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[研究記事]

   上なる権威に服従ーなぜ?編集

      「すべての人は上なる権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威は、神により比較的な地位に立てられたものである」。ーロマ、13:1, 新世。

 1 西暦前二年、ヤコブの子ヨセフと、妊娠していた彼の妻、ヘリの娘マリヤは、ローマ皇帝カイザル・アウグストの勅令に従いました。彼らはユダヤの故郷の町で登録し、マリヤの息子、イエス・キリストはベツレヘムで生まれました。これはイエスの天の御父エホバ神の御心に従うことであり、エホバ神は、七世紀も前に預言者ミカを通して、その地における御子の誕生を予(あらかじ)めに告げられました。(ミカ五ノニ。マタイ、一ノ一、一六、一八。ルカ、ニノ一ー七。三ノ二三)パレスチナのユダヤ人たちは、エホバ神が預言者モーセを通して与えた十のいましめや、他の法律に従っていましたが。その面において政治的な権力に服従することは、神の御心と目的に反するものではありませんでした。

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1 ヨセフとマリヤがこの世の政治権力に従ったことは、神の御心と預言に一致するどんな結果になりましたか。

 2 ユダヤ人たちは神のすぐれた律法下にいました。しかし、彼らはユダヤとガリラヤの地を支配して、秩序を保ち税金や貢を集めていた帝国政府の法律に服従することが必要でした。イエス・キリストは、この服従に関する完全な規則を一群れのユダヤ人たちに語りました。彼らの中のある者は、ローマ帝国を支配し、他の者はローマ帝国に反対していたのです。イエスは、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と彼らに言いました。(マタイ、ニニノ一五ー二二、新口)ローマ帝国を支持していたユダヤ人も、ローマ帝国に反対したユダヤ人も、この規則[:今で言う、原則] に欠点を見出すことができませんでした。

 3 ローマ帝国の皇帝たちは、その帝国と共にずっと以前に滅びました。しかし、十九世紀前にイエスの語ったその言葉の中でカイザルと表わされているものは、今でも残っています。それは単なる帝国主義とか植民地主義ではなく、この世の政治的な政府です。これは一九一四年以来でも真実です。イエスがこの世の組織制度の終りについての預言の中であらかじめに告げたごとく、異邦人の時すなわち「諸国民の定められた時」はこの時に終わりました。(ルカ、二一ノ五ー七、二四)それで、イエスの述

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2 ユダヤ人はどんな二組の法律の調整を図らなければなりませんでしたか。 イエスはそのためのどんな完全な規則[:原則]を述べましたか。

3 一九一四年の持つ意味にもかかわらず、クリスチャンがこの完全な規則に今でも従うのはなぜですか。

べた指導的な規則[:原則] は、今日でも尊重され、守らねばなりません。特にエホバの証者のように献身して洗礼[:バプテスマ:浸礼]を受けたクリスチャンはそうするべきです。諸国家は今でも存在しています。そして、一九一四年以来地上の全国民はエホバ神によってさばかれています。神に対して羊のような性質を持つ人々は、カイザルのものはカイザルに、神のものをみな神の返す、という規則に従うでしょう。クリスチャンの使徒でもあったパウロとペテロは、この規則[:原則]に従い、その規則を支持する言葉を書きました。」--マタイ、二五ノ三一-四〇。

 4 五六年頃、パウロはローマ帝国内の首都にあるクリスチャン会衆に手紙を送りました。彼はその手紙の十三章の中で、この問題を特に取りあげました。これはいわゆるキリスト教国が(四世紀に)存在するようになった二百年以上も前のことでした。神権により「神のめぐみによって」支配すると主張した自称クリスチャンの王が現われる以前に、パウロは異教のローマ帝国の只中で、書きました。それで、パウロはローマにいたクリスチャンたちに、手紙を書送りましたが、それはキリスト教国の政治的な支配者に関するものではなく、カイザルとか彼の長官あるいは各国々の王のような異教の

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4 (イ)何時そしてだれに宛てて、パウロはこの論争に関し書き送りましたか。 したがってどの支配者のことを言っていますか。 (ロ)この手紙を受け取った人々は、パウロの述べたことを理解しましたか。 今日のクリスチャンはどうですか。

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支配者に関するものでした。特にローマにいたクリスチャンたちは、次の質問について明白な見解を持つことが必要でした。すなわち、この世の支配者たちはクリスチャンではなくエホバ神に献身していないが、それでもクリスチャンは、国を支配しているそれらの支配者たち、およびパレスチナの国やエルサレムの町を支配している支配者たちに、何かを負っていますか。ローマの会衆は、キリスト教のために、この論争点に関し明白な認識を持ち、啓発された良心に従って行動することが必要でした。彼らに宛てた手紙の中で、パウロはその事柄を思慮深く取りあげました。彼ははっきり述べたので、彼らは彼の書いたことを理解しました。しかし、それから十九世紀後の今日、パウロの意味した事柄については論争が行なわれています。分割されたドイツ内の宗教的な出来事により、それは、最近、世界の注目を集めるに至りました。*

 5 パウロは、「ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ」書きました。彼はクリスチャン会衆のために手紙を書きました。(ロマ、

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*一九六〇年英国で初版発行、クリントン・モリソン氏の「ザ・パワーズ・ザット・ビー」またリチャード・ソルバーグ著「東ドイツにおける神とカイザル」(一九六一年発行)を見なさい。一九六〇年八月八日号「目ざめよ!」(英文)、一二ー一五頁を見なさい。

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5, 6 (イ)パウロは誰の益を図って、ロマ書十三章一ー七節を書きましたか。 しかしこれに関してどんな質問が出ますか。 (ロ)正しい答えを得る手がかりはどこにありますか。 それでいま何をしますか。

一ノ七新口)しかし、彼がこの手紙の中で論じている全部は、会衆内のことではありません。パウロがロマ書十三章一ー七節で書いた事柄は、会衆内のものですか、あるいは会衆外のものですか。これが今日の大問題です。第一に、十三章以前の各節によって、このことを決定する手がかりが得られます。パウロは、彼の書いた手紙を節と章に分けなかったということを忘れるべきではないでしょう。パウロは、現代にある本のように、つまり現代の形式の聖書としてそれを書いたのではなく、手紙として書きました。彼が現在の十三章一ー七節と選考の部分とを分けたという証拠はありません。それで、紹介的な文脈を正しく理解するため、いま十二章十七節から十三章七節までつづけて読みましょう。それは次の通りです。

