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[二段目]

    怒りと義憤編集

「人はすべて……怒るにおそくあるべきである。人の怒りは、神の義をつくり出さない」。---ヤコブ一ノ一九、二〇、新世。

 ①怒りは温和な気質に正反対のものです。クリスチャンは後者の性質をつちかうべきであります。前者の性質は、古い世の特質であって、できるだけ早く制御しなければなりません。たしかに肉の欲は、多くの場合に明らかになります。そして、このことの表現は、しばしば発作的な怒りに表われてきます。不完全な者である故に、他の人に腹立ちを感ずることもありましょう。しかし、激怒に身をまかせて、兄弟を自分の敵にしてはなりません。

 ②怒りをいつまでも心の中に納めてもいけません。間もない中にそれは必ず大きな分裂に成長するでしょう。これについての助言を述べたパウロは、次のように語りました、「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。また、悪魔に機会を与えてはいけない」。また別の言葉で言えば、もし人が怒りを感じ、他の人に対して激怒するなら、当事者のあいだに和解と了解が得られなければならない、ということです。それは、その日のうちになされて、不健全でキリスト教にふさわしくない状態が存在してはなりません。詩篇記者も次のようにさとしました、「怒っても、罪を犯してはならない」。それで、ここにもクリスチャンはエホバの原則と温和な気質に従って考えるようにとすすめられています---エペソ、四ノニ六、ニ七、三一。詩、四ノ四、新口。

 ③激怒は喧嘩をおこさせるものである故、私たちは激怒を避けるべきです。このことについて私たちに啓発を与える聖書的なさとしの言葉は、このように述べられています、「気をせきたてて怒るな。怒りは愚かな者の胸に宿るからである。

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❶怒りはどんな種類の性格ですか。それについてクリスチャンは何をするべきですか。   ❷怒りが二人のクリスチャンのあいだに生ずるなら、彼らはそれについて何をするべきですか。そして、いつ?   ❸なぜ人は「怒りについておそく」なければなりませんか。

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『昔が今よりよかったのはなぜか』というな。あなた方がこれを問うのは知恵から出るものではない」。それは肉欲の影響であり、古い世から引きつできたものです。クリスチャンは、それを心からとりのぞこうとつとめ、「怒りにおそくある」べきという助言に従わねばなりません」--伝道の書、七の九、一〇、新口。

 ④はげしい怒りは、神の言葉の中で非難されています。それは淫行、不潔、放縦、憎しみ、争い、そして論争と同じ級に入れられている程です。 (ガラテヤ、五ノ一九-二一)かんしゃくをおこす人そしていつも怒気を持つ人を避けることは良いことです。なぜなら、人はそれに染まりやすく、発作的な怒りの中に同様なものを返すからです。私たちはそのような人と交わりを持つなら、人は間もない中に堕落してしまうでしょう。「怒る者と交わるな、憤る人と共に行くな。それはあなたがその道にならって、みずから、わなに陥ることのないためである」。それとは対照をなす言葉が同じ記述者によりこう言われています。「正しい者の舌は精銀である。悪しき者の心は価値が少ない」。--コリント前、十五ノ三三。箴言、ニニノニ四、二五。一〇ノ一九、二〇、新口。

    怒りについての聖書の例

 ⑤サウロはダビデを殺そうとして、彼を猛烈に追跡しました。そして、ダビデを敵として殺す際に援助してもらいたいと息子のヨナタンに願いました。ヨナタンはダビデに組したので、サウロはたちどころに猛然と怒り、憎しみの気持ちに駆られました。サムエル前書二〇章三〇-三三節(新口)には次のように述べられています。「その時サウルはヨナタンにむかって怒りを発し、彼に言った、『あなたは心の曲がった、そむく女の産んだ子だ。あなたがエッサイの子を選んで、自分のみをはずかしめ、また母の身をはずかしめていることをわたしが知らないと思うのか。エッサイの子がこの世に生きながらえている間は、あなたも、あなたの王国も堅く立っていくことはできない。それゆえ今、人をつかわして彼をわたしのもとに連れてこさせなさい。彼は必ず死ななければならない』。ヨナタンは父サウロに答えた、『どうして彼は殺されなけれ

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ばならないのですか。彼は何をしたというのですか』。ところがサウロはヨナタンを撃(う)とうとして、やりを彼に向って振り上げたので、ヨナタンは父がダビデを殺そうと、心に決めているのを知った」。激怒に駆られたサウロは、ダビデを殺そうとつとめ、後には自分の息子ヨナタンに対して怒りを向けました。

