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ものみの塔    エホバの御国を知らせる   通巻LXXXII   1961年 9月 15日 第18号 復刊 第11巻 第18号編集

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謝罪は弱いしるしですか。編集

 謝罪ということについては、非常に異なった見方があります。「賢明な人で謝罪した者はひとりもいない」といった作家のように、ある人はそれを弱さとみます。またほかの作家は、「謝罪は、その人の品格を高める」という意見をもっています。クリスチャンの謝罪をどのように見ますか。「ウェブスター新国際辞典」によると、謝罪とは、「誤った、または侮辱的な言動のつぐのいを意味する自白。悪い事または失礼なことをしたことを相手に白状し、悔改めたことを表わすこと」となっています。

 ところで、人間関係においては、まちがっていたことを認めるという問題を神はどのように見られるでしょうか。神がよしとされることは正しい道です。

 まず、つぎのことを認めなければなりません。すなわち、クリスチャンが神にゆるしを祈り求めることは、結局神におわびしているということです。人間関係においてはクリスチャンは、イエス・キリストの定めた指導原則に従います。彼はこう言いました、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」。(マタイ、七ノ一二、新口)何か悪いことをされた時、その悪い事をした人が自分のところにきてわびるなら、どんなにかうれしいことでしょう。そのような謝罪は、どんなにか平和な関係をとりもどすことでしょう!行ないを悔いた人に対して、無礼なこと悪い

[第二段落目]

ことをされるまえよりも、もっと親しみを感じるようになるのはしばしばあることです。

 それで、ある行為の価値を認めるなら、自分もそれと同じ親切を他の人に示すべきではないでしょうか。これは、愛とけんそんさの問題です。私たちが隣人を愛するなら、自分にしてほしいと思うことを隣人にもします。もしあやまちを犯したなら、愛の心をもって、イエスが正しいこととしてすすめた道をとるべきです。けんそんさも関係があります。人にわびるにはけんそんでなければできません。誇りは障害物です。誇りの高い人は、自分がまちがっていたことが分かっていても、わびにくかったり、とてもそんなことはできないと思います。

 イエスは他の聖句の中で、あやまちを犯した者が、わびるのは正しい行いであることを示しました。「もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして『七度悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい」。(ルカ、一七ノ三、四、新口)あやまちを犯した者が、感情を害した兄弟のところへきて、「悔い改めます」という言葉で示されているようにあやまったなら、その人をゆるさねばなりません。クリスチャン会衆の中の平和と一致のために、あやまちを犯した者を愛をもってゆるさねばならないのと同じく、謝罪ということも同じ理由のためになされねばなりません。

 最高の神は、平和と一致ということを非常に重要視しておられます。このことは、マタイ伝五章ニ三、ニ四節のイエスの次の言葉から確かです、「だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみを

[548] いだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて供え物をささげることにしなさい」。

 ここでイエスは、ユダヤ人が宮の庭にささげ物をもってきて、祭司がそれを受け取りにくる時を待つ習慣について述べています。ささげ物をもってきた者は、祭司がそれを受け取って殺し、犠牲の祭壇にささげられるまで待ちました。これはイスラエル人が身を投げ出して神のあわれみを請い、その犠牲を通して神のゆるしを求める厳粛なしゅん間で、この時には、兄弟との間にどのような問題も残っていてはなりませんでした。もし兄弟に何か悪いことをしたのを思い出したら、どうすべきだったでしょうか。『このささげ物を神にささげたら、さっそく兄弟のところへ行って、おわびしよう』といってもよかったでしょうか。そうではありません。つぎのことをするまえにーーつまりささげ物をそなえるまえにーーささげ物を祭壇のまえに残しておいても、先ず和解を求めるべきでした。兄弟と和解しないなら、どんな犠牲をささげても、クリスチャンと神との間に平和はありえないことをイエスはその時示されたのです。

