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[研究記事]

[406]

正しい形式の崇拝を選ぶ編集

  「いざわれらをがみひれふしてわれらをつくれる主ヱホバのみまへにひざまづくべし。彼はわれらの神なり、われはその草苑(まき)の民その御手のひつじなり」--詩、95:67。

 ①なぜあなたは、いましておられるような仕方で崇拝しますか。何かの宗教に入っている大勢の人々はおそらく両親の信仰に従っているでしょう。多くの場合、友人や隣人は選択ということに直接の影響を及ぼします。他の人々は、自分の必要物を一番みたしてくれると感ずる教会を探し求めます。しかし神によって是認される崇拝の形式を見出して、それらをしっかり持つことを考えるのは一層重要なものです。

 ②私たちの崇拝は、神にささげる私たちの奉仕です。最高者であられる神は、あらゆる被造物よりも、知恵と力の面においてはるかにすぐれておられます。「天の衆群にも、地に住む民にも、彼は意のままに事を行われる。だれも彼の手をおさえて『あなたは何をするのか』と言いうる者はない」。(ダニエル、四ノ三五、新口)彼の御心を無視することは、なんと愚かなことでしょう!彼の御旨にかなわぬ形式の崇拝を行なうことは、なんとおろかなことでしょう!賢明な道は神の善にして御旨にかなう全き御心が何であるかを十分にわきまえる知るため、聖書を研究することです。私たちはそのような導きをうけるなら、神をよろこばすため、どのように歩むべきか知ります。つまり、私たちは真実にエホバ神を崇拝し、エホバ神に仕え、彼の御心を行なうということです。そして、人間の見地から判断して、私たちをよろこばせる道を追い求めるべきではありません。--ロマ、一二ノ二。テサロニケ前、四ノ一。

 ③聖書は「私たちの父である神の御前で清く、汚れのない形式の崇拝」について述べています。する

[二段目]

と、神の御前で清くなく、汚れた崇拝があるということも分かります。もしそれが神の是認を受けないなら、それは無益なものです。正しい形式の崇拝は、神が是認する形式の崇拝です。--ヤコブ、一ノ二六、ニ七、新世。

       両親の宗教

 ④両親の宗教にかたくつき従う者たちは、賢明な者たちか、あるいは愚かな者たちです。もし両親が、神の御言葉の知識を子供たちにじゅんじゅんと教えこみ子供たちの生活を御言葉に一致調和するように援助するなら、その道を追い求めることは賢明でありましょう。しかし、きわめて多くの場合、良心は子供たちのためにこの道を示していません。聖書のある教えは、クリスチャンの家庭と言われるところであっても、しばしば両親のお気に入りのすこしの聖句だけにかぎられています。その聖句をいっしょに読むかも知れません。多分その聖句を暗記するかも知れません。しかし、その聖句の意味について真剣な考慮が払われることは、まずないのです。多くの家族にとっては、宗教と言えば特定な時に教会に行くだけの意味しかありません。宗教が生活の他の活動におよぼす直接的な影響はほとんどないのです。口先だけの奉仕を求めても、心にふれず、人の毎日の生活に深い影響を及ぼさない宗教について、神の御言葉は次のように述べています、「無意味に私を拝んでいる」。(マタイ、一五ノ八、九、新口語)教会に行く家庭で育つかもしれませんが、しかし神の御言葉を教えられないなら、あるいは教会が聖書の真理を無にするようなものであるなら、または教会員の行動に示される教会の実が敬虔な実でないなら、そのような宗教に従いつづけることはなんと愚かでしょう!

 ⑤以前に信じていた宗教的な教理が聖書的なものでなく、自分の生活の仕方は真実のキリスト教のものでないと確信する場合でも、そのような宗教、特に両親のしていた宗教を捨てる段になると、それはたいへんむずかしいことになります。もちろん、家族の他の者たちが神の御言葉を愛するなら、御言葉の教えをその人

