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[雑誌の副記事]

宗教は自分だけの問題ですか編集

     宗教のことを話し合わない人がいます。宗教は話し合うことのできないほど、微妙な問題ですか。

 「宗教の話でしたらお断りします。それはまったく個人の問題ですから」。宗教あるいは聖書の話が持ち出されると、多くの人はこう言います。宗教の話をすると、気を悪くする人さえあります。そして「私は自分の心の中で宗教を大切なものにしています。宗教の話をすることはお断りします。あなたに何か言われることは、迷惑です」。と言うような返答をするかも知れません。しかし宗教は生命の問題であるゆえに、物事を正しく考える人であれば、この問題について聖書の述べる事を喜んでしらべるはずではないでしょうか。

 イエス・キリストの教えた宗教をもつには、個人の決定と個人の確信が必要です。イエス・キリストの使徒は次のことを明言しました、「人は心に信じて義とされ…る」。(ロマ、一〇ノ一〇、新口)心に信ずる以上、個人的な確信を持つことは必要です。しかし宗教がこのように個人的なものであることは、何を意味しますか。宗教の問題を話し合ってはいけませんという事ではありません。それは先祖から受けついだというだけの宗教、あるいは内奥の確信なしに口先で信者と称しているだけの宗教が、本当の宗教ではないという事です。それは聖書のいう宗教ではありません。ほんとうの信仰は、人が持つから自分も持つというものではありません。それには自分が聖書を勉強したうえで、自分の決定を下し、全能の神に自ら献身することが必要です。

「私の宗教は心の中にあり、神は私の心をご存じです」という人がいます。では、宗教のことを話し合うのはなぜですか。なぜなら、心に信ずることは、第一歩に過ぎないからです。心の中に始まって心の中で終わる信仰は、キリスト教ではありません。「心に信じて義とされる」と言ったキリストの使徒は、それですべてを言いつくしているのではありません。更に言葉をつづけて次の要求をも述べています。「人は…口で告白して救われるからである」。(ロマ、一〇ノ一〇、新口)ですから神の新しい世に救われるには、心で信じる以上のことが必要です。「口で告白して救われ」なければなりません。

     口で告白する

 使徒は次のことを明白にしています。すなわち人は神の言葉を心の中に入れなければなりません。そして神の言葉の述べる事柄を心に悟り、神が御子を世に遣わしたこと、また死からよみがえらせて神の右にすわらせたこと、キリストによる神の御国は人間を救う唯一の希望であることを心に信じて、確信を抱かねばなりません。このことを信じ、以前の生活を悔い改めた信者は、自分自身で次の決定をしなければなりません。すなわちイエスのなさったように自分の生命を神にささげ、水の洗礼[:バプテ(ィ)スマ:浸礼] によってその献身をあらわすことです。自分自身にかかわるこれらの事をして後に、真の崇拝者は口で言い表さなければならず、神の新しい世において救いを全うするまで、そのことをつづけなければなりません。口で言い表すこと、すなわち人々の前であかしすることは、永遠の生命を得るためにどうしても必要です。神の御子はそのことを明白にされました。

 「凡そ人の前に我を言ひあらわす者を、人の子もまた神の使たちの前にて言ひあらわさん。さ

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れど人の前にて我を否む者は、神の使たちの前にていなまれん」「邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。-ルカ、一二ノ八、九。マルコ、八ノ三八、新口。

 この言いあらわすとは、何のことですか。それは口先だけの崇拝、理解のともなわない形式、空しい儀式ではありません。それは理知的な告白すなわち真理を理解し、それを固く信じたうえで言いあらわすことです。それは心にあふれることを口が語るのでなければなりません。イエスは言われました、「おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである」。(マタイ、一二ノ三四、新口)心に真理の宝を持って、それを固く信ずるとき、口は良いこと、徳を高めることを語ります。このように信じたならば、言いあらわすことがそれにともなわなければならないゆえ、単に信じているだけでは不十分です。信じてのち、信者は自分の表現力を用いて、他の人の前で信仰をあかししなければなりません。そのことをしてのみ、人は王イエス・キリストによって言いあらわされ、救われるでしょう。

 イエスが神から受けた真理を他の人々に語らず、伝えなかったとすれば、キリスト教は存在しなかったことでしょう。イエスは生命と希望の音信をもたらしました。しかしイエスが神からのこの真理を伝達しなかったとすれば、わたしたちには希望がなかったことでしょう。しかし私たちは真理を知り、確固とした希望の基礎を知っています。そこで霊感の下にヘブル書を書いた人は次の良い助言を与えました、「わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け…ようではないか」「だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか」。(ヘブル、一〇ノ二三。一三ノ一五、新口語)このようにクリスチャンの信仰を「告白する」ことは神の御要求であり、また「たえず」そのことをしなければなりません。

 神の要求されるこの言いあらわすことには、二つの種類があります。まずそのひとつは、同じことを信ずる仲間の信者の前で公に言いあらわす、すなわち告白することです。真のクリスチャンは、その言葉によって仲間の信者を励まさなければなりません。従って霊感の言葉を書いた人は、望みを公に言いあらわすことの必要を述べた後で、次のようにつづけています。「愛と善行とを励むように互いに努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互いに励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか」。(ヘブル、一〇ノニ四、二五、新口)このようにクリスチャンは仲間の信者をよいわざに励まさなければなりません。会衆の集会その他の交わりの時に、発言し、注解を述べ、他の人々を励ますことが必要です。このすべては励まし合う結果になります。他の人はあなたの注解から益を受け、あなた自身は他の人々の注解を聞いて励まされるからです。この愛と良いわざに励ますことは、定期的に行なわなければなりません。「『きょう』といううちに、日々、互いに励まし合いなさい。ーヘブル、三ノ一三、新口。

     信仰の異なる人に語る

 仲間の信者に語るのはひとつのことです。しかし異なった信仰を抱く人々に宗教のことを話すのはどうですか。私たち自身の考えで事を決めてはなりません。イエス・キリストは本当のクリスチャンすべてのために、手本を残しました。私たちはペテロの述べたようにイエスの手本に「しっかり」と従わなければなりません。(ペテロ前、二ノ二一)さてイエスがナザレの会堂におはいりになったとき、その言われた事柄と行いに注目しましょう。イエスは巻物を開いて、イザヤ書六十一章一、二節を読み、それをご自分に適用されました。「すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、『エホバの御霊は私にのぞんでいる。エホバは、貧しい者に良いたより宣べ伝えるために、わたしに油を注いだ。とらわれ人にゆるしを伝道し、盲人の目を開き、打ちひしがれた者に自由を得させ、エホバの受けいれ給う年を宣べ伝えるために、エホバは私をつかわした』」(ルカ、四ノ一七ー一九、

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新世)他の人々に伝道し、語るという点で、イエスは手本を残しました。またイエスは他の人々を遣わして、神の御国を宣べ伝えさせました。

 イエスの追随者は神の御子から聞いた事柄を自分たちの心に秘めておかず、会う人ごとに、生命を与える神のすばらしいご準備のことを知らせました。彼らはキリスト教を個人的なものと考えました。しかし神のよい言葉を他の人々に語る個人的な責務があるとの観点からも、それを個人的なものと考えたのです。主イエスを死にわたした法廷の前に引き出されたとき、ペテロとヨハネはキリストのことを公に語ったとの理由で訴えられました。そして二人はその事実をすぐに認めました。そこで法廷は、再びその事をしてはならないと厳しく言い渡したのです。「そこで、ふたりを呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。ペテロとヨハネとはこれに対して言った、『神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない』」ー使行、四ノ一八ー二〇、新口。