 クリスチャンはこれから何を学ぶべきですか。神と和解するということは、目に見える神の会衆のメンバーと和解しなければならないということです。ですから、クリスチャンとクリスチャンの兄弟たちとの関係は、全能の神とク

リスチャンとの関係を表わします。まず神の地上の制度と和解しなければ、神と和解することはできません。ですからイエスの助言はすこぶる明確で、エホバ神の制度およびそのメンバーすなわちクリスチャンの兄弟たちと和解せよということです。兄弟たちと和解し、それによって神と和解するには、問題を清算する必要のある時があります。そしてそれには、必然的に謝罪が必要となるでしょう。

 では、どうしてあやまることを弱さのしるしと見ることができるでしょうか。もし人が、神の霊をもち、愛、けんそん、平和、一致に関する神の要求を理解しているなら、そのような見方はできません。

 心からの謝罪は、弱さどころか、強さのあらわれです。神の御言葉は述べます。「怒れる兄弟はかたき城にもまさりて説き伏せがたし、兄弟のあらそいはやぐらの貫木のごとし」。平和、一致、親しい関係をはばむこの強い障害物は何によって取り除かれますか。誇りや、誇りを態度に表わすことによって、問題が解決するでしょうか。それはありえません。しかし、親しい関係の再現をはばむ、城の鉄の貫木のように強い障害物を除くに十分の力をもつものがあります。それは謝罪です。

 また、公平と正義という問題もあります。心から出た謝罪は、義ということを心にかけていることを示します。兄弟と不和の間である時に神にささげる犠牲が無価値であるのと同じく

義を行なわない者のささげる犠牲も無価値です。神聖な規則は、「正義と公平を行ふはいけにへよりもまさりてヱホバによろこばる」です。(箴言、二一ノ三)行なったかも知れない悪い事に対して謝罪する人は、正義という問題に対して正しい考えをもっていることを示します。

 多くの俗人の意見とは反対に、謝罪は弱さのしるしではありません。それは、一致をはばむ障害を打ちくだく力であり、義を行なっている一つのしるしです。愛とけんそんさで満ちた心をもつ人は、謝罪の力から益を受けます。


[566]

神の目的とエホバの証者編集

 その26 

 「『あなたがたはエホバの証者です』とエホバは言われる。」-イザヤ43:10.新世訳

      「上なる権力」に従う

 ジョン: さて、1929年の六月号の「ものみの塔」(英文)は、「上なる権力」と題する記事を二部に分けて掲載しました。(ツ) [原註:1929年の「ものみの塔」(英文)163-169頁。179-185頁。] すこしの言葉をここに引用してみましょう。その危険な時に証者たちがどんな立場をとったかが分かるでしょう。

 ロマ書十三章についてはたくさんの注解書の言葉が書かれている。その言葉は、異邦人の権力あるいはこの世の政府は「存在すべき権力」であって、そのような政府はエホバ神からその権力をいただくという。それは、かつて「帝王神権説」の教理を裏づける基礎理論に用いられ、国家が持っていて行使する力がどんなものでも、その力は神から任命されたものであり、したがって神の子孫はその力に従わねばならないと論ぜられている。(ネ) [同原註:1929年の「ものみの塔」(英文)163頁。]

 一つの国では合法の行ないも、他の国では違法になっている例が数多く述べられています。それから、神はこれらのちがった権力あるいは権威をゆだねたかという質問がなされています。この論議の特定な部分を結論するにあたって、記事は次のように述べています。

 アメリカ合衆国の基本的な法律は、人がこのむいかなる方法でもその宗教を行なうことができると述べている。この基本的な法律に反して、ある州は福音が特定な場所で、特定な環境下で伝道をしようとする者たちを逮捕して罰する。ロシアでは、政府の許可がない限り、福音の伝道を禁止する法律が施行されている。イエス・キリストを通して神の子たちに与えられている神のいましめは、この福音をあかしとして全国民に伝道することである。(マタイ、24ノ14)神の子はアメリカ合衆国やロシアの法律に従うべきか、あるいは神の律法に従うべきであろうか、神は御自分のみこころと矛盾反対し、御こころをきずつける法律をつくったり施行したりする権利と権威を、これらのいろいろの国に与えたであろうか。

