Watchtower Classic Library
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あなたにとって神の御国は何を意味するか[]

 主の祈りをするときに、「御国がきますように」(マタイ、六ノ一〇、新口)と言います。この御国はあなたにとってどういう意味を持ちますか。あなたの生活のうちでどのような役割を果たしていますか。日ごとの食物を与えて下さるように祈ったりあるいはゆるしをねがったり、誘惑からのがれられるように祈る前に、この御国について祈るようにとなぜイエスは教えたのですか。

 神の御国は、聖書中にひんぱんに出てくるので、それは明らかに聖書の主題、あるいは中心になっている教理だということになります。イエスがそのためにいつも祈れと私たちにすすめたことから見ても、それが神の目的の中で重要なものであることがわかります。マタイ伝の中だけでも御国は五十回以上もでてきます。どのようなことに関係して出てきますか。洗礼者のヨハネは次のようにこの言葉を使っています、「悔い改めよ、天・国・は近づいた」。(マタイ、三

ノ二、新口)イエスが弟子たちを送り出したときに、彼はこう命じました、「行って『天・国・は近づいた』と宣べ伝えよ」。(マタイ、一〇ノ七、新口)これは地的な王国ではなく、見えない天から支配し、地とその上の人間を治めることになっていました。

 その王はだれでしょうか。ルカ伝一ノ三一、三三(新世)は次のように述べています、「その子をイエスと名づけなさい…彼は…王となるであろう。彼の御国には終わりがない」。天の栄光のうちに御座に就いた王、イエス・キリストはこの悪しき世とそれを愛している者すべてを滅ぼしてしまいます。悪がなくなった時、神は次のことを実現されます、「人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない」(黙示録、二一ノ四、新口)イザヤ書九章の七節はこうつけ加えています。「その君の支配と平和は、増し加わって限りなく…」(新世)

 御国は、病気、悲しみ、憎しみ、圧制、そして戦争を終わらせるということを意味します。また恐れや欠乏をなくし死もなくすという意味です。神と人との平和、人と人との平和、人とその人自身との平和、人と動物との平和そして人と地との平和があるという意味です。全地球が楽園になるのです!これこそ人類に対する御国の崇高な目的です。

      それが意味する所のもの

 神にとって天国とはどういう意味を持つでしょ

うか。御国をきたらせるのは神なのです。それは彼の王国です。御国は神にとって非常に大切なもので、ご自分のひとり子をその王国の王とされました。第一に御国によってエホバはご自分の御名と至上権を立証するという理由のゆえに、御国は大切なものなのです。またそれはくるしんでいる人類に救済をもたらす手段でもあります。

 イエスより以前に信仰をもった人々は、御国こそ世の中の問題を解決する唯一のものとして、御国を熱心に待ちのぞみました。アブラハムはこのような人でした。「信仰によってアブラハムは、……地に出て行けとの召しを被ったとき、、それに従い、行く先を知らないで出て行った。彼は、ゆるがぬ土台の上に立てられる都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である」。(ヘブル、一一ノ八、一〇、新口)その天の都、つまり御国はアブラハムにとって非常に大切なものだったので、その当時、御国のことを完全に理解していたわけではないのですが、神が要求されることならなんでもよろこんでしようとしました。アブラハムは知らない土地に行き、必要なら自分のひとり子をさえささげる覚悟でした。平和と幸福をたもらす将来の王国の希望は、アブラハムにとって何よりも大切なものでした!その希望にとってかわるものはありませんでした。

 アベル、エノク、ノア、サラそしてモーセのような多くの他の人々も、生活の中で御国の希

[181] 望を第一にしました。死ぬ前に彼らは報いを受けたでしょうか。そうではありません。天の御国が設立されるまで待たなければなりませんでした。その時、その支配のもとに地上に復活させられ生命を得ます、「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び……しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天に属する場所であった」。--ヘブル、一一ノ一三、一六、新世。