 6 「だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ、自分で復讐しないで、むしろ神の怒りに任せなさい。なぜなら、『エホバが言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する』と書いてあるからである。しかし、『もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである』。悪に負けてはいけない。かえって、善でもって悪に勝ちなさい。すべての人は上なる権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威は、神によるり比較的な地位に立てられたものである。したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむくものである。そむく者は、自分の身にさばきを招くことになる。いったい、支配者たちは、善事をする者には恐怖でなく、悪事をする者にこそ恐怖である。あなたは権威を恐れないことを願うのか。それでは善事をするがよい。そうすれば、それからはほめられるであろう。それは、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。それはいたずらに剣を帯びているのではない。それは神の僕であって、悪事を行なう者に対しては、怒りをもって報復するからである。だから、ただ怒りをのがれるためだけでなく、良心のためにも従うべきである。あなたが貢を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神の公共の僕として、もっぱらこの務めに携わっているのである。あなた方は彼らすべてに対して、義務を果たしなさい。すなわち、税を納むべきものには税を納め、貢を納むべきものには貢を納め、恐れるべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい」。

 7 前述の聖句から次のことは明白です。すなわち十二章最後の五節でパウロは、クリスチャン会衆外の人々、「すべての人」の中におけ

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7 序論の部分から見て、「上なる権威」は当然にどんな背景を持つものですか。

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る神の聖徒たちの振舞について告げています。「すべての人」の中には、クリスチャンに悪を行なう敵をも含まれています。したがって、会衆外の人です。そのすぐ後のところで、パウロは「上なる権威」について論じて、会衆内に注意を向けず、会衆外に注意を向けています。それで、論理的に言っても、「上なる権威」は、会衆外のこの世の中にあるものです。*私たちは、クリスチャン会衆外に権威があるという事実に目を閉じることが決してできません。

 8 会衆はローマにありましたが、パウロはその手紙をラテン語で書かず、ギリシャ語で書きました。パウロが「権威」という言葉のために用いたギリシャ語は、「エクスオウシア」[:個人注:新約に於いて:ストロング・コンコーダンス・ナンバー:1849:グッドリック・ナンバー:2026,INV,authority[54],power[11],right[9],authorities[8],untranslated[2],authority-over[2],charge[2],control[2],ability[1]disposal[1],dominion[1],exercise-of-freedom[1],in-charge[1],jurisdiction[1],kingdom[1],must[+2400][1],on-authority[+3284][1],reigns[1],sign-of-authority[1],:έξουσια:文語訳:(1)権威、計約70回(2)権、計約18回(3)ちから(能力、力、権力)計約6回、および(4雑)支配、掌(つかさ)どる、計約7回:黒崎幸吉-新約ー希=和-索引]でした。ヘブル語聖書の昔のギリシャ語「七十人訳」を読んでいた人々は、そのエクスオウシアという言葉が異教の支配あるいは統治に適用することを良く知っていました。(ダニエル書七ノ六、一四、一七。一一ノ五を見なさい)サタン悪魔でさえも権威を主張しました。サタン悪魔は世界の支配と統治でもって、イエス・キリストを誘惑しようとつとめたとき、次のように言いました、「これらの国々の権威[エクスオ

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* シー・ティー・ラッセル著「世々にわたる神の経綸」(1886年発行)、250頁(一節)、266頁(一、二節)。また「時は近し」(1889年)81頁を見なさい。

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8 (イ)パウロの使った「権威」という言葉の原語は何でしたか。 この言葉はだれを指して用いられていますか。 (ロ)サタン悪魔とカペナウムのローマの百卒長は、この言葉をどのように使いましたか。

ウシア]と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから」。しかし、イエスは神の大敵対者と取引して、この世の権威を得ることを拒絶しました。(ルカ、四ノ六-八、新口)後日、カペナウムにいたローマの百卒長は、従僕をいやしてもらいたいとイエスに願ったとき、ロマ書十三章一節に出てくる言葉を用いて、次のように語りました、「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にあるものですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきます」。ーマタイ、八ノ五ー九、新口。ルカ、七ノ八。

      この世の権威

 9 イエスは、キリスト教の敵のもたらす迫害について弟子たちに前もって告げたとき、次のように語りました、「あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられていった場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい」。(ルカ、十二ノ一一、新口)ユダヤ人の宗教指導者たちは、義人ぶった人々をイエスのところにつかわして、話をさせました。その目的は「イエスを総督の支配と権威とに引き渡すため、その言葉じりを捕らえさせようとした」とルカ伝二十章二十節(新口)は述べていま

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9 イエスとその敵は、世の権威を指してこの言葉をどのように使いましたか。

す。イエスはゲッセマネの庭で捕われるために身を渡したとき、敵共にこう言いました、「今は汝らの時、また暗黒の権威なり」(ルカ、二二ノ五三、新口。コロサイ、一ノ三)総督ポンテオ・ピラトは、イエスに対して何をしましたか。「ヘロデの支配[エクスオウシア]下のものであることを確かめたので、……そちらへイエスを送りとどけた』。(ルカ、二三ノ七、新口)この世の総督たちの権威ということに関連して、イエスはかつて使徒たちにこう語っていました、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また権威を持っている者たちは恩人と呼ばれる。しかし、あなたがたはそうであってはならない」。(ルカ、二二ノ二五、二六、新世)そして私たちの時代の出来事を前もって告げる聖書の最後の本は、十人の象徴的な王について語り、次のように述べています、「彼らは、……獣とともに、一時だけ王としての権威を受ける。彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権威とを獣に与える」。(黙示、一七ノ一二、一三、新口)それで、これらのものはみなこの世の「権威」です。

 10 しかし、ある人は次のような反対論を唱えるかも知れません、すなわちロマ書十三章一節でパウロは権威を「上なる」と呼んでいるから、それらの権威はこの世のものでないというのです。神よりも「上なる」権威があるでしょう

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10 これらの「権威」には「上なる」という形容詞がつけられているため、この世よりも上にあるものですか。 この質問の答えを決めるものは何ですか。

