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[468] [主要な研究記事の後の副記事]

  エホバはどのように彼のわざを繁栄させられるか編集

 百七十九の国でエホバの証者は目ざましい増加を示すため、多数の人はだれがこのわざの資金をまかなっているかとたずねています。協会は、この質問およびそれに関連する質問にお答えします。 

質問:エホバの証者は十分の一税を納めていますか。

 答:いいえ。クリスチャン時代前のエホバの会衆では、十分の一税はレビ人と呼ばれる宮奉仕者を支持する神の取り決めでした。レビ人は特定な都市以外には支族の土地を持たなかったのです。エホバの崇拝者たちは幕屋の備品をつくる時、あるいは宮を建立するときなどの特別な建築計画が発表されると、自発的な寄付をすることができました。(出エジプト、三五ノ二九。歴代誌略上、二九ノ一七)エホバは古い律法契約をイエスの苦しみの杭に釘づけにしました。パウロは、「キリストは……律法の終りとなられたのである」と述べています。(ロマ、一ノ四、新口)クリスチャンの寄付は、強制的に行われるのでなく愛の心で行われるのです。そのことは、コリント後書九章七節でも示されています。「各人は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである」。これこそ、エホバの証者の行なっている聖書的な方法です。

 質問:寄付の封筒、募金運動、資金調達のための正餐会や類似の手段を認めていますか。

 答:クリスチャンは神の御言葉を正しく学んで、エホバを知るようになります。そしてエホバの目的を知ると、御国のわざをよろこんで支持します。快楽の面からクリスチャンの心に訴えたり、あるいはわいわいさわぎ立てて寄付を強制的にさせることは必要でありません。キリスト教国はその民に霊的な食物を与えることに失敗しました。そのため、ビンゴ、バザー、富くじ、謝肉祭、坐席の賃貸し、寄付盆を回すこと、十分の一税そして特別な募金の話などに頼らねばなりません。イエスはそのような方法を一度も用いたことがなく、現代のエホバの証者もそのような方法を用いません。--マタイ、一〇ノ八。

 質問:ブルックリンの新しい学校や寄宿舎の建築、そして世界中の新しい支部事務所の建築などの基金はどのように得られますか。この全部の基金は本部でまかなわれますか。

 答:エホバ神はすべての国にいる御自分の民に、愛、知恵、公正、そして力のすばらしい御性質を示されました。(ヨハネ、六ノ四五)神の御心を行なうことに献身する者は、エホバの目的を行なうために、時間、力、そして物質的な支持を与えるという特権をもちます。エホバの目的は、キリスト・イエスおよび御自分の御国によって御名を立証することです。エホバはすべての証者の上に聖霊をそそぎます。それで、彼らは「良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、こうして真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げる」ことができます。(テモテ前、六ノ一八、一九、新口)エホバの証者は、この無私の精神を持つので、自分の国におけるわざをできるだけ支持します。昨年、百七十九の国々で九十一万六千三百十二

[469] 名のエホバの証者は、神の御言葉を他の人に教えるために一億三千六十六万二千六百八十四時間を奉仕しました。彼らは興味を持つ人々のところに四千四百四十四万九百七十七の再訪問をし、毎週六十四万四百五十八の家庭聖書研究を司会しました。人々のお家に往き返りする費用は、訪問するエホバの証者が払いました。これは、エホバの証者が会合する御国会館を支持するための経済的な支持に付加されたものです。エホバはこの愛の働きを報われました。それで、六万九千二十七人という新しく洗礼を受けた証者たちが増加しました。

