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権威に従うことにより益を受ける編集

          「あなたは権威を恐れないことを願うのか、それでは善事をするがよい。そうすれば、彼からほめられるであろう」。ーーーロマ、13:3、新口。

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 4 エホバの証者は、人間にほめられるよりも、そのエホバからほめられることを求めます。では、なぜ彼らは政治的な「権威」からもほめられるような善行をつづけるのですか。ロマ書十三章四節(新口)は、次のように答えています。、「それ[権威、エクスオウシア]は、あなたに益を与えるための神の僕(しもべ)[ディアコノス] [:διακονος:ストロング・コンコーダンス・ナンバー:1249:グッドリック・ナンバー:1356:[ー>1354,ー1355]NIV,計[29回],servant[13回],servants[7回],minister[3回],deacons[2回],deacon[1回],ministers[1回],promotes sin[+281][1回]。黒崎版、文語新約希ー和索引、全部で合計29回。1,役者、計21回、2,執事、計4回、3,雑(侍者ら)(僕ども、2回)(事ふる者)計4回、]なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。それ[権威、エクスオウシア]はいたずらに剣を帯びている

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4 ロマ書十三章四節によれば、クリスチャンはほめられるべき善をするように命ぜられていますが、それはなぜですか。

[745] のではない。それ[神ではなく]は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである」。

 5 キリスト教時代以前では、ペルシャのクロス王はエホバの僕であって、バビロンに捕らわれていたユダヤ人の益をはかりました。神の僕であるクロスは、ユダヤ人の中の忠実な残れる者をエルサレムに戻し、そこで宮を建てさせると共にエホバの崇拝をふたたび設立させました。その解放の勅令の中でクロスはエホバ神について次のように言いました、「神エホバ……その家をユダヤのエルサレムに建てることをわれに命ず」。(歴代志略下、三六ノニニ、二三。エズラ、一ノ一ー四)この点においてクロスは「神の僕(しもべ)」でした。もちろん、クロスが改宗したユダヤ人になったわけではありません。それから十二年後、復帰したユダヤ人たちは正式な政府の記録を調査して、宮建築を妨げたまわりの敵の妨害を取除(とりのぞき)きました。その調査の結果は良いものでした。ペルシャの政府は、妨害者には中止を命じたので、四年たたぬ中に神の民はその宮を完成させました。--エズラ、五ノ一七から六ノ一五まで。

 6 後日、ペルシャの王は聖書の筆記者エズラをエルサレムに遣わし、王や議官および君たちか

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5 ユダヤ人の残れる者とその宮のため、「権威」であるペルシャ政府はどのように「神の僕」の役をしましたか。

6 後にペルシャの「権威」はどのように宮の建築を支援し、また神の民が殺害されることを防ぎましたか。

らの寄付をエホバの家に納めさせました。彼はまた祭司や宮で奉仕している他の者たちに免税をみとめる指示の手紙をも送りました。(エズラ、七ノ一一、二四。八ノ二五ー三〇)また女王エステルの時、彼女の夫であったペルシャの王はユダヤ人の敵ハマンを処刑するに際して、神の僕(しもべ)でした。また彼は、女王エステルとペルシャの新しい首相で彼女のいとこにあたるモルデカイの下に、ユダヤ人が自分たちの生命を守るために戦って、神の民の滅亡をはかったハマンの悪い法律を利用しようとした者を殺しても良いように取りはからいました。--エステル、七ノ五から九ノ一七。

 7 しかし、この世の「権威」は、聖書の預言を成就するとき、あるいは預言的な型となる時だけでなく、毎日の日常生活の場合でも、クリスチャンの益をはかる神の僕として振舞います。クリスチャンや他の人々は、この世の「権威」の正しい働きから益を受けます。エルサレムの宮で使徒パウロがユダヤ人の暴徒に囲まれたとき、だれが彼を助けましたか。この世の権威を持つローマの護衛隊でした。パウロをひそかにエルサレムからカイザリヤに移して、彼を殺そうとしたユダヤ人の企みをくじいたのはだれでしたか。パウロはだれに上訴しましたか。

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7、8 (イ)世の権威がクリスチャンに対する「神の僕」の役をはたすのは、それが聖書預言の成就となり、預言的な型となる場合だけですか。(ロ)パウロの宣教の後期における出来事は、「権威」の与えるものが益であるか、害であるかについて何を示していますか。

ユダヤの大祭司に上訴しましたか。あるいは異邦人の権威に上訴しましたか。カイザリヤからローマまで無料で舟で運び、ローマで証言させたものは、だれでしたか。舟が難破する前に舟にいた他の囚人と共にパウロが殺されることのないようにした者はだれでしたか。パウロがネロ皇帝の前で裁判を待つあいだ、「自分の借りた家」を持たせて、ローマの囚人として滞在させたものはだれでしたか。それはいつもローマ「権威」の代理者でした。--使行、二一ノ三一から二八ノ三一まで。

 8 また言伝えによると、パウロをユダヤ人の偽りの告訴から放免して、「良いたよりを守り、合法的に立証する」ことに成功させたのは、同じローマ人の権威だったということです。(ピリピ、一ノ七、新世)その全部の場合、ローマの権威は神の僕か悪魔の僕か、だれの僕であったかと、私たちはたずねます。キリスト教の目的に関して言うとき、その「権威」は善をはかる僕でしたか、あるいは悪をはかる僕でしたか。

 9 もちろん「権威」がキリスト教に改宗して、献身し、洗礼を受けて伝道する神の奉仕者になったというわけではありません。クロス王がモーセの律法下にいたエホバの献身した民のひとりとして、ユダヤ人にならなかったのと同

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9、10(イ)「権威」が「神の僕」になると言っても、それをどのように理解することはできませんか。(ロ)「益を与えるための神の僕」であるゆえに、クリスチャンは権威をどのように利用できますか。

