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   アレキサンダー大王と聖書の預言編集

 高等学校や大学を卒業した大ぜいの人々は、アレキサンダー大王の物語を知っていると思っています。しかし、往々にしてそれらの人々はアレキサンダーについての重要な事実をすこしも知りません。すなわち、アレキサンダーの敏速な征服は、聖書の預言の中で予[:あらかじ]め告げられていたのです。

 エホバはご自分の預言者ダニエルに、世界強国の興隆と滅亡について前もって知らせておかれました。西暦前六一八年から五三五年までの期間に、ダニエルはメデアーペルシャの後を継ぐ世界強国ギリシャの興隆と、それに関連して果たすアレキサンダーの役割について、神からの預言をいただきました。アレキサンダーが生まれる時より約二百年前、ダニエルはメデアーペルシャの征服者を預言しました、「またひとりの勇ましい王が起こり、大いなる権力をもって世を治め、その意のままに事をなすでしょう。彼が強くなった時、その国は破られ、天の四方に分かたれます。それは彼の子孫に帰せず………」。--ダニエル、一一ノ三、四、新口。

 この「勇ましい王」は、西暦三三六年、二十一才のときマケドニヤの王位につきました。ちょうどこれと同じ年に第四番目の世界強国メデアーペルシャの王、ダリウス三世が王位につきました。メデア、ペルシャや他の国々が急速に征服されることは、聖書の預言の中で予めに告げられていました。マケドニヤあるいはギリシャの世界支配者たちが起こることは、「鳥の翼が四つ」あるひょうという象徴のもとに、ダニエル書七章六節で預言されていました。ダニエル書八章五節では、「全地のおもてを飛びわたって西からきたが、その足は土を踏まなかった」一匹の雄やぎの象徴の下に預言されていました。この雄やぎがだれであるかは、疑問の余地なく明白に示されています。なぜならばダニエルは次のように語ったからです。「かの雄やぎはギリシャの王です」。--ダニエル、八ノ二一、新口。

 この象徴的な雄やぎが土を踏まないということ、および象徴的なひょうが翼を持っているということは何を示しますか。極めて速く征服するということを示します。アレキサンダーがどれほど敏速に世界征服を行なって、聖書の預言を成就したかを見てみましょう。

……………

[88] …………

 アレキサンダーは次にエルサレムにはいりました。歴史家チャールス・ローリンは、「古代の歴史」(英文)の中で次のように述べています、「エルサレムでは、大祭司が後にダニエル書の預言の言葉を彼に示した。その言葉は、その大君主について述べているものである………アレキサンダーが、かくも明白で事実とぴったり合う有利な約束を聞いて、たいへんなよろこびと感嘆の念につつまれたことを想像するのはむずかしいことではない。彼はエルサレムを去る前にユダヤ人を集めて、どんな願いごとでも申すが良いと告げた」。

[89] ……………

 彼の帝国はどうなりましたか。聖書の預言は「その国は破られ、天の四方に分かたれます。それは彼の子孫に帰せず………」と明白に示しました。(ダニエル、一一ノ四、新口)象徴的な雄やぎについては、神の御使いはダニエルにこう告げていました、「かの雄やぎはギリシャの王です。その目の間の大きな角は、その第一の王です。またその角が折れて、その代わりに四つの角が生じたのは、その民から四つの国が起こるのです。しかし、第一の王のような勢力はない」。--ダニエル、八ノ二一、二二、新口。

 神の御言葉は決して失敗に終ることがありません。その預言の通り、西暦前三〇一年のイプサスにおける天下分け目の戦いが行なわれた時までには、アレキサンダーの四人の将軍は、それぞれ自分の勢力をにぎっていました。歴史家ローリンは、このことや、またバビロンについての神の定めについて、次のような注解をしるしました。「古今未曾有の強力な君が努力をしたにもかかわらず、この無敵なのろいの力と重さは明白に示された。この君は、自分の計画を遂行するということに関しては、もっともねばり強く行なう者であった。この君のくわだては、ひとつとして失敗したことがない。ところ

が、これ[バビロンの再建:原文]には失敗したのである。その仕事ほ[:は:の誤植?!] 、他の仕事ほどむずかしいものとは見えなかった。………かくも明白で、正確で、しかも事実にぴったり合う一連の預言以上にすばらしいもの、神性なものがあるだろうか。預言は、その君が自分の家族からの合法的な後継者をひとりも残さずに死んでしまい、その四人の将軍は彼の帝国をめいめい分けてしまうとまで指摘しているのである。 