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か。ありません。しかし、それらの権威は「上なる」ものであっても、神に従うとパウロは述べています。「神によらない権威はなく、存在している権威は、[だれに?]神により比較的な地位に立てられたものである」。もし神が、神と比較的な立場にその権威を置くなら、そのような「上なる権威」は、最高者である神に従わねばなりません。(ルカ、六ノ三五。使行、七ノ四八。ヘブル、七ノ一)パウロの用いたギリシャ語の動詞分子によると、「上なる」という言葉は、「占有すること、高いこと(あるいは良いこと)抜きんでること、他のものよりすぐれること」[:ストロング・コンコーダンス・ナンバー:5242:グッドリック・ナンバー:5660:ύπερεχω:フゅペレこー:文語訳:上にある、勝れり、優れたる、すぐる、上に在る、全計五回。黒崎、新約索引]という意味です。それは必らずしも最高という意味ではありません。このギリシャ語の動詞の他の使用にも気をつけてみましょう。

 11 テモテ前書二章一、二節で、パウロはあらゆる人に関する祈りについて論じたとき、祈りは「すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために……ささげなさい」と述べています。「上に立っている」という言葉は、ギリシャ語の名詞ヒぺロクヘ[:ύπεροχη:ストロング・コンコーダンス・ナンバー:5247:グッドリック・ナンバー:5667[\/5642+2400]:フゅペロけー:(雑)優れたる(コリン前2:1)、権を有(も)つもの(テモテ前2:2(全計2))、全計二回、文語訳:黒崎、]を訳したもので、それはパウロがロマ書十三章一節で用いられている動詞の分子ヒピロクヘインから来ている名詞です。ペテロは同じギリシャ語の動詞をペテロ前書二章十五節で用いて、王を「主権者」

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11 テモテ前書二章一、二節、ペテロ前書二章十三節およびピリピ書二章三節において、ギリシャ語の同じ動詞は、どのように使われていますか。

と述べています。また、ピリ[ピ:欠損??!]書二章三節(新口)で、使徒パウロは会衆内のクリスチャンにどのように互いを尊敬すべきかを告げています。「へりくだった心をもって互いに人を自分よりすぐれた者としなさい」。これはもちろん、エホバ神のような最高者にするわけではありません。

     だれに対して「上なる」ものか

 12 クリスチャンはこの世のものではありません。しかし、クリスチャンの住むこの外部の世には、真のクリスチャンよりも高い地位や権威を持つ人々がいます。このことは政府に見られます。なぜならエホバの証者のように真実に献身しているクリスチャンたちは、政治に介入せず、政治の要職につこうとしないからです。しかし、彼らはエホバ神が地上の最高の者よりも高いという趣旨の伝道之書五章八節(新口)の言葉をおぼえています。「あなたは国のうちに貧しい者をしえたげ、公道と正義を曲げることのあるのを見ても、そのことを怪しんではならない。それは位の高い人よりも、さらに高い者があって、その人をうかがうからである。そしてそれらよりも高い者がある」。

 13 クリスチャンたちはこの世の政府との交渉を避けることができません。それで、パウロは

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12 外部の世の中には、クリスチャンはよりも位の高い人々がいますか。 クリスチャンはこの点に関して何を覚えていなければなりませんか。

13 なぜ「すべての人」は従うべきですか。 これが天使に当てはまらないことは、どうして分かりますか。

ローマにいるクリスチャンたちにこう述べています。「すべての人は上なる権威に従うべきである」。彼らが魂なること、および魂としての彼らの生命が関係していると、パウロは彼らに思いおこさせています。会衆のすべての魂、すべての人は、服従をしなければなりません。例外の人はひとりもいません。パウロの生涯から、彼自身も例外でなかったことが証明されます。しかし、クリスチャンの服従は、どの程度までのものですか。極限までですか。決してそうではありません。ロマ書十三章一節が、神と栄化された御子イエス・キリストだけに従っている天の御使たちにあてて述べられていないことを記憶して下さい。(ヘブル、一ノ五、六。ペテロ前、三ノ二一二二)むかし、天の御使たちは人間の政府に対して戦いました。そして、将来の「全能の神の大いなる日の戦争」の時に人間政府と戦うでしょう。(黙示、一六ノ一四ー一六。一九ノ一四ー二〇)ロマ書十三章一節は天の御使いたちに宛(あ)てられたものでなく、この地上にいるクリスチャンたちにあてられたものです。この地上には、この世の組織制度の政治的な政府がいまでも存在しているのです。

 14 この地上には、神の書かれた言葉に従いクリスチャンたちが従わねばならぬ、限定された服従の範囲はたくさんあります。ナザレにいた少年イエスでさえも彼の地的な監督者ヨセフ

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14 限られた範囲において、 クリスチャンの守るべき服従にはどんなものがありますか。

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とマリヤに「お仕えになった」。(ルカ、ニノ五一、五二、新口。ガラテヤ、四ノ一ー五)それで、テモテ前書三章四節、エペソ書六章一ー四節では、子供たちがクリスチャンの両親に従うことが命ぜられ、若いクリスチャンたちは古い者に従い(ペテロ前、五ノ五)奴隷または僕は所有者すなわち主人に従い(テトス、二ノ九。ペテロ前、二ノ一八。エペソ、六ノ五ー八)妻は夫に(コロサイ、三ノ一八。テトス、二ノ五、ペテロ前、三ノ一、五。エペソ、五ノニニーニ四)婦人は会衆内の兄弟たちに(コリント前、一四ノ三三、三四)そして会衆の成員は、彼らに忠実に仕える兄弟たちに従うことが命ぜられています。(コリント前、一六ノ一六)この全部は比較的な服従の例であって、制限つきのものです。私たちはあらゆることにもまして、ヤコブ書四章七節(新口)のクリスチャンに対するいましめを行なわなければなりません。「そういうわけだから、神に従いなさい。そして悪魔に立ちむかいなさい、そうすれば、彼はあなたから逃げ去るであろう」。

 15 同じく、クリスチャンがこのふるい世の「上なる権威」に対する服従は、比較的なものに過ぎません。それは神と良心を度外視しないからです。たとえば、各人が服従しなければならぬひとつの理由として、「神によらない権威はない」と使徒パウロは述べています。

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15 したがって「上なる権威」に対する服従はどんな種類のものですか。 そしてなぜ?

