FANDOM


===新しい世を信ずる基礎===

1953英文發行 1954日本文發行

(發行所)Watchtower Bible and Tract Society,Inc

International Bible Students Association

Brooklyn, New York, U. S. A.

Basis for Berief in A New World

Japanese. アメリカ合衆国で発刊 

[この冊子には質問も在りません、節も在りません]

[2] あなたの心は病気ですか?この古い世に満ちている災難(わざわい)のためにあなたの心は重いですか?しかし、不安と恐怖、争いと戦争、病気と死も間もなく無くなると知れば、あなたの心は軽くなりますか?これはあまり良すぎて信ぜられないぐらいでしょう。しかしこれは嘘であるとあなたは証明出来ますか?これを信ずる固い基礎があります。心が充分に確信して、それを認めれば、気持ちはそれをそれを信じたく思うものです。あなたの心は自由ですか?素直に確信する事が出来ますか?それともあなたの心は国家とか、人種とか、宗教上の偏見で閉ざされていますか?若(も)しあなたが偏見で目を暗(くらま)されず、またあなたの心は偏見をもたずに考えることが出来るならば、あなたはこの冊子を非常な興味でお読みになるでしょう。そして結論に於いてあなた正義の新しい世を信ずる基礎を得(う)るでしょう。--発行者

   新しい世を信ずる基礎

[3] もしのどが渇いて死ぬばかりの時に自分の好きでない国籍の人だからといって、あなたはその人から水を貰うのを断りますか?もし私たちが空腹で死ぬばかりの時にその皮膚の色は好きではないといって、あなたはその人の手から食物を貰うのを断りますか?もしあなたが病気で死ぬばかりの時に、医者の人種は好きでないといって、その医者の助けを断りますか?私たちの生命が危なくない時でもその様な偏見は馬鹿らしいものです。何故ならば、偏見は心を暗くしますので私たちは大切な事実を見ることが出来ないのです。たいていは、非常な危機の時になって、私たちは偏見を持った見方を取り除き、正しい考え方をします。現在ではそのような時にすべての人は直面して居ます。人々は偏見の幕を引き上げねばなりません。偏見があると私たちの心ははっきりと見ることが出来ないのです。一致のある新しい世に入るためには、この幕は永久に引き上げられねばなりません。なぜ今始めないのですか?今幕を引き上げましょう、そして偏見の無い気持ちでこの冊子を読むことは、少なくとも出来るでしょう。お互いに一緒に考えましょう。

 この冊子をあなたにすすめている人が、あなたとは違った人種、国民、皮膚の色であるならば、それは音信

[4] を変えますか?もしあなたが真理に聞いているならば、その真理の水はあなたの渇きを癒します。もしあなたが慰めの考えに飢えているならば、考えに就いての食物はあなたの心に滋養を与えます。希望の無い状態に、あなたががっかりしているとき、その健全な言葉はあなたに希望を再び持たせます。男でも、女でも、又子供でも、この世の道を歩いて行くならば、その最後は死なねばなりません。しかしこの厭な死が、道から取り除かれ、終わりの無い生命の道が新しい世に達するように、作られるならばどうでしょうか?その新しい世には説明出来ない程の幸福があるのです。・・世に住むことが出来るのに、・・・あなたは・・その人の言うことを聞かず、断りますか?

・・・たとえどんな立場に居ようとも、その立場の故に人は尊敬されるべきでもなく、・・・その人自身の行ないによって、・・良いか、悪いかと決定されるべきです。・・・各人の結ぶ実によって、人となりは知られます。・・・

[5] ・・正しいか間違いかは話される事、行われる事によって決められるべきであって、誰が話し・・行なったかによって決められるべきではありません。この古い世を分裂させた馬鹿らしい考えをあなたの心から取り除いてしまいなさい。そして心を自由にして、新しい考えを十分に検討し判断しなさい。それは・・幸福を意味します。・・幸福な生活こそ真面目な人々が求めているものです。

 人間に生きようとする欲望があるのは自然です。何故あなたは今呼吸して居ますか?何故ならば、生きたいからです。何故あなたは今日水を飲むのですか?何故ならば、生きたいからです。何故あなたは今日食物を食べるのですか?同じ答えです。すなわちあなたは生きたいからです。それと同じ理由で・・夜眠り、翌日働きます。休む事によって・・力を得られ、働く事によって・・・得ることが出来ます。これら・・活動を行って、どの人もみな生きたいと言う欲望を持っている・・