 イエスが地上にいた時、彼の教えの中心は何でしたか。社会改革でしたか。政治でしたか。それとも武装革命でしたか。そうではありませんでした。一番大切な問題は天の御国でした!サタンが地上の王国の支配権を与えると言ってイエスを誘惑したとき、イエスはそれを断りました。天の御国のほうが彼にとってははるかに大切でした。地上のすべての王国は結局は過ぎ去ってしまうものであり、神の御国の永続する支配に道をゆずらねばならぬとイエスは知っていました。

 完全な人としてイエスは何にでもぬきんでることができました。--例えばスポーツ、商業、政治、芸術などです。イエスが選んだことに注意して下さい、「イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御・国・の・福・音・を宣べ伝え……」。(マタイ、九ノ三五、新口)イエスが死んで復活してから、御国は彼にとってどういう意味を持ちましたか。使徒行伝の一章三節

はこう語っています、使徒たちにも「苦難をうけたのち、確かな証拠によってしめし、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神・の・国・の・こ・と・を語られた」この地を歩んだ者の中で一番重要な人は、御国の仕事に没頭しました!


     イエスはその重要性をたとえで説明

 イエスは神の御国が生活の中でどのような位置をしめるべきかということを、聞く者の心に印象づけるために、たとえを用いました、「天国は、畑にかくしてある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである」。(マタイ、一三ノ四四、新口)かくれている宝を見つけることは何というスリルなのでしょう!私たちは私たちの生活を富ます土地を買うために、すべての持ち物を売りはらいませんか。たとえに出てくる人はちょうどそのようにしました。その人は一番価値のあるものに自分の注意を集中させました。ほかのものはすべて第二次的でした。永遠の生命を求める者にとって天国がどういう意味を持つかを示すのにふさわしいたとえではありませんか。

 イエスは別のたとえも使いました。「また天国は、良い真珠を捜している商人のようである。高価な真珠一個を見出すと、行ってすべての持ち物をただちに売りはらい、そしてこれを買うのである」。(マタイ、一三ノ四五、四六、新世)高価な真珠はぜひ手に入れねばなりません

でした!これ以上に価値のある者はないのです。この人は「ただちに」自分の持ち物を売りはらって真珠を買う費用にあてました。そのために必要な取り引きをするのは面倒だったにちがいありません。自分の身のまわりのことや持ち物を処理することはずい分たいへんなことだったでしょう!でもそんなことは問題ではありません。この人は良い真珠を捜していました。そしてすべてのものの価値をはるかにしのぐ真珠を見つけたのです。その機会をのがさぬうちに、早速行動しなくてはなりません!その貴重な真珠は、すべての面倒な事柄を補って余りあるものです。御国もそれと同じです。生活の中で御国を第一にすることは最初むずかしいかも知れません。ある程度、問題や面倒なことが起こるかも知れません。でも報いーー天国ーーを見て下さい!このような稀な賞と比べられるものがほかにあるでしょうか。

 御国が非常に大切であるのでイエスは言いました、「何を食べようか、何を飲もうかと、思い煩い、何を着ようかと自分の体のことで思い煩うな……まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(マタイ、六ノ二五、三三、新口語)イエスはここで、私たちが働いたり生活の計画を立てたりしてはいけないと言ったのですか。そうではありません。イエスは働きました。イエスはほかの人も働くようにのぞまれました。イエスが

[182] 指摘したのは生活にとらわれてもっと大切なことがらをしめ出してしまうということでした。私たちの生活の中で御国は第一であるべきです。ほかのものはその次にくるべきです。御国の関心事に専念したために、生活を立てるのがむずかしくなったなら、神が助けてくださいます。

 御国のもとにおける生命に導かないことがらに、精力をついやすことは本当に賢くないことです。お金をもうけたり、大きな財産をつくったりあるいは有名になろうとして、無我夢中になっても、寿命を一日でも伸ばしはしません。まさかの時に備え、家族ために保険をかけるということに一生懸命になっています。でも一番大切な保険、つまり神の御国のもとで永遠に生きられるように神に対して良い名を得ることには、どれほど一生懸命になっていますか。