 ⑥昔の別の例は、ウジヤが王として支配したときの例です。彼が強力な者になって高い地位を握ったとき、彼の心は高慢なものになりました。彼は神の御言葉をあなどる行いをし、香をもやすために宮の内に行きました。祭司アザリヤは、他の祭司とともどもに、ウジヤの注意をひくために次の言葉を語りました、「ウジヤよエホバに香を焚くことは汝のなすべき所にあらずアロンの子孫……祭司どものなすべき所なり聖所より出よ汝は罪を犯せり」しかし、王は反抗しました。記録にはこう記されています、「ここにおいてウジヤ怒りを発し香鑪(こうろ)を手に取りて香を焚かんとせしがその祭司にむかって怒りを発しをる間に癩(らい)病その額に怒れり時に彼はエホバの室(いえ)にいて祭司たちの前にあたりて香壇の側におる」エホバの正義の裁きは、その代表者たちである祭司たちのために執行されました。」--歴代誌略下、ニ六ノ一六-一九。

 ⑦モーセは長年のあいだ忠実な僕でしたが、エホバに反抗したイスラエル人がモーセと口論したとき、どんなことが起きたかを知るのは興味深いものです。彼らは、荒野にみちびかれて、荒野で水がないために死ぬよりは、パロの前で死んだ方が良かった、と述べました。モーセとアロンは、その事態を冷静に取扱わず、エホバに従順な行ないを示しませんでした。むしろ、民数記二〇章一〇節(新口)の言葉に示されているように、怒りの精神を表わしました、「そむく人たちよ、聞きなさい。われ

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❹(イ)神の言葉によると、怒りは他のどんな性質の級に入れられていますか。(ロ)なぜ、かんしゃくを起こす人を避けるべきですか。    ❺ダビデに対するサウロの怒りは、どの程度までひき起こされましたか。    ➏(イ)聖所で香を焚くということに関して王の職権を超える行いをしたとき、ウジヤは祭司の助言にどう答え応じましたか。(ロ)エホバからどんな裁きが執行されましたか。     ❼モーセとアロンは、イスラエルの国民の前にその怒りを示すことにより、どのようにあやまちを犯しましたか。

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われがこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。モーセとアロンは激怒のあまり、奇跡的に水を備え給うたエホバに誉を与えず、会衆の前でエホバをあがめるよりも自分自身に誉を帰したのです。

 ⑧アマレク人ハマンは、狡猾(こうかつ)に振舞って、すべての人は彼に敬礼しなければならぬ、という王の命令を出させました。しかし、神の真の僕(しもべ)なるモルデカイは、神の処罰をうけている敵に対して、そのような誉を与えようとはしませんでした(出エジプト、一七ノ一四-一六)ユダヤ人のモルデカイがひざまずかず、また敬礼もしないのをハマンが見た時、記録は次のように述べています、「ハマンは……怒りに満たされた……ハマンはアハシュエロスの国のうちにいるすべてのユダヤ人……をことごとく滅ぼそうと図った」。ハマンの心は、なおもかたくなりつづけ、モルデカイを木にかけて殺し、そして神の民を滅ぼそうと決意しました。もちろん、神の御言葉から私たちは次のことを知っています。すなわちハマンにとって形勢は逆転し、彼は死刑をうけました。そしてモルデカイ、エステルおよびユダヤ人は、自分たちの生命のために立てと告げられたので、王の布告による影響をうけずにすみました。」--エステル、三ノ五、六。八ノ一〇-十二。

 ⑨イエスが会堂内の群衆に話をされ、特にイザヤの巻物を読んで、聖句はその日に成就したと告げたとき、耳を傾けて聴いていた多くの人々はメシヤの言葉に注意を払ってメシヤを認めると、いうような態度を示しませんでした。むしろ、ルカ伝四章、二八、ニ九節(新口)には、こう書かれています、「会堂にいた者たちはこれを聞いて、みな憤りに満ち、立ち上がってイエスを町の外へ追い出し、その町が立っている丘のがけまでひっぱって行って、突き落とそうとした」。ここでもまた、エホバと契約関係をむすんでいたと自称した者たちは、発作的(ほっさてき)な敵意に駆られて、エホバの御子を捨てただけでなく、彼を殺そうとしました。