[746] じです。しかし、「権威」は善事のために役立つ働きをします。そして、法律に従う市民である私たちは善事をはかるその権威を利用する権利を持っています。

 10 私たちの権利が敵によって侵される場合、私たちは国の権威に上訴して私たちに善をはかるように願い出ませんか。多くの場合、彼らは私たちの善をはかる僕ではありませんでしたか。もし、私たちに善をするように彼らが仕命されていなかったなら、あるいは良いことが彼らから得られないなら、彼らに上訴する理由がありますか。神の御国を伝道するとき、多くの場合幾人かの官吏は迫害を加えます。しかし、その伝道のためエホバの証者は私たちに不利な事態を改善してもらうよう「権威」に訴えました。もし「権威」がすべての人々、「上なる権威」すなわち「高い権力」より低いすべての者に良いもの、良い益を与えるように任命されていないなら、私たちがこのことをする理由はどこにありますか。

    独裁者による迫害

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 15 ヘロデ王アンテパスが洗礼者ヨハネの首を切った時、彼は象徴的な「剣」をいたずらに用いて「神の僕」でないことを示しました。たしかに、彼はそれを用いることができ、また用いました。彼は無意味に象徴的な剣を帯びていたのではありません。その目的は悪事を行な

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15 支配者であった二人のヘロデは、どのように「剣」を用いましたか。これは私たちが「権威」とかかわりを持つことに関して、何を証明しますか。

う者たちを切ることでした。しかし、この場合ヘロデ、アンテパスは反対のことをしました。(マタイ、一四ノ一ー一二)また、ヘロデ王アグリッパ一世が「ヨハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した」とき、彼は自分の権威によってゆだねられていた剣を悪用しました。(使行、一二ノ一、二、新口)しかし、これは次のことを証明します。すなわち故意に悪事をして権威を軽んずることは「剣」を軽んずることであって、安全ではないということです。

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 18 バビロンの政府にせよペルシャの政府にせよ、そのどちらかの政府も善事をする権威を持っていなかったなら、預言者ダ二エルがそれらの政府に参加できたのは、いったいどういうわけ

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18 どんな根拠に基づいて、ダ二エルおよび妃エステルのいとこモルデカイは、バビロンおよびペルシャ政府に仕えることができましたか。

ですか。ペルシャの政府は、ダニエルおよびモルデカイに善事をすることを許しました。これによりエホバの民は直接の益を受けました。ペルシャ政府は、そのように行ったダニエルとモルデカイをほめたほどです。彼らはその政府に捕らわれていた奴隷であったので、政府は彼らのその行いを是認しました。ダニエル、女王エステル、モルデカイおよび彼らのユダヤ人兄弟たちを迫害していた者たちには、報復が当然にのぞみました。

 19 キリストの時より幾世期も前に、神は異邦人の支配者すなわち「上なる権威」を報復者にならせ、神にそむいた御自分の選民に神の怒りをそそがせました。イザヤ書九章八ー一七節によると、神はペリシテ人と共にシリヤのレジン王を用いて、エフラエムおよび北のイスラエルの首都サマリアの住民に対する報復を執行させました。イザヤ書十章五、六、一五節によると、エホバはまたアッスリア王を、正道からはなれたその国民を酷使するための杖とならせました。

 20 エレミヤの言葉(二五ノ八ー一一。二七ノ四ー八)によると、エホバはバビロンの王を彼の僕にして、ユダの国民およびユダと関係を持つ他の諸国民に神の報復をもたらしました。バ

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19 神は、背教したイスラエルの十の支族の国に報復を加えるものとして、どのように異教の支配者を用いましたか。

20 ユダ、エジプトおよびバビロンに報復する者として、神はどのように異教の支配者を用いましたか。

[748] ビロン王は神の剣のようでした。(エゼキエル、ニ一ノ八ー二三)エホバはバビロンの王を彼の木こりのようになし、頑丈な木のごとく成長したエジプトを伐たおして服従させました。(エゼキエル、三一ノ二ー一四)ペルシャのクロス王は、エホバによって油を注がれ、世界強国なるバビロンをいやしめて倒しました。--イザヤ、四五ノ一ー四。

 21 キリストの使徒の時代中、エホバ神は、西暦七十年、ローマの権威を用いて、剣を帯びる彼の報復者にならせました。その年「刑罰の日」すなわち報復の日は、クリスチャンに反対したイスラエルの国民にのぞみました。それで、その聖都および崇拝の宮は、タイタス将軍の率いるローマ軍隊に依って滅ぼされました。(ルカ、二一ノ二〇ー二四。マタイ、二三ノ三五から二四ノ二まで)それはイスラエルに対するさばきの日でした。しかし、この世の「権威」が不従順な国民の裁きの日まで待って、それから「怒りを表す報復者」の働きをする必要はありません。報復者の怒りは、その「権威」の法律手段により、悪事を行う人に対していつでも示されます。それで、使徒パウロの言葉の真理は、神が一国民に対して預言を実施せられる時だけに限られる必要はないのです。

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21 (イ)西暦七十年、神は御自分の報復者としてだれを用いましたか。だれに対して? (ロ)「権威」が報復者としての役割をはたすのは、それが聖書の預言を成就している時だけですか。あるいは何時?

===良心および権威への服従=== 

……………

[749] …………

 6 この全部は何を証明しますか。こうです。パウロがクリスチャンたちに「上なる権威」に服従せよと告げたとき、彼らがその良心を断念しなければならぬ、あるいは押しつぶさねばならぬという意味で言ったのではありません。権威の法律と神の御言葉のあいだに食いちがいがあるとき、クリスチャンは良心を無視するべきことをパウロは意味したのではありません。神の律法は正しいものです。クリスチャンは神の律法全部に従うとき、良心について懸念する必要はありません。私たちが神の律法を守って、神のわざをするとき、私たちは良心に苦しめられません。むしろ、良心は私たちを是認し、私たちに心の平和を与えます。神の制度外の権威に服従するときだけ、良心の問題が介入しま

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6 前述のすべてのことは、「上なる権威」に対するクリスチャンの服従について何を証明していますか。

