しています。それで、『地獄』が、火の苦しみをうける場所であるはずがなく、また、片方は苦しみのないところ、他方は火の苦

[89]しみに充ちたところ、という二つの区劃[:くかく] を持つ場所であり得ません。

 7 ショオールは苦しみの場所ではなく、人類の共通の墓です。そのことは、どのように分るのですか。神の御言葉である聖書がそのように解釈しているからです。創世記卅七章卅五節と四二章八節(欽定訳)によると、イエスの先祖にあたるヤコブは、息子のヨセフが死んだと思って、いたく悲しみ、慰めに来た息子や娘たちに、こう語りました、『われは嘆きつつ墓(ショオール)に下りて我子(わがこ)のもとにゆかん………汝らはわが白髪をして悲しみて墓(ショオール)にくだらしむるにいたらん。』この聖句のところで、アメリカ標準訳は、ショオールを訳さずにそのまま使用し、また欽定訳は『墓』と訳しています。しかし、カトリックのドーエイ訳はショオールを『地獄』と訳しています。さて、一寸考えてごらんなさい。息子のヨセフは、永遠の苦しみをうける場所に行った、とヤコブは信じていたのでしょうか。そして、自分もその場所に行って、ヨセフに会いたい、と思ったのでしょうか。それとも、自分の愛する子は死んで墓におり、自分も死にたい、とヨセフ[:ヤコブ] は思ったのではないでしょうか。仮に、ヨセフが、そのような火の燃える熱い場所に行くとするなら、彼の白髪はすぐに焼けてしまうでしょう。カトリックの方でも、新教徒の方でも、ユダヤ人も、また他の宗教の方でも、どうぞ注意深く考えて下さい!そして理性を持って判断して下さい!

 8 良い人々は地獄に行きますか。行きます。しかし、その地獄とは、聖書の地獄のことです。ヨブのことを知らない人はいません。ヨブは神への信仰と忠実を守り通した人です。彼についての聖書の記録を読まない人は、いないでしょう。彼は、サタンや偽りの友人から苦しめられ、悩まされた時に、次の祈りを捧げまし

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➐(イ)ショオールが墓を意味する、ということはどのように分りますか。(ロ)どんな聖書の例から見ると、その正しいことが証明されますか。     ➑良い人々は聖書に説明されている地獄に行きますか。忠実なヨブの捧げた祈りは、そのことをどのように証明していますか。

[90]た、『願わくは、汝われを墓(ア票、ショオール・ドーエイ訳、地獄)に蔵(かく)し、汝の怒りの息(や)むまで我を掩(おお)い、われのために期(とき)を定め、しかして我を念(おも)い給え。』(ヨブ記、十四ノ十三、欽定訳)もしショオールが火の燃える苦しみの場所を意味するなら、ヨブはそのような場所に行って、神の念(おも)い出される時まで其処にいたいと、願うでしょうか。この質問に対しては盲目の信仰を働かさず、むしろ理性の力を使って判断すべきであります。明らかにヨブは、死んで墓に行くことによって、苦しみが無くなるようにと望んでいたのです。詩篇一三九篇八節(欽定訳)は、こう述べています。『我わが床を地獄(ア票、ショオール)に設(もう)くるとも。視(み)よなんじ彼処(かしこ)にいます。』

       地獄は何処にありますか

 9 しかし地獄は何処にありますか。カトリック百科事典第七巻は、『地獄』という見出しの下に、次のような注解を述べています。『地獄は地の中にある、と聖書は述べているようだ。聖書によると、地獄とは悪人の降る底無き坑と示されている。』だが、地獄の場所について述べている聖書の言葉を読んでごらんなさい。予言者ヨナは大きな魚に吞み込まれたために、あやうく溺死(できし)するのを免(まぬか)れました。その時、ヨナは魚の腹の中から次のような祈りを神に捧げたのです、『我なやみの中より主を呼(よば)ばわりしに、彼われに答えたまえり。われ地獄(欄外には、墓)の腹の中より呼ばわりしに、汝わが声を聴きたまえり。』(ヨナ、二ノ二、欽定訳)ヨナは何処にいましたか。神の準備し給うた魚の腹に呑み込まれていたのです。神は魚に命じて、ヨナを陸地に吐(は)き出させました。しかし、もしそのことが行われなかったなら、魚の腹という狭い暗い場所が予言者ヨナの墓になったでしょう。陸地に吐き出される時まで、彼は地獄にいました。ヨナは、墓であるショオールの中にいて死んだも同然だったのです。地獄は墓よりも深くありません。それで地獄が地球の灼熱(しゃくねつ)している中心地に

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➒偽りの宗教の教えによると、地獄は何処にありますか。しかし、聖書は何と教えていますか。

[91]ないことは明白です。

……………

 11 モーセに反抗した人々については、民数記略十六章卅二、卅三節(欽定訳)にこう書かれています、『地はその口を開きて、彼らを…………、呑みつくせり。すなわち、彼らとかれらに属するものは、みな生きながらに坑(あな)(ドーエイ訳では、地獄)に下り、」これはショオールという言葉が、『坑』と訳されている一つの例です。それは、墓を意味しております。地震が起きて、それらの反逆者たちは坑の中に落ち込んでしまいました。

      地獄から出る

 12 地獄に行った人でも地獄から救い出されたという例は、聖書に述べられていますか。たしかに、そのような例はあります。ヨナはその一人でした。しかし、聖書の中には、イエスの例もあります。イエスは地獄に行

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⓫聖書の地獄に行く人は、自分の持ち物を携えて行けますか。

[92]って、そこに三日間おり、それから全能の神の力によって復活を受けました。殉教(じゅんきょう)の死を遂(と)げたイエス・キリストについて語る使途ペテロの言葉を聞いてごらんなさい。ペテロは、詩篇十六篇十節(欽定訳)を引用しつつ、こう述べています。『「彼は地獄に捨ておかれることがなく、またはその肉が朽ち果てることもない」と語ったのである。このイエスを神がよみがえらせた。そして、私たちは皆その証人である。』(使行、二ノ卅一、卅二、欽定訳)詩篇十六篇十節(欽定訳)に『地獄』と訳されているヘブル語は、ショオールです。それを引用したペテロの言葉は、ギリシャ語でハイデスです。それで、ギリシャ語のハイデスはショオールと同じ意味の言葉であることが分かります。両方の言葉の言語の意味は、人類共通の墓のことです。つまり、死人と葬られた人が入れられて地上の人々からは見えないところです。神の子は、ヨナのようにこの場所へ三日間行っていました。

 13 しかし、悪魔サタンやその悪鬼共は、地獄にいて火を燃やし、地獄にいる者たちに苦しみを与えているのではないでしょうか。キリスト教国の牧師は、そう教えています。しかし、読者は悪魔がそのような場所に一度もいなかったと知り、驚かれることでしょう。悪魔に仕えていたバビロンの王は、聖書の地獄に行くよう処罰されました。だが、その『バビロンの王』は実際には、自らの制度内でルシハーになった悪魔サタンを表わしているのです。次のように書かれています。『下の地獄は、なんぢの故により動きて汝の来るを迎え、世のもろもろの英雄の亡き霊をおこし、国々のもろもろの王をその位より起(た)ちおこらしむ。』(イザヤ、十四ノ九、欽定訳)悪魔が地獄にいつもいたのであるなら、地獄が動いて悪魔をむかえる、ということはあり得ません。

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⓬人間が地獄に行っても、その場所から救われた、という聖書の例がありますか。ヘブル語のショオールと同じ意味の言葉はギリシャ語聖書の中で何という言葉ですか。    ⓭サタンがつねに地獄にいて、火を燃やしている、ということは真実ですか。イザヤ書十四章九節は、サタンについて何と述べていますか。

[93]その十五節には、悪魔についての次の言葉が、予言的に示されています。『なんぢは地獄に落とされ坑(あな)の最下(いやした)に入れられん。』ハルマゲドンの戦いの時に、サタンはその場所に初めて行き、死人と会います。それで、ここに言われている地獄とは、悪魔が捕らえられて千年間投げこまれる底の無い坑と同じものです。--黙示、廿ノ一ー三、七。

 14 不幸にも地獄へ行くような人々は、もうその場所から決して出ることができない、と多くの宗派は信じています。しかし、イエスは地獄から出られました。また、黙示録廿章十三節(欽定訳)には、こう書かれています、『海はその中にいる死人を出し、死も地獄もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。』この聖句によると、地獄はその中にいる死人を出し、そして出された人々は自分たちの業(わざ)に従って裁かれることが分ります。

 15 さて、神が真実なのでしょうか。それとも宗教指導者たちが真実なのでしょうか。私たちは、真実な方に従うべきです。黙示録廿章十四節(欽定訳)には、こう書かれています。『それから、死も地獄も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。』これは極めて意味深い象徴の言葉です。死も地獄も、実際の『火の池』に投げこむことはできません。死そのものも亡ぼされる、とパウロは語っています、『死は永遠に吞まれる。』(コリント前、十五ノ五四、五五、新世)聖書自体の解釈の言葉によると、『火の池は第二の死を意味する』(黙示、廿ノ十四、新世)と言われています。もし、この聖書の解釈の言葉が無いなら、火の池についての象徴の言葉を理解し得る人は、ひとりもいないでしょう。第二の死からの復活はありません。十節には、悪魔自身もついには、第二の死を意味する『火と硫黄との池に投げ込まれる』という心よろこばす聖句が書かれています。悪魔はこの状態から決して出てくることができず、また新しい世の王に従う人々を害すること

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⓮⓯(イ)地獄は永遠に続きますか。(ロ)聖書自体の解釈によると、『火の池』とは何ですか。

[94]もできません。火の池の中で悪魔が「苦しめられる」[:「バサノス」:というギリシャ語:論じるの本に出ていると!!ワッチタワーライブラリ…で検索できると!!]とは、悪魔が第二の死の状態に永遠にいることを意味しています。

      ゲヘナ

 16 しかし、マルコ伝九章四七、四八節にあるイエスの言葉をどのように説明すべきですか。欽定訳によると、こう書かれています、『あなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出しなさい。両方の目がそろったままで地獄の火の池に投げ込まれるよりは、片目のままで神の御国に入る方が良い。地獄では、うじがつきず、火も消えることがない。』地獄の火という説を高々と唱える人々は、この聖句を引き合いに出して、悪しき者どもが苦痛をうける火のくるしみの場所がある、と主張します。しかし、イエスの言葉を良く調べてみると、つきないのは、蛆(うじ)であって、人間ではありません。それで、牧師たちの説に従うと、蛆は不滅のものになります。これは全く非聖書的であり道理に合わないものです。人間が地獄で意識を持っているとか、火の苦しみをうけるなどということについて、イエスは一言も語られていません。

 17 この聖句を言われたイエスは何を意味されていたのでしょうか。こうです、目、手、足のごとくに大切なものを持ってゲヘナで亡ぼされるよりは、その大切なものを棄ててしまう方が良い、ということです。ギリシャ語聖書によると、ハイデスという言葉は用いられておらず、ゲヘナという言葉が用いられています。ヘブル語聖書によると、ゲヘナとは地獄を意味せず、『ヒンノムの谷』を指しています。この谷は、エルサレムの南西の城壁の外側にありました。この谷は、火葬場または塵芥焼却所(じんかいしょうきゃくじょ)に用いられていて、イスラエル人たちは

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⓰地獄の火という説を高々に唱える人々は、地獄が苦しみの場所であることを証明しようと努めるため、どんな聖句を引き合いに出しますか。       ⓱⓲(イ)それでは、マルコ伝九章四七、四八節のイエスの言葉は、何を意味しますか。(ロ)ゲヘナとはなんでしたか。ユダヤ人は、そのところを何に用いましたか。

[95]都の廃物や屑、また動物や囚人の死体をこの谷に投げ込み、火で燃(も)してしまいました。生きているものをこの谷に投げ込むことは、ユダヤ人の律法に反することで許されていなかったのです。火は絶えず燃されていましたが、その火勢を強めるために、ユダヤ人たちは硫黄を加えました。それで、ヒンノムノ谷・ゲヘナは、永遠の苦しみを象徴するものでなく、永遠の処罰(しょばつ)の状態を象徴したのです。ゲヘナの火は、永遠に続く全き亡びを象徴しました。神とその御国にことさら逆(さから)う敵共は、みなこの亡びに入ります。そして、その亡びから復活を受けることは決してありません。