 アレキサンダー大王の生涯は、聖書の預言が正確に成就されていると示します。このことは、その預言を与えられた方エホバ神をあがめます。自分のすることを成功させたいとのぞむ人は、みな神の預言的な言葉に一致して生活しなさい。神の御言葉は決して失敗に終わることはありません。

神の目的とエホバの証者編集

「『あなた方は私の証者です』とエホバは言われる」--イザヤ、42:10。新世訳

     第九章

   一九一四年にすべての国が終る

………………

 マリア:もちろん、このことは証言のわざを中止させませんでした。なぜなら協会はその年の秋に終わりが来ると期待していたからです。一月までには「創造の写真ー劇」の準備は完成し、四月までにはその十二組を三一の都市に送り出しました。報告によると毎日三、五〇〇〇人が、この異常な作品を見聞きして感心しました。(イ)

 ジョン:そのとおりです。しかし、その年がだんだん進んで、欧州中は緊張の空気がみなぎっていても、暴力は起こらなかったので、御国の音信に対する嘲笑は増加してきました。しかし、諸国民や諸国家が、いま第一次世界大戦と呼ばれるものにどんどん突入して行った時、大変化が生じました。戦争直前の最初の数ヶ月間、はなはだしい不安の期間が欧州にのぞみました。しかし、その年の七月二七日から八月までの時は、世界を振動させた驚きに期間でした。戦争がはじまり、それとともに諸国民に苦難がのぞんだため、彼らの期待していた苦難の時とくらべ合わせて、エホバの証者のわざがいま顕著なものになるということは当然理解できます。

 典型的な一般新聞の反応は、指導的なニューヨークの一新聞「ザ・ワールド」にあらわれました。この新聞の日曜雑誌欄のところに、人目をひきつける見出し「一九一四年にすべての国が終る」の下に、長い特別記事が掲載が掲載されました。ここにその記事の一部を掲載します。

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(イ)一九一四年の「ものみの塔」(英文)一〇六頁。

[90]  ラッセル牧師の「万国聖書研究生たち」の計算によると、一九一四年は預言者ダニエルの語った「苦しみの時」である。この年は、四百万部も売れた「時は近づけり」という本の中で地の国々の滅亡の時と預言されていた。

 欧州で恐ろしい戦争が始まったことは、特別の預言を成就した。ここ二五年、『千年統治黎明派』として良く知られている『万国聖書研究生たち』は伝道士や出版物を用いて、聖書に記されている怒りの日は一九一四年に始まると世界に宣明していた。旅行をしている幾百人という福音伝道士たちは『一九一四年に気をつけよ!』と叫んでいた。この奇妙な信条を代表する彼らは、『神の御国は近づいた』という教理を宣明しながら、国内をあまねく歩きまわった。…………

 幾百人という人々は、これら福音伝道士の意言葉に耳を傾けて聞いたはずであった………また、彼らの宣伝は宗教的な出版物や、国内の幾百という新聞を通して、講演や、討論、研究クラス、活動写真によってなされたのであるが、一般の人々は「千年統治黎明派」というような運動が存在していることを知らない………

 チャールス・ティー・ラッセル牧師は、一八七四年から聖書のこの解釈を説いてきた………ラッセル牧師は一八八九年に次の言葉を書いた、「強力な聖書の証拠から判断すると、この世の国々の最終的な終りと神の御国の完全な設立は、西暦一九一四年の終りまでに達成されることはたしかな事実と考えられる」。

 しかし、苦難が一九一四年に頂点に達するということは、奇妙であった。おそらくラッセル牧師がきらびやかな派手な書き方をせず、非常に落ちついた、高等数学式の書き方をしたためであろうか、ともかく不思議な理由で一般の世界は彼のことをほとんど認めなかった。彼の「ブルックリン幕屋」にいる研究生たちには、このことは期待されていたことであり、この世は苦難の日が過ぎさるまで、神の警告に耳を傾けて聞いたことは一度もなく、また決してないであろう、という。………

 そして、一九一四年には戦争が来る。それはすべての人が恐れていた戦争で、決しておこることはないと考えられていた戦争だ。ラッセル牧師は「私があなた

がたにそう言った」とは語っていない。また彼は現代の歴史に合わせるため預言を訂正しているのではない。彼と彼の研究生たちは、十月まで待つのをいとわない。彼らは十月こそ一九一四年の真実の終りであると考えている(ロ)。