 ⑩サンヘドリンの前に引き出されたステパノは、メシヤの来る時までのユダヤ人の歴史と記録を語りました。彼の話を学ぶ際に、私たちの心はひきつけられます。ステパノは、彼らが正義の者を告げ知らせた者たちをも迫害し、かつ律法を守らなかったと大胆に告げました。その結果、ステパノに対してひき起こされた怒りは、使徒行伝七章五四-五八節(新口)に述べられています、「人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって歯ぎしりをした。……人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った」。悪魔のごとき怒りにくるった彼らはステパノを殺しました。

     義憤

 ⑪しかし、次のことを留意すべきです。すなわち怒りと義憤はちがうものである、ということです。私たちは、エホバの怒りが悪い敵共の上に注がれる、ということを知っています。エホバはそのことをしばしば御言葉の中で述べられました。エホバは怒るにおそい御方です。しかし、不正な行動に対して彼の怒りが起きない、という意味ではありません。預言者ナホムは次のように述べています(ナホム一ノ六)「誰かその憤恨(いきどおり)にあたることを得んだれかその燃(もゆ)る怒りに耐うることを得ん怒りの注ぐこと火のごとし巌(いはほ)もこれがために裂く」。エホバの御手は、忠実な僕たちやエホバへの専心の愛に満ちている者の上にあります。それと同じく、エホバの怒りと破壊の力は悪しき者たちに対して行使され、彼らはのがれることができません。

 ⑫エホバの怒りの表われは、詩篇六九篇二四、ニ五節(新口)のところでダビデにより指摘されています、あなたの憤りを彼らの上にそそぎ、あなたの激しい怒りを彼らに追いつかせてください。彼らの宿営を荒らし、ひとりもその天幕に住まわせないでください」。それで、エホバご自身の御言葉とエホバの忠実な僕の語った言葉から分かるとおり、神の敵に対して正義の憤りを表わすことは全く正しいことです。エホバが悪を憎まれることは、ハルマゲドンで悪が絶滅されることにより最高潮に達します。私たちクリスチャンも、エホバに反対しているこの世のものに対して侮べつを示すことができます。私たちが不正をゆるさねばならない、ということはありません。全くのところ、その反対のことが真実です。私たちは正義を愛して不正を憎まねばなりません。それぞれに対しての適当な時があります。聖書にこう書かれている通りです、「すべてのことには季節が在り……愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある」。ー伝道の書、三ノ一、八、新口。

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❽(イ)ハマンは、激怒でいっぱいになったとき、何を達成しようと努力しましたか。(ロ)その結果、彼は何が生じましたか。    ➒あるユダヤ人たちは、会堂内で語られたイエスの言葉にすなおに答え応じようとはせず、むしろどのように答え応じましたか。    ❿ステパノがユダヤ人の歴史的な記録を述べるのを聞いて後に、群衆はどのように答え応じましたか。    ⓫エホバの怒りは、なぜ不適当なものではありませんか。    ⓬(イ)エホバの怒りに対してダビデは何と言いましたか。いつ、それは最高の表われに達しますか。 (ロ)クリスチャンは義憤を示すことができますか。


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 ⑬エホバの憎み給ういくらかの事が何であるかを知ることは、最も興味深いものです。そのことは次の言葉のうちに示されています、「エホバの憎み給う者六つあり否その心に嫌ひ給うもの七つあり、すなわち高ぶる目いつはりをいう舌、罪なき人の血を流す手 悪しきはかりごとをめぐらす心すみやかに悪にはしる足 いつはりをのぶる証人および兄弟のうちにあらそいをおこす者なり」。それよりすこし先のところでは、次のような助言の言葉が述べられています、「エホバをおそるるとは悪を憎むことなり、我はたかぶりとおごり悪しき道といつはりの口とを憎む」。それで、私たちはエホバの憎まるるものを当然憎む正当な理由を持っています。--箴言、六ノ一六-一九。八ノ一三。

 ⑭全能の神のひとりの僕は、別の時にこう述べました。「我なんじのさとしによりて知慧をえたり、このゆえにいつはりのすべてのみちをにくむ……故にもろもろのことにかかるなんじのすべてのさとしを正しと思う、我すべてのいつはりのみちをにくむ、われに心のものをにくみなんじのおきてをいつくしむ、われいつはりをにくみこれをいみきらへども、汝ののりを愛す」。詩、一一九ノ一〇四、一二八、一一三、一六三。