 18 別のところでは、ゲヘナは『火と硫黄の燃える池』と述べられています。(黙示、廿一ノ八、新口)ハイデスは、復活の行われ得る死の状態を示しています。ゲヘナは、実際の火を意味していません。もし、そのように考えてイエスの言葉を解釈するなら、片足の人、片目の人だけが永遠の生命を得ることになります。マタイ伝廿三章卅三節を見て下さい。多くの翻訳者たちは、その聖句内のゲヘナを地獄と誤訳(ごやく)しています。

…………………

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⓳(ロ)このことは羊と山羊の譬話からどのように裏付けられますか。

[96]永遠の切断(せつだん)(ギリシャ語でコラシス)に行くであろう。しかし、正しい者共は永遠の生命を受ける。』(マタイ、廿章四六、新世)それで、『山羊』の受ける永遠の刑罰は、生命を永遠に断ち切られることです。

…………………

 21 この譬話[:たとえばなし]を語られたイエスは、予言を述べられたのです。その予言は西暦一九一九年以来の現在に成就

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21,『富める者』が苦しみの地獄へ行き、『乞食』がアブラハムのふところに行ったと信ずることは、なぜ道理に合わない馬鹿らしいことですか。

[97]されています。そして、今日の地上に存在する二つの級に適用するものです。富める者とは、キリスト教国の牧師で構成されている極端に利己的な級を表わし示しています。彼らはいま神から遠ざかっており、神の恵みを受けず、また神に奉仕していません。そして、宣明されている御国の真理で苦しめられています。ラザロは『キリストの体』の忠実な残れるものを表わし示しており、彼らは、一九一九年以来、現代のバビロンから救い出されて神の恵みを頂いています。そのことは『アブラハムのふところ』にいるということから示されております。そして、彼らは神の御言葉からの慰めを受けています。この例え話についての詳細な研究については「宗教は人類のために何をなしたか」の二に四ー二三四頁、二八〇ー二八九頁を参照して下さい。そこには十分納得の行く答が書かれており、読者はみな大きな慰めを受けることでしょう。

 22 苦しみのある地獄という教理は、神を非難する教理です。誰がその教理の責任者ですか。その教理を始めて、ひろめた者は、サタン自身です。この教理を始めたサタンの目的は、人々に恐れの気持ちを抱かせて聖書の研究を止めさせ、神を憎ませることです。不完全な人間でさえ狂犬を苦しめるようなことをしません。狂犬を殺してしまいます。しかし、愛である神は、不幸にも罪びとに生まれた人間を残酷に苦しめるのだ、と宗教家たちは言います。(ヨハネ第一書四ノ十六)キリストが地上にくる以前の幾百年もの昔に、異邦人たちは地獄の火という教理を教えていました。『煉獄』の教理と同じく、この地獄の火という教理は、人間の魂は不滅である、という偽りの異教の教理にもとづいているものです。仮に、死んだ後でも永遠の苦しみを意識するというのであるなら、人間の魂は不滅のもの、亡びないものでなければなりません。

 23 火の燃える地獄の教理によると、悪しき者は死んだ後に永遠に苦しみを受けます。しかし、その教理は正

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21,簡単に言って、その譬話の意味は何ですか。またどのように適用しますか。    22,それでは、この神を非難する教理を始めた者は、誰ですか。その目的は何ですか。

[98]しいものではありません。それには、四つの理由が挙げられます。(1)その教理は、聖書の教えと全く違う(2)その教理は、道理に合わない(3)その教理は神の愛に反する、からです。それで、ゲヘナとは滅びの状態である、ということを一層良く悟ることができます。悪魔と悪鬼共や、またヱホバの神権政府に反対するすべての人間はゲヘナに行きます。そして、ゲヘナからの復活は、決して行われません。しかし、地獄すなわちショオール、またはハイデスは人類の普通の墓を意味します。このところに行く善人も悪人も、神の御国に支配下に行われる復活の希望を抱きつつ休息いたします。

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23,地獄の火という教理は正しくありませんが、それにはどんな四つの理由がありますか。この短い研究から、どんなことがはっきり分りますか。


[99]    第九章   三位一体はありますか

 1 いわゆる『キリスト教国』の基礎的な教理は、『聖なる三位一体』という教理です。その教理は、聖書の真理と認められ、幾百万という人々は、その教理を聖なるものと見なしています。簡単に言うと、一つの神の中に三つの神がいる、そして『父なる神、子なる神、聖霊なる神』の三つの神は、力においても、本質においても、また永遠性という面においても、みな同等である、というのがこの教理です。『祝福された三位一体』という見出しの下に、カトリック百科事典は、次のように定義しています、『三位一体は、キリスト教宗教の中心的な教理を示す言葉である。神なる三位がある。父、子、聖霊の三者はそれぞれ明白に異なっているが、しかしみな神である。その故に、アタナシウス信条はかく述べている、「父は神であり、子は神であり、聖霊は神である。しかし三つの神があるのではない。神は一つだけである。」』

 2 こじつけの説明をつけるそのような教理は、まったく大混乱のものです。それを『奥義!』だと言って、言い抜けることは正しい態度ではありません。使徒は、『神は無秩序の神ではない。』(コリント前十四ノ卅三、新口)と言っています。その言葉を考えてみるなら、神はそのような教理をつくらないということが、すぐ分ります。それでは、神がこの混乱の教理を作り出したのでないなら、誰がこの教理をつくり出しましたか。

 3 三位一体の教理は、ずっと昔のバビロン人や、エジプト人、そしてまた古代の神話作者たちがつくり出し

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➊『三位一体』の教理は、どのように定義されますか。   ➋神はこの教理をつくり出した方ではありませんが、そのことを裏づけるどんな事実がありますか。     ❸『三位一体』は何処でつくり出されましたか。『三位一体』は、どのようにキリスト教国の宗教に採り入れられるようになりましたか。

[100]たものです。それらの昔の国民たちは、悪鬼の神々を崇拝していたため、神の模型的なイスラエルは、彼らと関係を結んではならないと命ぜられていました。ユダヤ人もクリスチャンも、その事実を認めます。それで、この教理をつくった者は、神でないことが分ります。さらに、二つの興味深い事柄があります。(1)西暦二世紀に、アフリカのカルタゴに住んでいたターツリアンと言う宗教家は、三位一体(トリニタス)という言葉をラテン語の教会用文書の中に用いました。霊感を受けて書かれた聖書の中で、『三位一体』という言葉は一度も用いられていません。(2)また第二世紀にいたセオフィラスという牧師は、三位一体の教理を、ギリシャ語の教会用文書の中に初めて採り入れました[:トリアス:三位性という言葉で??!]。(西暦)三二五年、すなわち四世紀に、宗教指導者たちは、洗礼を受けていないコンスタンチン皇帝の指示を受けて、小アジアの二ケアで宗教会議を開き、そのときに三位一体の教理を正式に認めて採用したのです。それ以来、三位一体はキリスト教国の宗教制度の教理と公認され、牧師たちはこの複雑怪奇な教理に従っています。それで、サタンが三位一体という教理の創始者であることは、全く明白な事実です。

 4 『三位一体』を裏づける聖句があるのではないか、と人は尋ねるかもしれません。牧師の教える三位一体の教理は、古代バビロンの三位一体とは違うとその聖句は証明するのではないでしょうか。真実を求める人、そして神を恐れる人は、みな事実を知りたい、と欲しています。知識は、誤(あやまり)から私たちを守ります。しかし、その知識を得るために、両方の論議を公正に考えるべきであります。それで、三位一体の教理を裏づけるのに用いられている聖句に注意を払ってみましょう。

 5 最初の記録は、欽定訳(英文)に記されているヨハネ第一書五章七節です。『天には記録を帯びるもの三つあり、父、言葉、聖霊なり。しかして三つは一つなり。』次の聖句は、ヨハネ伝十章

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➍証明に関してどのような質問が生じますか。なぜ、この問題を公正に考えねばなりませんか。   ➎『三位一体』を裏づけるために、どんな四つの聖句が一般に用いられていますか。

[101]卅節(新口)です。かんたんに『私と父は一つである。』と書かれています。第三番目の聖句は、テモテ前書三章十六節(欽定訳)の聖句です。それはキリスト・イエスについて述べているパウロの言葉ですが、『神は肉にて現われ給うた』と記されています。そして、第四番目の聖句は、ヨハネ伝一章一節(新口)の有名な聖句です、『初めに言葉があった。言葉は神と共にあった、言葉は神であった。』

 6 そのような三つのものが一つに合わせられて存在する、などということは果たしてあり得ることですか、という牧師に質問する時、牧師は『それは奥義です。』と答えるのみです。ある牧師は、三角形、三つ葉、一つの首に三つの頭がついている偶像などの例を用いて、この問題を説明しようとします。しかし、三つの頭を持つ神などを愛したり崇拝したりすることはできないでしょう。そのような考え方を教える牧師は、神は御自分の像(かたち)のごとくに人間をつくり給うた、と語る時に、話のつじつまが合いません。なぜなら、三つの頭を持つ人間などは誰も見たことがないからです。

 7 真のクリスチャンの取る態度は『あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。』また、『神の言葉はみな清いものである。』ということも認めています。(ロマ、三ノ四、新口。シンゲン、卅ノ五、欽定)引用されている聖句は、みな神の清い言葉、聖書からなされている故に、それらの聖句に対しては十分の注意を払うことが必要です。それでいまヨハネ第一五章七節(欽定訳)の聖句、『天には記録を帯びるもの三つあり、父、言葉、聖霊なり。しかして、三つは一つなり。』を研究してみましょう。

 8 これは、神の御言葉に偽りの言葉をつけ加えた明白な例です。そのようにつけ加えることは、全く悪い行

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➏牧師たちは、どのようにその教理を裏づけようとしますか。考え深い人は、牧師たちのこじつけの説明に対して、どのように感じますか。    ➐真のクリスチャンたちは、どんな態度をとりますか。そして、なぜ?

[102]です。ギリシャ語聖書の翻訳者、ベンジャミン、ウィルソンは、『エンハ[:ファ]ティック・ダイアグロット』聖書の中で、この聖句についての註解を次のように述べています、『天の証に関するこの聖句は、十五世紀以前に書かれたギリシャ語写本の中には全然見あたらない。ギリシャ人の教会執筆者たちが、この聖句を引用したこともなければ、初期ラテン語の神父たちもこの聖句を引用したことがない。問題を論ずる際に、必ずやこの聖句を引用したに違いない、と思われる時でも、彼らはこの聖句を引用していない。故に、この聖句は明らかに偽りのものである。』ウィルソンの語ったこの言葉は正しいものです。そのことは、(ラテン語訳からつくられたローマ・カトリックの翻訳を除いて)現代の聖書訳の中に、この聖句が記されていない、という事実からも裏づけられています。

 9 次にヨハネ伝十章卅節(新口)の聖句、『私と父は一つである』を考えてみましょう。この聖句だけを読んでみると、神とイエスが一つであるという論が正しいように感じます。しかし、どのように一つなのですか。ヱホバは、『知恵を得よ。すべて汝の得たる物をもて聡明(さとり)を得よ。』と諭しています。(シンゲン、四ノ七)私たちはこの規則をいつも守るべきです。そして、いま研究している聖句の中でも、この規則を適用すべきです。

 10 イエスは、殺される前夜に御父に祈りを捧げられました。そして、その祈りの中で、イエス自身がヨハネ伝十章卅節の意味を説明しています、『私は彼らのためばかりでなく、彼らの言葉を聞いて私を信じている人々

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➑ヨハネ第一書五章七節(欽定訳)についてのどんな二つの事実があるため、その聖句にこれ以上註解することは、不必要になりますか。    ➒➓(イ)聖書を研究するときに、どんな規則をいつも適用すべきですか。(ロ)イエスは、ヨハネ伝十章卅節の意味をどのように説明していますか。死とは、そのように理解したことをどのように示していますか。