 トム:世界大戦が始まった後でも、すべての人はこの預言を受けいれなかったと思います。

 ジョン:そうです。イエスは、このはげしい苦難の時は末の日に来る、と預言しました、しかし、終りの時が来たことを示すすべての証拠があっても、大ぜいの人はその証拠をうけいれないということも聖書中に示されました。例えばペテロは、次のように述べました、「終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変わっていない」というであろう(ハ)」。


      良いたよりの伝道は続く

 ロイス:それはいろいろな感情のまじり合った時であったにちがいありません。

 ジョン:その通りです。証者たち自身も認識できなかったたくさんのことが生じました。一九一四年前の四十年間、彼らは聖書的な啓発によって、この年を指摘してきました(ニ)。さて、実際の証拠は、彼らが聖書研究を通して到達した結論を証明するように見えました。それで、彼らは次のことを確信しました。すなわち一九一四年十月一日は、異邦人の諸国家が地上で行使していた主権に対するエホバの寛容の期間二、五二十年を合法的に終らせたこと、および「全国民の終り」は合法的に一九一四年にきたということです(ホ)!それで、証者たちは聖書に予告されていた状態が実現するのを見てよろこぶとともに、この世にもたらされた悲

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(ロ)一九一四年八月三〇日、ニューヨーク「ワールド」日曜雑誌欄四、一七頁。

(ハ)ペテロ後、三ノ三四、新口語。

(ニ)一九一四年の「ものみの塔」(英文)三七一頁。

(ホ)一九五二年の「ものみの塔」(英文)二六〇、二六一頁。

しみと苦難はよろこびをもたらしませんでした。また、神の御国の反対者からうけた迫害は、彼らを幸福にせず、そのわざを容易なものにしませんでした。

 キリスト教国の牧師たちが、合法的な「全国民の終り」の証拠をうけいれる、ということは期待すべきではありません。むしろ、彼らはますます当時の問題に没頭し、諸国家の戦争の努力に介入したので、世界支配の論争を解決する神の力に人々が頼ることにたいしてすこしの忍耐も同情をも持ちませんでした。どの国の教会も、権力をにぎっていた国家の政府を支持しました。他の国で同じ信仰を持つ者たちが、戦闘の反対側にいたという事実にもかかわらず、このことは行われたのです。そして、クリスチャン兄弟たちと認められる者たちは、いま戦場で敵対しあうようになりました。

 トム:エホバの証者は戦争について何をしましたか。

 ジョン:彼らは戦争に参加することを拒絶しました。この苦難の時を指し示す預言を判断した証者たちは、神が戦争のそれぞれの側を支持しているという牧師たちの混乱した主張をうけいれることができず、またうけいれようとしませんでした。  証者たちは欧州で生じた状態に十分気づいていました。実際のところ、ジャッジ・ルサフォード自身も戦争が始まったときに欧州にいたのです。ルサフォードが協会の法律顧問という地位についてから、彼は公開の聖書講演者としてアメリカ中を広く旅行し、特別な要求に応じて多くの大学で講演し、またアメリカや欧州の大勢の聴衆の前で話しました。一九一三年、彼は妻を伴ってエジプトとパレスチナおよびドイツを訪問しました。ドイツでは彼は合計一八、〇〇〇人の聴衆に講演し、スイスでも講演しました。

 一九一四年、彼はパストー・ラッセルの代表として再び欧州に旅行しました。パストー・ラッセルは、健康も衰え、それに不安な世界状態の故にアメリカ合衆国から離れるのをのぞみませんでした。この資格をもってルサフォードは第一次世界大戦が始まる数日前にドイツで聖書の講演をしていました。彼がハンブルグ

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(ヘ)一九一三年の「ものみの塔」(英文)三一九頁。

[91] から英国に行く船に乗っていたとき、英国はドイツに宣戦を布告しました。それでルサフォードは、その年に起きた混乱の目撃者でした。彼はアメリカ合衆国に直ちに戻らず、一九一四年九月まで英国にとどまっていました。異邦人の時が終わりに近づくにつれてどんな事態が生ずるかをくわしく見るためでした。戦争の始まった最初の月々を英国の証者たちと共に過ごしてから、彼はアメリカ合衆国に帰りました。