 ⑮このことから判断するとき、会衆内のある人々がエホバの律法を破って、姦淫、淫行をなし、ののしりの言葉を語り、あるいは泥酔者であるためエホバの原則を無視するなら、会衆のある人々は当然そのような行いをする者たちをいみきらいます。全くのところ、そのわけで会衆の委員はそれらの者たちを排斥して交わりから除外することが重要になっているのです。彼らはそのような行いを憎みます。従って、そのような行いをする者たちはエホバの誉れある清い制度内にいることができません。

 ⑯それで神の考えと思いを正しく評価し、完全なもの不変のものと認めることは、なんと重要なことでしょう。彼は。不完全な人間の怒りと怒りにみちる罪を憎みます。このことを知るクリスチャンは、エホバの道と考えに従う歩みをするよう自分の道をいつでも合わせる努力をします。たしかに、どのクリスチャンもいかるにおそく、激怒を避けます。それでは義憤についてはどうですか、エホバの義憤が表われるようにしなさい。なぜなら、エホバは正義のうちに義憤を表わし、ご自分の原則を破る憎むべきものを永久に滅ぼします。

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⓭エホバはどんなものを憎みますか。    ⓮ダビデは何を憎みましたか。そして、彼は何を愛しましたか。   ⓯クリスチャン奉仕者たちは、今日エホバの正しい原則を破る者たちをどのように見ますか。     ⓰新しい世の社会は、どのように怒りと義憤を見なしますか。


神の目的とエホバの証者編集

 その2

 「『あなたがたは私の証者です』とエホバは言われる。」-イザヤ、43:10.新世訳

   第二章

     宗教的な混乱からの転換は始まる

 ロイス: ローマ・カトリック教会が中世時代の千年間、神の御国として支配したと主張したなら、キリストの再臨を待つ必要がなぜあるのでしょうか。

 ジョン: ローマ・カトリック教会は待たなかったのです。しかし、ローマ・カトリック教会の力が一八〇〇年頃に衰え始めたとき、幾人かの聖書研究者たちが主の再臨に注意を向け始めたのは当然です。

 ロイス: しかし、宗教改革についてはどうですか。新教徒がローマ・カトリック教会から離れたとき、彼らはエホバの証者にならなかった、とあなたは仰言[おっしゃ]いましたね。なぜそう仰言るのですか。

 ジョン: そうですね、宗教改革は実際にはローマ・カトリック教会の権威に対する反逆として始まりました。そして、間もない中に強力な政治論争に発展しました。多数の新教徒の指導者は、カトリック教会の異教徒審問所と同じくらいに、宗教的な反対者たちをひどく迫害しました。たとえばジョン・カルビンは、三位一体説に反対したマイケル・サーヴィータス[:ミゲル・セルヴェト(ゥス):スペイン人で、スペイン語で??!:個人注]を文字通りに火焙[:ひあぶ]りにしました。それは非常におそろしい拷問で、約五時間の後にサーヴィータスは死にました。[:永遠の神の御子よ!!と言った…神の永遠の子よとは言わずに…最後の言葉ではも…とか人文の本でも確認したと!!個人注:]その間、カルビンは窓からその光景を見ていたのです。(イ)[原註:奉仕者になる資格(英文)(一九五五年)二九五頁]さらに、新教徒の教会は法王が支配していた世紀中に信ぜられていた背教の教えを、そのまま引きつぎました。またこれらの事実だけからも、それは真の宗教改革でなく、またこれらの「宗教改革者」たちは、イエスやイエス以前の人々のごときエホバの証者ではなかったことが分ります。

 しかし、世の終りが来る前に神の御国の良いたよりは、全国民へのあかしとして世界中に伝道される、とイエス御自身は予めに告げられました。暗黒時代中では、このことは不可能でしょう。政治的な支配と宗教的な支配とは、きわめてかたいものであったため、ローマ・カトリック教職制度の束縛を全く破ることは必

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要でした。そうしてこそ、ある程度までの運動を行なうことができます。この点のところでは、真の崇拝に戻ったわけではありません。しかし、この再調整の期間中に歴史的な大事件が生じたことは、キリストが再臨して設立される神の御国を国際的に伝道するための状態を準備していたのです。