す。私たちは神の不興を買って神の律法を破らないようにするため、良心をとぎすませていなければなりません。

    「上なる権威」に払わねばならぬものを払う

 7 「あなたが貢(みつぎ)を納めるのも、また同じ理由からである。彼らは神の公共の僕として、もっぱらこの務めに携わっているのである」。(ロマ、一三ノ六、新口)それで、私たちが税を納めることは、良心にもとづくものでなければなりません。もしパウロがクリスチャン会衆外の「上なる権威」について語っていなかったなら、彼は税のことを論じなかったでしょう。なぜですか。なぜなら、会衆の監督とその奉仕の補佐たちは、監督やその補佐たちを支持するため会衆の人々に税を課さないからです。全世界を管かつする会衆の統治体も税を課さず、ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会も税を課しません。会衆の会員の寄付は、それぞれの資力に応じ、自発的な気持ちからされるのです。それは、この世で払われないなら、「上なる権威」から罰せられるような、税とちがいます。

 8 聖書の新世界訳にしても、あるいは昔と今の他の聖書翻訳も、「あなたがたが貢を納めるのも、また同じ理由からである」という言葉をか

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7 ロマ書十三章六節が税金のことを述べている事実から、「上なる権威」について何がわかりますか。

8 ロマ書十三章六節については、それが挿入句であることを示すものが何かありますか。それは課税の理由として、どんな事をあげていますか。

[750] っこの中に入れていません。つまり、あたかも副の考えとして挿入された思想のようにしていません。実は、これらの言葉は文章の残りの部分にむすびつけられ、税を払う理由が示されています。私たちは「公共の僕たち」を支えるために税を払います。彼らは、善をするため、善をする者をほめるため、そして悪をする者に報復するため権威を持っているのです。

 9 エホバの民は税を納めることを避ける、あるいはのがれようとはしません。彼らは良心的に税を納めます。ユダヤ人のパリサイ人は、異邦人のカイザルに良心的に税を納めることはできないと信じていましたが、イエスはマタイ伝二十二章二十一節で、そうするように命じました。公共の僕あるいは官吏の行なう良い奉仕に対して税を払うことはエホバの律法と一致することです。税は、公共の官吏を支持します。彼らはクリスチャン会衆のしない奉仕をします。これらの「公共の僕」が公共の金全部をどのように費やすかは、税を払うクリスチャンの責任ではありません。それは公共の僕の責任です。それについて私たちが良心を悩ます必要はありません。神は御子イエス・キリストが政府に介入することを許可しませんでした。同じく神はキリストの足跡に従う弟子たちが政府に介入することを許可しません。それで、この世にいる私た

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9 クリスチャンが税をおさめるのは、マタイ伝二十二章二十一節と調和して、どのように正しいことですか。この点に関して、どんな事柄はクリスチャンの責任ではありませんか。

ちクリスチャンは地的な政府を自分たちの手で運営するかわりに、他の人と同じく税を払わねばなりません。

 10 それで、これらのこの世の人々のおかげで、政治に介入しないクリスチャンは政府を運営しなくてもすみます。しかも政府は、多くの面でクリスチャンに益を与えるのです。すると、比較的な意味において、政府の官吏は「神の公共の僕」であって、これらクリスチャンが第一に神の御国を求めてその伝道に専念するとき、神の民に有益な目的を果たします。もちろん、これらの「公共の僕」が奉仕せずに反対するとき、彼らが自分をあがめる独裁者になるとき、彼らはエホバのクリスチャン証者を迫害するとき、彼らはそれらの面で神の公共の僕ではなくなります。しかし、全部の面ではありません。

 11 なぜですか。なぜなら、それ以外にも彼らが公共につくしている他の奉仕があるからです。迫害を受ける証者たちもその奉仕から益を受けます、たとえば郵便局、消防署、水道、学校、公共の交通運輸、道路の維持その他です。さもなければ、迫害を受ける証者たちは独裁政権や全体主義的な政府の下にいて、存在することもできず、生き残ることもできないでしょう。独裁者たちは生き残りませんが、エホバのクリスチャン証者たちは生き残ります!

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10、11(イ)各人はどんな場合に「神の僕」として働き、どんな場合にそうではありませんか。(ロ)権威の濫用にもかゝわらず、「公共の僕」はどんな働きをしますか。

 12 神は御自分の献身した民の忠実を験(ため)すため、しばらくのあいだそのような独裁者や全体主義的な圧迫者たちの活動を許します。また彼らがこの世の「上なる権威」に平和に服従しているかどうかも験(ため)されます。迫害を受ける証者たちがこのように忠実を保って耐え忍ぶことによって、この世の人々は証者たちの従順な態度を見、彼らの無罪なることを悟ります。迫害をそそのかした告訴者たちは、意識的な偽り者として恥をかかされます。

 13 エホバの証者は政治に参加せず、政治職に立候補しません。彼らはこの世の人々に人間の政府の運営をまかせねばならないのです。私たちの益のために、そしてクリスチャン奉仕を拡大するために、私たちがそのような上なる権威を用いることは、神の御心です。

 14 …………

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12 神が圧制者を許すことは、献身した神の民にとってどんな意味がありますか。 どんな結果となりますか。

13 「上なる権威」について言えば、エホバの証者が政治に参加しないことから、どんな事が言えますか。

14、15(イ)…………その行いはイザヤ書三十一章一ー三節と一致しますか。(ロ)そうでなければ、なぜ私たちはカイザルに何も払う必要がないのですか。

[751] ………私たちのために仲裁を願いでる権利があります。結婚、離婚その他の事柄においては、わたしたちは法廷や他の官吏を利用します。これは「助けをえんとてエジプトにくだり」、軍事的な目的のために馬や戦車を求めることではありません。--イザヤ、三一ノ一ー三。

 15 もしこの世の人間の権威が「あなたに益を与えるための神の僕」でないなら、私たちはカイザルに払う必要はありません。税を払うようにと命じたとき、イエスはカイザルが神でなく、カイザルは神に従うものであるとはっきり言われました。神は、カイザルに負うものだけを、カイザルに払うようにと、限定したからです。(マルコ、一二ノ一七)神がその存在を許す限り、カイザルとその長官たちは、クリスチャンたちに許されていないことをするため「もっぱらこの務めに携わっているのである」。