 欧州で戦争が行なわれ、アメリカ合衆国がその戦争に介入していないとき、証言のわざに関する他の事柄は、真の自由の擁護者たちの注意をひきました。一九一五年、パストー・ラッセルは別の討論の挑戦をうけました。この度は、カリフォルニア南部のバプテスト派牧師を代表するジェイ・エッチ・トロイの挑戦です。パストー・ラッセルは、健康が思わしくなかったのでジェイ・エフ・ルサフォードを代任させました。ルサフォードは、バプテスト派の信者として育てられてきたので、この任命をすぐに受け取り、連続の討論が行われるカリフォルニア州、ロサンゼルスに向かって出発しました(ト)。聴衆の合計は一二、〇〇〇名で、一〇、〇〇〇名は入れなかったものと推定されました。

 そこで生じた一つの出来事は、ジェイ・エフ・ルサフォードの法律的なあたまの良さを示しました。討論の始まる数日前、ルサフォードはトロイと取極めを設け、人物について論じないことを保証するため、三六〇、〇〇〇円の約定金を両方の側が出すことにしました。こうすると、討論は聖書の事だけに限定されます。両方の側はこの保証に署名しました。

 それから数日の後、新聞に伝えた宣伝的な言葉からトロイは人物について話し、特にパストー・ラッセルについて話をして彼をそしる下心がある、ということが分かりました。ルサフォードは、最初の討論の始まる三分前まで待って、舞台に出ていなかったトロイと援助者たちを傍らの部屋に来てもらいました。そこでル

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(ト)一九一五年四月、トリニティ講堂で四晩。一九一五年の「ものみの塔」(英文)一四三頁。この討論の全文は、一九一五年四月二二ー二四ページ、ニ六日のロサンゼルス「トリビューン」を見なさい。

サフォードはトロイにこう告げました。「御記憶のことと思いますが、私たちは三六〇、〇〇〇円の保証金をつけて、人物について話し合うことをしないと協定しました。しかし、あなたの新聞の会見から判断すると、あなたは演壇上でパストー・ラッセルを非難攻撃するものと考えられる。もちろん、お望みなら、そうしても結構だが、しかしそうするなら、わたしはあなたの補償金を取る」。すっかり嘘をつかれたトロイは、「彼の名前を言ってもいけないのですか」とたずねました。ルサフォードは、「だめです」と強く答えました。トロイはこの討論の機会を利用してラッセルを個人的に非難しようとたくらんでいたので、これはまったくびっくりすることがらでした。そのため、準備した資料は、この場合不適当なものになりました。討論が始まってしばらくの間、彼は大変な苦労をしたのです。

 この討論の全部は、ルサフォードの圧勝に終りました。ルサフォードは、後にこう報告しました。

 昨夜、討論が終ってのち、大ぜいの人は私のところに来て、「私は長年バプテスト派の信者でしたが、ここで始めて目が開きました。あなたは私に光をもたらした」と告げました。非常に多くのカードが毎夜提出されました(チ)。

     写真ー劇は称賛され、反対された

 ロイス:ちょっと話していただいた創造の写真ー劇はどうなりましたか。マリアさん、それは一九一四年の一月までには映写されたと言われましたね。

 マリア:そうです。七月には英国に到達し、九月には欧州大陸で映写が始まりました。ドイツ、スイス、フィンランド、スエーデン、そしてデンマークなどです。そして十月までには、世界を半まわりしてオーストラリアとニュージーランドにつきました。

 これはほんとうにたいへんな仕事でした。いまのように音声の再生装置が進歩し、ハリウッドの「雄荘な」映画が上映されているとき、その仕事がどれほどたいへんであったかは、ちょっとは分からないでしょう。その制作の際に直面した一つの問題は、創造の最初から

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(チ)一九一五年の「ものみの塔」(英文)一四三頁。

現在と将来にいたるまでの世界の歴史を示す良い芸術的な絵を入手することでした。入手し得たあらゆるものは、劇の主題に適合されました。しかし幾百枚という原画やスケッチをつくることが必要でした。ステレオプティコン・スライドは、それから準備されたのです。それにこれらの絵は手で着色された美しいものでした。そのあるものは、パリや英国で描かれたものです。ラッセルは、次のように報じていました。

 「劇」に関連する仕事の量について、神は適切にも我々の目に覆いをかけ給うた。最初、それに要する時間、金銭および忍耐について前もって知っていたなら、我々はそれを始めなかったであろう。しかし、この「劇」にともなう大成功も、我々は前もって知らなかった(リ)。

 これらのセットは第一次世界大戦が欧州で始まる前に準備されたので、欧州大陸の多くの場所で映写され、途方にくれた大ぜいの人々に慰めをもたらしました(ス)。すくなくとも、四部に分けられた二〇セットが準備され、毎日八〇もの都市で映写することができました。その映写にあたって、一九一四年だけでも会衆は五四、〇〇〇、〇〇〇円から七二、〇〇〇、〇〇〇円の費用を負担しました。