 御国がどれ程大切かを強く指摘するためにイエスは言いました、「もし、あなたの片手があなたをつまづかせるなら、そろったままでゲヘナに行くより、かたわになって命に入るほうがよい。そして、もし、あなたの片手があなたをつまづかせるなら、それを切り取ってしまいなさい。両足がそろったままでゲヘナに投げこまれるよりは、びっことなって命に入った方が良い。そしてもし、あなたの片目があなたをつまづかせているなら、それを抜き出してしまいなさい。両眼そろったままでゲヘナに投げこまれるよりは、片眼で神の御国に入った方がよい」。--マル

コ、九ノ四三ー四七、新世。

 神の御国は全く望ましい賞です。それでどんなに価値あるものであろうと、それがどんな財産であろうが友だちであろうが、あるいは自分の四肢であろうと、なにものも御国の追求をさまたげてはなりません。もしも職業がさまたげになっているなら、それを調整しなくてはなりません。もし四六時中家事に追いまわされているなら、もっとよく計画するとか、もっと小さな家に移ることが必要でしょう。もし趣味のために、御国を第一に求めることがおろそかになるなら、それに費やす時間を少なくすべきです。つまり、さまたげとなるものは何でも、後に押しやってしまうべきなのです!これは仕事、趣味、娯楽をすべてやめてしまうという意味ではありません。それぞれ適当な場所におくという意味です。もっと大切なことが、まず第一にくるべきです。長いあいだの習慣とかその他のものを取り除いたり、最小限度にとどめておくということは苦痛を感ずることかもしれません。しかし、このように考えてみて下さい、手とか足を切り取るというような苦痛をともなう手術が必要になった時、生命を救うためにその手術を受けるのではないでしょうか。それと同様に、私たちの利己的な欲望をエホバ神の御こころにきりかえるには、最初苦痛に感ずるかもしれません。でも神によって生命を保ってもらいたいと願うなら、その手術がどうしても必要なのです!

 初期のクリスチャンにとって御国は何にもま

して大切なものでした。使徒パウロの態度は代表的です、「私はすべてのものを失ったが、それらのものを屑のように考える。それは私がキリストを得るためであり、……キリストと共にいるのを見出されるためである……どうにかして死人からの早いよみがえりを得るためである」--ピリピ、三ノ八ー一一、新世。

     この世にとって御国はどういう意味を持つか

 この世にとっても御国はこれ程大切ですか。いいえ、そうではありません。これは驚くべきことではありません。なぜなら、「全世界は悪しき者の支配下にある」からです。(ヨハネ第一、五ノ一九、新口)神の御国の目的に関して、サタンは宗教指導者たちをも導いてその心をくらくしてしまいました。御国というのは、世界中がキリストに改宗することだと信じている人はたくさんいます。ひとりの牧師は人々が神の御国を大切にしていないという事実に気づいてこう言いました、「人々は今、金、成功、地位、安楽という異教の偶像を崇拝している。我々はどういうものか世の中における積極的で活気にある使命ーーつまり世界を神の御国の方向に変えるという使命の感覚を失ってしまっている」。神の御国はキリスト教国の領域を世界中に広げていくことであると教えられているため、そのようにひろがっていないのを見る時、神の御国が失敗したのだと考えるのも当然ではありませんか。

[183]  たいていの人が神の御国を見落としているといっても、神の御国が失敗したわけではありません。それとは正反対なのです!今日の世界をみまわしてごらんなさい。国々の悩み、増しゆく不法、繁栄する無神論は、天で御国がすでに設立されたという確実な証拠です!どうしてそうですか。いま世界が経験している苦しみの時は、イエスが言った通りなのです。聖書の預言は一九一四年以来、天の御国が活動しているとはっきり示しています。私たちは古いものから新しいものに移る転換点に生存しているのです。設立された御国はまもなく、このすべての組織制度を一掃し、地上における平和な、正義の支配のための道をひらきます。