 最近、アメリカ合衆国において協会は新しい寄宿舎と学校の設備の必要を認めました。建築の計画は諸会衆に発表され、証者たちはこの費用をまかなうための寄付をするよう招待されました。それに対する応答はよろこばしいものでした。多くの人々は寄付をしました。この愛の表現は、深く感謝されています。今日、新しいギレアデ、ものみの塔聖書学校が開かれており、現在の級の百一人の生徒は世界中から来ました。その費用はみな協会によって支払われています。それに加えて、協会はいろいろの国々で御国宣教学校を開きました。そこでは、各地の指導的奉仕者が神の群れを効果的に指導するための無料の訓練を受けます。協会はまた支部に送られる寄付を用いて二百六十六の宣教者の家にいる七百四十二名の宣教者と八十五の支部事務所で働く千二百九十九名の任命された奉仕者を支えます。昨年、協会は五千百四十八名の特別開拓奉仕者を援助して、孤立した区域で奉仕させました。彼らは聖書を教えて新しい会衆を組織しました。アメリカ合衆国内のあるエホバの証者は自己の益を犠牲にしてもこのわざを自発的に支持します。そしてニューヨーク市ブルックリン一、コロンビア・ハイツ、一二四番にあるペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会、会計事務所に寄付を送ります。各国にある支部事務所の住所は、協会発行の大部分の本や冊子のうしろに記されています。エホバの証者は愛の気持ちから寄付しており、協会の世界的な聖書教育のわざをすすめるのに大きなよろこびを見出しています。

 質問:なぜあなた方は、他の多くの宗教団体がするように、宣教者病院、診療所を経営しないのですか。また救助奉仕とか他の社会奉仕をしないのですか。

 答:エホバの証者は、戦争や自然の災害に原因する緊急事態にしばしば答え応じます。食物や、もっとひんぱんには、多量の衣服が被災地の支部事務所に送られ、犠牲者たちを直ちに援助します。しかし、私たちは病院や診療所を経営しません。ちょうど消防署とか警察署を経営しないのと同じ具合です。それらも、生命と人体を守るものでしょう。献身している福音奉仕者である私たちの救命の仕事は、この組織制度がハルマゲドンで終わる前に、エホバの御国の良いたよりを全世界で伝道して教えることです。(マタイ、ニ四ノ一四。黙示、一六ノ一四ー一六)イエスが言われたごとく、仕事は大きくても、働き人はすくないのです。この最重要の仕事をおろそかにして、他の活動をすることはたとえそれがどんなに価値あるものでも、許されないでしょう。実際に大ぜいのエホバの証者は医者、看護婦そして病院の助手です。しかし、これは彼らの主要な職である宣教につけ加えられているものです。

 質問:協会の役員か成員は、あなた方の大きぼな印刷活動によって金銭的な富を得ていますか。

 答:絶対的に否です。時折り私たちの敵はそのようなことを考え出していますが、それは明らかに急速に拡大している私たちのわざに非難を浴びせるのが目的です。法律により協会は非営利の法人です。株主もなく、利得分配もなく、俸給もありません。本部にいる各奉仕者は、協会の会長、理事および成員を含めて、毎月十四ドルの手当てをいただきます。それに加えて、食物、部屋、そして協会の仕事をするときーたいていは講演をするための旅行ーに旅費をいただきます。全世界のどこでも、私たちの奉仕者は結婚式、洗礼式、あるいは葬式をするときに金銭を取りません。私たちの公開講演や大会には入場料というものはなく、また寄付を集めることもありません。明らかに分かるとおり、それらは金銭を目当てにしているのではありません。ついでですが、最近協会は不当にも否定さ

[470] れていた課税免除を得るための訴訟手続きをしました。その時、反対側の弁護士は協会の財政記録を綿密に調査して、できるなら協会の印刷は利益を図ることであり、協会が課税免除に該当しないことを証明しようとしました。一九六一年三月八日の「目ざめよ!」誌に報告されているごとく、ニューヨーク州控訴院は一九六十年十一月十七日、協会を慈善、博愛、非営利団体と認めて、協会に免税の権利を与えました。反対側の弁護士は、協会の役員か成員が、その印刷活動から商業的な益を受け取っているという偽りの非難を裏づける証拠を見つけることができませんでした。