 「宗教は私個人の問題です。宗教のことを話すのはお断りです」。聖書のどこを見ても、イエスの追随者がこのように言ったことは記録されていません。全くその正反対です。イエスの追随者は他の人々に語る個人的な責務を感じていました。それは正しいことです。イエスは、良いたよりを語る者、宣明者、伝道者、奉仕者、伝達者となることを弟子たちに教えたのです。また昇天の直前にイエス・キリストの言われた言葉は、語ることの必要を述べていませんか。たしかにそうです。その重要な言葉は、使徒行伝一章八、九節(新口)に記録されています。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。クリスチャンは神の御国の真理を語り、証言します。それをやめることはできません。

       柔和な性質が必要

 宗教の話になると、啓発されるよりも、感情に走る議論になるから、宗教を論じないという人がいます。しかし聖書に従えば、クリスチャンはこのような理由で口をつぐんでいるべきですか。決してそうではありません。使徒パウロは明白に述べています。「主の僕たる者は争ってはならない。だれに対しても親切であって、良く教え、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は、彼らに悔い改めの心を与えて、真理を知らせ…るであろう」。(テモテ後、二ノニ四、二五、新口)本当のクリスチャンは聖書の真理を語るとき、激したり、怒ったり、心を乱したりしません。争う必要は少しもありません。「だれに対しても親切であって」、反対する者にも「柔和な心で」語ることが必要です。そうすれば、言い争いになることは決してないでしょう。

 私たちの希望について聞かれたならば、どうすべきですか。聖書の神を崇拝するのであれば、使徒ペテロの述べたことをしなければなりません。「いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい」。(ペテロ前、三ノ一五、新口)ですからあなたの希望について語りなさい。しかし「やさしく、慎み深く」そのことをしなければなりません。

 クリスチャンにとって、語るのをやめることのできない別の大切な理由があります。ハルマゲドンの宇宙的な神の戦争において、この組織制度が間もなく滅ぼされることを他の人々に警告しなければなりません。それは生命の問題です。大洪水の前、ノアが語ることの必要を感じたように、今日でも神を本当に崇拝する人々は事態のさし迫っていることを感じています。またこの時代に対するイエスの預言、「この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来る」ということを知っています。ハルマゲドンにおいて終りの来る前に、設立された神の御国の良いたよりを、全地の国民に宣べ伝えなければなりません。警告を与えるために証言しなければなりません。この世を滅ぼす神の御目的を知りながら、他の人々に警

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告を与えないならば、エゼキエル書三章十七 十八節にしるされた原則に従って、その人は神の前で責任を問われるでしょう。語る能力を用いて他の人々に警告を与えるべきであったのに、その人は口をつぐんでいたからです。使徒パウロは、神の真理を他の人々に語ることをさしひかえず、「家々で」教えることをさえしたので、「わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである」と言うことができました。御国の希望を語り、御国の力がこの悪い世に対して間もなくどのように表わされるかを語るならば、私たちは「すべての人の血について、なんら責任がない」と言うことができます。ーマタイ、ニ四ノ一四。使行、二〇ノ二〇、二六、ニ七、新口。

       何をすべきか

 聖書のことを話すのを敬遠する傾きのある人は、どうすべきですか。それを直すために、早速、処置を講じなければなりません。ひとつには、神の言葉をもっとよく知る必要です。多くの人は知識がないために、自分の持つ希望を話し合うことを拒絶します。宗教の問題は余りに微妙なので話し合うことができないと言うなら、その宗教は感情と情緒に基づいており、聖書に基づいていません。聖書の教える真の宗教は、理にかない、事実に基づいているもので、他の人に伝えることのできるものです。しかしクリスチャンは自分の希望を他の人に語ることのできるために、知識を得なければなりません。

 では、別の信仰を持つ人から、宗教について話しかけられたとき、どうすべきですか。聖書の神を崇拝する人は、静かに相手の言葉に耳を傾け、それから折を見て機会をとらえ、自分の希望を説明するでしょう。他の人が話しているとき、なぜその事を信じているのかを質問しなさい。聖書からその希望を説明することを相手の人にすすめなさい。柔和な態度であなたの御国の希望を相手の人に説明しなさい。

 あなたの希望について他の人に語るとき、相手の人が「宗教は個人の問題ですから、宗教のことについてはお話しできません」と言うならば次のように言えます。「そうですね。宗教はたしかに各人が自分の心の中で確信を持つことです。しかし、私にとって、私の信仰を語ることは少しもさしつかえありません。ーーー事実、語ることは私の信仰の一部ですから、私がどうして希望を持ち、幸福になったかをお話ししたいと思います」。

 本当のクリスチャンは、神と神の御国について「語らないわけにはいかない」のです。宗教のことを話し合おうとしない人は、聖書の神の崇拝者ではありません。しかも聖書の教えとは正反対の道をとっています。たしかに宗教は心の問題ですが、人は「口で告白して救われる」のです。ーーロマ、一〇ノ一〇、新口。

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[研究記事]

自分のために友だちを作りなさい編集

   「不義の富をもて、己[おの]がために友をつくれ。然[しか]らば富の失[う]するとき、その友なんぢらを永遠の住居[すまい]に迎へん」ールカ、16:9。

 1 聖書は、正しい種類の友だちを得る方法、およびその友だちを保つ方法を告げるただ一つの本です。この世の多数の本は、友だちのつくり方について助言を提供しています。しかし、これらの本の助言に従っても、幸福は得られません。友だちをつくることについてのた・し・か・な・権威である聖書に頼るときにのみ、私たちは正しい種類の友だちを得て、真実の幸福を見出すことができます。

 2 神の御子イエス・キリストご自身が、「己がために友をつくれ」と言われている故、このことは肝要なことにちがいありません。友情についての模範を示したかたが、イエスご自身であったことも適切でありました。「人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」。(ヨハネ、一五ノ一三、新口)イエスは、彼に従う

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1 友だちをつくることに関する信頼すべき助言はどこにありますか。  どんな結果がともないますか。     2友情についてイエスは何と言いましたか。    彼の残した模範からどんな益が得られますか。 

[二段目]

すべての人をあがなう犠牲として、ご自分の完全な人間の生命を捨てました。かくして、彼らは、エホバという御名を持ちたもう彼の天の父と親しい関係にはいることができるようになったのです。イエスは、彼の生命を捨てることにより、エホバ神への忠実な友情を証明しました。また、イエスと同じく天の御父に忠実に献身しているすべての人々に対しても、彼の友情を証明しました。

 3 真実の友とは何ですか。イエスの例から分かるごとく、友は忠実な者でなければなりません。また利己主義や貪欲でその忠実をやぶることのない人でなければなりません。イスカリオテのユダは、貪欲のために忠節を破った者です。彼は金もうけの機会に面したとき、最善の友、主イエスに敵対し、銀三十枚で敵の手に彼を渡しました。彼はその際に、偽善的にも友情を持っているかのような振りをしました。「彼はすぐイエスに近寄り『先生、いかがですか』と言って、イエスに接吻した。……このとき、人々進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた(マタイ、二六ノ四九、五〇、新口)ほんとうに彼は偽りの友でした!彼は金銭を愛したために、最善の友から離れてしまい、イエスの死をはかった者たちの手に彼を渡してしまいました。聖書の次の言葉は真実に正しいものです、「世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい[:現行新世界訳:固く付く]友もある」。ー箴言、一八ノニ四、新口。