     御国を先ず求めることは可能

 今日、何十万という人々は御国を先ず求めています。人々からなる一つの社会全部、つまり急速に拡大しているエホバの証者の新世社会では、御国を生活の中でもっとも大切なものにしています。これらの人々がありとあらゆる人種、原語、背景から来ているという事実は、あなたでもできるということを証明するものです。彼らが御国を第一にする理由は、その目的と要求を知っているからです。しかし、はじめから、御国は彼らにとってそんなに大切でしたか。そうではないのです。たぶん最初は特に興味がなかったかもしれません。でも知識が増すにつれ、自分の見方を変えました。

 神の御国について更に学ぶにつれ、その創造

者、エホバ神とその王、イエス・キリストに対する愛は深まります。また、神の御国の国民として復興された楽園に住みたいと願う者や、また現在御国の関心事を第一にすることにより、住みたいということを実際に示している者をも、愛するようになります。御国こそ生活を意義あるものにするということを、あなたも行動により示したいと思われるでしょう。あなたの努力を支持する神の御霊により、あなたも御国を先ず求めることができます。

 今そうすることは緊急なことなのです。この審判の時代にあって永遠の運命は決定されつつあります。御国を先ず求めるものは、この世の終りを生き残ると約束されています。一致した民として、かぎりなき平和、幸福そして生命の世界に導かれます。これはすべて神の御国の指示のもとになされるのです。

 神の御国はあなたにとってどういう意味をもちますか。あなたの生命はあなたのその答にかかっています。

[187]

===神の目的とエホバの証者===    

     その14

     忠実な僕を見分ける

………………

 ジョン:…………ラッセルはわざに携わった当初から重きをなしていたため、当時、制度内の多くの人がラッセルを制度全体の代表者と見るよりは一個人としてのラッセルを仰ぎ見ていたことは自然のなりゆきでした。ルサフォードはこの事実を認め、また協会の会長は神の僕である制度全体を維持し、その委ねられたわざを遂行する備えをととのえるために用いられる器に過ぎないと理解していました。

 トム:ラッセルはこの事についてどんな見解をもっていましたか。

 ジョン:キリストの体であることを主張し、天でキリストと共になることを期待するクリスチャンすべてに責任が委ねられていると、ラッセルは認めました。制度という点についてラッセルは早くも一八八一年に次のことを理解していました。すなわち神が御自分のわざを遂行するために選ぶと言われた僕は、イエス・キリストの油注がれた追随者の全部であるということです。その年にものみの塔の中に彼は次のように書きました。

 キリストのこの体の成員全部が、信仰の家の者に折にかなった食物を与える祝福されたわざに直接あるいは間接に携わっていると我々は信ずる。時機にかなった食物を与えるため「主が家人の上に任命した忠実で賢い僕とは誰か」。それは聖別された僕たちの「小さな群れではないか。彼らーーーキリストの体ーーーは献身の誓いを忠実にはたしている。体全体が個人的にも集合的にも時機にかなった食物を信仰の家の者ーーー信ずる者の大群衆に与えているではないか。

 主が来るときそのようにしているのを見られる僕(キリストの体全部)は幸いである。「誠にわれ汝らに告ぐ、主人はその持ち物全部をその僕に支配させるであろう」「彼らにはすべてのものを相続させる」。(イ)

 時がたつうちにこの見方は失われてしまい、一人の人にもっぱらに注意が向けられました。(ロ)マタイ伝二

_________

(イ)一八八一年「ものみの塔」十月、十一月号五頁。

(ロ)「ハルマゲドンの戦い」(一八九七年の六一三頁、六ニ五、二三七、四一六ー四ニ八頁。一九一六年「ものみの塔」三七七ページ。一九一七年、「ものみの塔」三二三ー三二四頁。一九一九年「ものみの塔」一〇三頁。一九二三年「ものみの塔」六七、六八頁。