        神の許しによる

 16 サタン悪魔の持つ力は、もともと神から来たものです。しかし、私たちは一瞬といえども悪魔に従うべきでなく、彼に反対しなければなりません。悪魔は、この古い世を支配する目に見えぬ権威を持つことをゆるされました。さもなければ、彼がイエスを誘惑して罪を犯させようとしたとき、イエスに全世界的な権威を提供することができなかったでしょう。権力と権威を持つ人は、それを他の人に渡すことも、その一部を与えることもできます。「大いなる龍(たつ)」サタンは、彼の目に見える制度にそのことをしました。黙示録、十三章一、二節(新口)は、この制度を獣と示して、次のように述べています、「龍は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた」。

 17 もちろん、このすべてには神の許しが必要でした。その結果、今日存在している政府や支配形態ができました。しかしサタン悪魔は、クリスチャンが服従しなければならぬ目に見える、地的な人間の政府、すなわち「上なる権威」に服従するとき、彼らはサタン悪魔なる龍に従っていません。彼らは神の命令に従っているのです。 

 18 ノアの日の洪水の前から今にいたるまで、

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16 サタン悪魔はどうして権威を持っているのですか。 サタンはそれをどうしましたか。

17 クリスチャンは政治政府に従うとき、 サタンに従うことになりますか。どこに違いがありますか。

神の許しがあったからこそ、龍なるサタンは、権力と権威を行使してきました。アダムとエバが罪を犯した後、エデンの園で神がサタンに向かって告げた言葉のゆえに、神はサタンを滅ぼすことをさしひかえました。神はこう言われました、「わたしは恨みをおく、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、彼はお前のかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。ー創世、三ノ一五、新口。

 19 エホバ神かサタン悪魔かそのどちらが宇宙の主権を持つか、という新しく起きた論争を解決するために、時間と自由の活動を悪魔に許すことが必要でした。また、神の「女」のすえ、あるいは子孫がこの論争の中に介入したため、神は次の点を証明することが必要でした。すなわちサタン悪魔の圧迫を受けて最初の人間は罪に堕落したが、エホバ神は悪魔の世の只中で、神に忠実を保つすえ、すなわち子孫をこの地に置くことができるという点です。このすえが地的な「上なる権威」に従っても、このすえなる子孫が神への忠節を守らないとか、神への忠実を破るということにはなりません。

 20 忠実を保つ敬虔な人々に対して、サタンが力を用いることは神により許されています。そ

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18, 19(イ)神はどんな目的を述べたゆえに、サタンを滅ぼすことをさし控えられましたか。 (ロ)約束の「裔[すえ]」に関して、神は何を証明することが必要でしたか。

20 ウヅの地のヨブの例は何を示していますか。ヨブによって何は予影されましたか。

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のことは、ウヅの地にいた忍耐強いヨブの場合に示されています。エホバ神はサタン悪魔の挑戦を受けたとき、忠実なヨブについて次のように語りました、「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。失敗したサタンが、ふたたび神に挑戦したとき、神はヨブについて次のように語りました、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。呼ぶは、サタン悪魔が偽り者であるとふたたび証明しました。これにより、サタンが神の「女」のすえなる子孫に対して、その力を用いることが許されても、完全に失敗することは前もって示されました。」ーヨブ、一ノ一二。二ノ六、新口。

 21 目に見える人間の「上なる権威」についても、サタンの場合と同じことが言えます。これらの「上なる権威」は、中に含まれている論争のゆえに神からゆるされないかぎり、権威を行使できません。したがって、神の「女」のすえの主要なもの、すなわちイエス・キリストが、ユダヤ地的な上なる権威、ローマ総督ポンテオ・ピラトの前に立ったとき、イエスはひじょうに啓発的な言葉を述べました。イエスはそのとき、人間としての彼の生死が決められるさばきにかけられていました。

 22 イエスが、彼の天的な起源についてローマ

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21, 22(イ)したがって「上なる権威」がその権威を行使できたのは、どうしてですか。 (ロ)イエスはローマの総督に対し、 この点をどのように明白にしましたか。

総督に告げることを拒否したとき、「ピラトは彼に言った、『何も答えないのか。わたしにはあなたを釈放する権威があり、また杙[:くい]につける権威があることを知らないのか』。イエスは答えられた、『あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対して何の権威もない』」。(ヨハネ、一九ノ九ー一一、新世)ピラトは、神からのゆるしがあったからこそ、イエスに対して地的な権威を行使し、彼を殺すことができました。

 23 同じことは他の政治的な「上なる権威」全部についても言えます。彼らは神の「女」のすえなる子孫の他の忠実な者たちに対して反抗します。たとえば、今日、彼らは「そのすえの残れる者」に対して反抗します。(黙示、一二ノ一三、一七)それで、ロマ書十三章一節のパウロの言葉は、これらの「上なる権威」の持っているゆるされた権威を指すのです。この事実と一致するものとして、聖書のアメリカ訳は、ロマ書十三章一節を次のように訳しています、「すべての人は上に立つ権威に従わなければならぬ。神のゆるしなしに存在できる権威はない」。

 24 不完全で罪深い人間の支配者が、このゆるされた権威をどのように使用しようと、それは、神の忠実な民に永久の害になることはない

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23 ゆえに女の裔の他の成員に対する攻撃の場合、何が真実ですか。 アメリカ訳のロマ書十三章一節はこの事実とどのように一致していますか。

24 このような許された権威は、神の民に害となりますか。 権威は神権によるものですか。

でしょう。かえって、それは神の忠実な民の永久の益になるでしょう。神は権威を持つ人間が、権威をどのように用いるかを見守っています。神の書かれた御言葉の示すように、神はその良い使用と悪い使用を御存じです。それで、そのような使用は、神のゆるしによるのであり、「上なる権威」が「神権」[に??]よって支配するからではありません。

      立てられた、「存在している権威」

 25 ロマ書十三章一節は、神によってゆるされているという考えについて、さらに次のように述べています、「存在している権威は、神により比較的な地位に立てられたものである」。パウロがここで用いたギリシャ語の動詞タ・ッ・ソ・[:新約ギリシャ語:ストロング・コンコーダンス・ナンバー:5021:グッドリック・ナンバー:5435,NIV,appointed[2],untranslated[1],arranged[1],assigned[1],devoted[1],established[1],told[1],:τασσω:黒崎版(1)定む、定まる、計4回(2雑)命じ、置かるる、立てらる、委ね…計4回、全部で、計8回]は、「秩序立てる、特定な条件に定める」という意味です。ルカ伝七章八節では、それは他の人の命令に服するという意味を持っています。それは事柄の配列ということに言及します。(マタイ、ニ八ノ一六。使行、ニ八ノ二三。一五ノニ)ロマ書十三章一節は、存在している権威が神によって創・造・さ・れ・て・たっていると述べていないことに気をつけねばなりません。神はそれらのものの創造者ではありません。神はそれらのものが存在するようになることを許し、またそのことを先見さえしました。また、それらのものの存在をゆるすことをさだめたので、その来ることを預言されたのです。神は地上にある