[103]のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたが私のうちにおられ、私があなたの中にいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らも私たちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたが私をおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。私は、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、私たちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。』(ヨハネ、十七ノ廿、廿二、新口)イエスは、ご自分の体である会衆の成員のために祈っていました。パウロは、このことの正しいことを裏づけて、コリント前書十二章十二節(新口)でこう述べています、『からだが一つであっても肢体(したい)は多くあり、また、体のすべての肢体が多くあっても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。』さらに、この点を説明するため、パウロはこう書いています、『キリストが教会の頭であって、自らは、体なる教会の救主(すくいぬし)であられるように、夫は妻のかしらである。』(エペソ、五ノ二十三、新口)そして、ヱホバがすべてのもののかしらなることを示すため、使徒パウロはこう書いています、『すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。』(コリント前、十一ノ三、新口)明白な真理はこうです、すなわち、キリストとその体の成員が一つと見なされているように、ヱホバとキリストも一つと見なされるのです。彼らはみな、理解、目的、そして制度において一つである、ということです。このことは、論理的にみても正しいものです。さもなければ、イエスは、『父が私より大きいかたである』とか、『私の思いではなく、みこころが成るようにしてください。』とは決して祈らなかったことでしょう。(ヨハネ、十四ノ廿八。ルカ、廿二ノ四二、新口)それで、イエスを初めとしてすべての者は大いなる、全能の神に全く従わねばなりません。

 11 全能の神は、肉体となって地上の人間に顕れた、と牧師たちは主張しています。そして、『神は肉にて

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⓫欽定訳のテモテ前書三章十六節は、全能の神が肉にて顕われたことを、なぜ証明しませんか。

[104]顕われ給うた』というテモテ前書三章十六節(欽定訳)の聖句を用います。ベンジャミン・ウィルソン著『エンハティック・ダイアグロット』の脚注は、この聖句について、こう述べています。『ほとんどすべての昔の写本や翻訳は、この聖句のところで「神」とは記しておらず、「彼」と記してある。この神という言葉は、採用されたものである。』この聖句のカトリック・ドーエイ訳は『肉にて顕われ給える敬虔な奥義は、実に大いなり。』と述べています。アメリカ標準訳とモハット役は、『彼は肉にて顕われ給えり』と記しています。仮に三位一体論が正しいなら、全能の神は肉体に化身したことになります。しかし、そうなるとヨハネの次の言葉は偽りになります、『神を見た者はいない。父のふところにいる独り子のみが神をあらわした。』(ヨハネ、一ノ十八、欽定訳)この言葉から次の事実は明白になります。すなわち、イエスは、御父と全く一致しておられたため、地上の人間であった時に、神をあらわされました。それで、イエスはこう言われています、『私を見た者は、父をも見たのである。』--ヨハネ、十四ノ九、新口。

 12 ダビデは神からの霊感を受けて語り、人間については、『御使いより少し低く』つくられた者と記しています。ヘブル書二章九節(新口)には、そのダビデの言葉がイエスのことを述べるために引用されています。『しばらくの間、死の苦しみを受けるために御使いたちよりも低いものとされたイエス…………を見る』仮に三位一体の教理が正しいものであるなら、神は地上にいるあいだ御使いよりも低くなったことになります。しかし、それは神の最高至上権に反することになります。イエスが地に来られたのは、御自分の持つ完全な人間の生命により、人類の贖いになるためでした。それで、その贖(あがない)いは、失われたもの、すなわちアダムがエデンの園で持っていた完全な人間としての生命に等(ひと)しくなければなりません。そのわけで、イエスについては次

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⓬地上にいたイエスは、なぜ神ではなかったのですか。

[105]のように記されています。『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれを空(むな)しうして僕(しもべ)のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様(ありさま)は人と異(こと)ならず、おのれを低くした。』(ピリピ、二ノ六ー八、新口)神の公正の掟(おきて)にしたがい、贖(あがない)であるイエスは、完全な人間でした。イエスが完全な人間以上であることは許されません。それで、イエスは肉体となって顕(あら)われた最高全能の神ではありません。

 13 三位一体を裏づける、と考えられる最後の聖句は、ヨハネ伝一章一節(新口)です、『初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。』エンハアティック。ダイアグロット訳の行間(ぎょうかん)に記されているギリシャ語の逐語訳(ちくごやく)を参照しましょう。そうすれば、一見(いっけん)して矛盾(むじゅん)していると思われる箇所も、はっきり理解することができます。こう訳されています、『初めに言葉があった。言葉はそのと共にあった。言葉は一つの神であった。』さて、『言葉はそのであった』の神の前には、『その』という定冠詞がついており、『言葉は一つの神であった。』の、神の前には、『一つの』という不定冠詞がついています。このことから、このと神は、それぞれ別々の者であって、同じ一つの神でないことが分ります。新世訳は、ヨハネ伝一、二節を次のように正しく訳出しています、『最初に言葉があった。言葉はと共にいて、言葉は一人の神であった。この者は最初にと共にいた。』

 14 この聖句を更に慎重(しんちょう)に考えると、別の大切な事実に気づきます。詩篇九〇篇二節によると、神は「永遠より永遠まで」です。すると、仮に言葉が全能の神であるとするなら、それに最初があるとは、いったいどうい

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⓭ヨハネ伝一章一節の言葉と文法上の成り立ちは、と神が別々のものであるということを、どのように示していますか。   ⓮イエスに最初があったということは、どのように三位一体を裏づけませんか。そして、また、三位一体の偽なることを示していますか。

[106]うわけでしょうか。正しくは、次のような意味です。言葉とは、イエス・キリストになった神の子であります。イエス・キリストには、たしかに最初がありました。黙示録三章三節で、自分は神による創造の最初であると、イエスははっきり述べています。イエスが父の『独(ひと)り子』と言われているのは、そのわけです。ヨハネ伝一章十四節(新口)には、こう書かれています。『そして、言葉は肉体となり、私たちのうちに宿(やど)った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理(まこと)とに充(み)ちていた。』使徒パウロも、イエスは『すべての造られたものに先だって生まれたかたである』と述べており、この真理を支持しています。(コロサイ、一ノ十五、新口)三位一体は全く間ちがいのものです。そして三位一体を教える人々は、『それは奥義です』といって、言い抜けねばならないでしょう。

      聖  霊

 15 三位一体を裏づけようとして、牧師が、曲解して引用している聖句の中、最初の聖句(ヨハネ第一書、五章七節ドーエイ訳)だけに『聖霊』という言葉が出ていますが、その言葉は偽りのものと判明しました。『聖霊』とは、霊者であって、『三位一体』の第三位であり、力、本質、永遠性という面で、神とキリストと同等である、と一般には考えられています。英語ではスピリットにあたるギリシャ語が『霊』または『息』という意味の古代英語ゴーストと訳されています。ギリシャ語を少し調べてみると分るように、『霊』と訳されているギリシャ語プ・ニ・ュ・ー・マ・は、聖書の中で『風』とも訳されています。風が人間の目に見えないのと同じく、神の霊も人間の目には見えません。人が神の御霊を持つということは、どのような種類の仕事にもせよ、特定の仕事をするように神からの権威づけられたことを意味します。それで、聖霊とは全能の神の見えない活動力です。この活動力は、神の僕たちに働きかけて神の御意(みこころ)をなさしめます。

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⓯三位一体の『第三位』についての事実とは何ですか。実際には、それは何ですか。

[107] 16 論議を分り易く理解するために、次のことを仮定しましょう。すなわち、イエスが地上に居られて洗礼を受ける時までの期間中、神とイエスは等しいものであって、その力を永遠性において一つであったというのです。すると、『三位一体』の第三位である『聖霊』は、何処にありましたか。三位一体を信ずる人たちは、その期間中三つのものは一つであった、と述べます。しかし、聖書によると、イエスが洗礼を受けたときに、聖霊は鳩のようにイエスに降(くだ)り、そしてイエスは御霊によって直ぐ導かれたではありませんか。『三位一体』の三位は、その時にはっきり表わし示されたと三位一体論者は言い、そしてマタイ伝三章十六、十七節(新口)を引用します、『イエスはバプテスマを受けられるとすぐ、自ら上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、「これは私の愛する子、私の心にかなう者である。」』

 17 しかし、この聖句について次のような質問をするとき、三位一体を教える人たちは大いに困って良く答えることができないでしょう。例えば、『これは私の愛する子』と言った天からの声は、誰の声でしたか。イエス御自身の声でしたか。そして、イエスの上に降った聖霊は、その時まで何処にありましたか。それに、もし仮にイエスが神であったとするなら、洗礼を受ける以前の地上生活卅年のあいだに、天はイエスに開かれていたのではありませんか。もしイエスが神であったなら、あるいは三位一体の一部であって神の力、本質、永遠性と同等のものであったなら、いつでも天に近づくことができたはずです。これだけに止まらず、他の多くの難問をうけると、牧師たちは途方に暮れてしまいます。そして、三位一体は大きな奥義である、などという逃げ口上をはります。

 18 全く、仮に三位一体の教理が真実であるなら、それは奥義でありましょう。納得できないものの一つに、

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⓰⓱イエスが洗礼をうけた時に、三位一体の間ちがいなることを示すどんな事柄が生じましたか。

[108]次の疑問があります。すなわちイエスが死んで墓にいた三日間は、誰が宇宙を運行しましたか。また、イエスが『御使いたちよりよりも少し低く』せられて地上に居られた卅三年と半年の間、いったい誰が宇宙を運行しましたか。もしイエスが神であったとするなら、イエスが死んでいる時に神は死んで墓にいたことになります。サタンが全き支配を握るのに、これは叉とない素晴らしい機会でした!しかし、サタンが全き支配を握り得なかったという事実は、独り子であるイエスだけが死んでいたことを証明するものです。聖書のテモテ前書一章十七節(欽定訳)には、神は『永遠、不滅の王』と書かれています。その故に、もしイエスが不滅の神であったなら、死ぬようなことは決してなかったでしょう。イエスが地上に居られた時、悪魔はあらゆる企てをなしてイエスの死をはかりました。いまや悪魔の企ては首尾よく達成されてイエスは死んだのですから、もし死んだイエスが全能の神であったなら、悪魔はイエスの復活を、妨げたにちがいありません。実際、『三位一体』の教えは、道理に合わず矛盾だらけのものです!

 19 ヨハネ伝十四章廿八節に記されているイエスの言葉、『父は我よりも大いなり』は全く正しいものです。職務だけでなく位の面でも父は『大きい』のです。父は御自分の約束通りに子を三日目に復活せしめました。

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⓲地上に居られたイエスが全能の神であったなら、支配ということについてどのような難問が生じますか。

⓳⓴イエスは、自分自身を復活し得る力を持っていた、と論ずるために、どんな聖句が引用されますか。しかし、どんな正しい結論が得られますか。

[103]もしヱホバと死んだキリストが本質的に一つであるなら、復活は不可能のことでしょう。宗教家たちは、ヨハネ伝十章十七、十八節(欽定訳)にあるイエスの言葉を引用します、『生命を捨てるのは、それを再び得るためである。だれかが、私からそれを取り去るのではない。私が、自分からそれを捨てるのである。私には、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これは私の父から授かったいましめである。』この聖句から、イエスは神であり、自分自身を復活し得るのだ、と宗教家たちは論じます。

 20 しかし、この欽定訳のヨハネ十章十七、十八節の訳を読む時に、当然次のような論理立った結論が得られます。すなわち、イエスは自分の生命を自ら進んで棄てたために、復活をうけて生命を再び与えられるという父のいましめにより保証されていたのです。神はイエスを復活させて彼に生命を与えました。その時にイエスは生命を取り戻したのです。それで、新世訳は、次のように正しく訳出しています。『私の魂を棄てるのは、再び頂くためである。だれかが、私から取り去るのではない。私は自分から進んで棄てるのである。私にはそれを捨てる権威があり、また再び頂く権威もある。私はこのいましめを父から頂いたのである。』それで、次のことがはっきり分ります。すなわちイエスは神の御意(みこころ)に従って贖(あがない)となる自分の生命を進んで棄てたため、その忠実な行いに対する報いとして生命を神の御手から再び頂・く・権利を持っていました。神はイエスを復活させることにより生命を与えられたのです。

 21 イエスや初期クリスチャンたちは、三位一体の教理を一度たりとも考えたことがありません。聖書の中の何処を見ても、三位一体という言葉は述べられていません。故に、もし牧師たちの主張するように、三位一体が『キリスト教宗教の基礎的な教理』であるとするなら、キリスト・イエスがこの複雑怪奇な教理に何ら

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21,三位一体の教理について二つのどんな奇妙な事実が存在していますか。全体についての明白な事実はなんですか。

[110]の注意の払わず、かつ説明もしなければ教えもしなかったというのは不思議なことです。更に不思議なことは、イエスの時よりも百年以上も経って後の不完全な人たちが、異教の考えを取り入れてそれを聖書の真理として教えていることです。三位一体は、神を恐れる人にヱホバと御子キリスト・イエスの真理を学ばせないために仕組まれたサタンの企みの一つであるということが明白に分ります。三位一体は絶対にありません! ………………………………