……………

[752] ………

    貢、恐れ、尊敬

 20 「貢を納むべきものには貢を納め」と述べたパウロは、推賛の辞を述べる、あるいは賛美の言葉を述べることを意味したのではありません。彼は物質、あるいは金銭を払うことを意味したのです。ここの貢とは、物品に課す税という意味でした。(マタイ、一七ノ二四ーニ七)前述の税の場合と同じく、クリスチャン会衆内にはこの税がありません。この貢は世俗的な「上なる権威」とむすびついているのです。ある国々の権威は、会衆あるいは教会の資産に課税せず、あらゆる宗派の宗教制度に免除を与えます。会衆がこの特典を利用して、その資産全・部・を宗教的な活動に用いることは、会衆の特権です。もちろん、この世のある人々は教会に対する免税は一種の教会と国家の連合と見なすかも知れません。しかし、この場合、クリスチャン会衆が商業的な用途に使わない宗教資産に対して税を払わないとしても、使徒パウロのいましめを破ることにはなりません。しかし、会衆の各人は、自分の資産や品物について個人的な税や貢を払わねばなりません。

 21 ロマ書十三章七節は、払うべき物質的な物、あるいは経済的な物から、心理的なものに注意を向けて、次のように述べています。「恐るべき者は恐れ」。この世の公共の僕たちを恐れる

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20(イ)パウロの述べている、支払うべき「貢」とは何ですか。 (ロ)国家の免税措置に従い、宗教的資産に対する税を払わないことは、どのように相殺されますか。

という意味ですか。そうです、その三節には「支配者たちは………悪事をする者にこそ恐怖である」と示されており、四節には、悪事をすれば恐れなければならないとしるされています。

 22 それで、私たちがそのような支配者あるいは公共の僕を恐れるのは、悪をして彼らの怒りと報復をうけはしまいかという恐れです。……法律に従う市民として正しく振舞うことにより、彼らに対する恐れを示します。奴隷の所有者、夫、裁判官、警察、公共の調査官に恐れを示すのであるなら、政治的な支配者にも恐れを示すべきではありませんか。(ペテロ前、二ノ一八、三ノ一、二。三ノ一五。エペソ五ノ三三)これは、私たちに神の御国の伝道をさせない臆病者の恐れではありません。むしろ、政治的な権威の持つ執行力に対する正しい考慮あるいは健全な尊敬です。私たちは彼らの職務上の力がおよぶ程度まで恐れます。彼らの力の範囲外では、私たちは彼らを恐れる必要がありません。彼らの力のおよぶ限度は、この世、すなわち滅亡に定められたこの組織制度内に過ぎません。

 23 ……

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21、22(イ)ロマ書十三章七節は、公共の僕を恐れることを要求していますか。(ロ)これはどんな種類の恐れですか。クリスチャンにとって、これはどの程度までのものですか。

23 公共の僕を恐れることは、ひとつ心でエホバを恐れることをなぜ妨げませんか。

……全くのところ、上なる権威に比較的な服従をすることは、神の取り決めに従うことであるゆえ、私たちは実際には神に服従しているのです。私たちは神の新しい世で永久に生きることを望みます。神は新しい世において現在の上なる権威の存在を許さないでしょう。私たちは神の不興を買うことを望みません。神は私たちの魂を滅ぼして、死人の中からの復活を拒絶することにより、その新しい世における永遠の生命を私たちから立ち切ることができます。

 24 恐れ以外にも払うべきものがあります。ロマ書十三章七節(新口)は、「敬うべき者は敬いなさい」と述べています。官吏を敬うことは、彼ら個人の人柄によるのではなく、公に彼らが代表するもののためです。王は一つの国、あるいは一つの帝国を代表します。長官は一つの州あるいは群を代表します。市長は一つの都市を代表します。敬うべき者を敬わねばならぬため、私たちは官吏をその称号で呼びかけます。そのことは青年エリクがヨブ記三十二章二十一節、二十二節で述べていることと矛盾することではありません。使徒パウロは、長官フェリックス、総督フェスタス、そしてヘロデ王アグリッパニ世の前に立ったとき、彼らの称号を呼ぶか、または彼らの良い支配を認めて、正し

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24 公共の僕を尊敬することはなぜ当然ですか。パウロはどんな手本を残しましたか。

[753] い尊敬を示しました。

 25 私たちは比較的な尊敬を「上なる権威」に払うだけです。恐ろしがられて、こわがられたいことだけをのぞむ人はいないでしょう。しかし、恐れは尊敬以上の力をもちます。恐れと尊敬の比較的な重要性は、ペテロ前書二章十七節(新口)「神をおそれ、王を尊びなさい」の命令に示されています。クリスチャンの夫は、自分の弱い器、女性として尊びます。しかし、妻は自分の夫を彼女のかしらおよび主として恐れよと使徒から命ぜられています。(ペテロ前、三ノ一、五、六。エペソ、五ノ三三)子供たちは、その父と母を敬わなければなりません。(エペソ、六ノ一ー三)クリスチャン会衆はふさわしいやもめを敬い、彼らにふさわしい援助を与えなければなりません。かくして、私たちはクリスチャン会衆外の者に対してもクリスチャン会衆内の者に対しても、敬意を払わずにすますことはできません。

 26 しかし、キリスト教国やユダヤ教の宗教指導者たちに尊称を言って尊敬することに関しては、私たちはイエスの次のいましめに従わねばなりません。「汝らはラビの称(となへ)を受くな、汝ら

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25 私たちが「上にある権威」に払う尊敬はどんな種類のものですか。その尊敬は重みという点で恐れとどのように違いますか。

26 キリスト教国の宗教的な指導者に称号を与えて尊敬することはどうですか。

の師は一人にして、汝等はみな兄弟なり、地にあるものを父と呼ぶな、汝らの父は一人、すなわち天に在す者なり、また導師の称を受くな。汝らの導師は一人、即ちキリストなり」。(マタイ、二三ノ八ー一〇)私たちは宗教的な高職者たちに、キリスト教に反する尊称を与える必要がありません。

    愛は永遠に借りるもの

 27 負債を払わないことは良くありません。それは不正直であり、悶着をひき起こします。ロマ書十三章八節(新口)は、この世の「王なる権威」に対する義務を示すことについて、次のように述べています。「互いに愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである」。