________

①どんな要素は、しばしば宗教の選択を支配しますか。しかし、さらにどんな大切な点を考慮すべきですか。   ②真の崇拝とは何ですか。どのように正しい形式の崇拝を見出すことができますか。     ③なぜクリスチャンは、すべての宗教が良いという見解を持つことはできませんか。    ④両親の宗教に固く従うことは賢明ですか。    ⑤(イ)しばしば、自分の宗教を変えることは、なぜむずかしいのですか。イエスはこのことをどう警告しましたか。(ロ)真理を学ぶ人は、家族の反対に面するとき、どんな決定を下さねばなりませんか。このような環境下でも忠実を示す人を、エホバはどのように祝福しますか。

[407] からよろこんで聞くでしょう。しかし、もしそうでないなら、はげしく反対することでしょう。それらの人々は聖書の真理を論破することができないので、新しく興味を持った人にエホバの証者との交わりを止めるように要求するでしょう。その人にそれ以上の研究をさせないため、家人が聖書研究の文書を駄目にしてしまうかも知れません。その人は忍耐づよく、適当なときには聖書について巧みに語り、そして正しい行いをして、愛の気持ちのうちに親族たちに真理を見させようと援助いたします。しかし、ある場合には、エホバ神に奉仕したいという誠実な願いを述べ表わした人々は、親族から勘当されています。主イエスは、このことがおこるということを知っていました、そして次のように語っています、「家の者が、その人の敵となるであろう」。自分の家族に対して強いきずなを感じ、そのきずなを守るために全力をかたむけるのは全く当然です。しかし、この場合に次の決定をくだすことは必要です。すなわち、その人は神の命ずる仕方で崇拝しつづけて親族の不興を受けますか。あるいは、その人は正しいと知っているものを捨てて、肉親との良い関係を守ろうとしますか。イエスは次のように答えました、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」。(マタイ、一〇ノ三六、三七、新口)私たちの持つ、より大きな責任は、私たちの天的な父であるエホバ神とその御子イエス・キリストに負うものです。もし、この試練にみちる状況に面するなら、神への忠実をしっかり保ちなさい。エホバはいま新しい世の社会内において家や親族という報いを百倍にして与え、そして新しい世における永遠の生命という報いを与えます。--マルコ、一〇ノ二九、三〇。

…………………

[409] ……………

        神の導き

 ⑬私たちが直面するこれらの状況、そしてある面で私たちの崇拝に影響を及ぼすこれらの状況全部について、聖書は私たちがぜひとも必要とする神の導きを与えています。聖書は、神の御前で神をまったく喜ばせる道を私たちは示しています。私たちはローマのクリスチャンたちに宛てた手紙の中で使徒パウロの語っているような人々に、決してなりたくありません。使徒パウロは次のように語りました、「わたしは彼らが神に対して熱心であることをあかしする。しかし、それは正確な知識によるのではない。彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとつとめるため、神の義に従わなかった」。(ロマ、一〇ノ二、三、新世)彼らは神に奉仕していると考えました。しかし正確な知識に不足していたため、自分自身の人間的な考えに従い、自分自身に奉仕していたのです。

 ⑭人は神の御言葉の正確な知識を持つときにのみ、神を崇拝する仕方を知ります。そのときまで、人は自分自身の不完全で、おそらく間ちがいの多い意見とか、他の人の意見だけに頼ります。しかし、聖書を何が真理かをはかる物差にするとき、三位一体、人間の魂の不滅性、地獄の火、崇拝の際の偶像の使用、宗教の信仰合同、その他についての教理が神の是認したまう事柄のなかに含まれていないことは明白になります。聖書を自分の導きにするとき、今日誰が神の御心を行なっているかがすぐに分かります。なぜなら彼らはこの世のことからはなれてイエスの模範に従いエホバ神の御名を知らせているからです。また彼らはキリストの弟子であることを証明します。なぜなら彼らはたがいに愛し合い人種とか国家的な背景や経済的な立場の故に分裂していないからです。また、彼らは主イエスの命令に従い、設立した御国の良いたよりを伝道することにより正しくその舌を用いています。しかも、イエスが命じたとおりに、公にまた家から家に行なっています。聖書の知識によって善意者たちは次のことを認識することができます。すなわち、地上にある数多い宗教制度のうち、エホバの証者の新しい世の社会だけが神の御前で清く、汚れのない崇拝を行なっているただひとつの群れである

[第二段]