[142]    第十三章  崇拝の際に偶像の使用

 1 創造主御自身の語られた明白な言葉によると、人間は神のかたちにつくられました。といって、人間が神と同じ形や本質を持っていたのではなく、人間は神の属性(ぞくせい)を持っていたということです。神の属性を持つ人間に、地と地上の生物である鳥・魚・そして動物たちを支配する特権が与えられました。人間の責任は、これらの者に対して、創造主と同じ属性を行使(こうし)すべきでした。すなわち、自分に課せられた事柄を管理(かんり)する際には知恵を行使し、神の他の生物を取扱う際には公正をを行使し、無私の気持ちによって地と地上の生物を治める際には愛を行使し、そして自分の権威を正しくなしとげて、人間をご自分のかたちに創造せられた宇宙至上者の正しい崇拝をするためには、力を行使すべきでした。--創世一ノ二十六ー二十八。

 2 人間の地上支配は永続(えいぞく)せず、人間は神の宇宙至上権(うちゅうしじょうけん)を否定して、偶像をつくり、そして、偶像は創造主を代表するものと考えました。人間は下等動物を支配するどころか、下等動物を崇拝するようになったのです。そして、木や石や金属の偶像をつくって、拝(おが)んだり祈りを捧げました。人間は支配権を失いました。ーーロマ、一ノ廿三、廿五。

 3 しかし、地上の人間の或る人々は全能の神を認めました。(創世記卅五ノ二)イスラエル人を偶像崇拝から守るため、そして神の至上権を否定しないようにするため、神はイスラエル人に偶像崇拝を禁ずる律法を与

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➊人間が神の像につくられた、とはどういう意味ですか。     ➋人間は、地と動物に対する支配の地位をどのように失いましたか。     ❸神の崇拝者たちには、どんな守りが与えられましたか。どんな状況下にそれは与えられましたか。それは、なぜでしたか。

[143]えました、『汝わが面(かお)の前にわれのほか何物をも神とすべからず。汝己(なんじおのれ)のために何の偶像をも彫(きざ)むべからず、叉上は天にある者、下は地にある者、ならびに地の下の水の中にある者の何の形をも作るべからず。これを拝(おが)むべからずこれに事(つか)うべからず。』(出エジプト、廿ノ三ー五)この律法は、雲の中から、厚い暗やみと火の中からイスラエル人に与えられて、何の形も見えなかったのです。すなわち、人間に全能の神の偶像をつくらせないためでした。それで、神の律法は、偶像崇拝を行う国民にいつも取巻かれていたイスラエルの国民を守るものでした。--申命、四ノ十五ー廿三。

 4 その律法に従わない人々は、こんな風に主張しています、すなわち偶像そのものを崇拝するのではなく、偶像の表示するものを崇拝するのだ、というのです。これは、偶像崇拝者たちの理論ですが、実際にはその通りにされるのでしょうか。『学識者』たちは、神々の偶像をたんなる表示、崇拝の助けと見なしますが、教育の無い人々は偶像を真実なものと考えて、偶像に先行、食物、飲物を捧げ、また偶像に接吻(せっぷん)したり、崇拝を捧げたり、拝(おが)んだり、祈ったりいたします。インドでは、『一般大衆は偶像そのものをたしかに崇拝している。しかし、良い教育をうけている者は、そのような崇拝を排斥(はいせき)する。』これは、インドに派遣された初期ローマ・カトリックの宣教者の一人、ド・ボイスの報告です。中国では、『知識階級の者たちは、聖山を聖なるものと見なしているが、それは霊がその山の中にあり、また神託(しんたく)を告げるからである。しかし、教育の無い人々は、山そのものを神聖なものと信ずる。』(哲学及び法律学博士、ワシュバーン・ホプキンス著『宗教の起源と発展』十九頁と廿一頁)ヱホバ神の律法に従わない諸国民は、そのような理論を考え出して、実際に行っています。(列王記略下、十七ノ卅五)しかし、神の律法が直接与えられた神の選民は、どのような態度を取りましたか。

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➍ 偶像崇拝者たちは、どんな主張をしていますか。しかし、実際には理論の主張通りに行われていますか。

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    現代の偶像崇拝

 8 しかしながら、今日の宗教制度は初期クリスチャンたちの取った立場を取りません。カトリックの正式な立場は、次のように述べられています、「キリスト教宗教は、偶像や絵画の使用を許可する。それらは、化身

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➑➒偶像に対するカトリックの正式な立場は何ですか。偶像の使用は、何処で始まりましたか。

[146]した神の子、聖徒、御使たちを表示するものである。偶像は、信心をすすめる合法的な助けである。偶像にささげられる誉は相対的なものであって、偶像を通して、偶像の表示(ひょうじ)するものに捧げられるからである。」カトリックが偶像を使用することについては、次のように説明されています、『教会が地下のあなぐらから出て富んでくると、迫害の恐れがなくなり…………像をつくり始めた………その理由は簡単であった。最初のクリスチャンたちは、皇帝や、異教の神々や、英雄の偶像とか異教の絵画を見るのに慣れていた。それで、彼らも自分の宗教の絵画をつくり、まもなくして自分たちの主や英雄たちの偶像をつくった。しかも偶像崇拝の疑いをすこしも持たなかったのである。』--カトリック百科事典(英文)第十二巻七四二頁と第七巻六六六頁。

 9 『第四世紀の東洋にいてキリスト教を奉じていたローマ市民は、皇帝(カイザル)の像に贈り物、線香、そして祈り(!)をも捧げていた。人々は、カイザルの象徴として、その空虚な王座に特別の尊崇(そんすう)を払っていた。(偶像崇拝の心配なしに)そのカイザルの偶像や帝国の鷲を拝んだり、接吻(せっぷん)したり、線香を立てたりしていた人々が、十字架やキリストの偶像や、祭壇にも同様のことをなすのは当然至極(とうぜんしごく)のことである。」(カトリック百科事典、第七巻六六七ページ)偶像崇拝はことごとく異教から出たものです。その故に、『キリスト教教理の発展に関する論文』(英文)という本を書いたニューマン枢機官が、その本の三七三頁で、なぜ次のように認めているかが理解できます。多くの事柄の中でも、『……後日の偶像は……みな異教のものであり、「ローマ・カトリック」教会に取入れられることにより清められたのである。』

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[147]……………………

 11 しかし、み使いや聖徒たちの偶像に相・対・的・な・崇拝を捧げて、その偶像を通して捧げられる祈りは、許されませんか。許されません。祈りは直接神に捧げられるべきものです。神はこう言われています、『われはヱホバなり。是(これ)わが名なり。我はわが栄光をほかの者に与えず、わがほまれを偶像に与えざるなり。』(イザヤ、四二ノ八)祈りは、イエスの偶像や、聖徒やみ使いたちの偶像に捧げるべきではなく、天にいる御父に捧げなければなりません。しかも、木とか石のような生命の無い物体を通して、祈りを捧げるのではなく、人間には見えなくても生きておられるキリスト・イエスを通して捧げられるべきものです。(マタイ、六ノ六ー十五。ヨハネ、十

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⓫偶像を通して神に『相対的な』崇拝を捧げることは、聖書的にみて正しいですか。祈りは、どのように神に捧げられるべきですか。

[148]五ノ十六、十四ノ十三)御使いを通して神に相・対・的・な誉を捧げることは、次のように戒(いまし)められています、『そのようなことをしてはいけない。…………ただ神だけを拝(はい)しなさい。』(黙示録、十九ノ十。廿二ノ八、九、新口)…………目に見える偶像を崇拝の助けと考え、偶像を通して相対的な崇拝を捧げることは、コリント後書五章七節(新口)の『私たちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。』というキリスト教の原則に全く反するものです。

     制度の崇拝

……………

[149]……………

 14 これとは反対に、偶像崇拝に関する大論争を悟(さと)らない人々は、あらゆるものの中でも一番大きな偶像を容易に拝み、かつ崇拝を捧げています。残忍な第一次大戦の後、二つの角の或る世界勢力は、帝国の権威を持つ偶像を設立して、地を支配する権利と権威を主張するであろう、とイエス。キリストは警告しました。(黙示、十三ノ十四、十五。十四ノ九ー十一。十七ノ十一)一九一九年、その政治的な偶像は、国際連盟として初まり、現在では新しい制度、すなわち平和と安全のための国際的な制度になっており、神の設立した御国に敵対する大きな偶像です。神に反逆するキリスト教国は、御国の宣明に反対するとともに、神の御国を拒絶し、そして地の支配を得ようとする人間の無駄な努力を称讃(しょうさん)しています。

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⓮⓯現在、どんな大きな偶像が立てられていますか。誰がそれを崇拝していますか。その偶像と、偶像崇拝者にはどんな結果が生じますか。

 15 これは、神に対する明白な反逆です。知識があるにもかかわらず、それは心をかたくなにさせると共に死の亡びをもたらす偶像崇拝を行わせています。(サムエル前、十五ノ二十三)それや、他の政治的なすべての偶像が亡ぼされる時、それらの偶像崇拝者たちは、次のような嘲(あざけ)りの言葉をうけます。『彼らの神々は何処におるや、彼らが頼める磐は何処ぞや。…………それらをして起(たち)て汝らを助けしめ汝らを守らしめよ。』(申命記卅二ノ卅七、卅八)偶像に頼って、偶像に崇拝を捧げる者はみな必らず失望を感じ、死滅してしまうでしょう。

 16 ヱホバの宇宙的な至上権について、いまや大論争が生じています。ヱホバの宣明された言葉によると、人間は、ヱホバが全能の神なることを認めざるを得ないでしょう。しかし、その事実を認めようとしない者たちは、亡ぼされてしまいます。(詩、八三ノ十八)偶像が木のものでも、石のものでも、また人間の制度であろうと、他の形態(けいたい)のものであろうと、また崇拝や讃美が直接のものであろうと、相対的なものであろうと、あらゆる偶像崇拝は神の律法に反するものであり、ハルマゲドンの時に神より亡ぼされてしまうでしょう。生ける神の至上権を否定する者たちや、神の御国に敵対するものがことごとく亡ぼされてしまい、かつ統治している王キリスト・イエスによってヱホバの宇宙的な支配が永遠にわたって立証されてからは、人間はもはや、人間とか、動物とか、また制度の偶像をつくったり、崇拝したりすることはありません。神の像(かたち)に似せられている従順な人間が再び下等動物を正しく支配し、神に讃美を捧げる時は来るでしょう。--詩、一五〇ノ六。

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⓰ヱホバは、どのように御自身の至上権を立証しますか。人間は、どのように、そして何時、神の与え給う支配権をこの地に行使しますか。

[151]   第十四章   祈りによって神に達する道

 1 現在の混乱に陥(おちい)っている不幸な世の中に住んでいる大多数の人々は、次のような態度を採(と)っています。つまり、良いことは当然なものと思い、そしてなるべく反対を受けない楽な道を選びます。そして、不幸な状態が生ずると、祈りを捧げて救いを求めるのです。もし、その祈りが直ぐに答えられないと、主なる神は祈りに答えるのに失敗した、のだと感じます。健康、平和、繁栄を願う祈りを捧げても、その祈りは答えられません。たとえ、誠実な気持ちから全能者と信ぜられる神に祈りを捧げても、その祈りは答えられません。考え深い人々は、いまこの大切な事柄を真剣に考えるべきです。そして、正しい道を求めるため、次のように尋ねるべきです。すなわち私たちはどのように祈るべきですか。誰に祈りを捧げるべきですか。不完全な人間が全能者に達するには、特別の要求がありますか。実際に、なぜ祈るのですか。

 2 これらの質問や、またこれらと等(ひと)しく重要な多くの質問に対する答は、祈りを聞きとどけてもらいたいと思う人々の大いなる教科書、聖書の中にあります。すべての生命は創造主に依存しているゆえ、永遠の生命を欲する人々がどのように祈りによって創造主に達するか、どのように祈りを用いるべきか、祈りは何を為しとげるか、を知ることは是非必要です。

 3 人類にとって、祈りは事さら新しいものではありません。正義の心を持つ人々は、自分自身の力だけに頼るならば、生涯中に起きる多くの難問題をとうてい解決することはできない、ということを早くから悟ってい

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➊➋一般普通の人々は、祈りに対してどのような態度を取っていますか。この事柄について、重要などんな質問が考えられますか。      ❸祈りは何時始められましたか。このことを裏付けるどんな例がありますか。