 質問:寄付盆を回さないなら、各会衆はその費用をどのようにまかないますか。

 答:エホバの証者は、わざを一般的に支持するのと同じく、地方的にもその費用をまかないます。すなわち、自発的にまかなうのです。寄付箱は御国会館の近くに置かれています。(列王記外、一二ノ九)やもめの「小銭」をも含むすべての寄付は、費用をまかなうのに使われます。すなわち御国会館の建設、借料、燃料、電灯代、水道料、その他に使われます。(マルコ、一二ノ四ニ)誓約の言葉はなされず、寄付者の名簿はつくられません。月に一度、会計の責任を持つ奉仕者は、会衆に短い発表をして、寄付合計と支出合計を会衆に知らせます。新しく献身した証者がこの取り極めを理解するとき、彼らは「いくらでも収入に応じて」自発的に参加します。(コリント前、一六ノ二)全世界二万一千八の会衆でこのことが行なわれています。

 質問:五旬節のとき初期クリスチャンたちはすべてのものを共有しました。エホバの証者はこのことをしますか。

 答:五旬節の直後には、食物の問題と宿舎の問題が生じました。その時、新しく改宗したクリスチャンたちはエルサレムにとどまって、いっそうの霊的な啓発を受けたのです。交わりが長びいた期間中、資産を自発的に売って、すべてのものを共有することが必要でした。(使行、二ノ一、三八ー四七。四ノ三二、三七)売ったり寄付したりすることは強制ではありませんでしたが、すべての人は真実のことを語るべきでした。アナニヤとサッピラは、共謀して自分たちの寄付について偽りを語り、神により断たれました。(使行、五ノ一ー一一、新口)品物を共有したことは、ある人々の考えるような共産主義ではありませんでした。それは一時的な取りきめでした。ちょうどものみの塔の大会の都市に生活するエホバの証者が、訪問する代表者たちを自分の家に歓迎し食物と家を分かつのと類似しています。同じく資産は協会に譲渡され遺言の中で協会は受領者と述べられています。そのような寄付は、五旬節の場合のように霊的な啓発をひろめるのに役立ちます。それらは一つとして強制的な者でなく、また共産主義的なものではありません。 

 質問:物質を寄付することは、罪をあがなう手段であると教えますか。

 答:いいえ、聖書は次のように述べています。「あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがないだされたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」。--ペテロ前、一ノ一八、一九、新口。

 神の正義の新しい世の良いたよりを効果的にひろめるには、多額の資金を必要とします。エホバの証者はそのことを良く認めています。(ペテロ後、三ノ三)また、この宣明のために寄付することは、エホバの認めたもう特権であるとも、エホバの証者は知っています。ダビデのように、彼らはこう言います、「エホバよいきほひと力と栄光と光輝と威光とはみな汝に属す凡て天にある者地にある者はみな汝に属す…………万の者は汝より出づ我らは只汝の手より受けて汝に獻げたるなり」--歴代志略上、二九ノ一一、一四。

 エホバはそのようにして彼のわざを繁栄させられます。

     ______________

  わがみやに食物あらしめんために

   汝ら什一をすべてわが倉にたずさ

    へきたれしかしてこれをもて我を

     試みわが天の窓をひらきて容べき

      ところなきまでめぐみを汝らにそ

       そぐや否やを見るべし萬軍のヱホ

        バこれを言う。--マラキ、三ノ一〇。

[472] [別の副記事]

    十戒の原則は永遠に有効編集

 エホバ神ご自身が十戒を書かれました。「主はシナイ山でモーセに語り終えられたときあかしの板二枚、すなわち神が指をもって書かれた石の板をモーセに授けられた」。--出エジプト、三一ノ一八、新口。