十五章四十五ー四十七節にある「忠実にしてさとい僕」はパストー・ラッセル自身であるというのが一般の考えでした。この考え方のために少なからぬ困難が生じたのです。ラッセルが「あの僕」であったとの主張に影響されて多くの人がラッセルに対して抱いた考えは事実上、人間崇拝ともいえるものでした。神が御自分の民に啓示するのを良いとみられた真理すべてラッセルの啓示された、そして「あの僕」が死んだいまこれ以上の啓示はないと、その人々は信じたのです。この態度を見て、ルサフォードは制度内に残された人間崇拝の痕跡を見て全くとりのぞきました。このゆえに彼は人間の恩恵を求めず、また以前に多くの人のとった行動を知っていたので、彼にとりいろうとする人々に警戒したのです。この態度をとったゆえにルサフォードは自分と交わる人々と交渉を持つ際には普通以上に率直でした。

 ルサフォードが会長に選ばれてから間もなく、制度内にはこのとりきめに賛成しない人々のいることが明らかになってきました。ある少数の人々は自分がこの地位つくべきであると考え、ルサフォードの手から管理と支配の力を奪い取ろうとさえしました。ルサフォードが選ばれてから二、三カ月たった、一九一七年のはじめ頃に、この気配は濃くなり始めました。


 トム:これは一種の共謀でしたか。それとも「各人ばらばら」の論争でしたか。

 ジョン:反逆の種はひとりの人の中で芽を出したように見えましたが、間もなくひろがって遂には本当の共謀にまで発展しました。これは次のように始まりました。

 第一次大戦の勃発後、パストー・ラッセルは協会の本部から誰かが英国に行って兄弟たちを強める必要を認めていました。そしてP・S・L・ジョンソンを派遣することを考えていました。ジョンソンはユダヤ人で真理を知る前は……ルーテル教会の宣教者となった人です。彼は協会を代表する講演者として奉仕し、その才能は人に認められていました。このすぐれた才能が遂には彼の転落を招いたのです。

[188]  ルサフォードの選ばれる前に奉仕した委員は、ラッセルの明らかな意志に沿って意図されたわざのためジョンソンを英国に派遣しました。ロンドンに着いた彼は協会から与えられていない権威をふるい始め、協会の方針やロンドンの事務所にいる協会の支部の僕に反対し始めました。彼は英国の兄弟たちの前で彼ジョンソンがパストー・ラッセルの後継者であるという意味の話をして、預言者エリヤの上衣がエリシャの上に落ちたようにパストー・ラッセルの上衣が彼の上に落ちたことをほのめかしました。

 その後の何週間かの間にジョンソンは英国における支配を完全に自分の手中におさめて英国で最も重要な者になろうと努めました。彼はそうする権威を持たないにもかかわらず、ロンドン・ベテルの家族のある人々をベテルから出そうとさえしました。わざは分裂して混乱がひどくなる一方なので、やむなく協会の支部の僕は協会の会長であるルサフォード兄弟に苦情を訴えました。ルサフォード兄弟は直ちに、本部のメンバーではないロンドンの重立った兄弟数人を委員に任命し、この事件の事実を審理してルサフォード兄弟に直接、報告するように命じました。委員は会合してよく考慮した結果、英国におけるわざの益のためにジョンソンをアメリカに召喚することをすいせんしました。  

 ルサフォード兄弟はこのすいせんを受け入れ、ジョンソンに帰国を命じました。しかしジョンソンは応ぜず、手紙や費用にかかる電報を打って委員を批判し、委員の考えは偏見であると非難したほか自分の行動を正当化しようと努めました。英国における自分の地位を固くするため、彼は英国に入る際に協会から与えられたある書類を使ってロンドンの銀行にある協会の資金をおさえました。後日この資金を協会の使用にあてるためには法律上の手続きをとることが必要でした。

 しかし、ジョンソンは何時までも抵抗し続けることができず、遂にニューヨークに帰る必要を認めました。彼はルサフォードを説き伏せて再び英国に派遣してもらい、自分の地位を固くしようとの努力をしつようにつづけました。ルサフォード兄弟が拒絶したとき、彼は理事の助力を求めました。ルサフォード兄弟は理事として不適であると見せかけることによ

って、彼は四人の理事を自分の側に引き入れました。理事は七人だけで成り立っていますから、理事の過半数がルサフォード会長、ピアソン副会長、ヴァン・アンバウ[:ーグ]会計秘書に反対する側にまわったことになります。これによって協会の役員はこの問題の一方の側に立ち、会長から管理と支配の力を奪いとろうとする理事が他方の側に回ったわけです。