[152]ました。エレミヤは次のように告白(こくはく)しています、『ヱホバよ、われ知る。人の道は、己(おのれ)によらず、かつ歩む人は自らその歩みを定(さだむ)ること能(あた)わざるなり。』(エレミヤ、十ノ廿三)このことを最初に悟った人は、おそらく正義の人アベルでした。アベルは、御旨(みむね)にかなう犠牲を神に捧げると共に、祈りと讃美の言葉を神に捧げたに違いありません。アベルの行(おこな)いに従う人々は、祈りを通して神を求めました。その人々の中にダビデがいます。ダビデは、自分の生命を狙う敵に取り巻かれたとき、次のように叫びました。『ヱホバよ、願わくはわが祈りを聞き、わが願いに耳をかたぶけ給え。なんぢの真実(まこと)なんぢの公義(ただしき)をもて我にこたえたまえ。』神がダビデを救われた時、彼は今の私たちに慰めを与える次の言葉を語りました、『すべてヱホバを呼ぶもの、真(まこと)をもて之(これ)を呼ぶものにヱホバは近くましますなり。』(詩、一四三ノ一。一四五ノ十八)ヨナは、大魚の暗(くら)い腹の中にいて、一見したところはもはや絶望(ぜつぼう)のような状態にいました。彼は、そのところから逃れることはできない、と悟(さと)ったにちがいありません。救いを得るために、『ヨナは魚の腹の中よりその神ヱホバに祈り、ヱホバその魚に命じたまいければヨナを陸(くが)に吐(はき)いだせり。』(ヨナ、二ノ一、十)今日の多くの人々は、ヱホバに依存していることを悟るべきです。

 4 祈りを捧げる時に、特別な姿勢を取ることは必要ではありません。祈りによって神を求める時に、ダニエルが獅子のところに投げこまれる前に為していたごとく、膝をかがめることは、たしかに適当な行いです。膝をかがめる姿勢は、うやうやしい謙遜さを示すからです。パウロは、「私はひざをかがめて………父に祈る」と言いました。しかし、更に次のように言っています、『常にさまざまの祈りと願いをなし。』(エペソ、三ノ十四、新口。六ノ十八)それで、いつも姿勢をかがめる必要はないと、パウロは言っているのです。イエスに、弟子たちに向かい、『立って祈るとき…………ゆるしてやりなさい』と告げました。(マルコ、十ノ廿語、新口)あ

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➍神に祈りを捧げる際の正しい姿勢とは何ですか。

[153]る時、神の僕たちは「首を下げ、地に平伏してヱホバを拝めり。』(ネヘミヤ、八ノ六)姿勢が大切なのではありません。夜の寝床の中でも、食事の時でも、あるいは毎日の仕事をしている時でも、祈りをすることができるのです。

 5 僕たちの祈りに答え得る方は、異様な異教の神でなく、ヱホバであることに注意してください。このことを裏付ける特別顕著な例は、列王記略上第十八章に記されています。異教のバアルの予言者たちは、天から火を下すようにと、自分たちの神に繰り返し繰り返し祈りましたが、それは全くの無駄(むだ)でした。予言者たちは、朝から夜にいたるまで祈りましたが、バアルはその祈りに答えることができなかったのです。次に預言者エリヤは真の神に祈りを捧げました。ヱホバは天から火を降(くだ)すことによってエリヤの祈りに答えられました。犠牲は、ごまかしを防ぐために水で濡らされていましたが、天からの火は、その犠牲を全く焼きつくしてしまったのです。ヱホバは、『私たちが求めまた思うところのいっさいをはるかに超えてかなえて下さる。』エペソ、三ノ廿、新口。

 6 ヱホバは人の祈りを聞くことができます。ヱホバの感知力は極めて鋭く、人の心の考えも理解することができます。ペルシャにいたネヘミヤは、エルサレムのくづれた石垣のことを悲しく考えていました。ネヘミヤが酒人(さかびと)として仕えていた王は、そのことを疑問に思い、ネヘミヤになぜ悲しく思うのか、その理由を告げよ、と命じました。ネヘミヤは、石垣を直(なお)したいという願いを王に告げる前に、『天の神に祈り』ました。(ネヘミヤ、二ノ四)王には、その祈りが聞こえませんでしたが、神はその祈りを聞いて、祈りに答えられたのです。すべての人は、ヱホバに来なければなりません。ダビデは、そのことを次のように述べています。『祈りを聞き

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➎どんな出来事は、祈りに答え得る方が誰であるかを示していますか。     ➏その方は、なぜ祈りを聞くことができますか。

[154]給うものよ、諸人こぞりて汝にきたらん。』(詩、六五ノ二)しかし、間ちがったことを求める者たちは、神に願い求めても、その祈りは叶えられないでしょう。--ヤコブ、四ノ三。

 7 すべての人間は不完全で罪深い者たちです。それであるなら、人間はどのように、完全で正義の神に近づくことができますか。聖書には、次のように書かれています、『義人はいない、ひとりもいない。』『ヱホバは悪者(あしきもの)に遠ざかり、義者(ただしきもの)の祈りを聞き給う。』(ロマ、三ノ十、新興語。シンゲン、十五ノ二十九)義者(ただしきもの)の祈りだけが聞かれるのです。しかし、義人はひとりもいないのであるなら、いったい誰の祈りが聞かれるのですか。ヘブル語聖書およびギリシャ語聖書にも示されているように、ヱホバに捧げた祈りが答えられた人々がいます。それらの人々は、みな共通のものを持っていたために、神と交わることができたのです。彼らはみなヱホバの存在していることと、ヱホバの力に絶対の信仰を持つとともに、ヱホバは御自分の道を求める人々をよろこんで援助せられる、ということを信じていました。たとえ、人間の目には不可能のように見えるものであろうと、ウェホバは御自分の約束を果たし得る方であると、彼らは信じました。この信仰の故に、神は彼らを義者と認めたのです。強い信仰を持っていたアブラハムは、老齢になっても神より子供を与えられると信じたため、神は『これを彼の義となしたまえり。』(創世、十五ノ六)信仰は、神の言葉を知ることに基(もとづ)いています。

 8 神は、その御予定の時に、独り子なるキリスト・イエスを遣わされました。み子は贖(あがない)となって人類を罪より救うために、ご自分の生命を棄てられたのです。それで、この愛の御準備の恩恵にあづかる人々には、祈りによって神に近づく新しい道が開(ひら)けました。人はいまは、その新しい道だけによって神に近づき得るのです。このことは、次の言葉を言われたイエスによって示されました、『だれでも私によらないでは、父のみもとに行

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➐不完全で罪深い人間は、どのように完全で正義の神に祈りを捧げることができましたか。    ➑神に近づく人々のために、さらにどんな御準備が為されましたか。このことを知ると、どんな偽りが明白に分りますか。

[155]くことはできない。』(ヨハネ、十四ノ六、新口)これに反する宗教的な議論は、間ちがいであり、また『裏口』によってヱホバに祈りを捧げることは全く禁ぜられるものです。バチカン市にいるローマ法王、数限(かずかぎ)りなく多くいる『聖徒たち』また、イエスの母親であるマリヤを通して祈りを捧げることも、間ちがいです。それらのものを通して祈りを捧げよ、などと示す聖句はひとつもありません。イエスは、こう言われました、『何事でも私の名によって願うならば、私はそれをかなえてあげよう。』--ヨハネ、十四ノ十四、新口。

 9 それで、人々や国民がどれ程多くの祈りを捧げようとも、それがなんの成果も得ていないのは、まったく当然です。彼らは、ヱホバの備え給うた神に、近づく唯一の道を拒絶しているからです。しかし、神が彼らの祈りを拒絶される別の理由もあります。神は、ご自分の御意(みこころ)を為そうとする人々の祈をいつでも聞きます。しかし悪しき者たちや、神に背(そむ)いて神の正義の律法に従わない者たちの祈りにはよろこびを感じません。『耳をそむけて律法を聞かざる者は、その祈りすらも憎まる。』(シンゲン、廿八ノ九)宗教的な牧師は、この級に属する者たちです。彼らは『汝殺すなかれ』という神の律法を無視するだけでなく、自分たちの国が成功裡に殺人できるようにと祈っているからです。ヱホバは、戦いを行っている片方の側を祝福するでしょうか。『なんぢらが多くの祈りをなすときも聞くことをせじ、なんぢらの手には血みちたり。』--イザヤ、一ノ十五。

 10 イエスの弟子たちは、祈りの大切なることを認め、イエスに祈りの方法を尋ねました。イエスは、今日のクリスチャンの是非知っておかねばならない指示を与えました。(ルカ、十一ノ一ー四)私たちはイエスの指示を考慮するときに、現在している祈りの方法を変えることがあろうとも、その指示通りに行うべきです。

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➒多くの祈りは、なぜ成果を得るのに失敗していますか。     ➓⓫(イ)イエスの弟子たちが、祈りの方法を尋ねたとき、イエスは何を与えましたか。(ロ)イエスは、その祈りの初めのところで、どんな重要な事柄を指摘しましたか。それで、平和を祈願する大部分の祈りについては、何がわかりますか。

[156] 11 イエスは、マタイ伝六章五、六節(新口)で次のように言われました、『また祈る時には、偽善者(ぎぜんしゃ)たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠(かく)れたところにおいでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。』隠れたところで祈るようにと、イエスは弟子たちに教えられており、また、人々の見るところで賞(ほ)め言葉を受けるために公やけの場所で祈る無益さを強く指し示しています。戦勝、平和、繁栄を祈願する多くの祈りは、ラジオとか新聞紙上で大々的に言いひろめられています。そのような祈りは、明らかに祈りを捧げる者たちに人々の注意を集めるためのものであって、彼らは、自分たちの求めている報いである、人の称讃(しょうさん)を受けます。神は彼らの祈りを聞かれず、また彼らの為を図(はか)る行をしません。

 12 自分の部屋の隠れた場所以外でする祈りは、偽善のものだ、という風にイエスの言葉を解釈することは間違いです。イエス自身多くの場合に部屋の外で祈られました。もし、そのことが間違いであったのなら、完全な模範を残されたイエスは、そうしなかったでしょう。イエスは、他の人々にも聞こえる祈りを捧げられまし

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⓬『自分の部屋のかくれたところに行きなさい』という諭(さとし)の言葉を、どのように解釈してはなりませんか。なぜですか。

[157]た。それは、イエス自身に人々の注意を集めるためでなく、神の御名と御国の栄光に証(あかし)を立てるためだったのです。それで、五千人の人に食物を与える前に、イエスは皆の前で神に感謝の言葉を捧げました。また、いろいろの場合に弟子たちのいるところでイエスは祈られ、そして弟子たちも他の人々に啓発を与えるために、公の場所で祈りました。それですから、イエスも弟子たちも『自分の部屋の隠れたところに行きなさい』というイエスの言葉を、次のように解釈しませんでした。つまり祈りはいつも他の人々の見えないところ、聞こえないところで言わねばならない、という風に解釈しなかったのです。イエスは、他の人に聞こえる祈りを捧げて、神に次の言葉を述べました。『あなたがいつでも私の願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたが私をつかわされたことを信じさせるためであります。』--ヨハネ、十一ノ四二。六ノ十一、新口。

 13 イエスは、更に次のように弟子たちを教えられました、『また祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられると思っている。だから、彼らのまねをするな。あなた方の父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。』(マタイ、六ノ七、八、新口)異教の仏教徒や喇嘛(ラマ)教徒たちは、祈り車を使用しており、その中に祈り文を入れます。そして、祈り車が一度廻る度に、その中の祈りは捧げられる、と考えています。今日、幾百万という人々も彼らと同じく、珠数(じゅず)を用いたり、または、祈禱書の中の祈りを幾度も幾度も繰り返し述べているのです。そのような行は、イエスの教えと全く反対であると悟り、そして神の御意に一致した祈りを捧げたいと誠実に望む人々は、『異邦人のように、くどくどと祈るな。』というイエスの命令によろこんで従います。彼らはイエスの別の教えにも従います。

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⓭(イ)異邦人たちは、同じことを幾度も幾度もどのように繰り返して言いますか。今日、異邦人のような人々はどうですか。(ロ)心が誠実であって、このことを悟る人々は、何をしますか。