 この十戒は、『すべて私たちを教えるために神が書かせられたものの』一部です。クリスチャンである私たちは、『モーセの律法の下におらず、過分の御親切、あるいは恵みの下』にいます。しかし、私たちは十戒の中に含まれる原則に拘束されます。なぜなら、それらの原則は永遠に有効だからです。この事実は、高等批評家たちの次の主張を真向から論破します。彼らは神についての人間の理解と崇拝は進化したのであってそのことは、神の言葉から示されると主張します。そのようなことはありません。これらの原則の示すことは、モーセの神がイエス・キリストの神であるということです。モーセが書きしるしたもうたものの中に含まれる原則は、イエス・キリストと彼の霊感をう

けた弟子たちが示した原則と同じだからです。モーセとイエス・キリストの両者が神の御要求を二つの大きな戒めー神を愛し、隣人を愛しなさいーの中にまとめたことからも分かります。--ロマ、一五ノ四。六ノ一四。マルコ、一二ノ三〇、三一。

 第一と第二のいましめは、同じ原則を含みます、エホバ神だけに崇拝をささげて、専心の献身をささげ、別の神々や偶像をもつことは許されないということです。この最初の二つのいましめは基礎的なものであって、クリスチャン・ギリシャ語聖書の中にも示されています。「子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい」「人々が犠牲とするものは、悪鬼共に犠牲とするのであって、神にではない。あなたがたは悪鬼共とかかわり合わないでいてもらいたい。あなたがたはエホバの杯と悪鬼共の杯を同時に飲むことはできない。あなた方は『エホバの食卓』と悪鬼の食卓を共にすることはできない。それとも『私たちはエホバにねたみを起こさせているだろうか』。私たちはエホバよりも強いのだろうか」ぜったいにそのようなことはありません!ーー出エジプト二〇ノ二ー六。ヨハネ第一書、五ノ二一。コリント前、十ノ二〇ーニニ、新世。

 しかし、クリスチャンに対してはこれらの原則が拡大されています。それで使徒は次のように書いています。「だから、地上の肢体、すなわち不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像崇拝にほかならない」。どうしてそうですか。何かを持ちたいという貪りの気持ち、あるいは願望が強いため、それを持つことが正しいかどうか、あるいは他の者に属するかどうかを考えなくなってしまうのです。それはつまりそのものを偶像化すること、あるいは崇拝することです。エホバよりもその方を愛することになります。それで、アカンがエホバにささげられていたものを貪ったとき、またアハブがナボテに属するぶどう畑を貪ったとき、両人は偶像崇拝の罪を持ちました。最初と第二番目のいましめに含まれている原則によって、クリスチャンは人や物に宗教的な敬礼をしたり、ぬかずいたりして、不当の尊敬を示すことはできません。---コロサイ、三ノ五。

 第三番目のいましめに含まれている原則は神の御名を用いることに関するものです。イエスは神をふくむ一切の言葉の使用にまで拡大しました。したがって、この原則によりエホバの御名を尊敬の欠けた仕方、敬意の欠けた仕方、あるいは冒とく的な仕方で述べることは禁ぜられます。第三のいましめの中に含まれているものに、神に対して正直という原則があります。エホバの御名を取りながら、その御名にふさわしく生活しないことは、不正直です。この原則はクリスチャンたちに拡大されており、それは次のように述べられています、「神の恵みをいたずらに受けてはならない」。そして「行いのない信仰も死んだものなのである」。---出エジプト、

[473] 二〇ノ七。マタイ、五ノ三四ー三七。コリント後、六ノ一。ヤコブ、ニノ二六、新口。

 神の明白な律法とその原則の区別は、四番目のいましめの中で明白に示されています。このいましめは、安息日を守ることについてのものです。エホバは第七日目に休まれたので、イスラエル人に七日間のうちの一日、すなわち第七日目に休息するようにと命じました。しかし、クリスチャンには、七日のうちの一日を休息せよとは、どこにも命ぜられていません。それとは逆にクリスチャンはこう告げられています、「だから、あなたがたは、食物と飲み物とにつき、あるいは祭りや新月や安息日などについて、だれにも批評されてはならない」。---出エジプト、二十ノ八ー一一。コロサイ、二ノ一六、新口。

