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エホバの御国を宣明するザ・ワッチタワー



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エホバの御国を宣明するザ・ワッチタワー 編集

「汝らは我が証者なり」とエホバ宣う-以賽・43:12

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ザ・ワッチタワーの目的 編集

聖書時代に於ける実際の楼は高台にあり、四方の出来事を眺め、危機を知らせ善き音信を告げるに有利な地点であつた。我々の雑誌も亦、比喩的に斯かる有利な地点を占めている。なぜならこれは智の最高峰なる神の言に基いているからである。故にこれは種族的、国際的、或は政治的宣伝や偏見を超越し、我利的な先入観念を持たない。これは如何なる伝説的信条にも左右されず、その音信は光の如く神の御目的に進み拡がる。-哈巴谷書二章一節-三節。

これは物事を聖書的に見る。この時代に貪欲・過失・偽善・無神論・飢饉・疾病・恐怖・或は一般の好まぬ小数者たちの迫害等が生じた時にも、これは、歴史は繰返すという古い譬喩を真似ない。聖書の予言を調べてそれ等の物ごとの中に世の終りの徴を見出すのである。然し乍ら、明るい希望を持ち、そうした悲哀を超えて我等にひらける新しき世の戸口をも見出すのである。

この観点より『ザ・ワッチタワー』は楼の上にあつて、鋭敏に物事を観察し目を覚まして危機の徴をとらえ、忠実に避難の道をしめす守望者の立場にある。これはキリストが王座に着かれて天界に打たてられたエホバの御国を告げる。そして御国を共に嗣ぐ者達に霊の糧を与え、地上楽園における永遠の生命で善意者達を励まし、死人の復活約束で我等を慰める。これは教理的にあらず、神の言に基いているから、その声の確信の響を持つ。又予言を己がままに解かず、実際の事柄に注意をひき、予言と相並べる。故にあなたはこの二者が如何に良く合致し、エホバはご自身の予言を如何に適確に解釈されるかを自ずと知るであろう。我等の救の為、これは鋭い、忠実な焦点を聖書真理に保つている。そして宗教ニュースを一般に眺めている。

『これらの危きときに目を覚しおれ』と神は訓戒されている。故にこの『ザ・ワッチタワー』を定期的に読み、目を覚しおられるよう。

ワッチタワー・バイブル・エンド・トラクトソサェティー発行
東京都港区芝三田豊岡町一番地
『彼等はすべてエホバに教を受けん』-ヨハネ伝六章四十五節・新世・以賽亜書五十四章十三節-

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神は、己の者を知り、護り給う 編集

『汝を打つものは、我が目の珠を打つ者なればなり』(ザカリヤ二章八節ロザハム訳)

『エホバは己の者を知り給う。』(テモテ後書二の十九新世訳)故に彼に属する者はエホバを知るよう試むべきである。大部分の人は、彼の聖言に無頓着であるゆれに、エホバの知識を得そこなった。エホバが御自身を人間に啓示されたのは、彼の聖言、聖書によってである。然るに私達への、此の書簡集を読む為に時間を割くものは、極く僅かであり、又既に読んで、聖書に通じている人達の話を聴く者さえ稀であります。聖書に含まれている多くの、手紙や書は、私達の教えと誡めの為に、聖霊に動かされて書かれたものである。然し乍ら、人類の非常に多くの者達は自分達の意のままに神を選んだり、彼等自身を神よりも上にまつりあげて、神から遠ざかった。彼等には、神が御自分に属する者達をどんな場合にも、何時も護り、どんなに慈愛を垂れ給うたかが分からないのである。又世の人達は、逆らうものを打砕き得る方、エホバを恐れないのである。

2 ポウロがテモテに『エホバは己の者を知り給う』という言葉を書き贈った時、彼は何世紀も前に有った有様を考えていた。これは、イスラエルの子らがエヂプトの地を脱出した時、モーゼに導かれた所、シナイの近くに生じたことでありました。即ち、コラ・ダタン、アビラムが高慢となり、イスラエルの会衆の指導者達二百五十人と共に集り、モーゼとアロンに逆った。彼等は、モーゼやアロンはもう要らない、そしてもう仕える必要はないのだと言って、その二人が自身を主の会衆の上に立てたのだと主張しました。(民数紀略十六の一-三)神の言はエホバ御自身がモーゼを選び、その仲保とされ、又、モーゼが嘗てパロの前でなした如く、王達の面前に於てのみならず、イスラエルの子らの前にても、御聖旨を告げる特別な僕とされたことを示して居ります。

イスラエルの民達は全能の神の御手によって紅海を恙く渡り、護られたに拘らず、そして又道すがら、彼等を導くためモーゼを用い給うたにも拘らず、これらのユダヤ人は敢てモーゼに逆ったのです。そこでモーゼは、この悪い仲間と、イスラエルの全会衆に向って『明朝、主は己に属すものは誰、聖者は誰なるかを示し、その者を己に近づかせ給わん、即ち、その選び給える者を己に近づかせ給うべし』と告げた。翌日生じたことの結果がどんなかは、神の言葉の読者の知るところである。