     極端な思想は御国の論争をぼやかす

 多くの抑制は取りのぞかれて、思想と行動の自由がいっそう多く与えられました。しかし、この自由思想の多くは極端な左に走りました。急進的な思想と絶えず衝突したために、人々はエホバ神の御国とサタン悪魔の支配との間の真実の大論争よりも、これらの論争に注意を集中するようになりました。

 自由主義が左に傾いた例としては、一八四八年にマルクスとエンゲルスは「共産党宣言」を発表しました。そして、ダーウィンの急進的な「種の起源」は、当時に行われていた知的な革命と科学革命のしるしとして一八五九年に現れました。組織されていた宗教は、それと同じ頃に自分たちの弱い立場を認めました。そして、バチカン会議は、ローマ・カトリック教会の地位を強めるために、一八六九--七〇年に召集されました。法王は初めて間ちがいを犯さない者と言明されました。新教徒の制度も後退し、牧師たちは一般の信徒の上に大きな権威を取り始めました。これら多数の極端な思想の結果、不敬虔の時代が次第次第に始まりました。聖書の高等批評、進化論、霊媒術、無神論、そして不信仰はキリスト教国内に侵入し始め、多数の福音教会と言われるものは、この科学的、知的な考えの傾向に従って、その教えを現代化し始めました。その後間もない一八九一年に、現代的なカトリック社会哲学の基礎的な文書が書かれました。これは、法王レオ十三世の出した回章で、「レルム・ノバラム」と呼ばれました。

 しかし、宗教指導者たちが人々を犠牲にして自分たちの力を再び得ようと努める一方、政治政府は別の意味で自分たちの力を得ていました。アメリカ合衆国は、南北戦争から立ち直ったばかりで、地上最大の一強国になろうと再建をはかっていました。英国は、聖書預言中の第七番目の世界強国としての黄金時代を迎え、おそらく大英帝国としては当時その絶頂に達していました。この力を持つ英国は、力を増し加えていたドイツは、一八七〇年の普仏戦争に勝利を収め、欧州内の大きな強国として、立場をかため始めました。

 …………そして、以前の世紀では富をわずかしか持っていなかった人々は、いまや金銭の投資をすすめられ、大きな財産をつくり始めました。物質主義、金づくり、そして快楽を追い求めることはそれぞれ結合していました。それは、着々と興隆して一九一四年に最高潮に達する筈の可能性に対して、人々を盲目にせしめました。良いことに対するこれらの見込みは、非常に有望に見えたため、一般の人々はそれらの代価についてはほとんど関心を持たなかったのです。そしてまた、政治的な面と商業的な面でのこの再興にともなう大きな霊的な覚醒にもほとんど関心を抱かなかったのです。

     初期の声は道を示す  

 しかし、一般の人々のこの態度にもかかわらず、前進の一歩が進められていたことは真実です。思想と行動の自由は可能でした。そして欧州での政治支配がゆるみ始めたのと同時に、大ぜいの人々がいっせいに聖書を真剣な態度で分析的に研究し始めました。もっとも広範囲に及んだ影響のひとつは一八一六年にウィリアム・ミラーが始めたものです。彼は1843年か1844年にキリスト・イエスが目に見える肉体をもって来ると預言しました。しかし、彼の見解は聖書中に啓示されている神の目的とは全く反するものでした。(ロ)[:原註:ウィリアム・ミラーの生涯(1875年:第七日再臨論者出版協会)三六二-三七四頁]

 トム:当時キリストの再臨を待っていたのは、ミラーひとりだけでしたか。

 ジョン:いいえ、ドイツ・ルーテル派の神学者ベンゲルは、1836年と言う年代を発表しました。一方英国のアービング派の者たちは最初1835年、次に1839年、1864年、そして最後に1866年を待ち望んで、ついに断念しました。この時までは、いくつかの異なった再臨論者の群れが、ミラノの運動の結果つくられました。しかし、エリオットとカミングの群れは、1866年を待ちのぞんでいました。ブリュウワーとデッカーは、1867年を預言し、セイスは1870年代を支持しました。ロシヤのメノン派の群れは1889年と言う年代を示しました。(ハ)[:原註: E.T.クラーク著「アメリカの小さな派」(英文)33,34頁。(1,949年改定版)カトリック百科事典(1910年、ニューヨーク)、『アービング派』:百科事典(マクリントクとストロング。1882年、ニューヨーク)、『千年統治[:期??!]』:「ジョン・アルバート・ベンゲル」]

