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「彼らはすべてエホバから教えられるであろう。」----ヨハネ、6:45 ; イザヤ、54:13

「ものみの塔」内の聖書は旧新約聖書です。他の翻訳が使用される時は次の略語が記されます。

新世ーー新世訳聖書(英文)。  新口ーー1955改訳聖書。  ア標ーーアメリカ標準訳(英文)[以上610??]

ものみの塔 エホバの御国を知らせる 通巻LXXXII 1961年 10月15日 第20号 復刊 第11巻 第20号編集

すべての事に時と場所がある編集

 

 「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」と賢明な王ソロモンは、全能の神の霊感のもとに書きました。全くそのとおりです。「生まるるに時があり、死ぬるに時があり……殺すに時があり、いやすに時があり……泣くに時があり、笑うのと気があり、悲しむに時があり……愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある」。--伝道、三ノ一ー八、新口。

 過去はほとんど六千年にわたって、この地には泣き叫ぶ声が聞こえてきました。そのわけは憎しみにみたされた人々が互いに戦いあい、人を殺し、死をもたらしてきたからです。笑い声、喜びの踊り、愛そして平和は、陰の方におしやられてきました。いつになってもこのような具合でしょうか。神の僕たちの生活にも、泣いたり、悲しんだり、憎んだり、戦争したり、殺したり、死んだりするのに、時と場所があるというわけでしょうか。

 人が死んだり、戦争しあったり、殺しあったりするというのは、神の本来の御心ではありませんでした。人間が完全な平和のうちに限りなく生き、泣く時などない、というのが神の本来の目的でした。しかし、最初の人間の夫婦が神の支配権に反逆したので、神と離れるという結果になってしまいました。罪と死がはいってきました。そして戦争、殺害、憎しみは、日々の事がらになってしまいました。神の僕たちは、神に反対しているこの悪しき世のただ中に住んでいます。それでそのような状況のもとにいる神の僕たちには、伝道

の書のソロモンの言葉は適用します。

 しかし、一体どのように適用しますか。神の僕たちは泣いたりするかわりに、笑ったり踊ったりすべきではないですか。戦争したり、殺したり、他を憎んだりするというのは、一体いつするのですか。

 ソロモンは言いました、「悲しみは笑いにまさる。顔に憂いをもつことによって、心は良くなるからである」。ソロモンよりも偉大な者、イエスは言いました、「あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである」。また、「あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである」。このような危険な悪しき日にあって、諸国民は、苦しみ悩み、増し加わる脅威に直面しています。愚かな者は、騒々しく生活し、このようなのは普通だといって、笑いとばしてしまいます。しかし分別のある人は、それを見て心をいためます。憎むべきことが行なわれているのを見て、なげき悲しみます。この古い世には何ら、喜びの原因を見出さず、神と神のつくる正義の新しい世にのみ、それを見出します。--伝道、七ノ三。ルカ、六ノ二一、二五。エゼキエル、九ノ四、新口。

 戦争とか殺害は、神の民にとって関係のないことではありません。それらをするのに時がある、ということを知っています。アブラハムは、おいのロトを悪しき逮捕者の手から救い出すために、戦いました。神の愛されたダビデは、強い戦人(いくさ)人で「何万人を撃ち殺」しました。昔の神の僕とは異[以上611]

[612] なり、クリスチャンは「内に従って戦っているのではな」く、霊的な戦いをし、「神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし」ます。--創世、一四ノ一四ー一六。サムエル前、一八ノ七、コリント後、一〇ノ三ー五、新口。

 イエスは弟子たちに、敵を愛するようにとすすめました。しかし、神の御言葉はまた、「悪を憎」むようにとも言っています。何が善であるかを知って後もなお、悪しきことを続け、その結果悪が深くしみ込み、遂にはその人と切っても切れないようになるとき、クリスチャンは悪を憎むさいその人を憎まねばなりません。悪はその人の一部になりきっているからです。心のかたくなな、エホバの敵を愛するようにと、イエスが言ったのではないということは、ダビデの次の言葉からも分かります。これは神が是認しているものです。「エホバよわれは汝をにくむ者をにくむにあらずや、汝に逆らひておこりたつものをいとふにあらずや、われいたくかれらをにくみてわが仇とす」--マタイ、五ノ四四。アモス、五ノ一五。詩、一三九ノ二一、二二。

