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   ヨハネ1章1,2節にもどる編集

   

      その5

 58 使徒ヨハネは、クリスチャンたちにあてて書いた最初の手紙の結びの部分でも、同じ理解をいだいています。すなわちイエス・キリストは神の子であり、神によって産み出された人間はイエスと共に神の子であるということです。聖書のアメリカ訳は、ヨハネの手紙の結論を次のように訳しています。「神の子が罪を犯さないことを、私たちは知っている。神から生まれた方が彼を守っていて下さるので、悪い者が彼に触れることはできない。また、私たちは神の子であり、全世界は悪い者の勢力下にあることを知っている。さらに神の子が来て、真実なるかたを知る力を私

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58 クリスチャンたちにあてた最初の手紙の終わり方で、ヨハネは、イエス・キリストを私たちにどのように理解させてくれますか。

たちに与えて下さったことも知っている。私たちは真実な方と一致している」。どのように?「御子イエス・キリストによる。彼は真の神であり、永遠の生命である。愛する者たちよ。偶像を避けなさい」。ーヨハネ、第一、五ノ一八ー二一、新口。

 59 イエス・キリストを子とする見方は「真の神、永遠の生命」であり、イエス・キリストは「神から生まれた方」で、神の他の子たちを守る方であるゆえ、私たちはいろいろの翻訳の存在するヨハネ伝一章一、二節をどのように理解すべきですか。たくさんの訳は次のようです。「そして言葉は神と共にあった。言葉は神であった」。別の訳によると、「そして、言葉(ロゴス)は神性を持つものであった」。別の訳、「言葉はひとりの[a-god]神であった」。私たちは肉体となられた言葉なるイエスについて、ヨハネの書いたものをくわしくしらべました。それで、今ではそれらの翻訳の中どれが正確であるかを決めることができます。それは私たちの救いを意味します。

 60 最初、欽定訳あるいはドウェー訳による次の通俗的な訳を考えてみましょう。「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。そして言葉は神であった。同じものははじめ神とと

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59 多くの翻訳で、ヨハネ伝一章一節はどうなっていますか。しかし私たちは何を決定できる立場にいますか。

60 普通の翻訳に従い、レオ・トルストイ伯爵は、ヨハネ伝一章一節についてどんな注解をしていますか。

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もにあった」。いまレオ・トルストイ伯爵著の「調和されて訳された四福音書」という本から、次の数行を引用することは適当です、

 はじめに理・解・、あるいは言・葉・があり、そしてその言・葉・が・神・と・と・も・に・あ・っ・た・、あるいは神のた・め・に・あ・っ・た・と言いながら、それは神・で・あ・っ・た・と言うことは不可能である。もしそれが神であるなら、それは神と無関係な立場に立つ*」。

 使徒ヨハネは、ある者(「言葉」)が他の方(「神」)と共にいて、同時にその方(「神」)であると言うほど論理に欠けるはずはありません。

 61 神とともにいた言葉は「肉体になって」、イエス・キリストになり、イエス・キリストは「神の子」であると、ヨハネは証ししています。それで、その言葉が神の子であるというのは正しいことです。その言葉が神である、すなわち「唯一の真の神」であるということは、使徒ヨハネの書いた他の部分によって証明されていることに反します。聖書の最後の本である黙示録十九章十三節でヨハネは彼を「神の言[葉]」と呼んでいます。「彼の名は神の言[葉]と呼ばれる」。(欽定訳、ドウェー訳)彼の名が「神なる言葉」と呼ばれず、「神の言葉」と呼ばれるのに気をつ

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*「調和させて訳された四福音書」の三〇頁二節からの引用。レオ・ウィナー教授が原語のロシア語から翻訳。一九〇四年ニューヨーク市のウィレイ書籍会社が版権を得、出版した。著者は一九一〇年に死亡したロシアの作家であり宗教哲学者であった有名なレオ・トルストイ伯爵。

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61 (イ)ヨハネが、イエスキリストを「神の子」と証明した以上、言葉についてどう言うことが言えますか。(ロ)黙示録十九章十三説を考慮に入れると、ヨハネ伝一章一節は、言葉についてせいぜい何を意味しているにちがいありませんか。