 28 したがって、私たちは支配者や公共の僕に対する義務を果たすことをひかえることができません。私たちは政府の奉仕に対して正しく払わねばないません。いろいろの国々で私たちを支配するこの世の政府を支持できるのは、ここまでです。しかし最高の神にささげるものをとって「上なる権威」に与えてはなりません。それは「上なる権威」が私たちに要求する権利のないものです。私たちが神の御心を行なうことに献身しているなら、彼らが私たちに要求して、命ずることは神の命令により限定されます。

 29 クリスチャンである私たちは、義務をすぐ

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27 なぜ負債の不払いを避けるべきですか。

28 私たちが公共の僕に払うべきものについて言えば、これはどの程度まであてはまりますか。

に遂行すべきであり、この世の支配者に対して、負債を負ってはなりません。これによりクリスチャンの正しい良心は保たれます。私たちが十分に払い得たと感じられない唯一の負債は、愛の負債です。私たちの生命は「上なる権威」のおかげではありません。神が私たちに生命を与えました。もし私たちがキリストの模範に従って神に献身し、水の洗礼によってこの献身を象徴するなら、私たちの生命をこの世の権威に与えることはできません。私たちは彼らのおかげで生きているのではありません。税、貢、恐れ、尊敬は、彼らに帰するべきものです!しかし、私たちの生命は彼らに与えるべきものではありません。私たちの生命は神に与えるべきものです。もし私たちの生命をこの世の権威に与えるなら、愛するという永遠の負債をどのように果たすことができますか。生きている人だけが愛せるのです。愛と憎しみは死ぬときに消滅してしまいます。(伝道之書、九ノ四ー六)愛は生ける者が払いきることのできぬひとつの負債です。私たちは、生けるかぎり、神の御言葉にしたがい他の者たち、私たちの隣人に対して愛の負債を持ちます。私たちはこの世の権威が私たちに他の者を憎むように教える、あるいは強制させることをゆるしません。

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29 (イ)どんな負債は、その全部を決して払うことができませんか。 (ロ)どんな大切なものを、私たちは「上なる権威」に負っていませんか。どんな心を抱くことを、「上なる権威」から教えられたり、強制されたりしてはなりませんか。

[754] もしそうさせるなら、私たちは他の者に害を与えるような態度を持つでしょう。

 30 この世の「上なる権威」の法律は、ハルマゲドンで「上なる権威」が滅びると共に過ぎ去ってしまうでしょう。しかし、神の律法は永久に存続して私たちに適用します。それで、私たちは愛しつづけねばならないのです。「人を愛する者は、律法を全うするのである」。それは神の律法であって、「上なる権威」の法律ではありません。神が私たちに与えた最大のいましめの二番目は、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」ということであると、イエスは言われました。--マタイ、二二ノ三五ー三九、新口。

 31 これは次のことを証明します、すなわち私たちがこの世の「上なる権威」に従うことは、比較的なものに過ぎず、全体的なものでないということです。また、同時に私たちは神の律法を無視すべきでないということです。あらゆることにおいてそのような権威に従うなら、私たちは多くの場合神の律法に従うことにならず、神と隣人に対して愛の行いをしていないことになります。私たちはクリスチャン良心を破っていることになります。

 32 ここに意味されている律法は、エホバ神の律法です。このことは使徒パウロの次の言葉か

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30 隣人愛はだれの律法を全うしますか。どれだけの間?

31 愛の問題を考え合せると、「上なる権威」に服従することに関してどんな事実がわかりますか。

らも証明されます、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』など、そのほかにどんな戒めがあっても、結局『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』というこの言葉に帰する」。(ロマ、一三ノ九、新口)それで、もし「上なる権威」が私たちに殺人や他人の持ち物をむさぼる気持ちから彼らの行なう侵略行為に加わって盗んだり、強奪したりすることを命ずるならば、私たちはそこまで従うことをしません。そのようなものはみな、私たちに隣人愛を要求する神の律法を明白に破るものです。しかし、この世の戦争中「上なる権威」は、平時に行なったなら権威から罰せられるようなことを市民たちに要求します。

 33 もし私たちが隣人あるいは仲間の人を愛するなら、私たちは不道徳な行いをせず、政治支配者、公共の僕、上なる権力、上なる権威による怒りにみちた報復を受けるような法律違反の行いをしないでしょう。これらの者たちは、私たちに対して「つるぎ」を使う必要がありません。

 34 使徒パウロが前に引用した律法は、モーセを通して与えられたエホバ神の律法でした。(出エジプト、二〇ノ一三ー一五、一七。レビ、

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32 ここに言われている律法の起源について、ロマ書十三章九節は何を示していますか。これは権威に対する服従にどんな制限を加えますか。

33 隣人愛を持つとき、どんな行ないを避けますか。また権威から何を加えられることを免れますか。

34 神の律法を引用することにより、パウロは権威への服従に関して何を指摘していますか。

一九ノ一八。マタイ、二二ノ三九、四〇)パウロは「上なる権威」に対するクリスチャン服従を論ずる際に、その律法から引用することによってそのような服従の意味を明確にし、それが無制限のものでないことを指摘しています。服従は、エホバ神の律法によって間違いなく制限されており、パウロは、私たちがそれを知ることを望んでいます。私たちは、あらゆることにもまして、神の律法を守らねばなりません。

 35 ………「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しあいなさい」。(ヨハネ、一三ノ三四、新口)もし愛がモーセを通してイスラエルに与えられた神の律法を全うするなら、そして隣人や仲間の者に害を与えることをイスラエル人に許さないなら、キリストを通して述べられた神の愛のいましめは、クリスチャンが他の人に害を加えることを許しません。上なる権威は、キリストの弟子たちを他の人々に対する憎しみの運動に従属させ、それから彼の弟子をしてこの憎しみの運動に暴力的に服従させる権利や権威を神から受けていません。

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35 モーセを通して与えられた神の律法に示されているのと同じく、キリストを通しての神の愛の律法に従う私たちは、何をしませんか。そのことは権威への服従にどう影響しますか。