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25 「存在している権威」は、どのように立っていますか。

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これらの「上なる権威」と、彼の「女」のすえなる子孫との関係をいつも留意していました。

…………

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………

 38 クリスチャンはそれぞれの政府や法律の制度を持つ異邦人の「上なる権威」に服従するとき、神が人間の心に最初書いたとおりの良心のわざを示すそれらの律法に従います。クリスチャンがこの世の「上なる権威」に服従することは、比較的なものに過ぎません。それで、彼らには最高の法律を与え主、エホバ神の律法に反するこの世の法律に従う義務はすこしもないのです。異邦人の時の期間中、預言者ダニエルは、エホバに毎日定期的に祈ることを禁じたメデヤーペルシャ人の法律に従いませんでした。ダニエルが獅子の洞穴から奇跡的に救い出されたことは、彼の行いの正しいことを証明しました。ダニエルは神の律法を破ってまでもダリヨス王に従わなかったのです。ーダニエル、六ノ一ー二三。

 39 ダニエルの三人のヘブル人の友は、バビロンに捕らわれていましたが、金の偶像の前で拝(おが)むことを要求した皇帝の法律に従いませんでし

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38, 39 (イ)クリスチャンは服従するとき、「上なる権威」の法律に関して何をしますか。 (ロ)メデアーペルシャの法律下にいたダニエルと、ネブカデネザル王の下にいた三人の友の例は、服従に関して何を示していますか。 今日のクリスチャンは神に対して不法を行う者でないことを、どのように示しますか。

た。ひじょうに熱い炉から彼らが火傷(やけど)も受けず、死なずに出て来たことは、良心的な彼らが皇帝の命令に従わず、偶像崇拝を禁ずる最高の神の律法を破らなかったことの正しさを証明しました。(ダニエル、三ノ一ー三〇)今日のエホバの証者は、昔のエホバの証者と同じく、神の律法に反する人間の法律に従いません。彼らは神に対して不法の者ではありません。それで、彼らは神の律法に反しない異邦人の「上なる権威」の法律全部に従います。かくして、彼らは法律を守る市民として服従するのです。

 40 聖書の歴史を調べるとき、また異邦人の諸国民の中に成就された聖書の預言を研究するとき、次のように述べたロマ書十三章一節(新世)の正しいことが分かります、「存在している権威は、神により比較的な地位に立てられたのである」最高者なるエホバは、この世の諸国家やその「上なる権威」の神ではありませんが、しかしそれらを支配しています。エホバはそれらを比較的な立場に置き、それらが世界強国となることを定めても、それらがご自身よりも、あるいはキリストよりも高くなるように取決めませんでした。しかし、それらの権威は、地上において比較的な優越性を持っていますか。そうです。クリスチャンたちに対しても、持っています。彼らは真のクリスチャンも持たない

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40 (イ)神によって立てられたものならば、「存在している権威」は神御自身との関係においてどんな地位に立っていますか。 (ロ)これらの権威は地上において優越性を持っていますか。 なぜクリスチャンはそれに従うことがどうしても必要ですか。

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権威の行使を許されています。どうしてそうですか。すなわち、そのようなクリスチャンたちは政治に加わらず、皇帝、王、長官、市長、その他になってこの世の権威を求めません。現在存在しているこれらの権威は、間もなくハルマゲドンで滅ぼされるこの世の一部です。クリスチャンは滅亡に定められているその世の一部ではありません。しかし、神のゆるしにより権威が存在するかぎり、クリスチャンは比較的な程度において服従しなければなりません。*

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* 「シオンのものみの塔」、一八八二年六月号五頁。また「ものみの塔」、一九一四年五月十五日号、一五八、一五九頁を見なさい。


[別の研究記事] 

    権威に従うことの益編集

…………

[723]

…………

 6 キリスト教国内の宗教制度は、神の取決めに逆らいました。どのように?許されている権威に従うよりも、その権威に逆らっているのです。どのように?彼らは政治に介入して、国家の首位を占め、国家を支配しようとしているのです。

 7上は法王から下々の者にいたるまでローマ・カトリック信徒は「上なる権威」、あるいは「高い権力」(ドーエイ訳、欽定訳)よりも、地上で高いものになろうとつとめました。歴史を読む人は、だれでもそのことを知っています。ローマ・カトリック信徒は真のクリスチャンのように、政治的な「上なる権威」に従おうとせず、むしろその権力を牛耳ろうとしました。幾世紀もの間、ローマ・カトリック教会[:個人注解:匿名の一人のも告発で、異端審問も??!あいつは異端らしいとか、魔女裁判とか、ドイツから人がいなくなるとか??!ヴォードワも??!ワルド派でも??!「ドイツではカタリ派が少なかったためもあり、ワルド派での殉教者も犠牲者になる者も多く、……」とかとか??!キリスト教史:山川出版社の??!「その不死鳥のような信仰は中世紀の諸異端史の中でも特に異彩を放っている……彼らはそもそも異端では無かったのではあるまいか…」とかとか??!自分の言葉:カタリ派で物質は悪だと聖霊も冒瀆もされていたこともあり…そもそも善悪二元論は…ワルド派は、ダニエル12:3とか、マタイ伝13:43とか…成義された義人たちは、ローマ・カトリックの行為義認みたいに…決してプロテ…超正統主義異端、ルター異端の業が無くではなくとか?!シナジー行為(=「共働」も??!)を仕(し)続け…一生働き続け……ヱホバのためにも??!「味方している」、働き続ける積りで…とかとか?!自分のワルド派の信仰でもありとかとか??!「ルターの誤りと現代世界の精神」というインターネットの頁もあったとか??!背教していない、アリウス(アレイオス)派が「上位の権」すなわち国家政府ローマで言うカエサルの下に従ったとか?!東方(ギリシャ)正教の教会内に俗権を上回る左右する政治の風は無いとか??!ローマ教会は「カ・ト・リ・ッ・ク・(偶像崇拝??!)的・信・仰・?!」とか怖いことを言うから??!正(統的?!)教会は俗政権の下の侍女とか??!侍女にも成ら無くって!政治から解放されている!!とか!!再洗礼派の入(はい)り込んだ民間主義の長老派でとか!!ルーテル派領邦教会(侍女)とか、アールミニヤン(:エラストゥス主義=国(政)府権に友好な??!)、イギリス国教会は獣姦だとか?!ローマ教権聖庁からしても?!宗教庁を作ったが、ロマ書13章の規定があるので、宗教庁は「わたしたちを抜きにして…??!私たちも共に王として支配するため……」ローマ教会は使徒的(使徒たちは背教抑圧的??!カトリックって??!背教の権化の(偶像の…偶像って??!偶像-人間的??!を強調するのは悪い異端の二重予定説??!宗教、プロテス…カト…教会内ジャンセニスムとかで??!)で??!)??!教会??!使徒信経、アタナシウス信経は4-5世紀頃の南フランスの出自の??!]とキリスト教国の諸国家間の戦いはつづきました。彼らは、ある国々に教会法規を強制し、国家をして宗教的な異端者たちを処刑させました。彼らは