ということです。

 ⑮私たちは真の崇拝を行なうようになってから、「エホバの御心が何であるかを悟れ」という言葉に留意すべきです。(エペソ、五ノ七、新世)私たちは正確な知識を必要とします。基礎的な真理についての正確な知識だけでなく、以前に書かれたすべての良いことについての正確な知識が必要です。それらは「わたしたちの教えのために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めにとによって、望みをいだかせるためである」。(ロマ十五ノ四、新口)私たちの研究は進歩すべきです。そして御言葉の乳以上のものに対する感謝と認識をつちかって、肉を求めることが必要です。私たちは円熟に進まねばなりません。--ヘブル、五ノ一四ー六ノ三。

 ⑯ものみの塔協会の出版物を個人的に研究したり、会衆で研究したりするほかに、私たちは聖書そのものを読むための時間を取らねばなりません。どのクリスチャン奉仕者も、聖書全部をぜひ読まねばなりません。そして、できるなら、なるべく多く読むべきです。そして聖書をずっと読んだといっても、その意味を深く考えるために休止もせず、十分に理解しないままに読みつづけることは賢明でありません。わたしたちは興味を抱くことが必要です。そして、私たちの読んでいる者は実際に神の御言葉であるという事実を絶えず認識しなければなりません。(テサロニケ前、二ノ一三)神は浪費する方ではありません。神は無駄なものを聖書中に記録させるようなことをしませんでした。聖書中にあるものは、私たちに教訓をあたえるためであり、生活内で直面する決定において私たちを導くためです。かくして私たちは神の是認する形式の崇拝と一致する道を追い求め、神の奉仕者として効果的なわざをするための備えを身につけることができます。(テモテ後、三ノ一六、一七)それで聖書の益をうけるためには、聖書の言葉を知ること以上のものをものを求めねばなりません。私たちはその意味についての理解と、その使用方法についての認識を必要とします。「知恵を得よ、あなたが何を得るにしても、悟りを得よ」。と霊感をうけた箴言は述べています。--箴言、

________

⓭⓮(イ)是認される仕方で神を崇拝するために、なぜ私たちは正確な知識を必要としますか。(ロ)聖書的でない一般の宗教の教えのいくらかは何ですか。しかし、今日どんな制度は、神の是認する形式の崇拝をしていますか。なぜあなたはそう答えますか。   ⓯正しい形式の崇拝を行なうようになってから私たちはさらにどんな知識を得るようにつとめるべきですか。そして、なぜ?  ⓰なぜ私たちは聖書を定期的に読むべきですか。しかし、なぜ聖書を読むだけで満足してはなりませんか。

[410] 四ノ七、新口。

 ⑰聖書を読むとき、活発に考えなさい。もしそれが預言的なものであるなら、縮図的な段階及び最終的な段階における預言の成就に細心の注意を払いなさい。記録中に触れてある基礎的な聖書の真理に注意しなさい。またそこに示されている指導的な原則に気をつけなさい。書いてあることが預言的なものであろうと、なかろうとそれを読むときは、次のような質問を心に思いうかべなさい。すなわち、これは私の生活にどう影響するだろうか。私の態度や活動をここに表わし示されている神の御心と一致させるために、なんらかの調整は必要だろうか。私の学んだ他の聖書の教えに対して、どんな関係にあるのであろうか。他の聖書の教えは、どのようにそれを支持するだろうか。これはどのように他の聖書の教えを確証するだろうか。私の宣教に、どのようにそれを用いることができるだろうか。もし、あなたが特定の聖句を理解したいなら、軽く見すごしてはなりません。その意味が何であるかを見出すために努力を払いなさい。

 ⑱聖書の著者であるエホバ神は大いなる先生でもあります。エホバ神は私たちを援助して、聖書の理解をたすけます。私たちを援助して御言葉を理解させるためにエホバが設けたもうた御準備に対して私たちは認識と感謝を示すことが必要です。エホバ神が私たちの教訓者であるということを十分に認識するなら、私たちは聖書を読むために坐るとき、いつでも祈りのうちに彼を求めます。そして、私たちを援助するエホバ神の御霊を願い求めます。(ヤコブ、一ノ五)私たちはまた会衆の集会からも益を受けます。これらのものに加えて、神は忠実にしてさとい奴隷を通して私たちが理解を得るための助けとして研究の手引きを備えられました。私たちがそれらのものをうけ取る時、そして会衆内の予定に組みこまれる時、それらのものを全部読んで研究すべきです。それらのものは、また参照用にも使用することができます。聖書内の聖句を読んでも、その適用が十分に理解できないときは、協会の出版している書籍内の聖句索引や、ものみの塔の十二月十五日号(英文)についている聖句索引を見てそれから論議されているところを読みなさい。そうすることにより、あなたは誠実な心をもって真理を理解したいと思い、エホ