 トム:彼らはどのようにそれをしようとしたのですか。

 ジョン:彼らは会長の地位を理事の下におき、会長の権威を相談役のものに制限しようとしたのです。それは法人の定款を変えることになります。そして最初の憲章の定めを全く超えることですから、重大な難問題を予想させました。

 パストー・ラッセルの時代には会長と協会の他の役員が新しい出版物を決定し、理事は全体としては相談に与りませんでした。ルサフォード兄弟が会長になってからもこの方針は続けられました。やがて三人の役員は「第七巻」の出版を決定しました。これは長いあいだその出版を期待されていたものでラッセル自身が死の前に書こうと望んでいたものです。役員たちは本部の二人の兄弟C・J・ウッドワースとG・H・フィッシャーがこの本を編集することをとりきめました。この本の最初の部分は黙示録、後半はエゼキエル書の注釈となるはずで、これら二つの聖書の本についてラッセルの書き残したものを、共働編集者が集め、編集して「完成」した奥義あるいは「聖書研究」第七巻(ハ)と題して出版することになりました。従ってこの第七巻には主としてパストー・ラッセルの生前の考えと注釈がおさめられていたのです。

   「完成した奥義」の発表は爆弾となる

 一九一七年七月十七日の正午、この本はベテルの食卓で発表されました。ラッセル兄弟が習慣としていたように、ルサフォード兄弟はベテルの家族の各人にこの本を贈りました。これは爆弾のような大さわぎをひき起こしました。この発表にどぎもを抜かれた反対派の理事たちはただちにこの問題をとりあげ、協会の運営

に関して五時間にわたった論争を始めたのです。

 ロイス:しかし、パストー・ラッセル自身が第七巻の執筆を望んでいたのであれば、その人々はなぜ反対したのですか。これはパストー・ラッセル自身が書いたものの編集だとおっしゃいませんでしたか。その人々の議論はとるに足りない者であったと思いますが。

 ジョン:事実その人々が争う理由は全くないのです。……………

……………

 使徒パウロがはっきりと述べたように、私たちは分裂をおこす者を注意して避けなければなりません。聖書のこの明確な原則と一致してルサフォードはこれら不満を持つ人々と和解するか、あるいはその人々に去ってもらうことが必要となりました。その人々は理事の更迭を不可能と考えていました。しかしラッセルの生前にも弁護士であるルサフォードはこれらの理事が正当に選挙されていないことをラッセルに指摘していました。彼の指摘した如く、ペンシルバニアの憲章によれば、理事の空席をみたすためにラッセルがある兄弟を任命した場合、その任命はピッツバーグにおける次の年次総会で投票により確認されねばなりません。しかしラッセルはこの事をしていませんでした。それ

[189] で毎年定期的にピッツバーグで選ばれていた役員だけが正当に理事会のメンバーであるということになります。他の四人はラッセルから任命されていただけで、投票による任命の確認を受けていませんでした。従って法律の上で理事会のメンバーではありません。

 困難な事態の生じたはじめからルサフォードはこの事を知っていましたが、彼らが反対をやめるとの期待から、この問題を持ち出さなかったのです。彼らが反対をやめようとしないことが明らかになったとき、それは彼らを法律の上で解任する時でした。ルサフォードはこの事をしました。いまや解任された理事たちはこれを知って大いに怒り、ルサフォードが新しい理事を任命するのを阻止するために法律上の手段に訴えようとしました。彼らの弁護士もルサフォード兄弟の立場を確認しました。すなわち彼らは法的には理事会のメンバーでなく、従ってルサフォードは彼らを理事と認めなくても協会の会長として正当にそうする権利がありました。ルサフォード兄弟は直ちにそうする権利がありました。ルサフォード兄弟は直ちに他の四人を任命して空席をみたし、その任命は一九一八年に開かれる次の法人の総会で確認されることとなりました。