 使徒パウロの言葉を、この国の諸政府に適用することは正しくない。それはまったく明白である。「存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである」とパウロが言うとき、彼はこの地の異邦の諸国家に言及しているのであろうか。彼は神の制度内で行使される力に言及しているのであって、サタンの制度内に行使されるものに言及しているのでないというのは理に合う。(ナ) [同原註:1943年の「ものみの塔」(英文)298頁をも見なさい。1946年の「ものみの塔」も見なさい。]

・・・・・・・・・・・・

 トム: 1929年と言えば、大きな株界崩壊の年だったとしかおぼえていません。その年から世界最悪の

 [567]

不況が始まったのですね。

 ジョン: そのとおりです。現代社会の変化はこの不況の結果であると現代の歴史家は言います。・・・この大不況は国家の根底からゆり動かし、この世界社会の基礎が弱いものであると示しました。・・・ヒトラーが政治的な権力を握ることができたのは、・・・ホ[フォ]ンパペンの企てたカトリック謀略と操縦により、また国民の不安定な・・・彼は1933年一月三十日、ドイツ宰相になりました。・・・ヒトラーの代理としてピオ十一世と条約を締結しました。・・・ピオ十二世になったパチェリ枢機官は、そのときバチカンを代表して署名しました。(ム)[同原註:「世界政治のバチカン」(英文)(1949年、マンハッタン)165-170頁。コロンビア百科事典1240頁。] 1929年ムッソリーニはラテラン条約によりバチカンとの協力関係を完成しました。ラテラン条約はローマ・カトリック教会と新しい全体主義政府とのあいだに締結されたものです。(ウ)[コロンビア百科事典(英文)1942年608,1227頁。1941年の「ものみの塔」(英文)280頁。アメリカナ百科事典(英文)第七巻、464頁。]

 諸国家のあいだにこのように悪化の徴候が見られたことは、エホバの証者の立場を強めるだけでした。彼らは人間に仕えるよりも神の使える決意を強め、困惑していた世界の諸国民に伝えていた音信に重味を加えました。1931年と1932年には、新しい世の社会の発展に関して大きな重要性を持つ二つの出来事が生じました。その最初は、1931年七月二十四-三十日まで、オハイオ州コロンブス市で行われたエホバの証者の別の大会でした。この大会では一万五千人の人々は「エホバの証者」という新しい名前を採択する決議を採用しました。

      「新しい名前は責任を示す」

 ロイス: 1931年まであなたがたはエホバの証者と呼ばれなかったのですね、それ以前は、何と[呼]ばれましたか。

 ジョン: 私たちの出版物の中では、「教会」、「主の油注がれた者」「キリストの体の成員」、「兄弟たち」、あるいは簡単に「クリスチャン」「イエスの足跡に従う弟子」「聖書研究生[:者]」「万国聖書研究生[:者]」(ヰ)[:原註:1910年の「ものみの塔」(英文)119,120頁]その他を使用していました。もちろん、そのような表現は聖書的です。しかし、外部の者はたいてい私たちのことを「千年統治[期]黎明派」とか「ラッセル派」というような非難の言葉を使用していました。1931年に採択された決議は、この状態の故に生じた混乱に注意をひき、これらのクリスチャンの真実の立場を示しました。それは次のように述べました。

 すなわち……ものみの塔聖書冊子協会と万国聖書研究会及び国民の説教協会は法人の名前に過ぎず、われわれクリスチャンはそれらの法人を制御し、支配し使用して神のいましめに従うわれわれの仕事を行うのである。・・・キリストの足跡に従うわれわれクリスチャンの群れに適用せず、またあてはまらない。・・・「聖書研究生[者]」あるいは同様な名前を取らず、かつ、そう呼ばれることを拒絶する。われわれは人間の名前を持つこと、あるいは呼ばれることを拒絶する。