[第二段]

バがあなたを助けるために備え給うた手段に対して認識をもっていることを示します。それに加えて、僕として任命されている兄弟たちが会衆にいます。彼らは「教える資格」を持つ人々です。彼らもまた、あなたを援助するために備えられているのです。質問の答を見出そうと努めても、成功しないなら、円熟した兄弟たちのひとりにたずねなさい。その人はよろこんで研究して得た自分の知識をあなたにあたえるか、あるいはあなたと共にその知識を得ようとするでしょう。--テモテ前、三ノ二。

 ⑲霊感をうけて書かれた箴言は、理解を得るために私たちが努力せねばならぬ方法を極めて良く表わし示しています、「わが子よ汝もしわが言を受け、我が戒めを汝のこころにをさめ、かくてなんじの耳を知ゑにかたぶけ 汝の心をさとりにむけ もし知識を呼び求めさとりをえんと汝の声をあげ銀のごとくこれをさぐり かくれたるたからのごとくこれを尋ねば 汝エホバをおそるることをさとり神を知ることを得べし そはエホバは知恵をあたへ、知識とさとりとその口よりいづればなり」。(箴言、二ノ一ー六)理解はきわめて高価な宝です。私たちはそれを掘り求めそれを探すための助けを求めるよう努力しなければなりません。もし私たちが努力を払うなら、エホバは私たちの努力を祝福して、成功をさせるでしょう。

 ⑳正しい形式の崇拝を選ぶために、私たちが認識を持ち、努力を払わねばならないことは明白です。神に対する私たちの関係が、いかなる人間的な結びつきよりもはるかに大きな重要性をもつものであることを私たちは認識しなければなりません。私たちは神の御言葉の価値を認識して、御言葉を研究するために努力しなければなりません。神の是認を受ける形式の崇拝を見出してからは、あなたの認識を生き生きしたものに保ちなさい。知識にむかって進歩しつづけなさい。そして生活内のあなたの一切の活動に神の御言葉を良心的に適用しなさい。

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⓱聖書を読むとき、私たちはどんな事柄に注意を払うことは良いですか。   ⓲私たちは聖書の中で読んだ事柄の理解を、どのように得ますか。    ⓳神の御言葉の研究に対して、私たちはどんな見解を持つべきである、と箴言二章一ー六節は示していますか。    ⓴正しい形式の崇拝を見出して、それをしっかり保つために、私たちは何をすることは要求されていますか。


[416]       

神の目的とエホバの証者編集

           その5

「『あなた方は私の証者です』とエホバは言われる。」--イザヤ43:10。新世訳

      第五章

    良いたよりの伝道ーー全部の人の使命

 ロイス:ジョンさん、先週のあなたのお話によると、「ものみの塔」の読者は冊子を配布したということですね。それは組織されたわざでしたか、それとも個人的になされたのですか。

 ジョン:最初は主として個人的な仕事でした。もっとも、発展途上にあった協会は、多くの励ましと援助を与えました。ラッセルは、いちばん始めの時から、クリスチャンたちが学んだことを活発に伝道することを認めたのです。出版されてから二年目の「ものみの塔」(英文)は、「一、〇〇〇人の伝道者を求む」という見出しの元に、心わきたせる召を掲載しました。この召は、自分の時間の半分かそれ以上を主のわざにささげ得る「ものみの塔」読者全部を励ましたのです。その目的は、次の通りでした。