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6, 7(イ)キリスト教国の宗教組織は、どのように神のとりきめに逆らう罪を犯してきましたか。 (ロ)ローマ・カトリック教会は、 この点でどのように有罪ですか。そのどんな主張にもかかわらず、そうですか。

カトリックでない国々に対して反乱を起こし、教会の是認しない政府の顚覆(てんぷく)をはかりました。彼らは教会と国家を結婚させて結合させたのです。この結合において、彼らは、夫に従うという妻の役割を果たさず、むしろ夫のかしらの役割を果たそうとしうました。それでいながら、ローマ・カトリック教会はキリストの花嫁であり、パウロを通して与えられたロマ書十三章一、二節、およびペテロを通して与えられたペテロ前書二章十三ー十七、二十一ー二十四節にあるキリストの命令に従うと主張するのです。いま、ローマ・カトリック教会は当然のさばきを受けています。

 8 権威に逆らう者の受けるさばきは、キリストの千年統治中に受ける将来のさばきではありません。それは、いま世界で権力を持つ「権威」が執行するさばきです。パウロはさばきにク・リ・マ・[:新約ギリシャ語:κριμα:ストロング・コンコーダンス・ナンバー:2917:グッドリック…:3210,[/\/3212]:黒崎:(1)審判(さばき)、計約23回。(2)罪に定む、(含-ルカ 24:20)計3回。(3雑)、訴ふる(コリン一 6:7)、非難、審(さば)き、審判する権威、計4回。]という言葉を用いました。それは「さばきの日」という表現中に用いられている言葉ではありません。……それはいつの時でも行われるさばきであり、…ハルマゲドン後の将来のさばきの日におけるさばきに限定され

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8 ここでパウロの使っている「裁き」というギリシャ語は、どの言葉ですか。 この言葉が、来るべき裁きの日だけに限定されているかどうかは、どうしてわかりますか。

ていません。それで、ルカ伝二十四章二十節によると、ク・リ・マ・すなわち「死刑の宣告」が、ローマの長官によりイエスに執行されたと述べられているのです。そして、コリント前書六章七節は、ク・リ・マ・タ[:ストロング、ナンバー:2917:グッドリック…:have2400+3210:黒崎:……]を持つこと、すなわち互いに「さばき」合う、あるいは「訴訟し合う」ことを述べています。ーヤング訳、ロザハム訳、新世訳。

……

 10 そのような反対者や法律違反者が、国の「権威」によって正しく罰せられるのは当然で

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10 会衆は、その成員の中で法律を破る者に対して、どの程度まで処置をしますか。なぜですか。

す。クリスチャン会衆は、そのような者を保護せよという命令を神から受けておらず、またそうする権利もありません。私たちは法律を破る者を援助したり、保護したりすることにより、ク・リ・マ・すなわちさばきの執行を妨げたり、反対したりあるいは非難することができません。そうすれば、クリスチャン会衆を神の取り決めに反対させてしまいます。また、会衆は、神の民に非難をもたらす非行者にク・リ・マ・すなわち「さばき」が執行されるのを許すと共に、そのような法律違反者を排斥することができます。会衆は、法律の違反者に味方して協力し、この世の「権威」に反対するなら、法律の違反者と共にク・リ・マ・すなわち「さばき」を受けるでしょう。会衆はそれを望みません。会衆はまた非難を望みません。

     悪事をするものにとって恐怖

………

[726]

の御国の良いたよりを伝道して教える者は、恐れを持ちません。なぜなら、彼らは悪事を行なわず、最大の善を行なっているからです。しかし、ロマ書十三章三節(新口)が「善事をするがよい。そうすれば、それ(権威)からほめられるであろう」と述べるとき、それは御国の伝道に言及していません。それは、神の御国を伝道しない人々も従う国家の法律に従うことに言及しています。権威は、法律に従う人々や市民をほめることにより、良い秩序、礼節、および一般的な善行を促進します。ローマの長官フェスタスは、ヘロデ王アグリッパ二世に使徒パウロのことを話しかけたとき、彼をほめました。ー使行、二五ノニ四-二七。

 18 それでパウロは、神の御言葉の伝道に関して、権威をすこしも恐れませんでした。彼はアグリッパ王とフェスタス長官の前でよろこんで弁明しました。(使行、二六ノ一ー三。二五ノ八ー一一)今日、エホバのクリスチャン証者が民政官からほめられるのも珍しいことではありません。第二次大戦中、アメリカ合衆国の検事次長、フランシス・ビドルは、四十四のアメリカの州で誤導された熱狂的な、偏見を持つ人々の行動をしずめるために、エホバの証者に有利な発言をしました。*これは有益なことでした。

_______

* 一九六ニ年六月一日号「ものみの塔」の「神の目的とエホバの証者」を見なさい。

18 それではエホバの証者が文官の支配者からほめられるのは、意外なことですか。

…………

[733]

[別の副記事]