 ロイス:しかし、キリストの再臨の時と仕方について、なぜちがった考えがそんなにあったのですか。

 ジョン:そのわけは、人々はエホバに待ちのぞむことをせず、伝統的な宗教の教えに従おうと熱心に努力したからです。忘れてはなりません、聖書の真の教理は背教の期間中に大きく歪曲されたため、まずこれらの教理が明白に理解されるまではキリストの再臨に関する明白なまぼろしは可能ではありません。いわゆる宗教革命と呼ばれているものは、このことを達成しませんでした。それで、一九世紀の初期には、キリストがいつ戻るかを決定する際に多くの間ちがいがなされました。なぜなら、年代表だけが用いられたからです[:個…注:クリストファー・ボーエンの年代にE・B・エリオットの1914年が絡(からん)んで、の年代計算が、Nelson・H・バーバーの年代で、1874年だと示していて、ラッセルの信経に後に影響する、1914年以前の40年間だとか??!:歴史的な意味しか無い国際聖書研究者の年代計算。ある人(背教者??!)はこれを問題にする??!:以前の宗教改革によってカトリック教会の衰退が原因??!神聖ローマ帝国もフランス革命の余派によって、解消せらる(1,806年??!)。宗教的自由のローマ教皇の俘虜(1,799年??!)によって?!]。それはまだ真の崇拝を再興する神の予定の時ではありませんでした。

 マリヤ:キリストの再臨を待ち望んでいた多くの人は、キリストが肉体をもって戻ることを期待していましたが、ある人々はキリストの再臨は目に見えるものでないと信じていませんでしたか。

 ジョン:そうです。たとえばブルックリンのジョージ・ストーズがいます。彼は「聖書検査者[:個人注:聖書監査者、監識者、あるいは、聖書監督者、か??!彼の母教会の??!メソジスト監督(英国:エピスコパル(聖公会・監督派)教会:ビショップはアルミニアニズムで??!ローマ教皇さまも肯(うなず)く??!)教会の??!Bible-Examiner誌??!]」(英文)という雑誌を出版し、1870年を待ちのぞみました。「最後のラッパ」(英文)を出版したエッチ・ビー・ライスも1870年を期待していました。そして、失望ていた再臨論者で構成された第三の群れは、1873年1874年を待っていました。この群れの指導者はニューヨーク・ロッチェスターのエヌ・エッチ・バーバーでした。

     日は明け始める

 そして最後には1870年頃に別の群れが現われ始めました。この群れの指導者は、ペンシルヴァニヤ州、アレゲーニー・ピッツバーグのチャールス・テイズ・ラッセルでした。それについてラッセル自身の言葉を読んでみましょう。この物語りは1868年から始まる。(シオンのものみの塔の)編集者は、幾年のあいだ神にささげられた子で、会衆教会およびY・M・C・Aの会員であった。彼の信仰は、長い間うけいれられてきた多くの教理について動揺しはじめた。

 わたしは長老教会の者として育てられ、教義問答で教え込まれ、そして物事を探求したい気持ちを抱いていたので自分ひとりで考え始めるとすぐに不信心の論理にひきずりこまれた。しかし、最初は神と聖書に対する信仰を全く打ちこわすと恐れたが、神の恩寵により良い結果が生じたのである。それはむしろ人間の信条と聖書の間違った解釈についての私の確信を失わせた。

 次の数か月のあいだ、ラッセルは宗教の問題について考えをめぐらして、それを受け入れることができず、しかも、断念しなかったのです。彼は次のように述べています。

 偶然のように思えるのであるが、ある晩私はペンシルバアニア州アレゲニーのうすよごれた汚い会堂に入ってみた。そこで宗教礼拝があると聞いたので、その場所の人々は大教会の信条以外の気の利いたものを持っているかもしれないと思ったからだ。そこで、私はジョナス・ウェンデルの話す再臨論者の見解らしきものを始めて聞いた……

 彼の聖書解明は十分明白なものではなく、また我々がいまよろこんでいるものとは大分かけ離れていたが、それでも聖書が神の霊感によって書かれたことに対する私の弱まった信仰を再びつよめるのに十分であった。そして使徒たちと預言者たちの記録が切り離し得ないほどに結びついていることが示された。