 あなたの能力に応じ、宗教的な本の行商人あるいは福音伝道者として、大小の都市に出かけて行き、あらゆる場所で誠実なクリスチャンを見つけ出すことである。彼らの多くは、神に対して熱心ではあるが、知識によるのではない。こられの者たちには、われらの父のめぐみの富と御言葉の美を知らせ、彼らに対する冊子を与える。そして、彼らに対する親切と愛のわざとして、「日のあけぼの」を売るか、「ものみの塔」の予約を取るようにつとめよ。[もし興味がありながら、貧乏のため買う

ことができないなら、それらのものを神からの贈り物として与える」。

 なんらかの収入がないなら、旅行、宿泊、衣服の費用をまかない得る人の数はすくない。ゆえに我々は冊子と「日のあけぼの」を無料で渡し、かつ「ものみの塔」の予約金を取ることを許可する。この両方から得る金銭を利用して……必要な費用をまかなわせるためである。(イ)

 翌月一八八一年の五月、このことについての多数の良い応答が結果として生じたと述べられていました。しかし、それは次のことも示しました、すなわちこのわざは人々に神の目的を知らせるだけが目的でないとパストー・ラッセルは認めていたのです。そのわざによって、各クリスチャンは、神の目的を行うことに参加する責任をになうことになりました。次の言葉に気をつけて下さい。

 ある人々は、我々を誤解したように見える、そして我々が誰でも彼でもすべての人ーー正規の勧誘員と本売り、行商人を欲すると考え、な・ん・ら・か・の・仕・事・の・口・に・あ・り・つ・け・る・良・い・機・会・である、と友人たちに知らせた。これは、我々の提案を誤解したものである。我々は働き人を欲する(主も働き人を欲しておられる)。その働き人は、神と本の代価を欲するよりも、天的な価のために働く人々でなければならぬ。我々の欲する人々とは、紙[:神??の誤植??]と本と計画を説明することのできる人々、そして出かけて行くときに伝道し、「悔い改めよ、天国は近づいた」と言える人々である。(マタイ、三ノニ)(ロ)

 ロイス:ほんとうに、パストー・ラッセルは千名の全時間伝道者を求めたというのですから、大変な楽観主義者でしたね。大ぜいの人々は、その召しに答え応じましたか。

 ジョン:報告は何回も出されませんでしたが、一八八五年中には、カルポター[:コルポーター:現行訳:聖書文書配布者]と呼ばれる約三〇〇人の聖書文書販売人がいました。このことは、一八八六年一月号の「ものみの塔」(英文)内で、教会の秘書ーー会計士の報告から分かります。(ハ)一八八六年には、「世々にわたる神の経綸」(英文)と題する書籍が出版されて、配布されるようになりました。いま開拓者と呼ば

れるこれらの聖書文書販売人たちは、週に一度ピッツバーグの事務所に報告しました。(ニ)幾年か後になって、書籍が六冊一組みになったとき、聖書文書販売人たちは、今日のエホバの証人のしている仕方とはことなり、書籍全部を持って家から家に行くようなことをしませんでした。その代りに、「内容見本」と呼ばれるものを持って行きました。これは書籍の表紙をアコーディオン式にならべたもので、それを開くと本の表紙が全部見えるようになります。証者はこれを腕の上にのせて、この各本の題についてお話します。それから、この一組全部に対する注文を取ります。このようにして、一ヶ月のうち一度か二度、本の配達がなされました。証者たちはたいてい二人一組みになって働き、注文された本の全部を配達しました。ひとりの聖書文書販売人、すなわち「開拓者」が一ヶ月に四〇〇冊から五〇〇冊の本を配布することも珍しいことではありませんでした。

        伝道するために油そそがれた

 しかし、一、〇〇〇名の伝道者を求めた初期の召しは、全時間を捧げ得る者たちに限られていたのではありません。この点は、さらにこう示されました。

 教会は神のぶどう畠である……わざの種類は、たいへん多いので、すべての人は働くことができるーーたとえ話の中では全・部・の者がやとわれた。もしあなたが半時間、あるいは一時間、二時間、または三時間あるなら、あなたはそれを使用することができる。そしてそれは収穫の主の受け入れ給うものである。神の導きの下に一時間の奉仕をすることから得る祝福を、誰が言い得ようか。(ホ)