なぜ教会に行かないか編集

      多くの人々が教会に出席しないのにはそれ相当の理由があります。彼らはそれをこう説明します。

 キリスト教国の「クリスチャン兵士」の大軍隊は、いま何百万といって撤退しつつあります。スカンジナビア、米国、カナダ、アメリカおよび世界の他の場所から、憂うつな気分の牧師たちが、無断で欠席する教会員の著しい数を報告しています。アメリカだけでも三千万から四千万の教会員が、日曜礼拝に欠席しています。牧師たちは途方に暮れて、いったいどういうわけかと頭をかしげています。

 ある調査の示すところによると、教会に行かない人々には、もともと二つの種類があります。一つは、教会に一度も属したことがないために教会に行かないグループで、もう一つは教会に属していながら欠席するグループです。牧師は最初のグループを「外部の人々」と呼びます。後者は道に迷った羊と言われていますが、皮肉なこと

[734]

に、そう言われている人々の多くは、教会こそ迷える羊だと考えています。

 最近行なわれた調査によると、「外部の人々」が教会によりつかないのは、その必要を感じないからだということです。とはいっても、そのうちで無神論者は非常に少ないのです。教会にはいらなくても神に近づくことはできると彼らの多くは言います。多数の人は、どの特定の教理にもあてはまらない、自分独自の宗教哲学を持つことを好みます。酒を飲んではいけないとか、タバコを吸ってはいけない、ダンスをしてはいけないというような枝葉末節ばかり強調する説教に憤りを感ずるという人もあります。「外部の人々」は、教会員に見られる「われは汝よりも清し」という態度があまり好きではないのです。自分は天に行き、隣人は地獄に行くと決めているように外部の人々には思えるのです。またある「外部の人々」は、お金を倹約する意味で教会を避けます。三年にわたって行われた、統一長老教会の調査でこれだけのことがわかりました。そしてその調査の結果はすぐる二月十五日に公表されました。

 牧師はそれに対抗して、「外部の人々」は、教会[:地政的にツヴィングリの解釈のアメリカは改革派教会が多いんだと思うとか??!:社交場のような??!]の深い宗教的意義に気づいていないのだと主張するかも知れません。教会は、人と仲間づきあいをする機会と、倫理をちょっぴり加味した慰安を提供してくれる社会学上の機関くらいにしか彼らは見ていないというわけです。仮にそれが事実であるにしても、長年教会に通った何百万もの教会員が、いまになって日曜日に教会以外の所にいるのを好む理由の説明にはなりません。彼らは教会の「深い宗教的意義」をいつも教えられていたのに、なぜ教会に戻ってこないのでしょうか。

      彼らの言い分

……

 『私は……とても忙しいのです。それがいやだったのです。牧師も会衆も、募金とか、ボーイスカウトとかその他私たちの救いとは無関係の事柄にかまけすぎ、世俗の事柄が第一にされていたことは、日曜日の説教にもよく表われていました。

 『説教の種類は、火といおうの地獄から、緊張やストレスの克服の仕方に関する精神安定的な説教にいたるまで、極端から極端にわたっていました。成功とか心の安定」に重点を置いた説教が私には気にくわなかったのです。美徳を求めるよりも、精力………応用心理学も、私たちに神のことを教える者の口からいつも出てくると、誤用されているように思えます。私が自分の宗教について討論するのを避けたのは当然なのです。自分の宗教のことをあまりよく知らなかったのです………なんだか非常に変な気持ちがしました。

 『ある教会の宣教師は、私たちはひそかに入り込んだ仏教思想におかされているのだと言いましたが、それはほんとうでした。信じているかぎりどんな宗教でもよいという考えを徐々に持つようになっていたからです。その宣教師の言うところによると、仏教徒も同じことを言うそうです。つまりあらゆる宗教は、同じ目的地に通ずる異なった道にすぎないというわけですね。もしイエスが、私たちの教会で復活されて、「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない」ともう一度くりかえして言われたなら、イエスの復帰が歓迎されるかどうかは疑わしいものです。ーマタイ、七ノ一四

     戦争の君

 『イエスは、平和の君という称号を持っておられるので、私たちの教会はイエスにふさわしいものではありませんでした。イエスが好むと好まざるとにかかわらず、私たちの教会は彼を戦争の君に仕立てました。私たちのキリスト教は骨の髄まで国家主義でした。さいわいに私の教会が属していた政府は、いままでに戦ってきた戦争で、いつでも道徳的に正しい側にいました。少なくとも私たちはそう教えられました。しかし、敵の軍隊が、自分の教会も含めて、同じような教会の会員でなりたっていることを知って悩みました。ひとりの牧師は、戦争というものは、天の人口を満たすための神の手段であるといって私たちを安心させました。私はそのことは疑問に思っていましたが、しかし何百万という犠牲者が地からいなくなっていったことは疑う余地がありません。私たちの教会で、キリストが平和の君に戻るのは十二月二十五日だけでした。好戦的なキリスト教など私にとっては全く無意味です。

 『牧師は私たちが世の光であるべきことを一、二回思い出させてくれました。私たちは、自分の町を照らすほどの熱意ももっていなかったのです。実際のことをいうと、教理的な見地から見て、教会そのものの中がすでにうす暗い状態でした。どうも要領を得ない三位一体という教理が大きな原因だったのです。三位一体は奥義であるから、それで満足すべきだと教会は言いました。牧師は時折、特に復活祭の日曜日に、復活について話をするのが常でした。ところが、家族の葬式の時には魂が不滅であることや、魂が天に行ったという点を強調しました。それも私には解せない事でした。キリストにせよ、ほかの者にせよ、不滅の魂を持っていたなら、そのうえに復活を必要としたでしょうか。それは矛盾のように思えました。復活によってキリストのからだは、彼の不滅の魂と一緒になって、どちらも天に行ったと牧師は言うのですが、後で、それは不可能だということを聖書が述べているのを知りました。(コリント前、一五ノ五〇)牧師は、永遠の生命よりも、もっと緊急な問題を取り上げる必要があ

[735]