[158]     模範的な祈り

 14 イエスの次の言葉は、模範的な祈りです。それは、意味や内容を考えずにすらすら繰り返して言う祈りではありません。その祈りによって、祈りは誰に捧げるべきか、また信者は何を正しく祈らねばならぬかが明白となります。イエスは、次のように祈れと弟子たちに語りました、『天にいます我らの父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように、私たちの日ごとの食物を、今日もお与えください。私たちに負債ある者をゆるしましたように、私たちの負債をもおゆるしください。私たちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。』--マタイ、六ノ九ー十三、新口。

 15 この模範的な祈りは、どの面から見ても利己的なものではありません。神を『われらの父よ』と呼びかけていることは、祈りを捧げている者以外の他の者たちをも最高者の子供たちなることを認めるものです。そして、祈りを捧げる人は、個人的な欲望だけを考えていません。更にまた、そのように祈る人々は、キリストの贖いの犠牲の恩恵に与っており、神の霊的な子か、もしくは地上に生きる子なることを示しているのです。霊的な子の残れるものは、いまでも地上におり、そして一九一八年以来、ますます増加する善意者の群れは、残れるものと協同しているのです。善意者の群れも、ヱホバを『われらの父よ』と呼びかけることができます。なぜなら、キリストの千年統治期間中に、彼らは生命の与え主、キリスト・イエスの地的な子たちになるからです。それで、つまりは神の『孫』という立場になります。聖書の中では、祖父はしばしば父と言われています。

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⓮イエスの与えた模範的な祈りの目的は、何でしたか。簡単に言うと、その祈りは、何を告げていましたか。

⓯この祈りは、どのように利己的なものではありませんか。誰が『私たちの父よ』という言葉を正しく言うことができますか。

[159] 16 ヱホバのみ名と至上権の立証は、聖書の中の一番重要な教理です。そのため、ヱホバの御名と御国のことが模範的な祈りの中でまず最初に述べられているのです。御国はすでに天に設立されているのです。しかし、御国が悪しきサタンの全世界に対して来る、つまりそれに敵対して、完全に亡ぼされねばなりません。その時の来るまで、神の僕たちは御国の来ることを祈り続けます。食物や住居は生活に必要なものですが、しかし、それらのものを求めることは、第二番目の事柄です。毎日の生活に必要な分だけを願い求めることは許されています。そしてヱホバに感謝しつつ、それらのものを頂かねばなりません。ヱホバは私たちが求める前から、私たちの必要なものをことごとく知っておられます。

 17 『御意(みこころ)が行われますように。』とイエスは教えられました。利己的なこの世の指導者たちは、世界支配を図る自分たちの計画達成に神の援助があるようにと、祈ります。そして牧師たちも共々に戦勝祈願の祈りを捧げているのです。この世の国家が成功するようにとか、存続するようになどとイエスが、祈ったことは一度もありません。それどころか、イエスは次のように言われました、『わたしがお願いするのは、この世のためでにではなく、あなたが私に賜わった者たちのためです。』(ヨハネ、十七ノ九、新口)国家が祈りの日を選び、そして神は、その目的を認めるだけではなく守るべきだ、と一致の要求をすると、求めるなら、どういうことになりますか。または諸国民の群れは結成されて、神の祝福がその取極(とりきめ)の上に注がれるようにようにと、求めるなら、どういうことになりますか。いくら多くの祈りを捧げても、それは無駄なものです。神のみこころに一致しない祈りは、決して神に聞かれないでしょう。しかし、忠実な神の子の一人が、神に向かって、『私の思うところではなく、あなたの御意が為されますように。』という正しい祈りを捧げるか、あるいは愛されたダビデの言ったごとく、「汝はわが

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⓰この祈りは、事柄の重要性の順序を、どのように示していますか。     ⓱現在の世界の指導者たちの捧げる祈りと、キリストやその弟子たちの祈りは、どのような面で違っていますか。

[160]神なり。われに御旨(みむね)を行うことを教え給え。』というならば、その祈りはヱホバの高き座位(みくら)に達するだけでなく、必ずやヱホバによって答えられます。『義人(ぎじん)の祈りは、大いに力があり、効果のあるものである。』--ヤコブ、五ノ十六、新口。

 18 イエスの教えに従い、私たちは自分の負債(ふさい)(罪)が許されるようにと祈ります。といって、故意に悪を行っても、その言葉を繰り返して言うなら過去に対する責任はもはや取る必要がなくなり、そして機会のある度に悪行をしてもよい、という意味ではありません。誠実な気持ちの中に主の教えに従おうと努めながらも、不完全であるために主の正義の要求を破り、完全な行いを為し得ない人々がいます。この祈りは、実はそのような人々のためのものです。誤ちは、キリスト・イエスによって許され、罪はキリストの血によって清められます。しかし、神のあわれみによって私たちの誤ちが許されるためには、私たちは、自分に対して誤ちを犯す人々に憐れみ深くなり、神のなされるごとくに、彼らを許さねばなりません。『あわれみ深い人たちは、さいわいである。彼らはあわれみを受けるであろう。』--マタイ、五ノ七。六ノ十四、十五、新口。

 19 ヱホバがご自分の僕(:しもべ)たちを罪に誘惑(ゆうわく)するようなことは、決してありません。そのような誘惑は、みな悪しき者であるサタンから来るのです。『私たちを試みに合わせないで、悪しき者からお救いください。』ということは、つまり私たちの堪え得る以上に私たちを試みないで下さいと、神にお願いすることです。(マタイ、六ノ十三、新口。コリント前十ノ十三)もしヱホバの愛の導きと、保護がないなら、ヱホバの僕たちは悪魔の思いのままになってしまいます。悪魔は『ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。』(ペテロ前、五ノ八、新口)ヱホバは、誘惑者とその世界から私たちを救い、また必要な時には神の救いを祈り

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⓲『私たちの負債をおゆるし下さい』という言葉の意味は、何ですか。    ⓳神は、私たちを試みに合わせずに、どのように救いますか。

[161]求めるようにすすめておられます。マタイ伝六章十三節(欽定訳)に付け加えられている「御国と、力と、栄光は、永遠に汝のものなればなり、アーメン」という言葉は、偽りのものであって、現代のどの聖書訳から取除(とりのぞ)かれています。

 20 大洪水が引いて後に、ノアは方船から出て、先ず第一に祭壇をつくりました。そして、犠牲と祈りをヱホバに捧げて、ノアと自分の家族が救われたことを感謝しました。(創成、八ノ廿一)ハルマゲドン直前の今、神の忠実な僕たちは町から町に行き、耳を傾けるすべての者に恵みに充ちる招待を与えています。その招待とは何ですか。ゼカリヤ書八章二一、二二節は、その質問に対して次のように与えています、『この町の居民行(きょみんゆき)てかの町の者に向かい、われらすみやかに行きてヱホバを和(なご)め、万軍のヱホバを求めんと言んに、我も行べしと答えん。多くの民、強き国民エルサレム(天的新しいエルサレム)に来りて万軍のヱホバを求めヱホバを和(なご)めん。』

 21 読者も『万軍のヱホバを求め』る『多くの民』の一員になりたいですか。そして、ノアの家族によって予めに示されたごとく、ハルマゲドンの戦争に生き残って、ヱホバの香(こう)ばしきかおりの祈を永遠に捧げたい、と欲しますか。もしそうなら、亡びをうけるこの古い世のなす無益な祈りと繰り返しの祈を止めなさい。まず、御子、キリスト・イエスによる神の御国を祈りなさい。そして、いつも御国をまず求めなさい。

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⓴,21 今地上に生存している人々は、どのようにノアとその家族のようですか。この招待は、いま彼らにどのように差しのべられていますか。

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[209]   第十九章  ヱホバの証者とは誰ですか

 1 どこにいても、ヱホバの証者には反対の言葉が言われています。(使行、廿八ノ廿二)なぜですか。事実を正しく知らない人や、偏見を持っている人が、その原因になっています。どの問題にも二つの面があります。公正な態度を取る正直な人々は、真実のことを聞きたいと欲して、『ヱホバの証者とは誰ですか』と尋ねます。この問題については、誰もがヱホバの証者自身の側を聞く資格を有しているのです。ヱホバの証者は、反対者よりも、記録から事実を述べる十分の資格を持っております。公正な態度を取る人は、このことに異論を申し述べません。偏見のない判断をなし得るため、すべての人の参照し得る記録から、実際の証拠をここに記しました。

 2 これらのクリスチャンたちは、長なるイエス・キリストの導きに従いつつ、神の御意を為すために献身した人々の群れです。彼らは共に集まっていますが、それはヱホバという御名をお持ちになる方は宇宙の主権者であり、またその方は正義の天的な政府の造り主であり、創造主であることを宣明する目的の為です。イエスは、この天的な政府の来ることを祈りなさい、と弟子たちに教えられました。現在の地的な政府は、間もなく起こるハルマゲドンの宇宙的な戦争でみな必らず亡びるでしょう。しかし、これらの地的な政府が亡びた後でも、その御国は、永遠に存続します。そして、ヱホバの証者はその御国に通ずる唯一の道をすべての人に知らせて

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➊(イ)正直な人は、ヱホバの証者について何を知りたいと欲していますか。(ロ)誰が、ヱホバの証者についての事実を述べる一番良い資格を持っていますか。     ➋ヱホバの証者とは誰ですか。何の目的のために、彼らは共に集められましたか。

[210]いるのです。

 2 ヱホバ神は、約六十世紀のあいだ、ご自分の証者を地上に有しておられました。近代になって、証者たちが全世界の組織化された仕事をするために、どのように集まったかは次の通りです。一八七二年、アメリカのペンシルバニア州ピッツバーグに近いアリゲニイで、チャールス・テイズ・ラッセルは聖書研究会を始めました。この研究会はヱホバの御国とキリスト・イエスの再臨に関して聖書を研究する為に定期的に集会したのです。それから、程無くして、同じ事柄に関心を抱く聖書の研究者の群がアメリカ中に組織されました。時が経つ中に、そのような聖書研究の群れは、他の国々にも設立されました。アメリカにあった本部の指示に従う研究方法によりそれらの聖書研究の群は一致するようになり、世界中の研究者たちは、御言葉に述べられている全能の神の教えについて一致した意見を持つようになりました。

 4 時経て研究者たちは、聖書研究を印刷物にしました。そして、多くの国にいる特別な代表者たちは、人々に聖書の理解をひろめるため、それらの印刷物を家から家に提供しました。その結果、研究者の他の研究会、つまり会衆が全地に組織されました。その時以来、ヱホバの証者は国際的になっています。世界の何処の国にもヱホバの証者はいます。

 5 一八八四年、この国際的な団体の合法的な僕の群は、ペンシルバニア法律下に法人化されました。収益を図らぬ法人(ものみの塔聖書冊子協会)とヱホバの証者の統治体は、その時以来切り離すことのできない結び

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❸(イ)ヱホバはどの位の期間、人々の中に活潑な証者を有しておられましたか。(ロ)近代になって、ヱホバの証者の組織化は、どのように、そして何時始められましたか。   ➍(イ)どのように、他の人々は聖書の真理を理解するようになり、また他の者の理解を助けるために参加しましたか。(ロ)業(わざ)とその制度は、どのくらい広く増加しましたか。   ➎ヱホバの証者の合法的な僕の群は何ですか。その歴史はどのようなものですか。      

[211]つきを持つようになりました。、一九〇九年、法人の本部はピッツバーグからニューヨークのブルックリンに移転し、それから共同の慈善法人が形成されました。それは、ニューヨークの法人で、いまでは法人団体、ものみの塔聖書冊子協会として知られています。他の国々では、英国やカナダの万国聖書研究会のような、他の共同法人が用いられています。

      その名前

 6 近代になって組織化された最初から、これらのクリスチャンたちはいろいろの名前で呼ばれてきました。事実を知らない人たちや、敵共は、これらのクリスチャンを偽りにも『一宗派』と呼んだり、またラッセル主義者、千年期黎明主義者(れいめいしゅぎしゃ)、ルサフォード主義者、その他の名前で呼んでいました。これらの神の僕たちは、約半世紀のあいだ特定な名前を用いず、クリスチャンと称していました。しかし、友人たちや、関心を抱く他の人々は彼らを『聖書研究者』と呼んでいました。一九三一年、多くの国々からの代表者たちは、オハイオ州コロンブスの大会に集まり、次のことを決議いたしました。すなわち、彼らは『あなた方は私の証者ですとヱホバいう」(イザヤ、四三ノ十。四四ノ八、ア標)の聖句にもとづき「主なる神の命名したヱホバの証者という名前で知られ、かつ呼ばれるのを欲すると、決議したのです。その後、全地にいたこれらのクリスチャンすべての会衆または会は、神の与え給うたこの御名を認めると宣言しました。--一九四一年の年鑑(英文)卅ー卅三頁を見なさい。

 7 一九世紀以来、たしかにシー・ティ・ラッセルや、ジェー・エフ・ルサフォードのような人々は、ヱホバの証者としてこの世界的な業に顕著な役割を果たしてきました。丁度、むかしのキリスト・イエス、パウロ、ペテ

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➏➐(イ)現代になって、ヱホバの証者はどんな偽りの名前で呼ばれましたか。そして、誰によって呼ばれましたか。(ロ)どんな真の名前が彼らに与えられましたか。誰から、そしてなぜ?