 すなわち、われわれはあがない主なるイエス・キリスト……われわれは主なる神のみ口によって命名された名前をよろこんで取り、その名前によって

知られ、呼ばれることをのぞむ。その名前は、すなわち「エホバの証者」である。--イザヤ、43ノ10-12.62ノ2.黙示、12ノ7.(ノ) [:原注:1932年の「年鑑」(英文)22,23ページ。]

 言う必要もないですが、この決議は出席者全員によりよろこんで採決されました。その後、全地の五十の大会でエホバの民は会合し、このすばらしい新しい名前の採決によろこびの声を加えました。

 エホバの民のこの新しい名前を世界の指導者たちに正しく知らせるため、この決議およびルサフォード兄弟の大会の話の全文は「御国は世界の希望」(英文)という冊子に出版されました。その中には大会で採択された別の決議もはいっていました。それはキリスト教国が背教してエホバのさとしを侮べつの中に取り扱ったことを責めるもので、次のように述べていました、「世界の希望は神の御国であり、ほかの希望はすこしもない」(イ)(イ) [1931年の「ものみの塔」(英文)278頁。] その年の十月中、各会衆がこの冊子をもって牧師、政治家および大実業家を訪問する運動が行なわれました。アメリカ合衆国とカナダだけでも十三万二千六十六冊の冊子はこのようにして配布されました。(ロ)(ロ) [冊子は八万八千名の牧師、一万九千名の実業家および二千八十五名の軍事指導者に配布されました。1932年一月一日の「ブルテイン」(英文)] 次の数か月中、この冊子は全地の五百万人の家庭に配布されました。(ハ)(ハ)[1932年の「年鑑」(英文)36頁。]

 ロイス: それは支配者と国民に対する最大の運動のひとつにちがいありません。

 ジョン: そのとおりです。当然そうでしょう。エホバの証者は神の真の僕として、神の名前と御国の証言を守ることに献身したことが記録されたからです。かくして彼らは世界のすべての国民から分離しました。なぜなら、他の国民のうち御くらにつかれた天の王を認めたものはひとつもないからです。・・・聖書中のこの名前の前後の関係は、神の真の僕たちと、神に仕えると称する者たちとのあいだの地上での論争をいっそう強調しました。マリア、イザヤ

[568] 書43章8-10節を読んでください。

 マリア:[読む]「目あれどもめしひのごとく耳あれどもみゝしいひのごとき民をたづさへ出でよ、国々[:くにぐに]はみな相集[:あひつど]ひもろ﹀[:もろ]の民はあつまるべし、彼らのうちたれかいやさきに成るべきことをつげ之をわれらに聞[:きか]することを得んや、その証人[:あかしびと]をいだして己[:おのれ]の是[:これ]なるをあらわすべし、彼らききて此[:こ]はまことなりといはん、ヱホバ宣[:の]給はく、なんぢらはわが証人[:あかしびと]わがえらみし僕なり、さればなんぢら知りて我を信じわが主なるを悟りうべし、我よりまへにつくられし神なく我よりのちにもあることなからん」。

 ロイス:エホバの御名を負う者に対する彼の要求はまったく明白ですね。

 ジョン:その通りです。さらに新しい世の社会が誕生して後、力を結集し始めた反対する社会が誕生しました。したがって、それは権威の争いにもなり、事実は人々に提供されました。すべての者はどちらの社会に立場を占めるか、心の中で明白に決定することができました。しかし、この争いが本格的に始まる以前、エホバはご自分の制度内で別の目的を達成させられる目的を持っておられました。それは聖所を正しい地位に復旧することです。