 4 それで、真実の友は兄弟よりも密接な関係を保つようになり、その忠節と友情は一定しています。彼はある日には暖かくて親しみ深く、別の日には冷たくてツンと離れているようなことがありません。箴言一七章一七節は、次のように述べています。「友はいずれの時にも愛する、兄弟はなやみの時のために生れる」。真実の友は、困った時の友を助けます。この点に関して、ヨナタンとダビデの例から私たちは友情について多くのことを学ぶことができます。真実の

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3, 4 (イ)真実の友にはどんな性質が必要ですか。   ユダはどこで失敗しましたか。  (ロ)「兄弟よりもたのしい[たのもしい??!:誤植??!]友もある」ことを示すどんな例がありますか。   どうしてそうですか。

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友情をつくりあげる愛、忠節、および無私の気持ちおよび他の性質は、みなこのすばらしい例の中に見出されます、「ヨナタンの心はダビデの心に結びつき、ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛した。ヨナタンとダビデとは契約を結んだ。ヨナタンが自分の命のようにダビデを愛したからである。ヨナタンは自分が着ていた上着を脱いでダビデに与えた。またそのいくさ衣、およびつるぎも弓も帯も、そのようにした」。(サムエル前、一八ノ一、三、四、新口)後日、ヨナタンがギルボア山で戦死して後、ダビデは友を失ったことを深く嘆いて次のように言いました、「わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためにわたしは悲しむ。あなたはわたしにとって、いとも楽しい者であった。あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく、女の愛にも勝っていた」。(サムエル後、一ノ二六、新口)この例からもはっきり分かるとおり、「兄弟よりもたのもしい友もある」。

 5 しかし、そのようなすばらしい友情が可能になったのは何によりましたか。エホバ神に対するたがいの愛と献身および忠節からです!それで、次のように述べられています。「異教の国に見られた友情でヨナタンとダビデの示した性質に匹敵するものは一つもない。『ギリシャとローマが示しうる最善の友情も、この友情にくらべると遜色を示す』」*。ヨナタンはエホバ神と彼の御心を第一にしたので、無私の気持ちと忠節を示すことができました。ヨナタンはサウロのむすこであったため、王位継承者でした。しかし、エホバが、サウロ王から恵みを取りのぞいて、王位継承者ヨナタンではなく、ダビデに恵みを与えたとき、ヨナタンはダビデを憎みませんでした。サウロはダビデを敵対者と見なして、彼を殺そうとしましたが、ヨナタンはダビデを敵対者と見なしませんでした。しかし、ヨナタンはエホバの恵みがダビデに与えられていることを認め、神の取り決めに神権的に従いました。ダビデとヨナタンの両方が、まずエホバ神に忠節を示すことによってのみ両人のすばらしい友情は可能になりました。それで、まず第一にエホバ神を愛さないなら、またエホバ神への忠節を示さないなら、人間の友情の基礎は必ず不安定なものです。

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5, 6 信頼すべき友情の基礎は何でなければなりませんか。 どんな例はこのことを示しますか。

*ヘイスチング著「宗教と倫理の百科事典」(英文)第六巻一三二頁

 6 ダビデはまた、偽りの友を持った経験があります。ダビデの機敏な議官アヒトペルは「友らしい見せかけの友」の一人でした。(サムエル後、一五ノ二。詩、四一ノ九。五五ノ一二ー一四)不忠実になったダビデの友たちは、イスラエルの真実の王エホバへの愛と専心の献身を失いました。一方モアブ人の女ルツはそれらの性質を持っていたので、ナオミに対して忠実な友情を示しました。「ルツはしゅうとめを離れなかった」。(ルツ、一ノ一四、新口)エホバ神へのゆるぎない献身こそ、永続する友情、信頼し得る友情の基礎でなければなりません。

     自分のために正しい友を選ぶ 

 7 それで、正しい種類の友は、クリスチャンをして、最高の神の忠節を保つことを励ますものでなければなりません。エホバを愛する者だけが、このことをすることができます。ユダのヨシャパテ王の犯した間違いから、私たちは教訓を得ることができるでしょう。エホバの友であったこの王は、神の友でないイスラエルのアハブ王と交わるという間違いをしました。この悪い王は、ヨシャパテにギレアデのラモテ奪還戦に参加することを願いました。ヨシャパテは、それに同意しました。バアルの預言者たちはその遠征の成功を預言しましたが、そのときにいたただひとりのエホバの預言者ミカヤは、アハブの死を預言しました。アハブは、戦場に出かけたとき変装しました。しかし、ユダの王には王衣を着用することを提案したのです。ユダの王は射撃隊の良い目標になりました。戦争の最中、スリアの戦士はみな王衣を着用していたヨシャパテがイスラエルの王であると考え、彼に攻めかかってきました。「ヨシャパテよばはりければエホバこれを助け給へりすなわち神彼らを感動して之(これ)を離れしめ給ふ」。(歴代誌略下一八ノ三一)エホバの預言者の語った言葉どおり、アハブは死にました。ひとり

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7 (イ)正しい種類の友は、何をすることができなければなりませんか。  (ロ)ヨシャパテ王は友情に関して、どんな間違いをしましたか。  どんな結果が彼にのぞみましたか。

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の人が何気なしに弓を引いて射たら、その矢はイスラエルの王にあたって彼を殺しました。ユダの王がエルサレムに戻ると、先見者ハナニの子エヒウは、ヨシャパテに次の言葉を告げました、「汝悪しき者を助け、エホバを悪(にく)む者を愛してよからんやこれがためにエホバの前よりいかりなんぢの上にのぞむ」。歴代誌略下一九ノ二。

 8 ヨシャパテは悪い間違いをしました。彼はエホバ神を憎む者に対して友情をつちかい、その者を助けました。クリスチャンは友を選ぶとき、「エホバを悪(にく)む者を愛してよからんや」と述べた預言者の言葉に留意することが良いでしょう。神のしもべは、不適当な友情に対して警戒すべきであります!私たちが神の恵みを受けるか、怒りを受けるかは、かなりの程度まで、私たちのつくる友人関係に依存しているのです。最高の神のしもべが、神の是認しない者と交際するなら、神はその僕を有罪者と見なしますが、そのことにおどろくべきではありません。私たちは神の是認しない者と交際しながら、神の友情を得ることはできません。

9 悪い友と交わる人は、腐敗的な影響を受けるためその人を信頼することはできなくなります。それはかならず悪い結果を生み出すからです。「知恵ある者とともに歩む者は知恵を得る、愚かな者の友となる者は害をうける」。(箴言、一三ノ二〇、新口)もし神の助けがなかったなら、ヨシャパテは愚かなアハブと友人関係をむすんだためにおそらく命を失ったでしょう。

 10 私たちはヨシャパテの犯した間違いから益を受けるだけでなく、ダビデの残した良い模範からも学ぶことができます。彼はこう語りました、「わたしはむなしき人とともにすわらざりき、悪をいつわりかざる者とともにはゆかじ、悪をなすものの會(つどひ)を憎み悪者とともにすわることをせじ、われ手をあらひてつみなきをあらわす、エホバよかくてなんじの祭壇をめぐり……」。ダビデは、あたかも証言台に立って語っているように述べています。そして彼の私生活における友人関係は罪のないものであったと証言しています。彼は、神を愛さぬ者たち、そして神の正義の戒めを愛さぬ者との交際に関しては、罪を持たないと述べています。全能の神エホバを真実に崇拝する者がみな、その友情についてダビデと同じく罪のないものでありますように!