 神の僕は永遠の生命を待ち望んでいます。今のところ、クリスチャンにとっても死ぬ時があるかもしれません。イエス・キリストと共に王となり祭司となって、天の生命を受けつぐ者にとって、死は避けることができないものです。死ぬ時があります。天の報いを得るために、どうしても死なねばなりません。今日多くのクリ

スチャンは、この悪しき組織制度の終りに生き残り、死を一度も味わずに神の新しい世にはいる、という希望をいだいていますが、いまだに死ぬ時があるかもしれません。神の律法に忠実に従い、そのために命をおとすか、あるいはその当座の命を延ばすために、妥協するかという選択をせまられるなら、神の僕は死ぬまで忠実を保つでしょう。このような時は、死ぬ時なのです!--マタイ、一六ノ二五。

 憎しみ、戦争、殺害そして死は、泣いたり悲しんだりすることと共に、この悪しき世と切っても切れないつながりをもっていますーこの世はこれらのことが栄える場所になってしまいました。この古い世が続いている限り、神の僕の生活にも、甘い経験ににがいことが加わる時があるでしょう。しかし神の御言葉は、幸いなことに、間もなく「世と世の欲とは過ぎ去る」と約束しています。神の御心を行なっている者は、生きながらえて神がつくる新しい世にはいります。そこでは神が、「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる、もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない、先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。神は「地のはてまで戦闘(たたかい)をやめ」させ、「平和は月のうするまで豊」かになるでしょう。ーヨハネ第一、二ノ一七、新口。黙示、二一ノ四、新口。詩、四六ノ九。七二ノ七。

 エホバのこのような祝福を楽しむ時と場所は、神の新しい世です。神はそこで祝福に苦し

みを加えることは、なさいません。地球は笑い声と愛でみち、いやされた者はとびまわり、平和がうすれることはないでしょう。泣く者の声は聞こえず、人々は戦争しあったり、殺しあったり、憎しみあったりしなくなります。--箴言、一〇ノ二二。

 そのような時に生きたいと思うすべての人は、今こそ生命にたいする、エホバの御要求を知り、それに従って生活すべき時です。そのようにしてのみ、神の新しい世にたしかにはいることができ、神の祝福である「かぎりなき生命をさへ」楽しむことができるのです。--詩、一三三ノ三。

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   わざわい  あなたの心をやわらげるか。かたくなにするか。編集

 「バン!バン!バン!」と背中に三つの弾丸を受け、父親は逃げおおせずに地面に倒れ死にました。十七歳になる自分の息子に殺されたのです。数年間、この息子は父親と言い争い、これを永久的に解決するために、この道を選んだのでした。裁判所に提出された証拠によると、殺人は「明かに計画的なもの」でした。反対尋問のさい、この青年は「もう一度やる必要があれば、やる」と言い放ちました。裁判官が、計画的な父親殺しの判決としてたった五年から十二年の刑を言い渡したときに、この青年は「眉一つ動かさなかった」ということです。--一九六〇年十一月十六日付、「ニューヨーク・タイムス」紙。

 この青年は、わざわいで心が冷酷になっていました。彼に対する父親の仕打ちが、正しかろうが、まちがっていようが、彼にはそれが、わざわいとうつったのです。そしてそのわざわいが彼を冷酷な人間にし、計画的な殺人を行わせるにいたったのです。このような殺人事件の記事は、新聞や雑誌によく出ています。この時代が冷酷な時代であるということを物語るものです。

 わざわいというのは、前述のごとく、正当なものもあれば正当でないものもあります。苦しみや悲しみあるいは悩みをもたらすものは、何でもわざわいです。世界第一第二大戦はわざわいで、しかも人間によって始められた、不当なわざわいでした。ノアの時代の洪水はわざわいでしたが、神がもたらした正当なわざわいです。そうです、神は、祝福ばかりでなく、災害あるいはわざわいをくだす時もあります。--イザヤ、四五ノ七。

   かたくなになる人と、心をやわらげる人がいる

 わざわいによって、かたくなになる必要はありません。自分次第です。もし望むなら、それによって心をやわらげることもできます。父親を殺すとまでいかなくとも、父親に反対して言い争う青年が、一体どれくらいいるか、知れたものではありません。人間の歴史を述べた叙事詩である聖書を調べるなら、これがいかに真のことであるかが、わかります。