     エホバの聖所は清められる

 おぼえていらっしゃると思いますが、英国ロンドンで行われた一九に六年のエホバの証者の大会で、国際連盟は黙示録十七章十一節に述べられている「獣」であり、それは神の御手から必ず滅びを受ける(二)(ニ)と言明されました。この証言は、世界の諸国民に知らされました。しかし、彼らはこの証言に注意を向けましたか。いなであります。彼らは荒らす憎むべきものを捨てず、また世界の真実の希望である神の御国を支持しようとしませんでした。彼らは地上の僕たちを通してなされたこの神からの宣明の言葉を無視して、救いをはかる神の御準備に背を向けました。それで、彼らは実際には神に対して罪を犯したのです。彼らがそうすることはエホバの御使いによりダニエルに啓示されていました。(ホ)(ホ)

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(二)(ニ) 一九六一年七月十五日四四七頁を見て下さい。

(ホ)(ホ) ダニエル、八ノ一三、一四。

 それから二千三百日の後には神の聖所が勝利を得るという預言もなされました。「選出された長老たち」を神の会衆から清めることが始まりました。彼らは民主主義的な仕方で職務に選び出されていた者たちです。一九三二年八月十五日号と九月一日号の二つの号の「ものみの塔」(英文)は、「エホバの制度」と題する記事を掲載しました。この記事は、「長老を選出する」制度は、この世的なやり方であり、大神権者の原則に従うものでないと示しました。大神権者は上から下に聖所を支配されます。その記事の結論は、決議文であって、全会衆がその決議を採決するようにとすすめていました。次の抜すいに気をつけて下さい。

 故に次のことを決議しよう、すなわち教会内の長老たちが選出的な職務をもつことに対する聖書的な権威はない。したがって、われわれはいかなる人をも長老の職務に選出しない。聖書の定義によれば、神によって油そそがれた者はみな長老である。そして、すべての者は最高の神の僕たちである。

 われわれの奉仕を秩序正しくするため、われわれの会のある者を選んで、必要な奉仕を行なわせる。その中には次のことをも含む。すなわち奉仕指導者はわれわれによって指名され、協会の事務代理によって確認される。その奉仕指導者は、この会の奉仕委員の一員である。

 この決議は全地のエホバの証者の会衆により採決されました。ダニエルの預言に述べられている時の期間がちょうど終る一九三二年十月十五日号の「ものみの塔」誌上の発表は、エホバが御自分の見える伝達の径路を通してなされた正式の通達であって、彼の聖所が清められたこと、正しい状態に復帰したこと、そして長老たちを選出するにあたって民主主義的な仕方が排除されたことを示しました。(へ)(へ)

 トム:それはあなたがたの制度を一致させるでしょうね。重要な前進の一歩のように見えます。

 ジョン:もちろんエホバの制度はこの処置で使徒の時代中の神権的な運営に十分回復したわけではありません。御自分の民に対するエホバの目的が立証され

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(へ)(へ)「御心が地に成るように」(一九五九年)「ものみの塔」四五六頁ー四五八頁。

て、新しい世の社会が最終的にかたちづくられるときエホバの制度は十分に回復するでしょう。しかし、幾十年かむかしにエホバが示したもうた径路に対して、エホバの是認の手ははっきり見えました。一八七八年にパストー・ラッセルが真の崇拝のために敢然と立ったときから、「ものみの塔」とその出版者たちは、妥協と背教に対して戦いつづけました。このクリスチャンの群れが神の目的内で特定な位置をもつことは、ますます確証づけられました。彼らは一九一九年に死のあごから救い出され、サタンに対してエホバを支持する大胆な立場を占めるようになりました。かくして神の目的の中における彼らの立場は、最高主権者の名前と明白に識別される故、堅固なものになりました。このように強められたクリスチャンのこの社会は、一大運動に乗りかかる準備をととのえました。この時までのエホバの僕たちはその種の事柄をすこしも知りませんでした。