 同年、「伝道するために油を注がれた」という記事は、イザヤ書六一章一説の主題聖句の下に、「ものみの塔」内に出版されました。ロイスさん、その聖句を読んでいただけますか。

 ロイス:お読みしましょう。あなたがおいて行かれ

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(イ)一八八一年の「ものみの塔」四月号、七ページ。    (ロ)ものみの塔(英文)一八八一年五月、八頁。      (ハ)一八八六年一月号の「ものみの塔」(英文)二頁。   (ニ)一八九二年の「ものみの塔」(英文)三〇一頁。   (ホ)一八八一年四月の「ものみの塔」(英文)七ページ。

[417] たヘブル語の新世訳からお読みします。[読む]「主エホバの御霊は、私の上にのぞんでいる。それは、柔和な人々に良いたよりを告げるためにエホバが私に油を注がれたからである。エホバは、心の悲しい者たちを慰め、捕らわれ人に自由を告げ、しばられている者の目を大きく開き、エホバの良き御心の年を宣べ伝えるために、私をつかわした」。

 ジョン:パストー・ラッセルは、その記事を説明し始めるにあたって、ルカ伝四章一八節によると、イエスはこの預言を引用して、それを彼自身および彼のわざに適用したと述べました。このように油を注がれたひとつの理由は、神から伝道する権威を与えることである、とラッセルは示しています。それから、イエスの弟子たちに対する責任について次のように人々の注意をひいています。

 最初、かしら[イエス]にのぞんだ油を注ぐ御霊の力は、当然に来たるべきものであった。そして、時たつうちに(ペンテコスト)イエスの体なる教会の上にたしかに来たのである。そして教会が受けた油は、教会にとどまったのである。(ヨハネ第一書二ノニ七)なぜ教会は油・を・注・が・れ・た・か・。御言葉は答を与えている。それは、現在において教会が主とともに不名誉と犠牲を共にし、来たるべき栄光の時代には主とともに栄光と力にあずかるためである。さらにー彼が「良いたよりを伝道するために油を注がれた」のであるから、彼の体である私たちは、同じ福音を伝道するために油を注がれねばならぬ。……誰が伝道すべきか。我々は答える、油を注ぐ御霊を受けて、(油注がれた)キリストの体の成員と認められるものは、みな伝道すべきである。各成員は、か・し・ら・の場合と同じである。--「彼は福音を伝道するために私に油を注いだ」。我々は、それぞれ他のものと異なる贈り物と才能を持っており、我々のうちひとりとして、か・し・ら・のごとく完・全・なものではない。しかし、各人はそれぞれに対して責任を持ち……できるだけ多くの伝道をするべきである。ある者は大ぜいの者に伝道することができる。他のものは二人か三人の者に向かって伝道することができる。他のものは家から

家に伝道することができる。他の者は折にかなった言葉を書くことができる。他のものは冊子を配布することができる。他の者たちは、自分の管理にゆだねられた浄財を寄付して、他の者が伝道する助けにしている。ある人々は、これらのことのいくつかをすることができ、ある者はその全部をするこ[と]ができる。そして全・部・の・者・はその生活と習慣により、変化を生ぜしめる良いたよりの力を伝道することができ、伝道しなければならない。なぜなら、我々はみな生ける手紙であり、すべての人に知られて、読まれているからだ。

 あなたは伝道しているか。伝道者以外の者は、ひとりとして小さな群れの者でないと我々は信ずる。……たしかに、我々は彼とともに苦しみ、いまその良・い・た・よ・り・を伝道するために召された。それは時が来て我々が栄光を受け、いま伝道している事柄を成し行なうためである。我々は名誉を受けたり、富を蓄積するために召されたり、油を注がれたのではない。むしろ、我々の資力を使って良いたよりの伝道するために召されて、油を注がれたのだ。我々の召しをたしかなものにし、我々が油を注がれた仕事を成し行なうために、熱心に励むようにしよう。

 マリア:これは「ものみの塔」の初号が出版されてから、わずか二年後のことでした。それで、パストー・ラッセルがわざを真剣に考慮したことははっきり分かります。

 ジョン:彼は、他の人々に自分たちの責任を認めるように呼びかけました。そして、そのためによろこんで援助を与えたのです。彼らは、「ものみの塔」誌を読んでいましたから、何を言うべきかは知っていました。それで、彼はどのようにそれを言うべきかについて助言を与え始めました。このことは、一、〇〇〇名の伝道者を求めた記事を載せた同じ号の「ものみの塔」の中にあります。その記事は、「教え方」という題の下に、こう述べています。