[212]ロ、バプテスマのヨハネ、モーセ、アブラハム、ノア、アベル、そして他の数多くの人々が、ヱホバの証者として神の業に顕著な参加をしていたのと同じです。しかし、聖書からも、実際の事実からも次のことは、はっきり分かります。すなわち全能の神であるウェホバ御自身が御自分の証者たちを任命せられた方であり、また任命し続けられる御方である、ということです。そして、このことを裏付けるために、ヱホバは証者たちに御自分の名を与えておられるのです。--エレミヤ、十五ノ十六。

     伝道の方法

 8 ヱホバの証者が用いている教導(きょうどう)方法と伝道方法は、原始的です。つまり、ヱホバの大いなる証者キリスト・イエスの始められた最初の伝道方法を用いている、ということです。イエスと彼の使徒たちは、公やけにまた戸別伝道をしました。(使行、廿ノ廿)福音を伝道する真のクリスチャンは、みな彼らの足跡に従い、彼らの為したのと同じことをしなければならぬ、と命ぜられています。(ペテロ前、二ノ廿一。ルカ、廿四ノ四八。使行、一ノ八。十ノ卅九ー四二)音信を人々のところに伝えるという点で、ヱホバの証者の伝道は、宗教牧師の伝道とは全くちがうものです。宗教牧師の要求するところによると、人々は牧師のところに行って、お説教を聞かねばならないのです。

 9 ヱホバの証者は、人々を招待して、お説教をするための大きな教会の建物を建てることに時間や金銭を浪費しません。経験と統計からも証明されるように、教会の建物をつくってもすべての人に音信を伝えることは

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➑(イ)ヱホバの証者は、どのように、そして誰の模範に従って伝道しますか。(ロ)ヱホバの証者たちは、なぜ原始的な仕方で伝道しますか。そのようにするヱホバの証者は、牧師たちとどのように違いますか。   ➒(イ)なぜ彼らは、伝道用の高価な伽藍や、寺院を立てたり、用いたりしないのですか。(ロ)家庭でヱホバの証者から音信を聞くことのできない人々は、何処で奉仕を受けますか。

[213]できないでしょう。全部の人がそのような建物に来ないからです。多くの国々では、半数以上の人々は宗教制度に属していません。幾百万という人々は、牧師のいる教会に属しながらも、教会に出席していません。しかし、牧師のところに行きたくない人の中には、神の言葉の真理に大きな関心を持っている人が沢山います。それらの人々は、主イエス・キリストの奉仕者が自宅に音信をもたらすなら、よろこんで音信を受け入れるでしょう。それで、ヱホバの証者は、人々の家庭で無料の聖書研究を開きます。それだけに止まらず、ヱホバの生者は公共の場所や街頭で音信を人々に伝えます。世界中のヱホバの証者は、日々街頭に立ち、街路を通る人々に印刷した生命の言葉を提供します。--使行、十七ノ十七ー廿二。

 10 伝道の業(わざ)をしているヱホバの証者は、人々の便宜(べんぎ)のために本や冊子を使用します。そのような出版物の中には聖書の真理がいつまでも残るように書かれているため、興味を持つ人は自分の都合の良い時に何時でも研究することができます。幾世紀もずっと昔には、人々は奉仕者を自分の家に幾時間でも、幾日でも滞在させることができました。しかし、今日では、そのようなことはできません。ヱホバの証者の用いる文書は、極く少数だけが聞ける口頭(こうとう)の説教または聖書の話の代わりをなすものです。文書は、商売の儲けのためとか、巨大な利益を得るため、というような利己的な目的で印刷されたり、配布されたりしてはいません。実際のとこ

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➓(イ)ヱホバの証者は、伝道するときに、なぜ、そして何の代わりに、文書を用いますか。(ロ)ヱホバの証者は配布している印刷出版物を売りますか。もし、売らないのであるなら、彼らの業はどのように遂行されますか。

[214]ろ、文書は寄附で提供されます。この伝道の業に寄附できない人でも、興味を持っているならば、無料か、または人々の望む値段で文書は提供されます。(コリント前、九ノ十一ー十四)文書を配布するときに受け取る寄附は、もっと多くの文書を出版したり配布したりする費用をまかなうために用いられます。金銭の不足は、ヱホバの証者が償(つぐな)います。

 11 どのヱホバの証者も福音の奉仕者です。イエスのなしたごとくに良いたよりを伝道しない人は、ヱホバの証者のひとりではありません。たとえ、自分は奉仕者である、と主張するだけでは、その人は奉仕者になれません。神の啓示した言葉に一致する伝道をしてこそ、その人が奉仕者である、と証明されるのです。ヱホバの証者は、奉仕者の社会です。そして、彼らは宣教奉仕者の群れです。それは福音伝道者の群れであって、すべての者は丁度キリスト・イエスの使徒たちや、弟子たちで構成されていた最初の会衆の者たちがみな奉仕者であったのと同じように奉仕者です。(使徒行、二ノ四四ー四七。五ノ四二)活潑な奉仕者は、みな自分の会衆として善意者の群れを有しています。そして、自分に割り当てられた区域内にいる善意者には、善意者の自宅で奉仕します。そのような奉仕者は、人々のところに行きます。善意者は、神の御国を学ぶために奉仕者を探し求める必要はありません。

 12 今日のヱホバの証者は、自分の宗教を準備するために神学校や宗教大学に行きません。キリスト・イエスやその使徒たちも行かなかったのです。また、キリスト・イエス以前の世紀に神の命じ給うた宣教を行った他のヱホバの証者たちもそのような学校に行かなかったのです。しかし、今日のヱホバの証者は、ヱホバ神とキ

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⓫(イ)ヱホバの証者の一人一人は、なぜ奉仕者ですか。(ロ)各人は、どんな種類の群に属していますか。彼は誰に、そして何処で奉仕しますか。     ⓬(イ)どのようにそしてなぜ、彼らは奉仕者として働く準備をうけますか。(ロ)何処でそしてどの教科書から彼らは教訓をうけますか。

[215]リスト・イエスの奉仕者として任命される前に正しい指示と訓練を定期的に受けます。ヱホバの証者のどの会衆も、奉仕者を教えるためと、宣教を準備している研究生のために定期的な研究会を開いています。主要な教科書は聖書です。偽りの宗教的な言い伝えや、教義に染まっていない他の本や教訓は、行なおうとする宣教の良い業に対して、研究生に全き備えをなさしめるためのものです。そのほかに、円熟した奉仕者の指導下に、宣教を実際にすることも行われています。それは、研究生の訓練を完全なものにするためです。

 13 宣教の準備をする奉仕者や研究生の為の研究集会は、途切れずに開かれるものであっても、研究生は正しい備えをうけるためには、多くの時間を宣教の準備に費やさねばなりません。或る人々は、他の人々よりも資格を早く身につけます。必要な知識を得る為には、ある人々は他の人々よりも、幾ヵ月も、幾ヵ年もかかるかもしれません。一方、ある人々は数ヵ月の中に正しい知識を身につけます。エチオピアの閹人(えんじん)は、馬車に乗っている中にピリポから教えをうけました。それから馬車を止めて洗礼を受け、キリストの福音の任命された奉仕者になりました。(使徒行、八ノ廿六ー卅九)どれ程の時間が必要かは、研究生の勤勉と能力に依存しています。どの場合であっても、研究生はキリストの導きの下に、ヱホバの御意をするためにヱホバに献身しており、かつ教えたり、伝道したりすることのできることを示さねばなりません。これは主要な要求であって、研究生が『ものみの塔聖書冊子協会』を代表する正しく任命された奉仕者として認められ、遣わされる以前に、その要求は是非とも果たされねばならないのです。--テモテ後、二ノ廿四、廿五。

     任 命

 14 そのように遣わされる奉仕者は、みな最初ヱホバによって任命され、認可されます。キリスト・イエス

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⓭(イ)どの位の時間内で、人はヱホバの証者の一人として奉仕者の資格を受けますか。(ロ)奉仕者として、奉仕を始める前に、どんな要求を果たさねばなりませんか。

[216]は、ヨルダン河で洗礼を受けたと同時に、任命をうけました。(イザヤ、六一ノ一、二。ルカ、四ノ十七ー十九)ヱホバの証者の僕(しもべ)である合法の法人団体は、代表者となる各奉仕者を認可します。また、その者が伝道をなす正しい権威を有しており、かつ聖書にもとづく制度の規定に一致して正式に任命されたことを、それは認めます。

 15 宣教は大人や年老いた者だけに限定されていません男も女も、街頭でなす野外奉仕や家から家の野外奉仕をする特権を与えられています。年少者は伝道するのが許されているだけでなく、そうするよう招待されています。(ヨエル、二ノ廿八、廿九。使徒行、二ノ十六ー十八。詩、一四八ノ十二、十三)ヱホバの証者の子供たちは、みな『ヱホバのいましめと権威ある助言に従って』育てられねばならず、きわめて早い時から宣教の訓練を受けねばなりません。たとえ年少者であっても学校教育を終了してから、もし宣教をしたい、と希望するなら、その子供は宣教をすることができます。昔の特別顕著な例にサムエル、エレミヤ、そしてテモテがいます。非常に若い時でも彼らが忠実なヱホバの証者であったことは、子供たちが奉仕者の働きをなすのは正しいことであると裏づけています。(エペソ、六ノ四、新世。サムエル前、一ノ廿四、二ノ十一。三ノ一。エレミヤ、一ノ四ー七)使徒パウロは、テモテを奉仕者として遣わした、と述べています。テモテは、その年若いことの理由で人から軽んぜられてはならぬ、とパウロより戒(いまし)められました。--コリント前、四ノ十七。テモテ前、四ノ十二。

 16 ヱホバの証者の配布する文書の印刷費用と配布の費用は、受け取る寄附の額よりも

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⓮(イ)誰によって、そしてどのように彼らは伝道の任命をうけますか。(ロ)彼らは伝道する権威について、どんな地的な証明を持っていますか。    ⓯奉仕者になれという召しと、ヱホバの証者として伝道する特権は、誰にさしのべられていますか。

[217]多くかかります。しかし、ヱホバの証者や善意者たちの自発的な寄付により、制度は支持されています。小時間伝道者は、自分の配布する文書の金額を協会に寄附します。それから、配布の費用をまかなう補助にするため寄附をうけとります。全時間奉仕者には、費用よりも安い値段で文書が供給されます。それは、開拓者の受けとる寄附によって、配布するための費用がまかなわれ、また自活に必要なものが得られるためです。これは、聖書的な行いでもあり、また使徒たちの行った仕方です。パウロはこのことをコリント前書九章七ー十四節で説明しています。それに加えて、特別な宣教の業をしている全時間奉仕者は、その特別な業を為し続けて行く為に、毎月の手当てを協会に要請(ようせい)することができます。

 17 ヱホバの証者は全世界を改宗しようと努(つと)めません。地上のすべての人をキリスト教に改宗するのは、彼らの目的でもなければ、義務でもありません。実際のところ、悪しき者や不敬虔な者を改宗することは、不可能である、と彼らは認めています。ヱホバも諭しているように、ヱホバの証者はただ神に善意を持つ人々や、心の正しい人々のみを援助しようと努めます。(詩篇、九七ノ十一)神の栄光ある御国の設立は、もし全世界の改宗ということを条件にしているなら、不可能でしょう。なぜなら、良いたよりをいくら長く、また根気よく伝道しても、多くの人々はヱホバと御国の側に決して立たないからです。ヱホバの証者が御国に通じる道について述べていることは、義(ただ)しき者にも悪しき者にも、すべての人に対する単なる証、叉は証言にすぎません。善良な心を持つ人なら、誰で