 しかし、それと同じ理由により、つまり神は彼のわざをやめて休息されたという理由により、霊的な安息日である休息はクリスチャンたちに命ぜられています。どんな意味の休息でどの程度までですか。それは一週間に一度ではなく、七日間全部つづく休息です。彼らの休息は、信仰と従順から来るものです。それは自分自身の義を立てようとする努力をも含む利己的なわざからの休息です。七日目の安息日によってイスラエル人は物質主義におぼれるのをまぬかれました。それと同じく、クリスチャンは霊的な休みを取ることによって、同じ罠から身を守ることができます。もしクリスチャンが従順と信仰という霊的な休みを忠実に守るなら、彼

らは「あらゆる悪事の根」である強い「金銭の欲」で身をやきこがすことはなく、むしろ休息を持つでしょう。それは、「信心があって足ることを知る」ことから大きな利得として得られるのです。別の言葉で言えば、彼らは「神の国と神の義を求め……そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられる」でしょう。---テモテ前、六ノ一〇、六。マタイ、六ノ三三、新口。

 同じくクリスチャンの組織制度内に取り入れられているものは、第五番目のいましめの中に含まれている原則です。そのいましめは、「あなたの父と母を敬え」です。もちろん、クリスチャンの子供たちは自分の父と母に従わねばなりません。(エペソ、六ノ一四)そのほかに、すべてのクリスチャンにはエホバが「私たちの父」であり、彼の天的な制度エルサレムは「私たちの母」です。彼らは、あらゆるものにもまして、この両者を敬い、それらに従わねばなりません。すると、天の御父と母の地的な代弁者にも尊敬と従順とを示すのは当然でしょう。成人の場合は、クリスチャン会衆あるいはエホバの証者の新しい世の社会内で権威の地位についているすべての者に尊敬と従順を示します。そして、子供たちの場合では、それに加えて「主にある両親」に尊敬と従順を示します。もちろん昔のイスラエルでは、その資格を云々することは必要ではありませんでした。両親はエホバに献身した国民の一部であって、みなエホバにあ

る者だったからです。---出エジプト、二〇ノ一二。マタイ、六ノ九。ガラテヤ、四ノ二六。ヘブル、一三ノ一七。エペソ、六ノ一。

 次のように言えるでしょう。十戒の五つの最初の「いましめ」に述べられているすべての原則の理想は、第一の偉大ないましめの中に述べられています。「あなたは、すべての心をこめ、すべての魂をこめ、すべての思いをこめて、あなたの神なるエホバを愛さねばならない」。私たちがこのいましめに従うなら、別の神々を崇拝するようなことをせず、むしろ、エホバに専心の献身をささげるでしょう。私たちは彼の名前を価値のない仕方で取らず、むしろ、彼を生活の中で第一の者として信仰と従順の休息を楽しみます。そして、私たちは彼と彼の天的な制度およびその地的な代表者たちを敬って、それらに従います。

    仲間の人間に関係する原則

 第五番目のいましめと共に、残りの五つのいましめの原則は、仲間の人間に対する私たちの義務に関係します。それらの原則はひとつのいましめの中に積極的にしかもはっきり述べられています。「互いに愛し合うことの他は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』というこの言葉に帰する。愛は隣人に害を加えることはな

[474] い。だから、愛は律法を完成するものである」。これらの五つのいましめは、ふつう「黄金律」と言われるイエスの言葉によってまとめられます。「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのようにせよ。これが律法であり預言者である」。--ロマ、一三ノ八ー一〇。マタイ、七ノ一二、新口。