[755]  36 「愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである」とロマ書十三章十節(新口)は付言しています。愛は神の律法を全うするものです。愛は限界を定める力として働きます。それは、この世の権威に対してどの程度まで服従するかについて制限を設けます。もし隣人に対する愛のゆえに私たちが隣人を害させようとするこの世の権威に屈しないなら、神に対する私たちの愛、高い愛により、なおいっそう私たちはそうしないでしょう。

 37 「上なる権威」には、献身したクリスチャンたちに隣人愛を断念させる権利がありません。まして、そのような権威には私たちを無神論者にして神に対する私たちの愛を断念させる権利はありません。彼らには、私たちに宇宙内の主要な命令を破らせようとする天からの権利はありません。イエスは次のように言いました、「心をつくし魂をつくし思いをつくして、あなたの神であるエホバを愛さねばならない。これは一番たいせつな第一のいましめである」。(マタイ、二二ノ三七、三八、新世)そして、隣人愛と同じことは、神に対する私たちの愛についても言えます。私たちはつねに神を愛さねばなりません。この面において私たちはいつも

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36 隣人愛が権威への服従に影響するなら、神への愛については何が言えますか。

37 神への愛に関して、「上な権威」にはどんな権利がありませんか。このような愛を持つとき、「上なる権威」との関係はどうして安全なものとなりますか。

神への負債を持っているのです。神に対する愛は、安全な要因としての働きをします。たとえ不正で邪(よこ)しまな「上なる権威」の圧迫を受ける時でも、そして神だけに属するものをクリスチャンから要求する時も、私たちは神を愛するゆえに悪行を決してしないでしょう。

    政府への服従

 38 私たちがロマ書十三章の中で述べられていることをする緊急性は、使徒パウロの時代の時よりも今日の方がすっと大きいのです。したがって、私たちはパウロの次の言葉に示されているそれらのことをしなければならぬ理由を心に深く銘記するべきです。「なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、このことを励まねばならない。すなわち、あなたがたのねむりからさめるべき時がすでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救いが、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである」。(ロマ、一三ノ一一、新口)「剣」を持つ「権威」の怒りに満ちた報復を避けることとクリスチャン良心ということだけでなく、時の要素も私たちが善を行なって悪をしてはならないことをすすめています。エホバのクリスチャン証者である私たちに対する救いは、パウロの時代より今日の方がずっと近いのです。私たちが信者になった時よりも近くなっています。その救いは、神の御国によってもたらされます。神は王なる御

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38 なぜ今は命ぜられたことを行なう緊急のときですか。神の御国によって救いがもたらされるのはなぜですか。

子イエス・キリストを御座につけることにより一九一四年に天界で御国を設立しました。その御国だけが来たるべき新しい世において唯一の支配権威になるでしょう。私たちはその御国の民になります。--コリント前、一五ノニ四、二五、

 39 神のゆるしによって現存している「上なる権威」が、私たちを迫害しないなら、あるいはわたしたちを妨害者や迫害者から守るなら、私たちクリスチャンは信心深い静かでおだやかな生活を送る助けを得ます。(テモテ前、二ノ一、二)しかし、上なる権威は、私たちを永遠に敬うことができません。それで、上なる権威に対する私たちの負債よりも、神の御国に対する私たちの負債の方がはるかに大きいのです。それで、たとえ上なる権威が神の御国の伝道を禁ずる法律をつくっても、私たちは神の御国を伝道しつづけて、マタイ伝二十四章十四節の言葉を成就しなければなりません。聖書預言の成就により私たちは時を知っています。聖書預言の示すところによると、私たちは「上なる権威」を持つこの世の組織制度の「終りの時」に住んでいます。(マタイ、ニ四ノ三ー三三)私たちは眠りから目をさましました。私たちは今日における最高の論争、すなわちサタンの支配に対する神の御国による神の宇宙主権という論争に眠っていません。私たちは、クリスチャンとして、救

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39 (イ)神の御国から受けるどんな恩恵は、手の手前書二章一、二節に述べられているものよりも、はるかに大きいですか。(ロ)私たちはどんな問題に目ざめましたか。またどんな決定をしましたか。

[756] いをもたらす神の御国の側に立つことを決定しました。

 40 「夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を身につけようではないか」。(ロマ、一三ノ一二、新口)一九一四年以来、キリストの千年統治の日は、今までよりずっと近づいています。そして、目に見える組織制度を持つ悪魔の支配の夜はふけています。いまは私たちが「やみのわざ」にふけるべき時ではないことは常識からもはっきり分かります。悪心を持つ人々が、「剣」を帯びる「上なる権威」の怒りにみちた報復を恐れるため、暗やみにかくれて行なうようなわざに私たちはふけるべきではありません。どんな事情であろうとも、私たちは秘密の政治的な陰謀に加わるべきでなく、また自衛の戦いをしている政府を妨害するべきではなく、あるいは反乱や革命を起こすべきではありません。第一次世界大戦と第二次世界大戦中、多数のエホバの証者は、うしろぐらい陰謀を試みたと非難されました。しかし、法律に従う正しい訴訟の結果、そのような非難はことごとく偽りであることが判明しました。なぜそうですか。なぜなら、私たちは政治に介入しないからです。

 41 私たちは、私たちのしている戦いを知って

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40(イ)どんな日が近づいていますか。どの夜がふけていますか。(ロ)ゆえに私たちは権威に関して、どんな暗やみのわざをしませんか。

います。それは血肉に対する戦いではありません。それは人間の「上なる権威」に対する戦いではありません。使徒パウロは、次のように語りました、「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの[霊的な]支配と、[霊的な]権威と、[霊的な]やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」。--エペソ、六ノ一、二、新口。

…………

 45 イエスが地上におられたとき、彼は暗いもの、宴楽、泥酔、淫乱、好色、争いとねたみ、

[757] そして肉欲の追求をはかる人々のするような行いをしませんでした。これらの人々は肉欲をみたすことを意識的に計画します。それで、私たちが「主イエス・キリストを着る」なら、そして彼のごときさまを人々に示すなら、私たちはそのような暗やみのものから遠ざかります。私たち自身のためにも、私たちのクリスチャン兄弟にためにも、私たちは「光の武具」をもってそれらのものと戦います。私たちはそのようにして、私たちの伝道する神の御国の良いたよりを飾ります。この特別な面においても、私たちが服従している「上なる権威」が、私たちに対して「剣」を使用する理由はまったくないはずです。