==読者よりの質問== 

●エホバの制度の中で、セラピムとケルビムはどちらが高い地位にありますか。ーーアメリカの一読者より

 セラピムの方が高い地位を持っているようです。エホバと関連してケルビムの事が述べられている場合はいつでも、彼らが低い地位にあるように示されています。エホバは彼らの上にすわられるか、彼らに乗っておられます。サムエル後書六ノ二、列王紀略下十九ノ十語、コリント前書十三ノ六、詩篇八十ノ一、九十九ノ一を見て下さい。しかし、セラピムのことが述べられている唯一の箇所、イザヤ書六章の一から六節ではセラピムは、エホバの御座の上に位置を占めています。


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[副記事]

   第七日は休息の安息日編集

  それは誰に与えられましたか。またどのように守られましたか。なぜそれは大切でしたか。

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     安息日は一つだけではない

 神が御自分の選民に守ることを命ぜられた第七日目の安息日の他にも、別の安息日があります。それらについても述べなければ、安息日を十分に考慮したことにはなりません。週毎の安息日を守っても他の安息日を守らなければ、神の律法を破り、あるいは無視していることになります。週毎の安息日のほかにイスラエル人は年に一度、ニサンの十四日に過ぎ越しを守るように命ぜられていました。過ぎ越しの翌日は安息日で、その日から一週間にわたる種入れぬパンの祝いが始まります。この祝の最後の日もまた安息日でした。初穂をささげた日(ニサンの十六日)から五十日目もまた安息日でした。これは週の祝すなわち五旬節です。

 イスラエルにおいて七番目の月は特別な月でした。その月の初めの日は安息日で、十日すなわち贖いの日も安息日でした。つづいて仮庵(かりいほ[:ゼカリヤ14:16の仮小屋の祭りの予型??!千年期期間中に成就とだと?!!])の祝いの始まる十五日も安息日であり、一週間にわたるこの祝いの終った次の日も安息でした。しかしそれが全部ではありません。七年目、五十年目には一年にわたる土地の安息があって、土地を休ませたのです。これら多くの安息は、イスラエル国民に安息を守ることを命じた神の律法にことごとくしるされています。「あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない」。--出エジプト、三一ノ一三。

     神の安息日

 第七日目の安息日のことを命じている十戒の四番目のいましめは、神が創造の第七日に休まれたことを述べているので、週毎の安息日を守ることは最初の人間の時から行われたと結論する人がいます。その論議は神が創造の第七日に休まれ、それを祝福して聖なるものにされた・・・そしてそれは文字通りの二十四時間であったとその人々は信じているのです。・・・裏づけるため、もっぱら頼りにしている聖句は創世記二章三節の次の言葉です。「神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである」。この聖句に関してロバート・ジャミエソンはその著「批評および実験的な注解」の中で次のように述べています。「この句は安息日の基本的な句であり、安息日を守ることが最初の人間の時から行なわれたという事実を確証する」。しかし週の第七日を安息日として守ることを人間に命ずる言葉が、この句のどこにありますか。ここで言われていることに人間が関係していると示すものが何かありますか。これは創造の第七日になって神が何をされたかを述べているのであって、人間に対する律法を述べているのではありません。この聖句にしても他のどんな聖句にしても、安息日の律法がアダムに課せられたこと、あるいはアダムが週の第七日を安息日としたことを述べているものは一つもありません。……

 モーセに与えられた週毎の安息日の律法の型を、神が確立されたことに間違いはありません。しかし律法が与えられないうちに、それを守ることのできる人はいません。したがってモーセ以前の人で安息日を守った記録がないのは当然です。

 神が休まれたとき、文字通り二十四時間の日を祝福し、聖別されたと考えるのは間違いです。その日が始まってから何千年の後、使徒パウロは神の休みに入ることについて語っていますから、神の安息の日はパウロの時代にまだつづいていたこと、従って長い期間であることが分ります。「聖書のある箇所で、七日目のことについて『神は七日目にすべてのわざをやめて休まれた』と言われており、またここで、『彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない』と言われている。したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか」。-ヘブル、4ノ4, 5-11.