ると考えていたので、説教壇で聖書のことが論議されるのを聞くことはあまりありませんでした。確かに聞いた教理でも、分からない点がたくさんありました。

 『もう一つ私の心の中でいまだにクエスチョン・マークになっているのは、神が人間を試みるために、そして天に行く資格があるかどうかを見るために、人間をこの地上に置いたという教会の教理です。ということは、この地球は、その試みの場所となる以外に何の目的も持たないことになります。しかし、天の御使いたちがアダムの子孫とこの苦労を共にしなくとも、彼らの領域に向くように創造されたのはなぜですか。また、もしこの悪い世界が、神の希望された通りのものであったとするなら、もう一つの次のようなめんどうな質問が生じます。私たちはなぜ、神のみこころが天に行われる通り地でも行われるようにと祈ることを子供たちに教えているのですか。イエスは現在の組織が変わることを祈り求めよと私たちに告げられているように思えるのですが、教会は、いつでもこの地を去れるように準備することこそ私たちのなすべき仕事だと主張し続けてきました。教会は私の霊的飢えを満たしてくれなかったので、教会がなくても結構やっていけるという気持ちになったのです。それでついに行くのを止めてしまいました』。

 『教会に行かない多くの人の言い分はこういうところです。そのような理由で教会に行かない全世界のあらゆる場所の人々も、彼らの生活をさらに変化させる予期しない祝福を得ることがあります。実際につぎのようなことが起きます。それを経験した人はこう話すでしょう。

     訪 問 者

 『ある日曜日の朝、おそい朝食をすませてぶらぶらしていると、一人の青年が、聖書を手にして私の家の戸口に来ました。彼は、私たちの教会がいつも警告していた、「ばかげた」教理を信じている熱心な人々のひとりでした。失礼なことはしたくないと思って彼の話に耳を傾けたところ、彼はこういうことを言いました、「神は、人間が従順であるかぎり永久に地上に住ませるために地上に人間を置かれました。アダムの失脚で私たち全部に死がもたらされましたが、しかしそれによって、地を楽園にするというエホバの目的が変わることはありませんでした。イエスの模範的な祈りは、神の御国の政府がこの悪い世を滅ぼして楽園を実現させるように祈り求めよと私たちに告げています。戦争、悲しみ、死などはなくなって、神はすべてのものを新しくされます。これこそエホバの証者が、マタイ伝二十四章十四節に言われている通り、世界の果てまで携え行っている良いおとずれです」。ー彼は、創世記一章二十八節、ダニエル二章四十四節、ペテロ後書三章十三節、黙示録二十一章四、五節を開いて、自分の論点を証明しました。私はその青年を中に招き入れました。

 『私はつぎからつぎと彼に質問をあびせかけましたが、そのたびに聖書に基づいた回答を得ました。三位一体は異教の教義で、特にヨハネ十四章二十八節、コリント前書十一章三節などの聖句と正面衝突をするということも彼から聞きました。「人間は魂です。そして聖書は魂が死ぬことを証明しています」とも彼は言いました。(エゼキエル、一八ノ四[:個人注解:&、一八ノ二〇、二回の魂の死ぬことの啓示された(啓示宗教??!)表われは、エジプトのヨセフ(:創世記41:32)の神の夢の啓示による確定、速やかにことを行なわれる、物事を十分に確証することを意味する。「啓示の書の象徴的な数」のワッチタワーライブラリ……二人の証人(申命記17:6)、二人の粗布の証人、1,260日のあいだ……] 、伝道の書九ノ五、一〇およびヤコブ、五ノ二〇を開いて見せた)「魂は死ぬので、神は正義の新しい世で『復活』させてくださるのです。永遠の生命は、求めなければならないものです。私たちは生まれつきそれをもっているわけではないのです』。ーヨハネ、一七ノ三。

 『それ以後この若い奉仕者は何回もやってきて、長いあいだ納得のいかなかった聖書に関する多くの疑問に答えてくれました。降っても照っても彼は約束を守ってやってきました。私はいつも興味ある貴重な事がらを何か学びました。そして真のキリスト教というものは依然として、自己中心的なものではなく神を中心としたものであること悟り始めました。真のキリスト教は、成功だとか平和などの決まり文句ではなくて、どんな犠牲を払っても全世界に広めるべきおとずれを依然としてもっています。また、美徳と、行いによって表わされる信仰を要求している点も変わっていません。なすべきあかしも依然としてあり、神の男、女、子供たちを用いて千九百年昔と同様にそのことをされています。現在でも当時と同じく、給料をもらってそれを行なっている者はひとりもいません。彼らは、愛の心から神のみこころを行なうことを自分で決意したのです。そしてこの愛こそ、全世界の兄弟たちの交わりを常に一致させているものです。これはみな、私がエホバの証者たちの間で見聞きしたものです。彼らの御国会館に行けばあなたもご自分でそれを見ることができるでしょう。

 『次の日曜日には、以前の教会の友だちを訪ねて見る積りです。いいえ、教会ではなくて彼らの家に行くのです。友だちの多くは、以前の私と同じく、よりよいものを求めているので、教会に行っていないでしょう。それを聖書の中からどのように見つけ出すかを教えてあげるのは本当にうれしいことです。エホバが許されるのならそうして見ましょう。私もいまはエホバの証者なのですから』。

読者よりの質問編集

●サタンと悪鬼は、人の心を読むことができますか。--アメリカの一読者より

 サタンと悪鬼が人間の心あるいは考えを読み取れることを示す聖句はひとつもありません。聖書の示すところによれば、人の心を読むことができるのは神だけです。「人は外のかたちを見 エホバは心をみるなり」。また神について次のように書かれています、「神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない」。--サムエル前、一六ノ七。ヘブル、四ノ一三、新口。

 しかし人間以上の知力と観察力を持っている悪鬼が、人の行動また顔に現われている表情から心の中にあるものに気がつくのは確かと思われます。それでマタイ伝五章二十八節にいましめられていることを破るなら、それは表情に表われるかも知れず、したがって心を読まれなくとも、他の人にそれと知られるでしょう。このようにして悪鬼は人が顔に出した弱点につけ込み、その人を罪に誘惑するかも知れません。

 これは正しい考え方の大切なことと、エホバに依り頼むことの必要を裏書きしています。悪い考えが芽生えたならば、ただちにつみ取ってしまうべきであり、それを育てて罪に陥るきっかけを作ってはなりません。(ヤコブ、一ノ一四、一五)祈ることと、神の言葉に思いをめぐらすことによって、神に近づきなさい。それは悪い欲望に対し、また悪魔と悪鬼の誘惑に対して身の守りとなるからです。--ヤコブ、四ノ七、八。ピリピ、四ノ八、九。

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