 46 私たちはロマ書十三章に従い、「存在している権威」が来たるべきハルマゲドンの宇宙的な戦争で滅ぼされるまで、それに従いつづけます。どの政党が権力を得ようと、あるいはどの政治的な群れが政権をとろうと、私たちは彼らに従います。

 47 このように、私たちは「存在している権威」に良心的に服従することにより、この世のすべての国の政治的な運動や戦いに対して、クリスチャンの中立を保つことができます。私たち

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45 「主イエス・キリスト」を着る私たちは、暗黒のしわざに対してどんな立場を取りますか。私たちに敵対して何が使われることはありませんか。

46、47(イ)いつまで私たちは「存在している権威」に従いますか。どのように従いますか。(ロ)良心的に服従することによって、預言者ダニエルの場合と同じく、私たちは何を保つことができますか。

は予言者ダニエルのようです。メデアーペルシャ人の征服者ダリヨスとクロスが悪いバビロンを滅ぼして後、ダニエルは彼らに反対せず、むしろ服従しました。--ダニエル、五ノ二六から六ノ五まで。

 48 中立を保つクリスチャンとして、私たちは反逆、暴徒、無政府主義、あるいは他の治安妨害に参加しません。来たるべきハルマゲドンの戦いでも、私たちは「存在している権威」に反抗して、その滅亡を早めようとしないでしょう。私たちは、一切の権威のみなもとなる神が「存在している権威」から支配権を取りさり、その跡に御子イエス・キリストの正義の御国がはいるようにします。(歴代志下、二〇ノ一五ー一七。ダニエル、二ノ四四)そして、神の新しい世では、クリスチャン良心と王イエス・キリストに対する従順ということについて、難問題はひとつもないでしょう。なぜなら、「キリストは………天使たちともろもろの権威、権力を従えておられるのである」。(ペテロ前、三ノ二二、新口)神の御心にしたがい、愛の心から王に従い、かつ神の完全な取決めを支持する、楽園の地上に住むすべての人に、永遠の祝福は天から注がれるでしょう。

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48(イ)ゆえにクリスチャンの中立を守る者として、私たちはどんな事に参加しませんか。(ロ)神の新しい世において、愛の心から従がう人々にとってはどんな事に問題がありませんか。

[761]

===エホバの証者の逮捕をうながすカトリック牧師=== 

 スペインに異教徒審問所が在った時代、敵を抹殺する確かな方法は、異端としてその筋に密告することでした。この事が行なわれたため、多くのスペイン人は投獄され、拷問にかけられ、殺されました。今日のスペインにも「聖なる審問所」をつかさどった者の後裔がいて、エホバの証者を同様に否認しようとしています。

 事実、カトリックの牧師のそそのかしによって、スペインのエホバの証者は、最近の「目ざめよ!」誌の中で指摘されたように、逮捕され、罰金を科せられ、投獄されてきました。そしていま、牧師の煽動によるこの迫害の新たな事実が明るみに出たのです。

 カトリックの雑誌「フベンタッド・ミシオネラ」(若い宣教者)はサンフランシスコ・ドセ

イルス修道会の機関紙です。その一二四号に、エホバの証者を攻撃する五頁の記事が出ました。筆者は、スペイン、サラマンカのセイルジアン大学で神学を講ずるカトリックの牧師ホセ・リコです。異教徒審問所の精神をさらけ出してこの牧師は、カトリック教徒の読者に次のことを告げています。「クリスチャンの助け主、すべての異端の征服者であるマリヤが、これら神の敵共の進出をとどめるように、たゆまず熱心にマリヤに祈りなさい」。エホバの証者から伝道されたならば、「改・宗・を・図・る・彼・ら・の・活・動・を・警・察・に・密・告・せ・よ・。フエロ・デ・ロス・エスパニヨレス[人権宣言]第六条があなたの後ろ盾になっている」と、リコは読者にすすめています。

    クリスチャンのすすめ?

 この牧師のすすめが甚だしく非クリスチャンのものであることを認める誠実なカトリック教徒は、スペインその他に大勢いることでしょう。そのことに間違いはありません。それは迫害されるものではなくて、クリスチャンの男女を迫害する者という危険な立場に、カトリック教会を陥れるものです。イエスは、敵が「逮捕される」ように企てるのではなく、敵を愛せよと教えました。他の人を密告するものとなるよりも、真のクリスチャンは次のようなものであると、イエスは

述べました、「わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ、人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである」。(マタイ、一〇ノ一六ー一八、新口)この牧師がカトリック教徒にすすめているのは、「おおかみ」になることですか、それとも「羊」になることですか。

 このすすめは、千九百年前、同様に訴えられた使徒パウロの経験と驚くほど似ています。使徒行伝十八章十二、十三節は次のように述べています、「ところが、ガリオがアカヤの総督であった時、ユダヤ人たちは一緒になってパウロを襲い、彼を法廷にひっぱって行って訴えた、『この人は、律法にそむいて神を拝むように、人々をそそのかしています』」。リコ牧師は、エホバの証者を密告することがスペインの法律にかなうと、読者に告げています。キリスト御自身も、法律を破る者として訴えられました。従ってエホバの証者はその事に狼狽しません。しかし、誠実なカトリック教徒は、彼らの教会が、初期クリスチャンを迫害した者たちの手口を用いていることに驚くでしょう。このカトリックの牧師は、誠実なカトリック教徒が心外と考えるようなことを、他にも述べています。

    知識が浅い?