けて下さい。それで、ヨハネ伝一章一節は、せいぜいのところ、その言葉が神からのものであることを意味するにちがいありません。

 62 ロスリン・ド・オンストン著「初期キリスト教教父の福音書ー第二世紀に存在した聖なる福音書の英語訳」と題する本¥があります。その表題の頁には、この訳がどのように編集かが述べられています。ヨハネ伝一章一節は、この訳によると、「言葉は神であった」と書かれています。しかし、そこには次のような脚注があります。「こ・こ・の・真・実・の・訳・は・、お・そ・ら・く・、神の言[葉]とすべきであろう。批判的なノートを見・な・さ・い・」。ー一一八頁*。

 63 その言葉が「神」か「神」、あるいは「ひとりの神」かということについて、なぜ翻訳者たちのあいだに意見の一致がありませんか。そ

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¥この本の表題紙は次のように述べている。「第二世紀から第十世紀までの、一二〇人のギ[リ]シャ人、ラテン人の教父の言葉と照校された第二世紀の二六人の古いラテン語訳(イタリック体[:イタラ訳??])、バルゲート訳、ニ四のアンシアル体ギリシャ語、いくつかの草書体、シリヤ後、エジプト語、およびステフ[ァ]ナス(西暦一五五〇年[:公認本文??!T.R.??])から一八八一年のウェストコット・アンド・ホートに至るまでのすべてのギリシャ語の聖句を比較することによって改正された他の古い聖書訳、ウィックリッフ(一四世紀)から一八八三年のアメリカン・バプテスト聖書、実際的な訳を提出した英語および外国語のあらゆる注釈書。ーロンドン、グラト・リチャーズ、四八、レイセスター・スクエア、一九〇四年。

*一五八頁のヨハネ伝一章一節に関するこの批評的的注釈は次のように述べて「『神の』がほんとうの訳であることを信じてよい三つの明確な理由がある。その一つは、その注釈に述べられている通り、写本である。第二は論理なぜなら、もしその福音伝道者が、『神であった』という意味で言ったなら、次の節はあり得なかったから。第三は、この本の文法上の構造である。『神であった』とするためには、彼は、ho l’ogos[考えうる限りの修正??!修正前:hoi’ogos…] ’en the’os としはしなかったであろうか。そのほうがよほど雅一致があったに違いない。しかし、kai theou ’en ho l’ogosとなっておれば theou は文章の正しい場所にある。私は、故ウェストコット主教の特別の願いにより、このくだりの聖句を訂正するのをさしひかえた」。ギリシャ語 theou は、「神の」という意味。

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62 「初期キリスト教教父の福音」という本は、ヨハネ伝一章一節の真実の訳はおそらくどのようだと述べていますか。

63 ギリシャ語原文のヨハネ伝一章一節の言いまわしは、言葉が何であったかについて、なぜ翻訳者の意見をまちまちにさせてしまうのですか。

のわけは、「神」というギリシャ語は、述語に属するべきであるのに、文章のはじめにあり、またその(言葉の)まえに「その」という定冠詞がないからです。ヨハネ伝一章一、二節を言葉順に文字通り訳すと次のようです、「はじめにその言葉があった。そしてその言葉はその神と共にあった。神はその言[:葉]であった。これははじめ、その神とともにあった」。

 64 二番目の「」のまえに「その」という定冠詞が省略されているのに気をつけて下さい。この省略についてモウレ教授は「セオス・エン・ホ・ロゴスに冠詞の省略されていることは、慣用語法に過ぎないのではないか」と述べています。それから、次の節でモウレ教授は次のように言っています、

 一方、次のことを認めることは必要である、すなわち四番目の福音伝道者[ヨハネ]はこの言葉の配列を選ぶ必要がなかったことである。しかし、彼がこの言葉の配列を選んだことは、少々あいまいな意味をつくり出すが、それ自体彼の意味を示すものであろう。そして、[主教]ウェスコットのノート(イン・ロック)は、慣用句にいくつかの慣用句を付け加えることを必要とするかも知れぬが、おそらく筆者の神学的な意図を、今でも表わしている、『それはその言葉の性質を述べており、彼の位格を示していないゆえ、当然冠詞なしでなければならぬ(ホ・セオスでなくセオス)「その言[:葉]はホ・セオスであった」