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8, 9 クリスチャンは、ヨシャパテの間違いからどのような益を受けることができますか。  悪い友人を持つ人に対して、神はなぜ不興を感じますか。  10 ダビデは神の僕に対してどんな模範を残しましたか。

     正しい奴隷の主人を友に選ぶ

 11 私たちは、個人を友に選ぶ際に注意深くします。しかしまた、エホバの崇拝を励まさず、むしろこの世の神サタン悪魔に隷属させようとする群れ、クラブおよび制度と不適当な友情をむすぶことに対して警戒しなければなりません。(コリント後、四ノ四)それで、イエス・キリストは、彼を地方支配者にならせようとした民主主義的な運動を拒絶しました。(ヨハネ、六ノ一五)まったくのところ、イエスは地方的な王権を拒絶しただけでなく、サタンの制度の世界主権をも拒絶しました!悪魔は「この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、『もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう』」イエスはこの世の提供をことごとく拒絶しました。なぜなら、彼は神との友情をいちばん大事にしたからです。悪魔の提供を受け入れたなら、イエスは神の敵になっていたでしょう。この世との友情をつちかうなら、私たちはエホバの敵になってしまいます。神の規則[:原則??!:今で言う]は不変です、世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである」。(ヤコブ、四ノ四、新口)現在の悪い世界は神のハルマゲドンの戦争で滅亡します。そして、この世の友たちはそれと共に過ぎ去るでしょう。(ヨハネ第一書、二ノ一五ー一七)バラクとデボラの預言的な勝利の歌は、次のように預言していました。「エホバよなんじ[汝]の敵[てき]みな是[これ]のごとくに亡[ほろ]びよかしまたエホバを愛[あい]するものは日[ひ]の真盛[まさかり]に昇[のぼ]るがごと[如]くなれよ」。ー士師、五ノ三一

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11 (イ)私たちは人間との不適当な友情以外に、どんな不適当な友情に警戒しなければなりませんか。 イエスはどのように正しい模範を残しましたか。  (ロ)クリスチャンがこの世を彼の友にすることはなぜ愚かなことですか。

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 12 クリスチャンはまた富を友にすべきではありません。イエスは、正しい種類の友をつくることについて論じたとき、次のように語りました、「不義の富をもて、己がために友をつくれ」。富によって友をつくることができても、富を人間の唯一の友と見なしてはなりません。なぜなら、イエスは次のように説明されたからです。「僕は二人の主に兼事[かねつか]ふることあたはず、或いは之[これ]を憎み彼を愛し、或いはこれに親しみ彼を軽しむべければなり。汝ら神と富とに兼事[かねつか]ふること能[あた]はず」

 13 それで、イエスは、人は二人の主人に仕えることができないという基礎的な規則[:原則?!]を述べました。この二人の主人は、ひとりは良く、他は悪いため、たがいに反対し合っているのです。もし、このうちのどちらかに従うなら、他のものを軽蔑します。一方を愛するなら、他方を憎みます。支配者間の相違は、ひじょうに大きいため、人はその両方に仕えることができません。エホバ神は最上の、奴隷の主人です。彼は創造者で在られるがゆえに、すべての被造物の最上の所有者です。もし私たちが彼の友になることをのぞむなら、私たちは彼に忠実に奉仕し、私たちの専心の献身、私たちの生命をささげ、彼の奉仕に私たちのすべてをささげて、愛子イエス・キリストの弟子にならなければなりません。さらに、エホバはご自分の僕たちが一部の時間を彼にささげ、残りの時間を彼の憎む敵にささげることを許しません。イエスはラオデキヤの会衆に対する言葉の中で、こう述べました、「わたしはあなたのわざを知っている、あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」。(黙示録三ノ一五、一六、新口)……それで、神と御子の友情を求めるクリスチャンは、エホバと、その反対者なる主人、「この組織制度の神」なるサタン悪魔との間で、心を二分することができません。

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12, 13 (イ)なぜクリスチャンは富を彼の友にしてはなりませんか。 (ロ)奴隷の主人たちのうちどちらを選びますか。 なぜクリスチャンはふたりの主人に仕えることができませんか。

 14 神の友になることをのぞむ者は、この世の富に仕えて、悪い奴隷ー主人の奴隷になることができません。イエスは、そのことを明白に示しました。私たちは、金持ちの若い支配者のようであってはなりません。彼は神の友になることをのぞみましたが、この世の富に仕えることをやめようとしなかったのです。イエスは、彼の持ち物を売って、エホバ神に仕える貧しい者に与えよと告げました。「そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、私に従ってきなさい」(マタイ、一九ノ二一、新口)若い支配者に前述の言葉を語ったイエスは、人は二人の主人に仕えることができない、という規則[:原則??!:今で言う]を適用していたのです。エホバ神への専心の献身こそ大切なものでした。金持ちのこの支配者は、エホバのものをエホバにささげましたか。あるいは、富に仕えることを好みましたか。彼の下だした決定は間違っていたので、彼は神の友になるというすばらしい宝を失いました。富は有用なものです。そして、富を用いて、神と御子の友になることが、富の正しい使い方であるとイエスは示しています。このことを知る神のしもべは富に決して隷属しないでしょう。むしろ、富をエホバ神の奉仕に用いるでしょう。さもなければ、もし私たちが富を私たちの友にして、富に支配されるなら、私たちはエホバ神と敵対関係にはいります。なぜなら、私たちはこの世の友になり、エホバ神の憎むべき敵、この世の神に仕えるからです。

 15 真実に永遠の生命を求める者たちにとって正しい友とは、最上の奴隷の主人、エホバ神と、「万物の相続者と定め」られた彼の御子です。(ヘブル、一ノ二、新口)神とイエス・キリストの奴隷になる人は、憎まれた立場に入りません。彼が圧迫されて足下に踏みつけられ、かつ主人の目的については何も知らないということはありません。神と御子に忠実に忠実に従う奴隷

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14 (イ)友情に関して富める若い支配者はどこで失敗しましたか。 (ロ)なぜ富を正しく用いることは、肝要なのですか。

15 (イ)私たちがつくらねばならない正しい友だちはだれですか。 彼らの奴隷になることが、嫌悪すべきことでないのはなぜですか。  (ロ)イエスは、彼に従う者たちに対する友情をどのように証明しましたか。  しかし、何が取り消されませんか。

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になることにより、人は彼らの友になります。忠実な弟子たち告げたイエスの言葉を深く考えて下さい。それはわたしたちの心を奮いたたせます、「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである」。(ヨハネ、一五ノ一四、一五、新口)ふつうの場合、主人と奴隷の関係は冷くて形式的なものです。ところがイエスに従う者たちは、彼の奴隷になりますが、同時に彼の友にもなります。イエス・キリストは、「その友のために」魂を捨てて、彼の友情を証明しました。(ヨハネ、一五ノ一三、新口)イエスの払った価は、彼ご自身の貴重な血でした。それで、この友情はクリスチャンが神とイエス・キリストの奴隷であるという事実を無効にしません。もしクリスチャンが友好的な奴隷と主人の関係を保つことをのぞむなら、彼らはこの世およびその奴隷の主人なるサタン悪魔と親しい関係をむすぶことに対して注意するべきです。人は二人の主人に仕えることができません。

 16 どのようにすれば私たちはエホバとその御子の友になれますか。それはいまなぜ急を要することですか。イエスは、ルカ伝十六章のなかで家の執事についてのたとえ話をされました。この執事は失職しそうになったので、富を用いて友をつくることに関し実際的な知恵を示しました。今日の執事は給料をもらうのが習慣です。しかし、イエスのたとえ話に言われている執事は給料をもらいませんでした。彼は解雇されるなら、物乞いをするか、穴掘りのようないやしい仕事をすることが必要でした。この執事は穴掘りをするほど壮健でなく、また物乞いをすることも望まなかったので、彼の主人に借金している人々の負債額を少なくしました。すると、彼が執事職から解雇された時、人々は彼を家の中に暖かく迎え入れるでしょう。なぜなら、彼は富によって彼らの友になったからです。こうすれば、穴掘りのようないやしい仕事をしなくても、また物乞いのようなはずかしいことをしなくても、生計が立ちます。彼は先見の明を持っていました。そして、富あるいは物質を使用して友をつくることに実際的な知恵を働かせました。クリスチャンもそれに似た実際的な知恵を働かすべきであると、イエス・キリストは言われています。「不義の富をもて、己がために友をつくれ、然らば富の失[う]するとき、その友なんぢらを永遠の住居に迎へん」。ールカ、一六ノ九。