 わざわいによって、心をかたくなにした最初の人間は、アダムだと言うことができるでしょう。神のさばき、つまりわざわいに面した時、アダムは冷淡に神と自分の妻を否定しました、『わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです』。ちょっとの間に、アダムはその心をなんとかたくしてしまったのでしょう。--創世、三ノ一、二、新口。

 エホバとは誰かということをパロに示すために神がエジプトに送った十の災害は、わざわいでした。それに疑問の余地はありません。それらの災いがパロやその臣下の者を、かたくなにしたことは事実です。しかし、なかにはそのわざわいによって、心をやわらげたエジプト人もいました。それらの人々はモーセの神に信仰を働かせ、第七の災害である、ひょうと火と雷について警告された時、隠れ場所を求めました。また「多くの入り混じった群衆」としるされている多くの人々は、西暦前一五一三年ニサンの十四日の記念の晩の後に、イスラエルの人々と一緒にエジプトを出ました。--民数、三三ノ一ー三。

[633] 今日、周囲を見ると、不必要にかたくなになり、自分を傷つけている人がたくさんいます。生まれた時からめくらだったり、びっこだったりというように、何か欠陥をもって生まれてくるとしんらつになったり、いこじになったりする人がいます。

 そういう人たちは、聖書に出てくる言葉、つまり、自分の『父親』が「酢いぶどう」を食べたので、自分たちの『歯がうく』という事実に、いきどおています。しかし、盲目に生まれ、イエスによってその視力を回復してもらったという、聖書に出てくる男の人は、自分の不幸のゆえに、いこじになるということはありませんでした。ペテロとヨハネによっていやされた、生まれながらにびっこの人も、いこじになっていませんでした。ふたりとも、やさしい心を持ち続け、希望を捨てませんでした。それで奇跡的ないやしを受けるのに、ちょうどよい心の状態でした。今日、同じような状況のもとで、柔和な心を保っている人は、霊的ないやしを受けやすいでしょう。--エゼキエル、一八ノ二。ヨハネ、九ノ一ー一二。使行、三ノ一ー八。

 何かの災害にあって、心をかたくなにする人もいます。神によって「時と災難はすべての人に臨む」のだといって、神に反感を持つ人がいます。このような人はすべて、ヨブの例を考えてみるべきです。ヨブは一度に何という大きなわざわいを受けたのでしょう!十人の子供を全部失い、自分の健康ま

でも害しました。ヨブはいこじになりましたか。ヨブの妻が、かたくなになったということは、彼女の次の言葉からもわかります、「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい。」しかし、ヨブは心をやわらげて次のように言いました、「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸を受けるのだから、災をもうけるべきではないか」。--伝道、九ノ一一。ヨブ、二ノ九、十、新口。

 また、多くの人は、経済的な圧迫や人種的差別というような、社会悪のために、いこじになってしまいます。このような人は、悪がはびこっているかぎり、人生は楽しくないというような顔をしています。そしてその悪を是正することこそ人生の第一目的であるかのように、改革運動を始めます。ある人は極端にはしり、無神論の共産主義者になります。まったく愚かなことです!ペテロは、当時のクリスチャンのどれいに、気むずかしい主人にでも、反抗することなく、かえって従うようにさとしました。--ペテロ前、二ノ一八、一九、新口。

 イエスのたとえ話に出てくるサマリヤ人は、ユダヤ人の手による差別待遇のために、冷淡になっていませんでした。それどころか、強盗におそわれ、傷つけられて道端に倒れていた人、おそらくはユダヤ人をわざわざ介抱したのです。そしてサマリア人はそのことを嬉しく思いました。そうです、「悪しきわざに対する判決がすみ

やかに行われない」からと言って、いこじになってもよい、というわけではありません。--ルカ、十ノ二九ー三七。伝道、八ノ一一、新口。

 権威を持つ者が、その力を誤用したり、濫用したりするために、冷酷になるということはよくあることです。前述のティーンエイジャーのばあいも、これに該当するでしょう。従属の地位にあるものー妻、子供、従業員あるいはクリスチャンの会衆のメンバーーはだれでも、この点で注意しなくてはなりません。このことに注意を払わなかったため、イスラエルの十の支族は、ソロモンの息子レハベアムーたしかに彼はわけのわからぬ人でしたがーのために、かたくなになりました。しかし、ダビデの例の方がどんなにか良いでしょう。サウロがその力を誤用してダビデを苦しめたのに、冷酷になるということはなかったのです!--歴代志下、一〇ノ一六。サムエル前、二六ノ九、新口。