 ユーレカ劇と呼ばれる別の作品も会衆で上映されました。これはスライドと写真劇の音楽および講演のレコードで編成されていたものです。フィルムは使用されませんでしたが、人口が比較的にすくない地方で映写するとき非常な成功を収めました。

 ロイス:写真ー劇をぜひ見たいと思いますね。マリアさん、あなたのお話しによるなら、それが人気のあったのも当然のようですね。

 トム:正統派の牧師たちは、この企画に反対の言葉を多く言わなかったと思いますが、ジョンさん、その点はどうですか。

 ジョン:それとは反対なのです。たいへんな反対がなされたのです。多くの場所ではその上映を全く禁ずる努力がなされました。ある牧師たちは日曜日の上

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(リ)一九一四年の「ものみの塔」(英文)三七三頁。

(ヌ)同じ、一四二頁。

[92] 映だけに反対していました。劇場は日曜日には一般世俗の映画を上映しません。そのような事件は、アイダホ州で起こりました。しかし、その州の最高裁判所は、協会に勝利を与え、日曜日の上映はつづきました(ヲ)。

 私は、写真ー劇の反対についての報告を調べるようにとマリアに頼んでおきました。マリア、私たちに読んで聞かせる報告がありますか。

 マリア:ございます。これはジャッジ・ルサフォードが「教会の天における大いなる戦争」(英文)と題する冊子の中で述べているものです。

 ミシシッピー州、ロウレルがその所だ。「劇」の管理支配人ニコルソン氏は、この場所のオペラ・ハウスを所有者テイラー氏から借りて、その場所で写真ー劇を上映することにした。この二人はオペラ・ハウスの前に立って、宣伝の仕事を準備していた。テイラー氏はそのようにすばらしい映写が自分の家で行われることに喜び、大満悦であった。そこへちょうど、その地の指導的なメソジスト派の牧師が通りかかった。この牧師は、そこでは「伝道士組合のボス」と言われている者だ。

 この牧師は、どういうことが行なわれているかを知り、たいへん起こって、ニコルソンの顔前でげんこつを振りまわし、怒りにみちた口調でこう叫んだ、「この町でそんなものを上映するなら、ものすごいけんかを覚悟しろ。さっさと町から出て行け、早く出ろ」。この脅迫をうけても、ニコルソンはびくともせずに上映の準備を進めた。牧師の組合は、ただちに会合を開き、監督派の牧師をのぞくすべての牧師は激怒して、パストー・ラッセルとその「劇」を非難した。この監督派の牧師は、宗教的な寛容と普通一般の礼節を保つようにとつよく主張した。この組合は「劇」とパストー・ラッセルに反対の決議を通した。それから市長と警察署長を訪問して、「劇」管理支配人にその町での上映禁止を通達するよう説得した。

 牧師の組合は電灯会社にその勢力をおよぼし、電流

の切断および「劇」に使用する電気の供給を中断するように説得した。また、オペラ・ハウスの所有者テイラー氏にも彼らは大きな影響をおよぼしたので、彼は掲示板にはらせておいた広告案内を破った。写真ー劇の管理支配人は、町の指導的な弁護士ピーポーズ判事のところへ行き、彼の援助を求めた。彼は「オールド・スクールの弁護士」で権利を主張するためにはよろこんで戦う。彼はただちに電灯会社と町の役人に、彼らに対する訴訟を起こすと通達し、彼らの権力の不当な行使を抑制した。  これは町の役人と電灯会社をびっくりさせ、牧師たちは弱腰になった。彼らは写真ー劇の上映禁止のための努力をこれ以上払うまいと決意した。市長は管理支配人に「どうぞ上写しなさい。ただ、我々と牧師たちをけなさないように」と告げた。彼らは結果を恐れていた。つまり人々が映画を見て、その映画が非常に悪く言われていた、ということを知るのではないか、と恐れた。人々は映画を見にきてよろこび、その中のある者は、「牧師が反対したのが、理解できない」と言っていた(ワ)。

 トム:この年月中、あなたがたは難しい状況の下にいたようですね。反対は一九一四年前よりも悪くなったと思いますか。

 ジョン:その通りです。わざは一九一四年に最高潮に達しました。しかし、一九一五年と一九一六年中は、反対、嘲笑、および世界的な技の分裂のため、証者たちの伝道活動は次第次第に減少しました(カ)。