 しかしルサフォード兄弟はその人々を直ぐ去らせるようなことをせず、巡礼としての高い地位を与えようと申し出ました。しかし彼らは拒絶してベテルを去りました。不幸にも、そして予想されたことではありましたが、本部での奉仕をやめたその人々はエホバの制度と和解しませんでした。その代りに彼らはベテルの外でアメリカ合衆国全土、カナダ、ヨーロッパにわたって話と手紙による広範囲な反対運動を始めました。その結果一九一七年の夏の終る頃には全世界の会衆の多くが内部で二つの派に分かれるようになりました。この期間に多くの人が霊的なねむけにおそわれていたため、反対者の巧みな弁舌に乗せられたのです。そして彼らは当時、御国の良いたよりの伝道の復興に目ざめつつあった人々と協力することを拒絶しました。当時アメリカ合衆国は第一次世界大戦のさなかにありました。牧師の反対も強く、一般の敵意も高まっていたので、神の制度を認識しなかった兄弟たちは、これら消極的に傾いた反対者の言葉に耳を傾け、次第にその活動は低調となって遂には反対者の群れとひとつにな

りました。(ヘ)

    支配権を得ようとする最後の必死の努力

 しかし、これらの群れはいっさいの活動をやめてしまうほど眠りこんではいませんでした。伝道の活動を続けて神の御心を行なおうと熱心に努めていた人々の手から会衆の支配を奪おうとした彼らの努力は、極端に熱心なものでした。聖書に預言されていたように、彼らはエホバの食卓から主の羊を養うことに関心を持っていなかったのです。彼らは仲間の奴れいを打ちたたき、ののしることをもっぱらにしていました。一九一七年の夏に起きたこれらすべての出事がはじまりとなって、これらの反対者とラッセル兄弟の管理した時代にラッセル兄弟の行なったとりきめそしていまルサフォード兄弟の手で強化されたこのとりきめに従ってエホバに奉仕していた人々との間に明白な区別がしるしづけられました。

 一九一七年のはじめ、協会はその年の八月にボストンで大会を開くことを計画していました。反対派の群れはこの大会の主導権を握ることができると考えましたが、ルサフォード兄弟は彼らにそうさせまいと決意しました。彼らの動きを制するため、ルサフォード自身が協会の会長として大会の司会者を終始つとめました。このようにして彼は全部のプログラムを管理することができ、反対派の者たちは一度も大会で話すことができませんでした。その結果、大会はまったく成功してエホバに賛美が帰せられましたが、御国のわざに反対する者にとっては全くの失敗に終りました。

 協会に反対する、これら野心にもえる者たちの次の企ては、一九一八年の一月にピッツバーグで予定されていた法人の会合を支配することでした。この法人の年次総会ではルサフォード協会の任命した新しい理事が選出されてその任命が法的に確認されることになっていたのです。総会は協会に反対する者たちにとって支配権を奪う最後の機会になると、ルサフォード兄弟は知っていました。大多数の兄弟がこのような動きに賛成でないことは、当然に確認できました。しかし大多数は選挙にさいして意志を表明する機会がありま

せん。これは法人の問題であって、「ものみの塔聖書冊子協会」の法律上のメンバーだけが参与できるからです。

 エホバに献身した僕のすべてに意志表明の機会を与えるため、一九一七年十一月一日号の「ものみの塔」は各会衆が一般投票をすることを提案しました。(ト)十二月十五日までに八一三の会衆が票を送りましたが、その結果は送られた一一、四二一票のうち一〇、八六九票がルサフォードを会長として支持していました。野外にいる兄弟の大多数が真実にルサフォード兄弟とその管理を支持していることが、疑問の余地なく証明されたわけです。そのうえ、この非公式の一般投票によって、一九一七年の七月に再任命された理事会のメンバーが五人の反逆した者たちに代わって支持を受けていることも明らかになりました。(チ)

     [ふれ告げる人、の本にもあるように、ラザフォード兄弟の再選、五人の理事の七月の任命の確認が為されたと!反逆者たちは一人も選出されなかったと!!]