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⓰(イ)業を成し続けるために使用する金を、彼らは何処で得ますか。(ロ)全時間を伝道するヱホバの証者や、小時間を伝道しているヱホバの証者は、どのように生活を立てますか。    ⓱(イ)彼らは全世界をキリスト教に改宗しようと努めていますか。もし、そうでないなら、なぜですか。(ロ)音信を人々のところにもたらす目的は何ですか。

[218]もその音信を受け入れるでしょう。嘲笑をするものや、不敬虔な者は信用する値打ちのないものとしてその証を棄てるでしょう。

 18 ヱホバの証者は、キリスト教国の休みの日である日曜日に家から家の伝道をします。或る人々は、このことに反対していますが、ヱホバの証者はその日に伝道し続けます。なぜなら、イエスや、使徒たちや弟子たちもユダヤ人の安息日に伝道したからです。家から家の宣教の業をなすのに日曜日は、いちばん望ましい日です。その日には、多くの人が家に居るからです。それにイエスの言われたごとく、安息日または休息の日に善を為すのは良いことです。(ルカ、六ノ六ー九)休息の日に牧師たちは、説教壇から伝道します。ヱホバの証者もこの日には家から家の伝道をするのです。ヱホバの証者は文書を配布して寄附を受け取りますが、しかし、その業は商売的な行為とは全くちがうものです。丁度、日曜日の教会礼拝の時に牧師は寄附を集めてもそれは商売的な行為でないのと同様なことです。そのわけで、安息日または日曜日の売買行為を禁ずる法律もヱホバの証者のする日曜日の伝道活動に適用しません。

 19 ヱホバの証者は、カトリック信徒、新教徒、ユダヤ教徒、その他に反対している、としばしば言われています。それは偽りです。カトリック教徒であろうと、新教徒であろうと、またはユダヤ教徒であろうと、ヱホバの証者は、宗教がちがうという理由で他の人に反対するこ

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⓲(イ)彼らはなぜ日曜日に、家から家の伝道をしますか。(ロ)そのような日曜日の活動は、日曜日の売買行為を禁ずる法律に違反するものではない、とどのように証明することできますか。     ⓳⓴(イ)信仰が矛盾するからという理由でヱホバの証者はカトリック信徒や他の宗教を奉ずる人を攻撃しますか。そのような人々に対する彼らの態度は何ですか。(ロ)あらゆる宗教の偽りの理論や行に対しては、彼らはどのように取扱いますか。どんな結果が生じますか。

[219]とをしません。神に善意を持つ人は、人種、信条、皮膚の色、または国籍がどのようなものであろうと、ヱホバの証者によって愛されています。彼らはその愛を無私の態度で示します。すなわち、神の御国の支配下における永遠の生命に達する道についての真の音信を、ヱホバの証者は家から家に提供しているのです。使徒の言葉によると、これは他の人に愛を励(はげ)ます道です。

 20 しかし、ヱホバの証者は偽りの宗教の非聖書的な原則に対して攻撃します。ヱホバの証者は、神の言葉である聖書の真理により、人間のつくった有害な理論とか、言い伝えを曝露します。しかし、宗教の偽りの教理に頼ったため盲目にされたり、束縛されたりしている無実な善意者に対しては、ヱホバの証者は攻撃をしません。善意者は、ヱホバの証者の差し伸べる愛に感謝を示し、ヱホバの証者と共に聖書を研究いたします。宗教的な誤まりを曝露したり、また聖書の真理を啓示しても、神への奉仕を欲している正直な人の気持ちは乱(みだ)れません。

 21 ヱホバの証者は、この世の制度のなしているような会員名簿をつくりません。しかし、すべてのヱホバの証者のなす伝道活動の記録はつけられています。各人は自分の為す伝道活動を定期的に記録し、そして制度は各伝道者のなす業の記録をつけます。さらに、証者の一人になるとき、加入し得る人間製の制度はありません。ヱホバ神は僕たちを御自分のところにひきよせられます。(ヨハネ、六ノ四四)ひきよせられた人が、地上にいる神の僕たちと交わるようになると、協会はその新しい僕(しもべ)を認めます。協会は、正しく割り当てられた区域内でその僕の伝道することを承認します。ヱホバの証者たちと共にいるということは、奉仕者としてのその

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21,(イ)この世の制度の為すごとく、ヱホバの証者は会員名簿をつくりますか。彼らはどんな記録をつけますか。(ロ)彼らの管理する地的な制度に加わることができますか。彼らの一人であり、彼らと共にいる、ということは、どのように識別されますか。

[220]業によって示されます。証者のひとりとして活潑に伝道しない人は、制度と共・に・いません。制度と共に活潑に伝道している限りその人は制度と共にいると認められます。

      希望と見込み

 22 すべてのヱホバの証者が天に行くと期待しているわけではありません。実際のところ、極く少数である『小さな群れ』だけが天に行くと期待しています。(ルカ、十二ノ卅二)全能の神は御自分の制度の中にすべての成員を御意(みこころ)のままに置かれます。そして、『キリストの体』の数を十四万四千人に限定しました。『キリストの体』の成員は、神の天的な御国でキリスト・イエスと共に統治するでしょう。その体を構成する少数の残れる者だけは、今でも地上に残っています。

 23 現在ヱホバの証者として奉仕している多数の忠実な人々は、ときどき『他の羊』または『ヨナダブ級』と呼ばれています。彼らはエヒウ王に従ったヨナダブによって、あらかじめ表し示されたからです。(ヨハネ、十ノ十六。列王記略下、十ノ十五ー廿八。エレミヤ、卅五ノ八、十八、十九)彼らは天に行くことを期待していません。彼らには地上における永遠の生命が約束されております。また、ヱホバの証者としてハルマゲドンの戦争以前にヱホバに忠実を立証するなら、この地を治め、美化し、そしてこの地に人を充す、という特権が与えられることを約束されています。ヨナダブ級の人々は『キリストの体』の残れる者でないにしても、証者であります。丁度、キリスト・イエスを頭(かしら)にするキリストの体が、全能の神によってつくり始められる前の忠実な人々もヱホバの証者であったのと同じです。(へブル、十一ノ一より十二ノ一まで)キリスト・イエスに従う者として神の御意(みこころ)に献身している人、そしてヱホバの証者としての行(おこない)をしている人は、みなヱホバの証者

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22,23(イ)ヱホバの証者はみな天に行くことを期待していますか。天に行かない人々には、将来どんな奉仕の割り当てを神から頂ける、と期待しますか。(ロ)ヨナダブ級とは誰ですか。彼らはなぜヱホバの証者ですか。

[221]の一人である、と正しく言うことができます。それで、『他の羊』である『ヨナダブ級』もヱホバの証者であることが分かります。

 24 ヱホバの証者と交る人や、ヱホバの証者の一人になる人は、何か利己的な益を頂ける、と期待してはなりません。ヱホバの証者の一人になっても、この世的な標準に従う経済的な益が受けられることもなく、また社会的な名誉も得られるわけではありません。実際のところ、ウェホバの生者の一人になって全能の神の御恵みを頂くには、そのような標準と、この世的な野心すべてを棄てなければなりません。(ヨハネ、十五ノ十八ー廿一)ヱホバの証者になっても、この世的な益また一時的な益を得ることはできません。といって、何の益も得られない、というわけではないのです。

 25 物質的な見地から見るとき、神は御自分の忠実な僕に日々の食物と生活の必要品を与えると約束しています。しかし、神の御国がこの世の商業的制度を全く亡ぼしさる以前でも、霊的な祝福は、多く神より与えられています。そのような祝福の中でも一番大きなものは、最高の神とその神権政府の大使となり、すべての人の中にその祝福を宣伝(のべつた)えることです。別の益は、失われた羊を狩り求めたり、善意者を漁(すなど)り、そしてそのような人々をヱホバの懲らしめと権威ある助言の中に導いてヱホバの証者にならせる喜びです。また、全能の神がハルマゲドンで亡ぼす現在の悪しき組織制度の恐れ、重荷、そして悲しみから解放されるため、精神的な満足を感じます。また、永遠の生命に導く正義と真理の道を歩んでいる、と知ることも精神的な満足を感ぜしめます。それだけでなく、神の御国の支配下にあって、死人の復活を目撃することも期待しています。キリスト

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24,ヱホバの証者の一人になるとき、どんな物質的な益を期待してはなりませんか。    25,26,(イ)全能の神は、神への奉仕に献身している者に対して、ハルマゲドン以前に、どの程度までの物質的な御準備を約束し、また与えておられますか。(ロ)ヱホバに忠実に奉仕する者の得る満足と益は、どんなものですか。

[222]・イエスを通して行使される神の全能の力によって、記憶の墓にいる死人は、ハルマゲドンの戦争後,地上に復活するでしょう。そして、宇宙の主権者であるヱホバに自分の忠実を立証する機会が与えられるでしょう。

 26 他のあらゆる益に勝る最終の益とは、サタンの悪しき世がその支持者もろともに永遠に亡ぼされることによって、天の父の御名と至上権が立証されるのを見る満足です。この後にはヱホバの子であり、王であるイエス・キリストによって、ヱホバの全き絶対的な権威と主権は全地に行使されます。かくして、地上のどの場所にいようとも、ヱホバの忠実な証者と僕たちは、ヱホバを自由にしかも全く永遠に崇拝することが保証されるのです。

[289]    第廿六章  心を替えて生活を変化する

 1 私たちは、この世の人の言伝えや、哲学から離れ、神の言葉を学んで「神を真実なものとする」ことをしてきました。神は、次のように語って、目先の利かない、低い心を持つ人間と御自分とを比較しておられますが、私たちは、今ではその比較をはっきり認識することができます、『エホバ宣(のたま)わく、わが思はなんじらの思と異なり、わが道はなんじらの道と異なれり。天の地より高きがごとく、わが道はなんじらの道よりも高く、わが思はなんじらの思よりも高し。』私たちは、神の言葉が真実である、と確信しています。なぜなら、神は御自分の言葉を支持され、実現せしめているからです。神は次のように附言しています、『天より雨くだり、雪落ちて復(また)かえらず、地をうるおして物をはえしめ、芽(め)を出(いだ)さしめて、播(ま)く者に種(たね)を与え、食う者に糧をあたう。かく、わが口より出言葉もむなしくは我に返らず、わがよろこぶところを成し、わが命じ遣(おく)りし事をはたさん。』(イザヤ、五五ノ八ー十一)神の高尚な考えと道は、私たちを向上させるものです。神の言葉は、絶対に間ちがいません。それで、神の言葉は、私たちの真の知識であり、安全な導きです。

 2 正義の新しい世は、極く間ぢかに近づいています。ヱホバ神は、その創造者であります。それで、新しい世はヱホバ神の御考えによるのであり、ヱホバ神の御意(みこころ)と道に従って運営いたします。その故に、今こそ、神の真の御考えが何であるか、そして神の道が何であるかを知る最重要の時です。こうすることによってのみ、

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➊神の考えと道が私たちを向上させるのはなぜですか。何の故に、神の言葉は私たちの真の知識、安全な導きとなるのですか。    ➋新しい世に備えていま生活することは、私たちの生活に何を意味しますか。それは、なぜ是非とも必要ですか。それは、私たちのどの部分から始まりますか。

[290]私たちは新しい世の生活に備えて、新しい世に入る生活を始めることができます。もし今までこの世の宗教や、哲学や、仕方に従う生活をしてきたのであるなら、私たちは確かに生活を大変換(だいへんかん)しなければならないでしょう。しかし、来るべきハルマゲドンの戦争の亡びを避ける為に、私たちはいま生活をまったく変化しなければならないのです。そのように生活を変化することは、先ず私たちの心から始まらねばなりません。使徒パウロは、この世の組織制度の中に住んでいたクリスチャンたちに次のように語り、この点を明確にはっきり示しています。『この世の組織制度に従うのを止めなさい。むしろ、神の善にして御旨(みむね)にかなう全き御意(みこころ)をわきまえ知るために、あなた方の心を更(か)えて変化しなさい。』パウロは、神の示したもう憐(あわれ)み、すなわち恵みに頼って、この生活の変化をするようにすすめています。---ロマ、十二ノ一、二、新世。







註釈:角括弧の中は個人の注解。例えば、[:~~] という具合?!角括弧内の丸括弧も。可能性のみ、確かな確認はしていないが(アラマイ語のメシアの所??!)??!だとも思う。正式の本文では無いのだが?!事実上の事を書いた。此処では、憶測ではも無いが無責任でも無いのだが??!


無条件の丸括弧の中はもちろん日本語本文原文のルビの読み方!!角括弧と丸括弧の区別をしたが!!

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