FANDOM


世々に渉る神の経綸

[314]


第十一章 三路-潤路、窄路、公路 編集

[327]

福音期の聖徒等が生命の道に進み得るは単に「新たに造られし者」としてのみなり。而して単に人としては我等は犠牲として滅亡に指定されたるものなり。我等もし人としてキリストと共に死なば新しき霊的存在者としてキリストと共に生くべし、(羅六。八)。我等に在る神の心、新たに造られたる心は新しき性質の胚種なり。

新生命は容易く圧止せらるるものなるを以てパウロは我等に告げて、真理に従い霊に由りて生れし時我等もし肉に従いて生きなば死し(生命を失い)霊に由り体(人性の性癖)の工を毀たば(殺す)生くべし(新たに造られしものとして)、そは霊に由りて導かるる者は神の子なればなりと(羅八。一三、一四)と云えり。斯は聖徒として身を神に献ぜし者に取りては最も重要なる思想なり。如何となれば我等もし人生を犠牲にせんことを神に誓い、且つ其犠牲が神に嘉納せられしとせばこれを取り戻さんとするは無益の所作なればなり。人性は今死したるものとして神に遇せられ、且つ実際死せざるべからざるなり。 [328] 再び還りて肉的生命を貪らんとするが如きは小康の為に新たなる霊性を捨てんとするものなり。

然れども褒賞を望んで止まざる所の多くの聖徒あり、彼等は幾分か世の誘惑、肉の欲、悪魔の詭計等に罹りしこと有りと雖も霊に由りて生まれたるものなること明らかなり。彼等は時に其目の前に置かれたる褒賞を見失いて中道を歩まんとするものなり即「世を友とするは神に敵するなる」(雅四。四)を忘れ又褒賞を得んとして走る者に与えられたる教訓-此世を愛する勿れ、互いに人の栄を求むる勿れ唯神より出づる栄を求めよ-を忘れて神と人との親みを得んとするものなり、-約壱二。一五、約五。四四。

現世を愛すれども未だ主を見捨てず、彼等の契約を無視せざる者は鞭たれ、懲戒の火を以て鍛錬せらるべし。パウロの言葉を借りて言えば彼等は其肉を滅ぼさん為にサタンに渡さる。是其霊は主の日に於いて救われんが為なり、(哥前五。五)。彼等もし此訓練に由りて義しきに帰らば終に霊的状態に受け容れられて、天使が有する如き生命即限りなき霊的生命を有するに至るべし。然れども不死性の褒賞を失うべし。彼等は神殿にありて神に奉仕し、其手に棕櫚を持ちて王座の前に立たん(黙七。九-一七)、然れどもたとい彼等の地位は盛なるものとするも、これをイエスの新婦及共同的嗣子としてイエスと共に王位を占め、且つ不死性を以て飾られたる王たり祭司たる所の勝利者即ち「小群」の地位に比ぶれば遥かに劣るなり。

[329]

我等の旅路は険悪、険阻、狭隘なるものなり。故に一歩を進むる度毎に外部の援助を蒙るに非らずんば到底其目的地に達すること能わざるべし。然れども我等の首領の言葉は大に我等を奨励す、曰く恐るる勿れ我既に世に勝てり、我が恩汝に足れりそは我が能は汝の弱きに於いて全くなればなりと、(約一六、三三、哥後一二。九)。此道を歩む者に取りての困難とする所は此道は「神の後嗣」たるべき「一つの民」を潔めんが為め淘汰的作用を施すことなり。故に此等の困難を目前に見る所の我等は信仰の善き戦を戦いて栄の冠-不死性、神性-を得んと努むる間にも機にかなう助けとなる恩恵を受けん為に憚らずして恩寵の座に来るべきなり。-堤後四。八、彼前五。四。