[191]

読者よりの質問[]

 ●マタイ伝二十四章三十節はこう述べています、「地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光をもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう」。(新口)ここで「見る」となっているギリシャ語はホラオでその意味は「識別する」です。ところがこの言葉はホラオをつかったほとんどすべての聖句は物や人を単に識別するのではなく文字通り見るという意味を含んでいます。これはどうしてですか。--アメリカ合衆国の一読者より

 このギリシャ語の動詞はよく文字通りの意味、つまり肉眼で文字通り見るという意味になります。しかし、キリストの再臨に関する聖句でこの語が含まれてが含まれているばあいいつでも、その文字通りの意味を無理に当てはめるならば、イエスの再臨は目に見えないという聖書の明白で基礎的な教えと矛盾するばかりでなく、ギリシャ語の動詞、ホラオの意味そのものも否定することになります。

 このギリシャ語の動詞、ホラオは欠如動詞です。つまりすべての時制を持っていません。それで語根を異にする動詞をかりて動詞をかりて、その見るという考えを補足しなくてはなりません。これは未来と不定過去のばあいそうなのです。このような補足の動詞を使うからと言って、ある人が主張しているごとく、ホラオがいつも文字通りの意味があるということにはなりません。それで、リドエル[:リデル] とスコットによるギリシャ語英語辞書によればホラオは肉眼で見るという意味だけでなく、感知する、観察する、そして「比喩(ひゆ)的に、心の目で識・別・す・る・感知・す・る」という意味です。--一九四八年版、一二四四ページ、一二四五頁。

 それでホラオが肉眼で見る文字通りのものをさしているか、あるいは識別力をもつ理解の目で見る霊的なものをさしているのかを知るためには、文の前後関係とか、そのほかの聖句の述べるところを考慮しなくて

はなりません。主の再臨に関する他の聖句からみて、ホラオがこの関係で用いられる時は識別力に言及しているのであり、実際に見えるものを指しているのではありません。彼は霊者であるので、人間の肉眼で彼を直接見ることは不可能です。しかし、彼の見えない臨在と到着を示す目に見えるあらわれは、人間の肉で見ることができます。これらの目に見えるあらわれにより、比喩的に言えば、彼が全能の神の日の大いなる戦いのためにきたということを心の目で見るのです。--黙示、一ノ七。

 ホラオが比喩的に識別ということを意味するということは、ロマ書一章二十節ではっきり証明されています。ここではこのギリシャ語のホラオが、用いられていますが、前置詞のカタと結合してカトホラオというギリシャ語の動詞を形成します。新世訳はこのカトホラオという動詞を、「明らかに見られる」と訳し、明らかに識別できるという意味です。このばあい明らかに見られるものは、肉眼で見ることのできるものではなくて、ただ識別できるもの、つまり神の見ることのできない性質です。「神の見ることのできない性質すなわち永遠の力と神なることとは世の創造の時以来、造られたものによって理解することができ明らかに見られるのであるから彼らは言い逃れることはできない」。

 結論として、イエスの臨在は理解の目によってのみ人々により識別されるということを証明している一つの聖句に注意して下さい。それはヨハネ伝十四章十九節の聖句で、新世訳では次のようです、「しばらくすれば世はもはや私を見ないであろう。しかし、あなたがたは私を見る[。:誤植?!] な。ぜなら私は生きるので、あなたがたも生きるからである」。弟子たちは、文字通りの目で復活してからのイエスを地上で、見ました。そして彼ら自身が死からよみがえらされた後、霊的創造物となって、文字通りイエスを見ることになりました。それでもし、彼らのばあい見るということが、文字通りの目で見ることを意味するなら、イエスがそれを同じ関係で世はふたたび彼を見ないという時にも、人々が文字通りの目ーーーこれはだれでもが持ってい

て、人間の肉による視覚ーーーで彼をふたたび見ないという意味です。それでギリシャ語の動詞ホラオを使って、イエスの再臨の時に、すべての人が実際の目あるいは文字通りの目でイエスを見るのだとは言えないということがわかります。

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