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64 主教ウエストコットは、モウレ教授によって引用されているとおり、定冠詞「その」がまえについていない「神」という言葉は何を説明すると言いましたか。

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という言葉は、純粋なサベリ主義である。その表現形式によれば、性質の劣っているという考えは、すこしも示されていない。そのことは、その言葉が真実に神[表現註:god]であることを証明しているに過ぎない。五章二十七節にキリストが真実に人間であることを示す逆の言葉と比較しなさい。(ホチ・フィオス・アンスロポウ・エスチン*……)

 65 クリスチャン聖書の有名なウエストコットとホート・ギリシャ語写本の共同作者、故ウエストコット卿は、「キリストが真実に人間である」と語っていながら、イエス・キリストが「真実の人間」でなく、まぜ合わされた者、すなわち人間であると論じています。しかし、ギリシャ語セ・オ・ス・の前の定冠詞そ・の・が省略されていることは、セ・オ・ス・という言葉を、言葉の位格を示すよりも、「言葉の性質を述べる」形容詞のようにすると同主教が言っているのに気をつけて下さい。このわけで、ある訳者は「そして言葉は神性であった」と訳しているのです。それは、言葉が神であって、神と同じであると言うこととはちがいます。一文法家は、「そしてその言葉は神格者であった」と訳し、その言葉が神の全部でないという見解を述べています¥。三位一体論者によると、その

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*ケンブリッジ大学神学部レディ・マーガレットの教授シー・エフ・ディ・モウレ著「ギリシャ語新約聖書の熟語集」一一六頁より引用。

¥「クリスチャン・ギリシャ語新世訳」(英文)付録、七七四ページ、一九五〇年版、一、二節を見て下さい。

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65 主教ウエストコットの言ったことを考えにおいて、いく人かの翻訳者たちは、ヨハネ伝一章一節をどのように訳しましたか。そして、その訳は、言葉を何であるように描写しますか。

言葉は神の三分の一に過ぎず、三者一体の神の中の同等の第三の位格でした。しかし、ヨハネの書いたもの全部を考慮した結果、そのような教えが偽りであることは証明されました。三位一体論者でさえも、その教えを理解することができず、説明することができません。その言葉は神の子であって、神の第二位ではありません。

 66 シー・シー・トレイの書いた「四つの福音書」(英文)は、(定冠詞)ホ・のあるセ・オ・ス・とホ・のないセ・オ・ス・のあいだの相違を示し、その翻訳を次のように印刷しています、「そしてその言[葉]は神と共にいて、その言葉は神[:god]であった」。(一九四七年の再版)

 67 一八六四年、ベンジャミン・ウィルソン著の「ジ・エンハチック・ダイアグロット」訳は、翻訳を次のように印刷することにより、その相違を示しています、「そして、ロゴスは神と共にいた。そしてロゴスは神[:god]であった」。

 68 そのように印刷された翻訳でさえ、人間になる前の天界で神と共に存在した言葉は、神のごとき性質を持っていたが、神ではなく、また神の一部でないことを示しています。その言葉は神の子でした。知ると、次の疑問が起きます。すなわち、天にいた神の子たちの中で、まず第一にこの敬虔な性質を持っていたそのような神の子を、私たちは何と呼びますか。私たちは、ユダヤ人たちに語ったイエス・キリストの言葉を思い出します。すなわち詩篇八十二編一ー六節で、神の言葉が伝えられた人間の裁き人たちは「神」と呼ばれたのです。-ヨハネ、一〇ノ三四ー三六。

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66, 67(イ)トレイの翻訳は、ヨハネ伝一章一節をどのように印刷していますか。(ロ)「エンハチック・ダイアグロット」はどのように印刷していますか。

68 (イ)そのように印刷された翻訳は、言葉について何を示しますか。(ロ)それでどんな質問が生じますか。