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16 イエスは家の執事についてのどんなたとえ話をしましたか。 イエスはどの点を強調しましたか。

 17 エホバ神とイエス・キリストだけが、「永遠の住居」を持っておられます。彼らは、この「永遠の住居」に、その友だけを迎え入れます。今日、多数の人々は住宅の不足、住居費の高いこと、および高い家屋税を憂慮しているため、神の正義の新しい世における永遠の住居にはいるということについては、ほとんど考慮を払わないでしょう。それは「正義の宿る」新しい世であるだけでなく、神はその世について、次のことを私たちに保証しています。「もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。(ペテロ後、三ノ一三。黙示、二一ノ四、新口)これこそ神がその御言葉の中で約束しているものです。あなたはそれを信じますか。ヨシュアが

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17 (イ)エホバとイエス・キリストは何を持っておられますか。 大ぜいの人々は何について考えをめぐらしませんか。 (ロ)この世の不安定な富や生活とは対照的に、神の約束についてのどんな知識は、 私たちをして実際的な知恵の道に従わせますか。

[366]

イスラエル人に告げたごとく、エホバの御言葉は必ず成しとげられます。「汝らは一心一念に善く知るならん、汝らの神ヱホバの汝らにつきて宣[のたま]ひしもろもろの善き事は一[いつ]もかくる所なかりき皆なんじらにのぞみてその中に一[いつ]もかけたるものなきなり」。(ヨシュア、二三ノ一四)正義の新しい世に関する絶対に確かな神の約束があるのに、なぜ永遠の住居をこの世の中に求めるのですか。それを求めても、その努力はむだでしょう。なぜなら、富は一晩の中に消失してしまうかも知れず、人の生命も同じくたしかなものではありません。それで、実際的な知恵の道は、万物の建築者と彼の御子イエス・キリストを友にするために私たちの物質を用いることです。御子イエス・キリストは、弟子たちにこう語られました、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、私はそう言っておいたであろう。あなた方のために、場所を用意しに行くのだから」。(ヨハネ、一四ノ二、新口)そうすれば、富がなくなるとき、私たちが新しい世の「永遠の住居」にあたたかくむかえ入れられることは保証されています。

 18 神がわいろを取られる、あるいは私たちが金を払って神の怒りを避けることができるということですか。そうではありません。アナニヤとサッピラは、神の恵みを買って、よい評判を立てることができると考えました。利己的な目的のために、お金を出しても、それは神に対する友情を示す行いではありません。ふたりにはそのことが理解できませんでした。さらに以前に魔術を使っていたシモンという人は、お金を払えば神の恵みが買えると考えました。ところが、彼の考えは当たらなかったのです。ペテロは彼にこう告げています。「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと考えているの」か。(使行、八ノ二〇、新口)お金は神の賜物を買うことができません。もし、そうなら、金持ちは有利な立場にいて、神の新しい世に住む権利を前もって買いしめることができます。しかし、神は金銭を目当てにしません。神はかたより見ません。人は、たとえその持物がわずかで、すこしであっても、神とその御子の友になれます。

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18 なぜ金銭で神の贈り物を買うことができませんか。 だれが神の友になれますか。

 19それでは、神の友になるため、私たちは富と物質をどのように用いますか。神を買収するのではなく、神をあがめることです!神は全世界を所有しています。そして、「銀はわたしのものである」。「林のすべての獣はわたしのもの、丘の上の千々の家畜も私のものである」とエホバは言われています。(ハガイ、二ノ八。詩、五〇ノ一〇、新口)私たちは、物質的な面で神を富ますことができません。しかし、私たちは神の目的を他の人に語り、彼に専心の献身と忠節の愛をささげることにより、神をあがめるために自分の資産を用います。他の人々に聖書の研究をはげますとき、彼らに聖書研究の手引きの本を与えるとき、彼らと話をして、神の目的と正義の新しい世の約束を理解するように援助するとき、私たちは神をあがめるために自分の資産を用いています。

 20 神をあがめるために自分の資産を用いることによって、私たちは天に宝を積み、私たちを決して見捨てぬ方々を友にしています。その方々は、私たちを捨てず、天の御国の下にある永遠の生命という賜物を私たちに与えることができます。神とその御子を友にすることは、緊急に必要です。なぜなら、いまの世は「終わりの時」であって、間もなく行なわれる神のハルマゲドンの戦争のときに過ぎ去ってしまうからです。今こそ私たちが神と友好関係に入っていることを示す時です。今こそ私たちはすべての援助を受け入れて神の友になるときです。そのわけで、私たちが、神を愛して神に従う者、そしてイエス・キリストが「わたしの友」と呼んだ者たちと定期的に交わることは必要なのです。(ルカ、一二ノ四)エホバの証者の新しい世の社会と交わることにより、幾千名もの人々は『不義の富をもって』自分のために友をつくる道を学んでいます。「それで、富がなくなるとき、その友は彼らを永遠の住居(すまい)に迎える」でしょう。ールカ、一六ノ九。

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19 (イ)それで、神の友情を得るために、どのように金銭あるいは物質を用いることができますか。  (ロ)私たちの資力の正しい使用法は何ですか。

20 なぜいま神の友になることは緊急に大切ですか。


[別の研究記事]

[367]

神の友であるところ証明する編集

     「ヱホバよなんぢの帷幄のうちにやどらん者はたれぞなんぢの聖山にすまはんものはたれぞ直くあゆみ義をおこなひ、そのこころに眞實をいふものぞその人なる」。ー詩、15:1,2。

 1 神の友以外の人は、神の新しい世に入って、神の客として永遠に住むことができません。神は清い人、良い人だけをご自分の周りに集められるので、エホバの幕屋の客になるには要求がついています。これらの要求が何であるかは、すべての真のクリスチャンの興味の対象でなければなりません。それらの要求にかなってのみ、クリスチャンは聖書に次のごとく述べられている住居で永遠の生命という祝福をいただくことができます。「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地は消え去り、……また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた。『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして……』」ー黙示、二一ノ一、三、新口。

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1 聖書は神の新しい世をどのように述べていますか。そして、どんな要求は私たちの興味をそそるべきですか。

 2 詩篇を書いたダビデは、神の客、すなわち神の友になるための要求を、霊感の下に書きました、「ヱホバよなんぢの帷幄(あげばり)のうちにやどらん者はたれぞ、なんぢの聖山にすまはんものは誰ぞ、直くあゆみ義を行ひ、そのこゝろに真実をいふものぞその人なる かかる人は舌をもてそしらず、その友をそこなはず、またその隣をはぢしむる言葉をあげもちゐず 悪にしづめるものを見ていとひかろしめ、ヱホバをおそるゝ者をたふとび……」。ー詩、一五ノ一-四。 