 出かけて行って多くの時間を用いる者にも、すこしの時間を用いる者にも、我々は次のように言いたい、正しいことを教えるだけでなく、真理を正しい仕方と順序のうちに提供することは、きわめて重大なことであ

る。このことは、我々の行なうあらゆることに関する生活の規則と見なされるであろう。もしよい実を刈り取りたいなら、良い種子を植えるだけでなく、十分用意の整った土地に、適当な時に植えられねばならぬ。そして、力を得る時まで手入れをすることは必要である。それで、種子が注意深く、祈りの中に賢明に播かれねばならない。そして、我らの主の言葉は、「汝ら、蛇のごとくかしこく、はとのように害なき者であれ」というものだ。

 最初に、回復と神の開き給う計画の美を提供せよ。それから、このすべては王と御国の来ることを待ち望みそれに依存しているとを示せ。次に、あなたの言葉を聞く者、あるいは読者が王を愛・し・て・王の御国を待ちのぞむようになるとき、すぐに主の来る様子について述べよーーすなわち人・間・であるイエスが来るのでなく、霊者なるイエスが見・え・な・い・さまで来るのである。……そして、最・後・に・は・「時」について述べよ。すなわち、我々はいま「人の子の日に」いるのである。

それで、伝道についてのそのような指示により、幾百人というクリスチャン証者たちは、しだいしだいに養われて訓練をうけ、野外奉仕に効果的な参加ができるようになりました。

        「千年統治[:期]黎明」連続本

 トム:四年間に「考えるクリスチャンのための食物」(英文)という冊子を百万冊以上も無料で配布することは、音信の拡大を大きく援助したと思う。しかし、冊子やパンフレットや「ものみの塔」の他に、ラッセルは何を書きましたか。あなたはたくさんの書籍のことを言われましたが、それもみなラッセルの書いたものですか。

 ジョン:そうです。それらの本の抜粋を私たちは読みました。もちろん、ラッセルの最初の本「三つの世界」はバーバーとの合作で書かれました。また、「日の夜明け」(英文)と呼ばれる最初の本も配布されましたが、それは初期の仲間ジェー・エッチ・ペイトンの書

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(ヘ)一八八一年七ー八月の「ものみの塔」(英文)一と二頁。

[418] いたものです。しかし、真理の光が増し加わるにつれて、これらの書物はひとつとして満足すべきものではありません。それで、ラッセルは「千年統治[:期]黎明」連続本として知られる数多くの本を書くことに決定しました。(と)たくさんの難事の後に、最初の本は約束されていた連続本の第一巻として出版されました。前にお話ししたのは、この本のことです。それは最初「各時代の計画」と呼ばれ、後になって「世々にわたる神の経綸[:Divine-Plan-of-the-Ages] 」と呼ばれました。この本は良いたよりをひろめる協会が用いたすばらしい道具のひとつでした。四ニ年間に、その本の六百万部は配布され、この本のおかげで、幾百人という誠実な人々は、背教した宗教から出て来て、エホバの証者の初期の協会と交わることができました。

 この本には、「三つの世界」という本に初めて掲載された表に極めて良く似た各時代の表が出版されていました。この本の内容は、一八八六年までに理解されていたすべての真理をまとめたもので、「考えるクリスチャンのための食物」(英文)と「幕屋の教え」(英文)に出版された真理も、この本の中に書き含められました。それは三五二頁の本です。文体は、いま読んでも、分かり易くて、楽に読むことができました。当時には、もっとややこしい難しい文章構成が一般に使用されていたのです。その十六章のうちのいくつかの章は読者に希望をさしのべていることを表わします。「地上の罪の夜は、よろこびの朝に終結する」「最高理知の創造者の存在は確証さる」「我等の主の再帰ーーその目的、あらゆる事の回復」「悪を許すこと、そして神の計画に対する悪の関係」