 七という数字は聖書の中で多く用いられており、完全という意味を伝えるものです。「通俗および批評的聖書百科事典」に示されているように、七というヘブル語の語源には「十分、満足、満ちていること、完全、豊富」などの意味があります。従って創造の週が七日から成るということは、完全をあらわしています。創造の第七日は何千年の長さにわたるものであり、またアダムの創造からほとんど六千年を経過していることから、さらには聖書の預言の証明するごとく私たちが悪の組織制度の終わりの時に住み、安息にみちたキリストの千年間の御国統治の直前にいるということから、この偉大な安息の日は七千年にわたるものと当然に理解で[さ:誤植??!]きます。キリストの千年統治は論理的に見てこの七千年の神の安息日に含まれるものです。すなわち創造の第七日自体が千年の日から成る一つの週ということになります。この期間中にエホバの御名が立証され、地と人間に対するエホバの御目的が全く成就されますから、この日は聖なる日です。神がこの日を祝福……

 神の安息日が一日千年の七日から成ることは、数百年前のユダヤ人のラビたちもこれを認めていました。その一つは1626年にヘンリー・アィンスワースの書いた「創世記と呼ばれるモーセの最初の本の注釈」に引用されています。「第七千年目の第七日すなわち来るべき世界について説明すれば、神はそれを祝福された。第七千年目にすべての魂は祝福に包まれるからである。…そのようにユダヤの律法学者たちはその注解書に述べている。神は第七日を祝福された。聖なる神は七千年目の世界を祝福された[個人注:神にとっては一日が千年のようであると??!この世が続く限り創造の日の大安息日の七千年中の六千年がは満ちないと!!ハルマゲドンの時に確かに六千年前が始まりだった、アベルがの種[:胤??!]がを下に投げられた時と??!一致すると!?!]」来たるべき世界とはメシヤの千年統治であり、象徴的な七千年の週のふさわしい最高潮となるのです。それで神の安息の終わりまで人類は七千年間、地上に存在したことになります。そのとき人類は罪の束縛ととらわれから解放されて安息を得ます。

 神は完全な数、七をこのように使われています。創造の週は、単なる時間ではなく七千年を各一日とする七日から成り立っているのです。つまり創造の各一日はそれ自体で一日千年の一週間から成っていることになります。基になるこの型にならってイスラエル民族は一日が一年にあたる象徴的な週を与えられました。すなわち土地は七年目ごとに安息の休みを与えられたのです。同じことは七日から成る文字通りの週についても言えます。その週の第七日はイスラエルの人々にとって安息日でした。したがって第四のいましめが偉大な創造の週に言い及んでいるは当然のことです。文字通りの週は創造の週の写しだからです。

 神の安息の日は、それにかたどられた二十四時間の安息日にくらべて遥かに偉大なものであるゆえに、神がその安息の日を祝福されたからと言って、そのことからすべての人類が第七日を安息日とすべきであると論ずるのは間違いです。

     誰のために?

・・・・・・・・

 …モーセ以前の二千五百年間、安息日に関しては何も述べられてはいないことから当然に引き出し得る結論は、神がその時代には安息日を守ることを要求されていなかったという事です。それは族長たちに要求されませんでした。

 安息日の律法は、イスラエル民族だけに与えられ、その国民と天の支配者との間のしるしとなるものでした。その国民は天の支配者と契約関係に入っていたのです。神御自身の言葉がその事を述べています、「六日の間は仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で……ある。・・・これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである」。(出エジプト、31ノ15,17)……

・・・・・・

 ・・・・・・安息日は神の偉大な安息の日にも注意を向けさせました。その日の終わりに、人類に対する神の御目的は全く成就されるのです。使徒パウロが指摘した如く、安息日は来たるべき良い事の影でした。それはキリストの千年統治を指し示していました。その時、従順な人類は安息にみちた新しい世で神の約束による永遠の生命の祝福を受けるでしょう。--コロサイ、2ノ16,17。

 

 

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