この世の諸国民に対する終りの時は始まりました。しかし、エホバの民は、エホバが彼らのために備え給うた立場とわざに対して十分の準備態勢ができていませんでした。それに加えて、彼らが知る以前に多くの試練、試験が彼らを待ちうけました。悲しみと非難の時は、始まろうとしていました。

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(ワ)ジェイ・エフ・ルサフォード著、「教会の天における大きな戦い」(英文)(一九一五年)一二、一三頁。

(カ)一[九?!]一五年「ものみの塔」(英文)三七一頁。


[93]     

読者よりの質問編集

 ●ヨハネ伝三章十六、十七節で、神はどんな「世」を深く愛しましたか。そして、神は、裁くためでなく救うために、どんな「世」にイエスをつかわされましたか。

 イエスの生涯についてのヨハネの記録中、「世」という言葉はギリシャ語のコ・ス・モ・ス・から訳されており、それはヨハネの最初の書中にはすくなくとも七九回出ています。根本的には、コ・ス・モ・ス・は「秩序」を意味します。すなわち、構成された秩序、取極め、特定な企画に従う物事の秩序特定な型に従う御[:物??!:誤植?!]事の構成を意味します。

 しかし、ヨハネの記録の中でコ・ス・モ・ス・という言葉を読むとき、いつでも天と地で構成されている世を考えるべきではありません。その天とは、目に見えない霊者たちの支配勢力で構成され、地とは支配しているそれらの見えざる霊者たちの勢力に従う人間たちによって構成されるものです。それで、私たちはこの地球と関係を持ち、あるいはこれから関係を持つような種類の世をすぐに考えてはなりません。例えば、アダムとエバが罪をおかしていなかったときのエデンの世、そして「新しい天と新しい地」の将来の新しい世などです。もしそのような世をいつでも考えるなら、私たちは混乱してしまい、いったいそれはそのうちのどの世を指しているのか、分からなくなるでしょう。

 たとえば、コ・ス・モ・ス・すなわち「世」という言葉について、ヨハネが使用している最初の四つの使用の仕方を考えてみましょう。聖書にこう書かれています、「すべての人を照すまことの光があって、世[1] に来た。彼は世[2] にいた。そして世[3] は彼によってできたのであるが、世[4] は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けなかった」。(ヨハネ、一ノ九ー一一、新口)それでは、

まことの光としてイエスはどの世にきましたか。このことが「今の天と地」で構成されているこの世の期間中に生じたことはたしかです。(ペテロ後、三ノ七、新口)しかしヨハネ、一ノ九ー一一の意味している「世」は、その「世」のことですか。これが「彼によってできた」世でしたか。これは、彼がきたのに、世の人はひとりも受けいれなかった「自分のところ」でしたか。

 イエスは目に見えない、高い霊界から、目に見える、ひくい地的な領域、すなわち肉的な領域に来た、ということに留意しなければなりません。このわけでイエスはユダヤ人にこう告げられたのです、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、私はこの世の者ではない」。(ヨハネ、八ノ二三、新口)このところでイエスはひとつの世を「上から」のものと区別し、別の世を「下から」のものと区別していました。下から出た人々は、「この世の者」である、とイエスは言われました。イエス自身は上からの者であって、「この世の者」ではありません。すると、この世は何でしたか。それが確立された秩序あるいは取り極めであったことはたしかです。しかし、秩序または取極めがあるためには、特定な秩序に置かれる、あるいは特定な仕方に取極められる事物もしくは人々がいなければなりません。それで、ヨハネがここで用いている「世」という言葉は、特定な取極め、構成されている秩序内にいる人々、すなわち特定な組織制度に従う人々を意味しています。

 さて、ヨハネ、一ノ九ー一一に戻りましょう。あらゆる種類の人に光を照らすまことの光イエスは、かつてこの世にこられました。つまり定められた特定な秩序に従う人々、あるいは取り極められた人々のあいだにこられました。イエスは、上から、御使たちのなかからこられました。そして、彼は地上の人々、すなわち人々のあいだで行なわれていた物事の秩序に従って生活した人間であられたとき、特にすべての人、イスラエルの家の失われた羊と接触を求められた公の奉仕期間中、彼はこの人々の世のうちにいました。彼は神の言であっ

て、彼によりすべてのものは存在するようになったのです。それで、イエス・キリストはこの世の人々の存在にたいして責任を持つ方でした。しかし、人々が生活して働くときの取極め、もしくは構成された秩序に対して、彼は責任を持ちません。