 自分が良き配偶者を見つけなかったということで、いこじになるということも、ままあることです。経験が浅かったり、その人の性質を信用し過ぎたり、相手が不正直だったりしたために、失望したり、欲求不満になったり、あるいは深く傷つくということがあるかもしれません。このために、周囲の人すべてに対していこじになり、特に異性に対してそのように振舞う人がいます。エフタの娘は、父親の誓いのために、自分が一生独身で暮らさねばならぬと知った時、いこじになるのは容易でした。でも彼女はそうしな

[634] かったのです。彼女は全時間エホバ神に奉仕して幸福を見出しました。--士師、一一ノ三六ー四〇。

 このような失望は、なにも異性間のいわゆる「愛」の問題だけに限られるのではありません。弟が、自分たちにまさって愛されているのを見て、カインとエソウは無情になり、その弟を殺してしまおうとまで思うようになりました。--創世、四ノ四ー八。二七ノ四一。サムエル前、二三ノ一七。

 人の心をかたくなにするわざわいのうちで、一番大きな試練となるのは、たぶん叱責される時、あるいは罪の結果を見せつけられる時でしょう。ウジヤは、せんえつにも香をたいて非難されました。それは祭司のみに与えられていた特権だったのです。その際、ウジヤはかたくなになり、そのせんえつな行為をつづけたのです。またユダは、イエスを裏切った結果を思いしった時に、かたくなになり、自殺しました。--歴代志下、二六ノ一六ー二〇。マタイ、二七ノ五。

 これとは全く反対に、ダビデは、バテシバにかんして犯した罪を指摘された時、心をかたくなにせず、柔軟な心でこう言いました、「我ヱホバに罪を犯したり」同じくペテロも、にわとりが鳴いた時、自分の主を否んだのだという、取り返しのつかない事実を思い出しましたが、アダムのようにかたくなになったり、自分を正当化したり、言い訳を言ったりしませんでした。

ただ「外に出て激しく泣いた」と書かれています。--サムエル後、一二ノ一三、一四。マタイ、二六ノ七五、新口。

 注意しないと、冷淡になってしまうもうひとつのわざわいがあります。それは他人の上にのぞむわざわいです。他人の不幸や、苦境をみる時、無感覚になってはなりません。特に、何か援助できるばあいはそうです。親切なサマリア人についてのイエスのたとえ話の中で、祭司やレビ人は、強盗におそわれて傷つけられた人を見た時、冷たんになりました。しかしサマリア人はそうではありませんでした。可哀そうな人を見た時、あわれみの気持ちが湧いてきました。神が昔の御自身の民に、次のように命じたのは、適当なことでした、「もしあなたの兄弟で貧しい者がひとりでも………おるならば、その貧しい兄弟にむかって、心をかたくなにしてはならない。また手を閉じてはならない」。--申命、一五ノ七、新口。

     なぜいけないか

 確かに、前述のいろいろな聖書的な例を見ると、わざわいに臨んだ時、心をかたくなにするよりも、やわらげるようにとすすめています。わざわいによってかたくなになることは、神にそむくことになります。原則として悪いだけでなく、関係者すべてにとって害になります。また、わるい事がらを一そう悪くしますから、避けるべきです。ほかのほほを向ける代わりに、「悪をもって悪に報い」るということになります。

 人をいためつけるようなことは、常に避けるべきです。他人を傷つければ自分も傷つくことになるのです。--テサロニケ前、五ノ一五。マタイ、五ノ三九。

 さらに、かたくなになることにより、その相手を裁き、せんえつに振舞っていることになります。『自分で復讐』しないようにと言われています。しかし、もしかたくなになるなら、自分で復讐していることになります。少なくとも心の中で復讐し、おそかれはやかれ、それが行動にはっきりと出てきます。イエスが賢明に次のようにさとしたのは、正しいことでした。「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」。--ロマ、一ノ一九。マタイ、七ノ一、二、新口。

 かたくなになるなら、たしかに愛が欠けています。『自分を愛するように、われわれの隣人を愛する』という律法を、おかすことになります。なぜ人がそのような行動を取るのか、いつも理解できるというわけではありません。私たちは人の心を読むことができません。できるのは神だけです。わざわいに会うなら、やさしくなり、他人に対してもっと同情的になり、神に対する悔い改めの気持ちがもっと湧いてくるはずです。わざわいによって、心がかたくなになるなら、サタンの味方になってしまいます。なぜなら。わざわいのために神から離れることは、サ