 その結果、聖書に対するラッセルの興味は再燃し、彼は「いままで以上の熱心と注意を払って」聖書の研究に戻りました。ラッセルは次のように続けています、

 私は間もなくして、我々が福音時代の終りに住んでいること、および主の子供たちの中に賢明にして目ざとい者たちが神の計画を明白に知ると主の述べ給うた時に近いところに住んでいるということを悟りはじめた。この時において、私とピッツバーグとアレゲーニーにいた他の数名の真理探究者たちは、聖書研究の級[:個人注:Classとか、EclessiaもEClessia??!Class??!] を設立した。(ニ)[:原註: 若いチャールスの父親J・L・ラッセルは、この最初の群れの一員でした。(ものみの塔[英文]1884年、175頁)。] そして、1870年から1875年までの期間は神の恵みにおいて、神とその御言葉の知識と愛において、増加の一途をたどるのみであった。我々は神の愛を認識するにいたった。すなわち神の愛は全人類にどのような御準備を設け給うたか、神の愛にみちた計画が証しされるために、すべての者は墓からどのように呼び起こされるか、またキリストのあがないのわざに信仰を働かして、神の御心に関するその知識に一致して従順を示す者は、キリストの価値を通して、神との全き一致に戻り、永遠の命が与えられる、ということを知った。これは使徒行伝三章ニ十一節に預言されていた恢復のわざである、と我々は悟った。

 しかし、その当時は神の計画の概略を学び、長い間大切にしてきた間ちがいを取りのぞいただけであった。詳細についての明白な識別をするときは、まだ来なかった。……

 そのようにして、1868-1872年は過ぎた。それから1876年までの年月中、わたしがアレゲーニーで会った少数の聖書研究家にとって、神の恵みと知識は増し続けた。恢復についての我々の最初の幼稚で漠然とした考えから進歩して、詳細を明白に理解できるようになった。しかし、明白な光をもたらす神の予定の時はまだ来なかった。

 記録の示すところによると、この期間中にこれらの聖書研究生たちは「御自身を捨てられた人間」なる主と、霊者として再び来られる主のちがいを認識するようになりました。霊者の臨在は人間の目に見えない、と彼らは学びました。進歩したこの理解の果は---

 我々は再臨論者のまちがいを大変残念に思った。彼らはキリストが肉体をもって来ると期待し、そして再臨論者をのぞいて、全世界とその中のものは1873年か1874年に燃え上がってしまうと期待していた。我らの主の再臨の目的および仕方について、彼らの定めた時とその失望、かつ幼稚な考えは、主の来るべき御国を待ちのぞんで宣明したすべての者に、多少なりとも非難をもたらすことになった。

 キリストの再臨の目的と仕方について、間ちがいの見解が広くとられているので、私は「主の再臨の目的とその仕方」と題する冊子を書くにいたった。その冊子は五〇、〇〇〇部が出版された(ホ)。[ :原註:ものみの塔(英文)1916年、170,171頁。]

 それで幾世紀もわたる暗やみと泣き悲しんだ期間の後に、神の御言葉の真の光は再び照り輝き始め、そして熱心に宣[:の]べ伝え始められたキリストの再臨の音信は、新しい日の明け方に叫ばれるよろこびの叫び声のようでした。この意味深い出版物「主の再臨の目的と仕方」とともに始まったよろこびの叫びはだんだん大きくなり、ついには大水の轟[:とどろき]のようになりました。

 トム: それがエホバの証者の国際的な伝道の始まり、というわけですな。すると、現在までのあなた方の活動は、八十年以上にもなるというわけですな。それは今日の大多数の人々よりも古い。

 ジョン: そうです。しかし神の御心にずっと従いつづけることは、正しい方向に出発したことよりもはるかに多くを意味します。ラッセルは将来のわざに対する熱心に満ち、全速力で出発しました。ところが、ほとんどすぐに何の標識もない分かれ道にところに来ました。彼は、両方の道を歩くことはできない、またどちらかの道は災いを意味する、と明白に知りました。彼は決定を下さねばならないと知りましたが、その決定がどんな影響およぼすのか、またそれから後のどんな模範を残すべきかは、知ることはできませんでした。しかし、その部分をお話しするなら、私共は一晩中ここに居なければならないでしょう。おのぞみなら、来週参りましょう。

 トム:ぜひ来てください。まだまだお聞きしたいことが沢山あります。

 ロイス:どうぞいらして下さい。ラッセルさんの下した決定に、私は興味を感じます。

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