 この人々の世は「彼を知り」ましたか。「彼を知ら」なかった、とヨハネ、一ノ一〇は述べています。つまり大多数の人々は彼を知らなかったのです。彼らは自分の好む秩序に従って、それにならいました。彼らは変化をのぞみませんでした。それで、彼自身の民、彼の最初のみわざによって生存できるようになった人々、そしてユダヤ人でさえも彼を受けいれませんでした。しかし、光をうけいれ、彼を知り、そして彼をうけいれた人はひとりもいなかったのですか。ある人々はそうした、とヨハネ、一ノ一二は述べています。その節は、こうです、「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」。

 この世の人々の大多数の者は、イエスをそのように取扱ったので、この世はイエスをそのように憎んだと言えます。イエスの肉親の兄弟たちが「自分をはっきりと世にあらわしなさい」と言った時、彼はこう告げました、「世はあなたがたを憎みえないが、わたしを憎んでいる。わたしが世の行いの悪いことを、あかしているからである」。(ヨハネ、七ノ四ー七、新口)この理由のゆえに、イエスはこの世の人々に御自身をはっきりあらわしませんでした。彼はひそかにエルサレムの祭りに行って、彼を憎んで殺そうとしたこの世の企てをはぐらかしました。この世の大部分の人は、彼を愛さず、またこの世から出てイエスの弟子になった者をも愛しませんでした。それで、彼は弟子たちにこう告げました、「これらのことを命じるのは、あなたがたが互いに愛し合うためである。もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。もしあなたがたがこの世からでたものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、

[94] この世はあなたがたを憎むのである」。--ヨハネ、一五ノ一七ー一九、新口。

 この世は、憎み得るために、憎むことのできる人々によって構成されねばなりません。イエスは憎み心をもつこれらの人々、憎み心を持つ人々の世のために祈りませんでした。彼は天の御父にこう祈りました、「私は彼ら[あなたが世から選んで私に賜わった人々:原括弧] のためにお願いします。わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです。………わたしはもうこの世にはいなくなりますが、彼らはこの世に残っており、わたしはみもとに参ります」。「わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました」。「わたしは彼らのためばかりでなく、彼ら[使徒たち:原括弧] の言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。………みんなの者が一つになるためであります。正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています」。--ヨハネ、一七ノ九ー一一、一六ー一八、二〇、二一、二五、新口。

 このことに関連して、天の御父であるエホバ神の愛された者は誰でしたか。それは、全世界の人々でしたか。イエスの使徒たちや後の信者たちは、それらの人々の一部になることをやめたのです。イエスは、彼の祈の中でこの問題についてこう答えています。「わたしが彼ら[この世ではない:原括弧]におり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。…………天地が造られる前からわたしを愛して下さって…………」(ヨハネ、一七ノ二三、二四、新口)神は、彼が愛されたもの、すなわち御子イエス・キリストを愛する者たちを愛しました。この世の人々は、御父の愛された御子を愛しませんでした。この世の人々とひとつになることをやめ、イエス・キリストとひとつ

になった人々は、彼を受[:愛:の誤植?!] しました。イエス・キリストと一つになった人々は、天の御父に愛された人々でした。すると、この世の人々は、天の御父の愛を受けません。御父の愛をうけたいとのぞむこの世の人々は、この世のしているようにイエスを憎むことをやめねばなりません。彼らは愛のないこの世からはなれて神の御子を愛し、御子と一つにならねばなりません。神である御父が、御子を愛するように、このような者たちを愛します。

 この理解にもとづいて、いま本来の質問であるヨハネ、三ノ一六、一七を考えてみましょう。その質問になっている節(新口)は、次の通りです、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によってこの世が救われるためである」。ここのイエスの言葉は、象徴的天と地、すなわち「今の天と地」で構成される大きな包括的な取極め、あるいは構成された秩序に言及していません。イエスは、ここでは人・々・について語っています。すなわちこの実際の地上に生活し、特定な秩序または取極めに従って生活している人々について語っているのです。彼らは、目に見えない「この世の支配者」サタン悪魔の支配下に生活しているのです。(ペテロ後、三ノ七。ヨハネ、一二ノ三一)神が、サタン悪魔と悪鬼共によって構成されるその象徴的な天を愛さなかったことはたしかです。それで、神が愛し給うた世とイエスの言われているものは、制限されているものであって、象徴的な「今の天」をふくみません。