 そして、この本の終りに近くには「エホバの日」と呼ばれる章が掲載されています。それは我々の時代でもきわめて意義深いものです。次の短い抜粋に気をつけてごらんなさい。

 「エホバの日」は、キリストの支配する神の御国が、次第に「立て」られるときの期間の名前である。……この世の国々は過ぎ去って、人間に対するサタンの力と勢力は抑制されている。それは人類におよぶ非常な艱難、災いそして混乱の暗い日であると、いたる所で述べられている。……

 すくなくとも、この焦眉の急の期間中のすこしのあいだ、幾人かの聖徒たちが肉体として存在することは可能のように見える。(そのとおりでした)しかし、そのなかにおける彼らの立場は、他の者の立場とはことなる。彼らが奇跡的に救われる(彼らのパンと水は保証されると明白に約束されている)ということでなく、彼らが神の御言葉から指示をうけるので、この世界を覆う不安と絶望的な恐れを感じないということにおいてちがう。(ここでも、第一次世界大戦から現在までのエホバの証者の状態を的確に表わしている)……この「エホバの日」の艱難は、来たるべき善いことの福音を伝道する機会を与える。そのような機会は滅多に得られるものではない。主の足跡に従う者たち、そして傷に包帯して慰めとはげましの油とぶどう酒を注ぐ良きサマリヤ人たちは祝福された者たちである。[:自分も1,970年代に同じことを経験させられた!!クリスチャンは聖書を読む事から洞察と励ましが与えられるので、聖書を少しも読ま無い人とは違う!!普遍的に聖書を読ま無い??!そんな冒瀆者は会衆に来もしようともし無いので安心していると!!カトリックとは明らかに聖書の律法が禁じる偶像崇拝で、モーセの律法はそれを排除する!!ノア兄弟は罪を犯し、特に'75年説で罪を犯した!!それは神御自身が裁くので、放って置く事!!それ位、その位!](チ)

 これは第一次世界大戦よりも幾十年も昔のことでしたが、最終的に生じた出来事が正確に予告されていたのにはびっくりさせられます。

 ロイス:この連続本の他の本もついには書かれましたか。

 ジョン:年月が経つにつれて他の五冊が書かれました。第二巻の「時は近づけり」(英文)は一八八九年に発表され、第三巻の「汝の御国が来るように」(英文)は一八九一年、第四巻「ハルマゲドンの戦い」(英文)はもと「報復の日」と呼ばれ、一八九七年に発表されました。第五巻の「神と人間との和合」(英文)は一八九九年、そして遂に第六巻「新しい創造」(英文)は一九〇四年に発表されました。

 マリア:これらの本は一九〇四年まで「千年統治黎明」連続本と呼ばれていました。しかし、一九〇四年になって「聖書の研究」という名前の方が、これら

[419] の出版物の意図した使用法をはっきり示し、読者に対する援助の方法を示すものと決定されたのです。同時に、書籍を一般に提供する為の提供の言葉が四通り提案されました。(リ)パストー・ラッセルは、一九〇六年の「ものみの塔」(英文)の七月十五日号の中で次のように語っていました。

 全集を出版するというわれわれの約束は、まだ果たされていない。すでに六冊は出版されているが、黙示録とエゼキエル書について述べる第七番目の本は、まだ将来である。一般的な仕事が増加したために遅れているのであるが、恐らく主の「予定の時」に従うからでもあろう。(ヌ)

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(ト)一九〇四年、この連続本は「聖書の研究[:現行訳:聖書研究:Studies-in-the-Scriputures]」と言われるようになりました(一九〇四年の「ものみの塔」(英文)二四六、二七四頁)この名前は一九〇四年十月から始まった限定版に使用され「第一巻」は「その一[:第一集]」として示されました。(同本三二二ページ)この仕方は、一九〇六年初期以来、一般に行なわれた仕方です。(一九〇六年のものみの塔、三四頁)     (チ)「聖書の研究」(英文)第一巻(一八八六年)三十七、三三八、三四二頁。(一九一〇年版)一九一一年のものみの塔(英文)三二〇、三二九頁。     (リ)一九〇四年の「ものみの塔」(英文)二四六ー二四八頁。     (ヌ)一九〇六年の「ものみの塔」(英文)二三六頁。

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