 「あなたがたは、聖書を手にしてエホバの証者と討議する用意がないものと、私は理解している」とも、この記事は述べています。これは先頃、パルマ・デ・マロルカのすべての家庭に書状を配って、エホバの証者と話をかわしてはならないとカトリック教徒に通知したのと同様です。カトリックの週刊誌「アメリカ」の一九六一年六月二十四日号にも、同様なことが出ました。これはクリスチャンが、光を輝かせるという務めをはたすことですか。ペテロ前書三章十五節(新口)に次の言葉を書いたのは、使徒ペテロではありませんでしたか。「ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい」。

 「フベンタッド・ミシオネラ」の記事は、カトリック教徒にはその信仰をエホバの証者と話し合う用意がない理由を、述べていません。むしろ筆者は、エホバの証者が聖書の浅薄な知識しか持っていないと述べて、証者を攻撃しています、「彼らが聖書を深く研究したなどと信じてはいけない。彼らは毎週集まって、その雑誌『ものみの塔』の中に出てくる聖句を一緒に読むに過ぎない。彼らはそれで満足している。聖書をよく知っているように見せかけるには、それで十分なのだ」。

 自分の信仰をエホバの証者と話し合える人な

らば、エホバの証者が聖書をよく知っていることに気づいています。多くの人は、毎週五回のエホバの証者の集会に一緒に出席しました。そしてエホバの証者が、聖書の預言、クリスチャンの教え、聖書の原則、その他多くの関連した事柄を、きわめて深く研究しているのを見ています。「フベンタッド・ミシオネラ」に先の言葉を書いた人は、エホバの証者が聖書の浅薄な知識しか持っていないと述べていますが、本当にそう考えていないことは明らかです。なぜなら次のように言葉をつづけているからです。「エホバの証者と論議してはならない。あなた方は聖書の知識が足りないために、問題を解く確信が持てなくなるであろう。そしてエホバの証者の巧妙な手口にかかって彼らの網に捕らえられてしまう」。この言葉が示しているように、知識を持たないのはエホバの証者ではありません。しかし、エホバの証者は、聖書の話をするときに、「巧妙な手口」を使いますか。証者が聖書を人々に読むだけで、説明しなければ、ホセ・リコは喜ぶことでしょう。この牧師は、自分の教区民がカトリックの教えと次の聖句とをくらべてみることを、喜んで許すでしょうか。

    御自分の聖書をしらべて下さい

 たとえばマタイ伝二十三章九節において、「また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなた方の父はただひとり、すなわち、天にいます父である」(新口)と、イエスは言われました。前後の句を見ると、イエスは「ラビ」

のような他の宗教的称号を使うことも許していません。「神父」という称号を用いて牧師に呼びかけるカトリックのならわしを、主の教えとくらべてごらんなさい。カトリックの行いの間違いを誠実な人々に納得させるのに、巧妙な手口は必要ありません。

 同じく、聖職者の独身生活とか、一定の日に肉食を禁ずるカトリックの行いを、次のような聖句とくらべるのに、巧妙さを必要としません。「しかし、御霊は明らかに告げて言う。後の時になると、ある人々は、惑わす霊と悪霊の教えとに気をとられて、信仰から離れ去るであろう。それは、良心に焼き印をおされている偽り者の偽善のしわざである。これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである」。「監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり」。--テモテ前、四ノ一ー三。三ノ二、新口。

 崇拝に像を使うことが、「それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい」と述べたパウロの霊感による警告の言葉と一致しないことは、特別な教育のない人でも分かります。(コリント前、一〇ノ一四、新口)また像の使用は、ヨハネ第一書五章二十一節にある使徒ヨハネの言葉、「子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい」(新口)とも一致していません。カトリックの牧師のなすべき、愛のある、聖書

[763] 的な行いは、「偶像を礼拝する者」が神の国をつがないことを、信徒に警告することではないでしょうか。--コリント前、六ノ九。黙示、二二ノ一五。

 三位一体(神とキリストが同等であると教える)というカトリックの教えを、「父がわたしより大きいかたである」(ヨハネ、一四ノ二八、新口)と述べたイエスの教えとくらべるのに、何のごまかしも必要ありません。コリント前書十一章三節に使徒パウロの述べた「キリストのかしらは神である」(新口)という言葉からも、イエスの言われたことの意味は明らかです。キリストは神に従うのであって、神と同等でないことは、聖書から見て全く明らかです。--コリント前、一五ノ二八。

 聖書のエゼキエル書十八章四節とマタイ伝十章二十八節(この牧師の引用している句の前半だけでなく、その全部を読んで下さい)を開くと、カトリックの教えとは違って、人間の魂は死ぬこと、滅びることが分かります。パウロによれば、彼の時代においてさえ、神のほかに不滅性を持つのはキリストだけでした。(テモテ前、六ノ一六)従ってだれでも生来、「不滅の魂」を持っているのではありません。天の生命を追い求める競争に入るクリスチャンは、不滅性を持たないからこそ、それを求めるのです。この事実を認めるのに、何のごまかしもいりません。--ロマ、二ノ七。

 カトリックの神学者は、イエスの母の肉体が

神によって天にあげられたと教えるかも知れません。しかし「肉と血とは神の国を継ぐことができない」(コリント前、一五ノ五〇、新口)ことを強調している聖書の言葉を、人々に無視させることはできません。また牧師は、ミサの儀式によって日毎にキリストの犠牲をくり返すと教えます。その事を信じたいならば、そうしなさい。しかし聖書を取り出して、パウロの次の言葉を読むことが「ごまかし」であるなどと言うべきではありません、「ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神の御前に出て下さったのである。大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストはそのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現われたのである」。--ヘブル、九ノ二四ー二六、新口。

     だれの弟子

 カトリックの牧師が、カトリックの人々に向かってエホバの証者と聖書を論じてはいけないと言い、また「改宗を図る彼らの活動を警察に密告せよ」とすすめている理由は、これらの聖句から明らかです。自分でも認めているように、聖書の知識のかぎを人々から取り上げてし

まった牧師は、聖書の自由な討論を人々に許すとき、失うものが多いのです。それはイエスの証言活動によって、ユダヤの「祭司長たち」が多くのものを失ったのと同様です。

 ご自分のカトリック聖書を開いて、マタイ伝二十六章四十六ー五十節をお読みになれば分かる通り、イスカリオテのユダは、これらの宗教家の言いなりになってイエスを裏切りました。従って今日、それと同類の人々の手によって、キリストの足跡に導かれる代りに、ユダの道に導かれないように注意して下さい。それは、エホバの証者が、良いたよりのために自由を失うのをいとうからではありません。しかし、あなたは、きわめて悪い助言のために、永遠の生命を失うことを望みますか。

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