 これらの律法をひとつづつしらべると、それぞれはこの一般的な原則の他にひとつかそれ以上の原則を持っています。それで、第六番目のいましめ、「あなたは殺してはならない」に含まれている原則は、生命と血の神聖さについての原則です。そのことは、ノアとその家族に与えられた次のいましめの最初の言葉からも分かります、「肉を、その命である血のままで食べてはならない。あなたがたの命の血を流す者には、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流す者は、人に血を流される、神が自分のかたちに人を造られたゆえに」。--出エジプト、二〇ノ一三。創世、九ノ四ー六、新口。

 このいましめの原則を拡大すると、隣人を憎むことが一切禁ぜられます。イエスは、山上の垂訓の中でそのことを示しています。使徒ヨハネは、次のように述べました、「すべて兄弟を憎む者は人殺しであり」。そのわけで、この世の諸国家は憎しみをかき立てる偽りの宣伝によって敵を殺すように兵士をはげますのです。--マ

タイ、五ノ二一、二二。ヨハネ第一書、三ノ一五、新口。

 「あなたは姦淫してはならない」という第七番目のいましめの中には、契約を守ることと、神聖さについての二つの原則が含まれています。興味ぶかいことですが、ある国語では姦淫という言葉は「婚姻(こんいん)を破ること」という意味です。聖書の中では、すべての不道徳は汚れと示されています。クリスチャンにとっては、このいましめには三つの強調が置かれています。「神は不品行な者や姦淫をする者をさばかれる」とは実際の行いに言及します。「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」。これはむさぼりの気持ちに言及しています。そして、霊的な姦淫については、「不貞なやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか」。この世を友とすることは、神との契約を破ることを含みます。またその人は汚れたものになります。クリスチャンは世の汚れに染まらぬようにとヤコブは助言しています。--出エジプト、二〇ノ一四。ヘブル、一三ノ四。マタイ、五ノ二八。ヤコブ、四ノ四。一ノ二七。

 正しいクリスチャンの原則、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」は、盗むことを禁ずる第八番目のいましめの中に含められています。私たちは、必要とするものを稼(かせ)いで得ねばなりません。「盗んだ者は、今後盗んではならない。むしろ、貧しい人々に分け与

えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」。--出エジプト、二〇ノ一五。テサロニケ後、三ノ一〇。エペソ、四ノ二八、新口。

 第三番目のいましめの中に含まれている原則は、神に対しての舌の正しい使用に関係します。それと同じく、九番目のいましめ、「あなたは隣人について偽証してはならない」は、人間に対しての舌の正しい使用に関係します。気をつけるべきことは、真理そのものを口外することに必ずしも強調が置かれているのではありません。むしろ、隣人に対・し・て・偽証を立てないー利己主義が原因で偽証を立てることもあるのでーということに協調が置かれているのです。しかし、隣人の益をはかるために真理をかくすことが正しい時もあるでしょう。例えば、ラハブは神を恐れるイスラエル人を追跡してきた異教徒をまいてしまいました。彼らが彼女の言葉に従ったからです。また、「愛は多くの罪をおおう」というのは沈黙を守るからではありませんか。まったく、その通りです!--出エジプト、二〇ノ一六。ペテロ前、四ノ八。

 そして最後は隣人のものを「むさぼってはならない」といういましめの中に含まれる原則は、「あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」ということです。そのわけでイエスもこう言われました、「悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、そしりは、心の中から出てくる」。もし私たちが

[475] 心を守るなら、隣人のものをむさぼるということもなく、またイエスがここで述べているような不道徳な行いをしないでしょう。それどころか、他の者の「福利に」興味を持ち、彼らの益をはかります。そしてまた、他の人のうける誉をむさぼるようなことをせず、私たちはむしろ「進んで互いに尊敬し合い」ます。--出エジプト、二〇ノ一七。申命、五ノ二一。箴言 四ノ二三。マタイ、一五ノ一九。コリント前、一〇ノ二四。ピリピ、二ノ四。ロマ、一二ノ一〇、新口。