 3 全能の神は特定な者だけを客として幕屋の中に入れます。そのことに驚くべきではありません。家をもっている人は、だれかれの見さかいなく、どんな人をも客として受け入れないでしょう。また、すべての人を歓待することをしないでしょう。家を持つ人は、たとえ短時間であっても悪人が家にいることをのぞまないでしょう。同じ原則は、エホバ神にもあてはまります。エホバ神はすべての人を幕屋に受け入れません。「悪人は何ぢの賓客(まらうど)たるを得ざるなり」。(詩、五ノ四)ダビデの時代において、このことは神の幕屋に関して真実でした。ダビデは、オベデエドムの家からエルサレムにエホバの契約の箱を移しました。「人々ヱホバの櫃(はこ)をかき入れてこれをダビデが其為に張りたる天幕の中なる其所に置けり」。(サムエル後、六ノ一七)この天幕の中にはいることは最高者の御前に出ることでした。ダビデは特定な者を選んでこの天幕で奉仕させました。アサフはその特権にあずかった者の中のひとりでした。(歴代誌略上、一六ノ四ー六)直(なお)く歩いた者、清く正しい者だけが、神の聖なる山に置かれたエホバの幕屋で絶えず奉仕することができました。

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2 神の友について神はどんな記述をしていますか。

3 エホバが、彼の客となる者たちについて注意深いことはなぜ当然ですか。 このように注意深くすることは、ダビデの時代にどのように示されましたか。

 4 聖なるエホバは、御前にとどまる者たちに対して、非常な注意を払います。ダビデの時代、聖なる山におけるエホバの幕屋の客になるための要求はきびしいものでした。それでは、神の聖なる家族の一員として、永久の客としてエホバの幕屋内に永住するための要求は、いっそうきびしいものにちがいありません!私たちがこの無類の特権を受けるのにふさわしい者とされ、そしてダビデと共に「我永遠になんぢの帷幄(あげばり)にすまはん」といえるようにするには、神の友であることを証明しなければなりません。「義者はその親しき者とせらる」ゆえ、神の保護と親切を永久に楽しむ者たちは、神の御前において正しい者であるため神が何を要求しているかをぜひとも学ばねばなりません。(詩、六一ノ四。箴言、三ノ三二)それで、すべてのク

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4 神の御前にとどまることに対する要求については何と言えますか。 それで、 クリスチャンの態度はどのようなものでなければなりませんか。

[368]

リスチャンは次のことを自問すべきです、「ヱホバよなんぢの帷幄(あげばり)のうちにやどらん者はたれぞ、なんぢの聖山にすまはんものは誰ぞ」。そして、どのクリスチャンも、詩篇作者の述べた答えを良く知っていなければなりません、「直(なお)くあゆみ義をおこなひ、そのこゝろに真実(まこと)をいふものぞその人なる」--詩、一五ノ一、二。

      直く歩むこと

 5 神の御前で直く歩むため、クリスチャンはエホバ神に全くより頼み、そのいましめに従うことによって、信頼していることを証明しなければなりません。最初の人アダムは、エデンの楽園内で神の客でした。アダムは永遠の住居として、神の臨在するところとして、その楽園を楽しむことができたはずです。しかし、アダムは神の友であることを証明するのに失敗しました。天の父なる主人の命令に従わなかったアダムは楽園の住居を失い、「神の園」の客になる資格を無くしました。(エゼキエル、二八ノ一三)アダムは直く歩むことに失敗して、神の友になれませんでした。

 6 しかし、聖書の中には、神の友であることを証明することに成功した人々の例がたくさん述べられています。神の友であることを証明した人々の表は、ヘブル書十一章にあります。その章の中にはアブラハムがしるされています。ヤコブは彼について次のように書きました「次に言われている聖句は成就された『アブラハムはエホバに信仰を持ち、そのために彼は正義の者と見なされた』。彼は『エホバの友』と呼ばれるようになった」。(ヤコブ、二ノ二三、新口)「エホバの友」と呼ばれることはなんとすばらしい特権でしょう!私たちはアブラハムのように、エホバの友になるための要求によろこんで応じますか。そう願うだけでは、神の友になることができません。私たちは神の友であることを証明しなければなりません。アブラハムは神への信仰と信頼を示しました。彼はカルデヤ人のウルの地を去れとのエホバのいましめに従いました。また、後にはサラから生まれた独り子、愛子イサクをもささげようとしました。それで、ヘブル書を書いた人は次のように述べています。「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によってアブラハムは、試練を受けた時、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。この子については、『イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう』と言われていたのであった」。(ヘブル、一一ノ八、一七、一八、新口)アブラハムは直くあゆみ、その従順により神への信仰と信頼を証明しました。「彼は『エホバの友』と呼ばれるようになった」。

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5 アダムは直くあゆむことにどのように失敗しましたか。 それで、 彼は何を失いましたか。

6 だれが「エホバの友」と呼ばれましたか。 そして、 なぜですか。

 7 エホバの友であるという満足感と比較できる満足感がありますか。この世の商業的な企業で成功を収めても、それは神の友情を得ることにまさるものはありません。「神に対して富む」こと以上の幸福と満足をもたらすものはありません。(ルカ、一二ノ二一)人々は商業界で成功を収めるためにひじょうな努力を払います。神のみ前で直く歩んで彼の友になる仕方を学ぶことは、それ以上の大きな努力を払うだけの価値があります。

      つねに直くあゆみつづける

 8 神の友であることを証明した人々の生活を調べるとき、彼らがつねに直くあゆみつづけたことを知ります。「エノクは真の神とともに歩・き・つ・づ・け・た・」。「ノアは正しい人であった。彼は同時代の人々の中にあって、欠・点・の・な・い・者・、であることを証明した。ノアは真の神とともに歩いた」。(創世、五ノ二三、二四。六ノ九、新世)預言者ダニエルは、つねに直くあゆみました。彼は、生涯中の危険な時に人間の知恵に頼りませんでした。彼は神の指示を求めました。彼はいつもエホバ神により頼んでいたからです。ダニエルは国の法律で禁止されていた時でさえ、自分の神に彼の思いを打ち明けました。彼は定期的に祈り、偉大な友にいつも依存していることを示しました。ダニエルはエホバに忠節を保

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7 神の友になることについての正しい価値評価は何ですか。

8 (イ)つねに直くあゆんだ者たちのどんな例がありますか。 (ロ)ダニエルの場合に見られるように、直くあゆむことはどのように可能ですか。

[369]

つため、獅子の穴に投げこまれました。異教の王ダリウスさえもダニエルがいつも彼の神に依存していることを認めました。「あなたが常・に・仕えている神はあなたを救って………」。(ダニエル、六ノ一六、二〇、新口)ダ二エルはつねに直く歩んだので、神から愛されました。そして、エホバの御使ガブリエルはダニエルに「あなたは大いに愛せられている者です」と告げています。ーダニエル、九ノ二三、新口。

 9 エノク、ノア、アブラハムおよびダニエルのしたようにいつも直くあゆむために、私たちはすべてのことにエホバを認めねばなりません、箴言三章五、六節は、次のように述べています、「汝こゝろをつくしてヱホバによりたのめ、おのれのさとりによることなかれ 汝すべての途にてヱホバをみとめよ、さらばなんじの途を直くしたまふべし」。神の助言によろこんで従おうとしない人は、神の友になることができません。つねに正しい道を歩くため、エホバに頼り、神の指示を求めよと告げるこの命令に従わないなら、その人は実際には神の献身することができません。