[635] タンの思うつぼだからです。サタンは人類にわざわいを臨ませることにより、人類を神から離してみせると豪語したのです。--マタイ、二二ノ三九。

     矯 正 手 段

 わざわいがきた時、かたくなにならず、やさしい気持ちを保つのはどうしたらよいですか。ひとつの方法は、わざわいに会いながらも、かたくなにならなかった人々の例が、聖書に出ていますから、それを心にとめることです。エジプトに捕らわれていた昔のイスラエル人は、わざわいのためにかたくなにならず、かえって助けを神に求めました。神は彼らの声を聞き、予定の時に救い出されました。(出エジプト、二ノ二、三)それで、信仰と祈りはわざわいに合ったさい、かたくなにならずに、やさしい気持ちを持ち続けるための、ふたつの最も大きな助けです。そうです、「悪しき者はしばらくで、うせ去る。………しかし柔和な者は国を継ぐ」ということに信仰を持って下さい。--詩、三七ノ一〇、十一、新口。

 今日、多くの人は政治的、経済的、そして社会的弊害で苦しめられています。しかし、このために、いこじになり、全生涯これらの弊害をなくすために心をにがくして戦うよりも、むしろ、これらのわざわいによって、心を和らげ神に助けを求める方がよいでしょう。そうすれば、神の証者が訪問した時、神の御国の良いたよりを受け入れようとします。そして、そのような弊

害のもとでも、もっと幸福になります。たとえ、弊害からのがれたとしても、神の御国の希望なしでは、そのように幸福になることはできません。

 わざわいによって、かたくなにならず、心を和らげるための、もうひとつの大きな助けは、けんそんであるなら、やさしく、柔軟性に富み、従順で、折りまがることができます。わざわいは、高慢なものをかたくなにします。ちょうどパロのばあいがそうです。

 そのような人々は、張りつめた時に、まがることができませんから、砕けてしまいます。高慢な人は、わざわいによって、生きるすべてのよろこびを失ってしまいます。なんと愚かなのでしょう!反対に、けんそんな人は、わざわいが伴う人生でも、価値があるものだと思います。そして、あるがままの状態を最善に生かすという賢明な道をとります。そのような人は、いつもやさしく、柔和で、従順です。

 忍耐、耐久力、しんぼう強さ、というような好ましい性質をつちかうなら、わざわいに会うさい、やさしい気持ちを保つ助けになります。大洪水前、エホバ神がいかに長く、わがままな人間をしのばれたか考えて見て下さい。また、イスラエルの国にしても、現在のこの悪しき世にしても、同様です。わざわいを直ちになくすことができ、かつ、そのわざわいによって地的の御自分のいかなる子たちよりも、ずっと深く心をいためていられるに相違ない全能の神が、それらに喜んでたえているなら、私たちが忍耐、耐久力、しんぼう強さというような性質をつちかい、不平を言わずにわざわいにたえていくのは、当然であります。神がなぜわざわいを許していられるか、そのもっともな理由ー御名の立証と人間の救いーを認めるなら、わざわいに会っても、いこじにならずにすみます。

 しかし、わざわいに面したさい、かたくなにならずに、柔軟な気持ちを保ちたいなら、何にもまして愛が必要です。神に対する愛があると、神がゆるされているわざわいのすべてに、忍耐することができます。隣人に対する愛があると、その人によって傷つけられたようなばあいでも、がまんすることができます。もし『自分の敵を愛し、迫害する者のために祈る』のなら、当然隣人に対して、かたくなになったりすることはできません。それで次の言葉を決して忘れないようにしましょう、「愛は寛容であり、愛は情深い………恨みをいだかない」。--マタイ、五ノ四四。コリント前、一三ノ四、五、新口。

 わざわいによって、心をやわらげることこそ、唯一の賢明な道です。そうすれば、満足を得、心の平和ならびに、友なる人間との平和、一致が得られます。一方、わざわいによっていこじになるのは、賢くないことです。ほかの人を傷つけるばかりでなく、自分自身も傷つけます。これは、高慢で、せんえつで、わがままな道です。信仰、祈り、けんそん、忍耐そして神と隣人への愛は、私たちに柔軟な気持ちを保たせます。

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