 たしかにクリスチャンである私たちは、「律法の下にあるのではなく、恵みの下にある」。しかし、十戒は私たちを教えるために以前に書かれたものの一部です。十戒の中に含まれる原則は永遠に有効です。「もしこれらのことがわかっていて、それをおこなうならあなたがたはさいわいである」。--ヨハネ、一四ノ一七、新口。

[479]

読者よりの質問編集

[略]

●ピリピ書二章十節で言われている「地下のもの」というのはだれのことなのですか。--アメリカの一読者より

 ピリピ書二章十、十一節(新口)にはこう書いてあります。「イエスの御名によって、天上の者、地上のもの、地下のものなどあらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」。ここで「地下のもの」と言われているのは、記憶の墓で復活を待っているとイエスがいった者たちのことです。(ヨハネ、五ノ二八、二九)これらすべての者は最後には死からよみがえらせられて生き続け、神の栄光を帰するためにキリストを主と認めるようになります。記憶の墓にいる者だけ、あるいは神の記憶にある者だけが、たとえ地下で死の眠りについていても、存在していると言えるでしょう。死んだ悪人[:邪悪な者]は目をさますことがなく存在していません。彼らはうせ去ります。--詩、三七ノ一〇。

 これに関連しているのはエペソ書一章九、十節(新口)のパウロの言葉です。なぜなら、同じことに言及しているからです。「御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って………時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にある者地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである」。

●コリント前書十四章二節をどのように説明するか教えて下さい。--アメリカの一読者より

 質問の聖句は次の通りです。「異言を語る者は、人にむかって語るのではなく、神にむかって語るのである。しかしだれもそれを聞かない。彼はただ、霊によって聖なる奥義を語っているのである」。(新世)この聖句を同じ章の十三ー十九節(新世)にてらして考えると分かります。次のように言っています。

 「このようなわけであるから、異言を語る者は、自分でそれを解くことができるように祈りなさい。もし私が異言で祈るなら、私の霊の賜物は祈るが、私の理解は実を結ばないからである。それでは、どうしたらよ

いのか。私は霊の賜物で祈ると共に、理解をもってまた歌おう。そうでないと、もしあなたが霊の賜物で祝福の言葉を唱えても、初心者の席にいる者は、あなたの感謝に対して、どうしてアァメンと言えようか。

 別の言葉で言うなら、異言を語る者は聞いている者がわかるようにその言葉の意味を解釈する者を持たないなら、人に語っているというよりむしろ神に語っていることになります。神の聖霊の奇跡的な力によって与えられた音信の異言を理解しない聞き手にとって、それは意味のないものです。そのわけで使徒パウロは「だれもそれを聞かない」と言っています。なぜならだれも分からないからです。異言を語っている者でも、自分自身の語っていることが分からないかもしれません。そうでないならパウロは異言を語る者は自分でそれを解くことができるように祈りなさいとは言わなかったでしょう。それで異言を語る者はほかの者が解いてくれないと、霊によって自分自身が語っていることすら分かりませんでした。

 それで語っていることを通訳したり解いてくれる者がないなら人にむかって語っているのではなく、たしかに神にむかって語っていることになりました。そのわけで使徒パウロは解く者がない時、異言を語っている者が自分で解くことができるように祈れと言ったのです。そのようにして自分で解くことにより、人々を高めるように語ることができ神をさんびすることができます。

 異言を語ることができると主張する現代における宗派と、使徒パウロは何と違っていることでしょう!彼らは自分たちのしゃべることが聞き手に分からなくてもかまいません。むしろわけのわからぬ言葉により聞き手に感銘を与えたいと思っています。さらにパウロは「異言はやむ」と預言しました。それで異言はやんでしまいました。異言の奇跡的な賜物は、聖霊の他の奇跡的なしるしとともに、クリスチャンの会衆を設立するのに必要でした。クリスチャンの会衆が円熟したものになったので、その賜物は「幼子らしいことを捨ててしまった」のです。--コリント前、一三ノ八、一一、新口。