 10 特に神の僕がそのすべての道でエホバを認めないことは、実に愚かなことです! 特に危険な時にエホバを度外視(どがいし)するなら、災いがすぐに及ぶでしょう。ひとりの預言者にそのような災(わざわい)が起こりました。列王記略上の十三章によると「神の人ヱホバの言[葉]によりてユダヤよりベテルの来たれり時にヤラベアムは壇の上に立ちて香を焚きゐたり』、名前の告げられていないこの神の人は、その祭壇およびその上で犠牲をささげた偶像崇拝者の滅亡について、すばらしい預言を語りました。悪王ヤラベアムは烈火のごとく怒りました。彼は手を伸ばして、この勇敢な預言者を捕らえよと命じました。たちどころに王の手はかたくなってしなびてしまい、祭壇は裂けてしまいました。ヤラベアムは、手を元通りにしてもらうため、預言者の祈りを求めました。預言者は同意し、王の手は以前の健康な状態にもどりました。狡猾なヤラベアムは、利己的な理由から、彼を王宮の食事に招待しました。これは預言者の生活中、危険な時でした。彼は直くあゆみましたか。直くあゆみました。彼はエホバに従い、たとえ相手が王であっても、エホバを憎む者、そして偶像を崇拝する者との交際をきっぱり拒絶しました。「神の人王に言いけるはなんぢたとひなんぢの家の半ばも我にあたふるも我はなんぢと共にいらじまたこの所にてパンを食(くは)ず水を飲まざるべし そはヱホバの言[葉]我にパンを食らふなかれ水を飲むなかれまたなんぢが往ける道より帰るなかれと命じたればなりと」。

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9 直くあゆむための肝要な要求は何ですか。

10, 11 (イ)エホバを度外視すると何が起きますか。 (ロ)どんな危険な時が神の人の生活にのぞみましたか。 彼はどのようにそれに対処しましたか。

 11 もしその神の人が、エホバの御前で直くあゆみつづけたなら、万事は順調にいったでしょう。ところが、ほとんどすぐ別の危険が預言者の生活に起きました。この神の人が町から出たとき、そこに住んでいた「一人の老人たる預言者」が彼の道をさえぎりました。この年老いた預言者は、神の人を彼の家に招待し、パンを食べるようにとすすめました。「我は汝と共に帰る能(あた)はず汝とともに入る能(あた)はず……其はヱホバの言[葉]我になんぢかしこにてパンを食らふなかれ水を飲むなかれまたなんぢが至れる所の途より帰り往くなかれと言いたればなりと」神の人は答えました。年老いた預言者は、これを聞いてもあきらめず、偽りを語りました。彼が偽りを語った動機が何であるかは、聖書に述べられていません、「我もまたなんぢのごとく預言者[:参照資料、ch,同章、11節(オ)、サI、10:10、エゼ、13:2、アモ、3:7。:体制に属する、擁護する預言者??!] なるが、天の使[:(エ)民、22:35、裁、6:11、ガラ、1:8。] ヱホバの言[葉]を以って我に告げて彼を汝とともになんぢの家につれかへり彼にパンを食はしめ水を飲ましめよと言へりと[:(彼はその人を欺いたのである?!:(オ)レビ、19:11、申、18:20、エレ、29:31、エゼ、13:9、マタ、7:15、ペテII、2:1、ヨハI、4:1。)] 」その神の人はエホバの明確ないましめにそむき、パンを食べまたぶどう酒を飲むために帰って行きました。この結果は、災となりました。

 12 ふたりが食卓についたとき、エホバの言葉は偽りを語った年老いた預言者のところに来ました。彼は次の言葉を不従順な神の人に告げました、「ヱホバかく言ひたまふなんぢヱホバの口にそむきなんぢの神ヱホバのなんぢに命じたまひし命令を守らずして帰り ヱホバのなんぢにパンを食らふな彼水を飲むなかれと言ひ給ひし所にてパンを食らひ水を飲みたればなんぢの屍[:しかばね] は なんぢの父祖の墓に至らざるべし と」。

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12 なぜこの神の人は、直くあゆむことに失敗しましたか。 どんな結果が彼にのぞみましたか。

[370]

この年老いた預言者は、今度はエホバの言葉を正しく語ったのです。神の人は、ろばに乗って家路につきました。「獅子みちにて之に遇ひてこれを殺せりしかしてそれの屍[:しかばね] は途に棄てられ……」。獅子は人間の死体もろばをも食べず、側に立っていました。それは、その出来事が偶然でなく、神の怒りの現われをしめすしるしになりました。ー列王記略上一三ノ一ー二八。

 13 直くあゆまなかったためにまことに悲惨な結果が起こりました!神の人は間違った道を歩くことを避けるだけの十分の知識を持っていて、歩き方について直接の指示をエホバから受けていました。偽りを語った年寄りの預言者は「御使」がその指示を変えたとも言いました。では、彼はどうすべきでしたか。神の人は、エホバから直接に受けた指示と矛盾する第二次的な音信を受け入れるべきではありませんでした。神の人は何をすべきでしたか。彼はエホバのいましめ

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13 この神の人は直くあゆむために、何をすべきでしたか。

に従うべきでした。神の人はエホバから与えられた直接の指示にそむくべきでなく、その行動をする前にエホバの指示をはっきり確かめるべきでした。彼はこの危険な時に神の指示を求めるためエホバに祈ることができたはずです。この神の人は祈りをささげようとしませんでした。また、「御使」から出た第二次的な音信を調べようともせず、そのままともに受け入れて、間違った道を歩きました。彼は以前に良い記録を持っていましたが、いま神と共に直くあゆむことに失敗しました。

    僭越な行いを避ける

 14 クリスチャンはこのことから何を学びますか。特に危険な時とかなやみの時にエホバの御前でいつも直くあゆみ、つねにエホバの指示を求めるべきです。自分の考えや他の人ーーたとえその人が神の制度内で責任の地位についていようと、あるいは責任の地位についていると主張

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14 クリスチャンは、直くあゆむことについてどんな教訓を学びますか。

してもーーのすすめに従って、僭越な行いをするべきではありません。エホバの指示を求めるなら、わたしたちはさぎ師や、善意を持ちながらも自分勝手な理解にもとづいて行動する者たちにまどわされることを避けます。こうすることにより私たちは真直ぐに歩きつづけて、「ヱホバのなんぢに命じたまひし命令を守ら」なかった神の人にのぞんだようなわざわいを避けることができます。ー列王記略上一三ノ二一。

 15 神の友であることを証明し、私たちが僭越な行いをしないようにするためには神の援助を求めることが必要です。クリスチャンの祈りが、詩篇記者の語った次のような祈りでありますように、「あなたの僕を引きとめて僭越な行いをさせぬようにしてください。そのとき、私は全き者となり、大いなるとがを免れることができるでしょう」。(詩、一九ノ一三、新世)クリスチャンは、僭越な行いをしたサウロ王にならってはなりません。ペリシテ人に対する戦争の時、サウロ王はさきばしった行動をしてはならず、サムエルが来るまでギルガルで待てと預言者サムエルが来て犠牲をささげるまで国民を結集させておくことがむずかしいと見てとり、僭越な行いをして不正な道を歩きました。彼にはそう

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15 (イ)神の僕の祈りはどんなものでなければなりませんか。 そして、 なぜ?(ロ)この面において、サウロ王はどのように直くあゆむことに失敗しましたか。 どんな結果が生じましたか。

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する権威がなかったにもかかわらず、「燔祭をさゝげたり」。その直後にサムエルが来たとき、サウロは自分の行動を正当化しようとつとめ、イスラエル人が恐怖につつまれていたことおよびサムエルが遅れたことを述べました。「つとめて燔祭をささげたり」とサウロは認めました。なんという愚かな行いだったのでしょう!サウロは自分自身の知恵に頼って、『自らつとめ』、僭越にもさきばしった行いをしました。サウロは直くあゆむことに失敗したため、彼の国とエホバの友情を失いました。「しかれどもいま汝の位たもたざるべし ヱホバその心にかなふ人を求めて………」とサムエルは語りました。ーサムエル前、一三ノ八、九、一二、一四。