3 その記事によれば、モーゼは、イスラエルの子らに、この喧騒な人々の住居附近から遠ざかるよう指示したとある。即ち彼は会衆に向って『汝らこの悪しき人々の天幕を離れ去れ、彼等の物には何にもさわる勿れ、恐らくは彼の諸の罪のために汝らも滅ぼされん』(民数紀略十六の二十六アメリカ訳)と告げた。そこで不義に汚されたくなかった人々は、コラ・ダタン、アビラムらが居た住居の近所から離れ去った。ダタンとアビラムがその妻子・息子・幼児たちと共に天幕より出て、その角に立った時、モーゼは全会衆に向って『汝らも主が、このすべての事をなさんとして、我を遣わし給える事、また我がこれを自分の心にしたがいて為すに非ざることを是によりて知るべし、即ちこの人々もし一般人が死ぬ如く死に一般の人が罰せられる如く罰せられなば、エホバ我を遣し給わざるなり。然どエホバもし新しき事をなし給い、地その口を開き、この人々と之に属する者を呑つくして、生ながらシェオルに下らしめなば、この人々は主を瀆ししなりと知るべし』(民数・十六の二十八-三十・アメリカ訳)と告げた。実に、この事件が生じたのである。地は彼らの足下より揺り動き彼らはその裂け目に生きながら呑みつくされてしまった。彼等はシェオル即ち墓に下り、地はその上をふさぎ、彼等はイスラエルの子らより消え失せてしまった。そうです! 『エホバは己の者を知り給う』とは全く本当である。そして彼は不義なる者、悪を言う者を『己の者』から分かち永久に除去し得る。

4 又、他の場合に於て、神エホバはこれと反対の行動過程をとられた。と言うのは彼は己の正しき僕達を悪しきものより除けたのです。即ちロトの場合である。ソドムとゴモラの都が悪に満ち溢れていたので、神は御使いに、この都外へロトとその二人の娘及び妻を連れ出すよう命ぜられた。『ロトの妻を憶えて下さい』 [塔1951 5/1 4] 彼女は、エホバ神が自分たちにさしのべられた救出に全き信頼と信仰を有しなかった。彼女は古き組織形体に愛着を感じて、後を振むいた。その結果として彼女は塩の柱となってしまったのである。(創世・十九の一-二十六・ルカ十七の二十八-三十二)。エホバは己の者を知り給う、そしてもし私たちが彼の教に従うなら、彼は御約束を必ず履行されるであろう。

5 私達は、創世記中に、又ほかの記録を見出します。これは六章に始まり、エホバに深い信仰を有した人について書かれている。この男は、人々は放蕩に耽り、すべての人の心が悪に満ちみちていた時代に住んでいた。即ちノアと呼ばれる男であった。彼には三人の息子があった。この四人はみな妻を有していたが、彼等は、皆悪しき世より離れ、エホバの教に従った。ノアは方舟をつくるよう言われた。これをするに長い年月を要したであろうし、彼にとっては信仰を要したであろう。何故なら、乾きはてた地で彼はこの方舟を作らねばならなかったからである。この方舟が川のそばで作られたなどとは、聖書のどこにも書いてない。雨が降った時『水増し方舟を浮めて方舟地の上に高くあがれり』(創世・七の十七・アメリカ訳)とあります。ノアは、神の指示に従って、その舟を作りあげ得るよう、松の木の多い土地で拵えたに相違ない。(創世六の十三-二十二)。造舟機関すべてを通じて、『義の宣明者ノア』は不敬虔な者達すべてに適切な警告を与えた。(ペテロ後二の五、新世)神エホバが、地に満ちた悪の状態に対する御嫌悪を示される時至り、天の戸をお開きになったので、雨は四十日四十夜降り注いだ。地は一面に大洪水となった。然し乍ら、ノアとその家族は、御指示によってこの大方舟に持込んだ獣達と共に水の面に浮かされた。エホバは己の者を知り給うて、古き世を打ほろぼした大洪水よりまぬかれしめたのである。

6 故に、不義を拒む者が、神エホバの御恩寵を受け得ることは主の聖言によって明白である。これが故にポウロはテモテに『されど神の堅き基は立っている。之に印があり記して『エホバ己のものを知り給う』またエホバの御名を称うる者をして不義をすてしめよ』(テモテ後二の十九・新世)と言ったのである従って生命を愛する各々は『真理の言を正しく用いて恥ずる所なき働人となり、神の前に練達せる者となるよう励む』ことが大切である(テモテ後二の十五・新世)今は、多弁なるも神の裏づけのない人々の如く、空虚な言葉をもてあそぶ時でない。此れらの人々は神の僕達に反抗したコラやイスラエルの二百五十人の長老達同様である。各人は主の言を理解するよう綿密に学び奉仕者として己を神に捧げて神の善き練達者となるよう力めねばならない。即ち貴方に課せられた仕事を果すことが大切なのです。若し貴方が主の目に善とされることをするなら、神は貴方を祝福され、豊かにされるであろう。神の制度に於ける奉仕は、何処でも満足せしめる! 吾人が憐み深き父、平和の神にかえり、エホバにより頼んで御心を行う時吾人は大いなる祝福に恵まることを知るであろう。吾人は神の御業に深い興味を持ち神をよく知るよう力めねばならない。『エホバは己の者を知り給う』そして彼の者である私達が彼を知らんとすることは当然である。そうすることが即ち永遠の生命を意味するのである。

[EOA]