 御子を地上にいたこの世の人々のところにつかわされた御父なるエホバ神は、たしかにこの世に対して愛のある行いをされました。この世の人々をひとり残らず全部滅ぼしてしまう代りに、この世の人々を救う手段を取ることは、この世に対する愛の行いでした。イエスは直接イスラエルの家の失われた羊のところに送られましたが、この世の人々のうちの特定な個人は選抜されませんでした。それで、この世の人々の誰でも、神が御子を通して行われる御処置の恩恵にあずかることができたのです。それは、この世の人々の

うちのあらゆる人のためになされた神の愛にみちた行ないであったため、神が御自分の御子を与えたことは、「この世の支配者」なるサタン悪魔の下に生活して居たこの世の人々に対する愛の表われでした。

 しかし、このことは、組織されたこの世の人々全部がその愛に答えて、神の愛のうちに入り、神の愛をうけるのにふさわしいことを証明する、という意味ではありません。そのわけで、イエスは次のような条件的な言葉をつけ加えた時、個人の名前もあげず、特定な人を明細に述べなかったのです、「それは、御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命にを得るためである」。それで、「御子を信じる者」だけが、「永遠の命」を持ち、「御子を信じない」者たちは「滅ぼされます」。必要な信仰を働かさない人々は、多数者のなかにいる者と証明します。その理由のゆえにこの世の一般の人々はーー名前は述べられていませんーーは滅ぼされてしまうでしょう。

 それで、エホバの愛は、この世の人々に対しては一般的なものです。しかし、御子に信仰を働かし、御子を愛し、そして御子とひとつになる者たちに対しては、特定な愛となります。これらの者たちは、その将来の正義の新しい秩・序・の中で「永遠の命」を持ち、その新しい天と新しい地の一部になる者たちです。彼らはほんとうに新しい秩序の民です。なぜなら、神の与え給うたみ子と愛のうちに一致し、交わりをすることにより彼らはこの世の人々の一部でなくなるからです。

 この世の人々の中に、愛をうける人々、あるいは愛をうけるようになる人々がいる、と神は知っていました。するどい洞察力を持ちたもう神は、これらの人が生まれた時はこの世の人々一部であっても、心の中では「世の罪」と調和しておらず、「世の罪」のゆえに来る処罰からのがれたいとのぞんでいることをご存じでありました。(ヨハネ、一ノ二九)それで、神が御子をこの世の人々のところにつかわされたとき、この全世界の人々に対して、総・括・的・な・処罰を告げませんでした。つまり、この世の人々の各人に無差別の処罰を与えなかったのです。それで各人は処罰をうけるこの世の罪と有罪についてどう感ずるかを示す機会を持

[95] ったのです。神は御子を世の人々のところにつかわされました。それは「御子によって、この世が救われるためである」。

 この世のすべての人が、神の御子イエス・キリストによって救われる、という意味ではありません。すべての人、どんな人でも救われる機会が開かれているのであって、特定な人に対する不公平な処置はない、という意味です。しかし、この世の人々はさばかれます。ユダヤ人の群衆に告げたイエスの後日の言葉は、その意味をもっていました、「今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう」。「そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう。わたしは光としてこの世に来た。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるため」である。たといわたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう」。--ヨハネ、一二ノ三一、三二、四六ー四八、新口。

 この世の全部の人が救われるわけではありません。この世の全部の人が、滅びの処罰という結果をうけるさばきをまぬかれるわけではありません。イエスが最初に来られたとき、彼はこの世の全部をさばいて処罰するためではなかったのです。それでは、なぜ全世界の人々は救われて、裁きを避けることができないのですか。それは、イエスが言葉をつけ加えられた通り、次の理由によるのです、「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、[御使いではなく] 人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである」。(ヨハネ、三ノ一八、一九、新口)その結果、さばかれないで救いをうける者たちとは、神の御子に信仰を置きこの世のくらやみから出て光に来る者たちです。かくして、彼らの「おこ

ないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである」。(ヨハネ、三ノ二一、新口)これらの者をのぞく、この世の一般の人々は救いをうけるのにふさわしくない者たちとさばかれます。

 この論議の結論として、次のように言えます。神が深く愛した「世」、そしてさばくためではなく、救うために御子をつかわした「世」は、地上の人々の世です。それは、この世的な組織化された人々からはなれ、独り子という神の賜物に信仰を働かし、それから彼と一致して交わりを持ち、そして独り子を通して示された神の愛をうけるのにふさわしいと証明する者たちによって代表されています。そのような忠実な信者と弟子たちは、神の約束した「新しい天と新しい地」の新しい秩序における永遠の生命が、準備されています。--ペテロ後、三ノ一三。