 16 神はその御言葉により、また祈りにより、私たちが僭越な行いをすることを引きとめます。私たちは神の書かれた御言葉、聖書を研究することによって、諸原則を学ぶことができます。エホバは、私たちがその原則に従って歩くことを望まれています。私たちは神の知恵の本を調べねばなりません。私たちは祈りをするなら、僭越な行いをしないでしょう。なぜなら、祈りによって私たちは何事をするにもエホバを認めることができるからです。神はまた彼の制度からの助言によって、私たちが僭越な行いをすることを引きとめます。異邦人に対する

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16 (イ)私たちが僭越な行いをしないように、神はどのように私たちを引きとめますか。 使徒パウロは直くあゆむことをどのように示しましたか。 (ロ)クリスチャンは迷ったとき、何を避けるべきですか。

割礼のことに関して論争が生じたとき、パウロとバルナバは僭越な行動をしませんでした。パウロは、このことについての正しい決定が何であるかを知っていましたが、勝手に行動しようとしませんでした!彼はエルサレムに行きました。そこで、使徒たちや古い人々[:長老:オールダース:Olders:エルダース:Elders??:年長者たち:長老団]の会議は、そのことを調べました。聖霊によって是認された決定が下されました。制度の手紙が準備されて、この権威ある手紙は会衆で読まれることになりました。パウロは制度からの権威を得て後になって、はじめて行動しました。(使行、一五ノ一ー三一)それで、今日では祈りと神の御言葉だけでなく、神の制度からの助言によっても、クリスチャンが僭越な行いをしないように抑制されます。危険に直面して、どちらの道に行くべきかに迷う時は、人間の知恵だけに頼ってどんどん事を押し進めることのないようにしましょう。そのような行動をしてはなりません。むしろ、神の御言葉を研究することによりエホバからの明確な指示を待つべきです。その時、私たちは真直ぐな道を進み、つねに直くあゆみつづけます。

    義を行ない、真実を語る

 17 私たちは、エホバの友であるため、いつでも「義を行な」わねばなりません。(詩、一五ノ二)クリスチャンの私生活は、神の御言葉の正義の原則に一致しなければなりません。彼の行

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17 神はそれ以外の何を彼の友に要求しますか。 このことは、友人との交渉においてどんなことを要求しますか。

動は聖なる者でなければなりません、「あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。聖書に、『わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである』」。(ペテロ前、一ノ一五、一六、新口)エホバは聖なるお方であるゆえ、ご自分の幕屋内に、悪い者、そして仲間の人間やクリスチャンの友に対して不正な行いをする者を客として迎え入れません。義を行なうために、人は友人に対して不正直な行いをしたり、あざむいたりすることはできません。また、その舌でもって彼らをそしることもできません。「なんぢは悪しきことを喜び給ふ神にあらず、悪人はなんぢの賓客(まらうど)たるを得ざるなり たかぶる者はなんぢの目前にたつをえず、なんぢはすべて邪曲を行なうものを憎みたまふ なんぢはいつはりをいふ者をほろぼしたまふ、血をながすものとたばかりをなすものとはヱホバ憎みたまふなり」。ー詩、五ノ四ー六。

 18 神は、不義を行ないをする者でも、客として彼の幕屋内に受け入れると考えることは間違いです。神の友についての次の言葉に気をつけて下さい、「その友をそこなはず」。(詩、一五ノ三)この中には大事と小事の両方が含まれているのです。「小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」。(ルカ、一六ノ一〇、新口)たとえば、友から金を借りても返済しようとしない人

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18 (イ)ちょっとした正しくない行為について何と言われていますか。 (ロ)借りることについてのクリスチャンの責任は何ですか。

は、その金額が大きくないという口実をたてても、神に許されません。「悪しき者はものかりて償(つくの)はず」。(詩、三七ノ二一)多数の人にとって、借りる者を返すことは難しく思えるようです。しかしもし彼らが真実に「義を行なう」なら、たとえ一時的に返すことができなくても、そしてかなりの期間がかかるとしても、借りたものを返すように努めるでしょう。返そうと努力することは、心の中で「義を行なう」ことを示しています。

 19 「そのこゝろに真実(まこと)をいふ」ーこれは神の客となる人に対する別の要求です。(詩、一五ノニ)心に真実を語る人は、他の人および自分自身に対して正直です。もし彼が心に真実を語るなら、彼は口でもっても真実を語るでしょう。彼はいつわりを避けるだけでなく、真理すなわち神の真理を伝道するでしょう。神がクリスチャンに語ることを要求している真理は、神の御言葉の中に見出されます。その中には、神の御子イエス・キリストのいましめ、特に神の御国の伝道に関するいましめがふくまれています。主イエスは地上に居られた時、こう言われました、「あなたがたはわたしの友である」。どうすれば彼の友になれますか。「あなたがたにわたしが命じることを行なうならば」。(ヨハネ、一五ノ一四、新口)この「終りの時」の期間

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19 (イ)『心に真実を語る』とは、どういう意味か説明しなさい。  (ロ)私たちの友情を証明することについて、イエスは何と言われましたか。  これは真実を語ることとどのように関係していますか。

中、主イエスは弟子たちに何をするようにと命じましたか。神の御国とその設立についての真理を語ることです!「この御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣(の)べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」とイエスは預言しました。ーマタイ、二四ノ一四、新口。

 20 それで、神と御子の友人になりたいと思う人はみな、この御国の真理を語る大きなわざに参加したいと思います。神の御国についての真理により、かつて神の敵であった幾千人という人々はいま神の友になっています。たしかに、神の敵であった多くの人を神の友に変えることは、大きな特権であり、すべての真のクリスチャンが負わねばならぬ責任であります。このことをするため、彼は真理を伝道しなければなりません。「心に真実を語る」人はみな、舌でもって真実を語り、他の人々に神の御国を教えます。真理により神の敵を神の友に変えるクリスチャンの責任について、使徒は次のように語りました、「神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使徒なのである。そこで、キリストに代わって願う、神の和解を受けなさい」。ーコリント後、五ノ二〇、新口。

 21 正義の新しい世は目前に迫っています。その世では「神の幕屋」が人と共にあるでしょ

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20 御国の真理を語ることからどんな結果が生じますか。 それで、 各クリスチャンにはどんな責任が課せられていますか。

21 新しい世が目前に迫っているゆえ、私たちの行動はどんなものでなければなりませんか。 どんな祝福された結果がもたらされますか。

う。「エホバよなんぢの帷幄(あげばり)のうちにやどらん者はたれぞ」。私たちが、神の御国の真理を熱心に他の人々に語ることにより、彼らも神と和解することができますように。心が真理にみちあふれて語りましょう。全人類に対する私たちの行為は、いつでも義を行なうものであるようにしましょう。エノク、ノア、アブラハムおよびダニエルの行なったごとく、私たちもつねに神と共に直くあゆみ、あらゆることに神のみちびきをいつも求めましょう。この世の終わりを経て栄光に輝く新しい世にはいっても、私たちが神の忠節な友であることを証明できますように!そのとき、私たちは詩篇記者とともに「われ永遠になんぢの帷幄(あげばり)にすまん」と述べ、喜びにあふれるでしょう。なぜなら、私たちは神の客になり、エホバの幕屋の中で永久に住むという特権に恵まれるからです。ー詩、六一ノ四。

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 「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。…そうすれば、平和の神があなたがたと共にいますであろう」。ーピリピ、四ノ八、九、新口。