 私たちは呼吸をしたり、飲んだり、食べたり、眠ったり、・・また働いていますが、一体どんな種類の生命を・・選んでいますか?・・・その生命は草のように萌え出て、・・すぐ枯れます。・・咲き出て・・すぐしぼみます。・・この世の生命は非常に短く、苦しみで満ちています。・・・・・結果、不正、暴力、また戦争が起こります。・・ただ人種または政治が違うためだけなのです。貪欲な商業を見てごらんなさい。少数の者が莫大な富を得る為に、・・貧乏人は押さえつけられ、ついには・・戦争すら引き起こされ

[6] ます。軍国主義・・・大規模に人間を不具にするか、または殺すことです。・・偽りの宗教を見逃しては・・・分けられ、争い合い、迫害をいたします。・・・戦争を祝福します。

・・世界的に大きな事を見る・・他のものも見るのを止めてはなりません。大都市の貧民街を見て・・貧困、不潔、病気が満ちています。・希望のない人々は、・・小屋とか借家(かしゃ)の暗い所にひしめき合って居ます。食事も殆(ほとん)ど取れず、衣服はみすぼらしいもの・・・・避難民を見て・・・希望がなく、絶望に沈んで居ます。・・・・食い物にして居る犯罪者や、麻薬常用者を考えてごらんなさい。・・・刑務所・・・病院・・病で苦しむ人々で寝床は一杯・精神病院を見て・・・気が狂った人々で溢れて居ます。世界の一般の状態、不道徳、不信、・・不正な差別・・・家柄、教育、社会的地位、また財産が違うために生ずるものです。・・・人間の海を覆っている混乱、困惑、恐怖の雲・・・何百万という顔に書かれている無希望と絶望を読んでください。人々は苦しんでいますが、・・・生きることを欲するからです。

 地上の一地点を指して、それが災難の場所であるとは言えません。と同様に災難がない場所があるなどとは

[7] 言えません。東洋に住もうと西洋に住もうと、問題は解決されず、・・苦しんで居ます。今東洋では国家主義・・・自国民の者が外国の支配者と入れ替わっても、腐敗は続いて行はれ、暴動はしばしば引き続いて・・・貪欲と不正に反抗するということです。政権を握っている政党が変っても、それは何の救済にもなりません。・・解決は無く、・苦難は・・広く行き亙(わた)って居ます。変化しなければならない者は人間自身です。その変化とは精神と心の変化です。そのようなことは起こり得るのでしょうか?

 西洋はその教育とか科学とか工業力を使って、今まで世界の問題に大きな力を振るって来ました。・・・しかしこれは人類すべての福利のためになされてきましたか?征服欲にかられた帝国が、・・侵略した時に、圧迫は西洋から来ませんでしたか?科学の発見は・・戦争を破壊的にする・・・この世紀の世界大戦は西洋で始まりませんでしたか?・・・西洋は人類の福利に大きく貢献しましたか?・・・西洋には良いことをする力が大きいことは認められます。しかし同じ理由からして、悪をなす力も大きいのです。正直に言うならば、大抵の場合は悪人は善人

[8] を押し除(の)けて居ます。何故?それは東洋の国民が・・幸福に感じて居ない理由と同じです。・・・権力を握る者が貪欲や人種や国家に限られておりません。差別なくすべての人間に及んでいるのです。

  一冊の本に対する偏見

 間違った物語や印象は一国民に対しての偏見を引き起こしますが、全くそれと同様に間違った物語とか印象は一冊の本に対しての偏見を引き起こします。科学者はその本を貶(けな)すかも知れません。歴史家はその本を否定するかも知れません。牧師はその本を正しく教えないかも知れません。その本に従っていると主張する国も、行いが悪く、その本の上に非難を来たらしているかも知れません。このことはみな西洋に広く頒布されている一冊の本の上に起りました。それでその結果、東洋ではその本の価値を殆(ほとん)ど認めていない状態です。その本とは聖書です。

 東洋人が聖書に偏見を持つということは納得できることですが、しかしそれは正しいことでしょうか?西洋人は人種偏見、宗教の不和、政治の腐敗、不道徳、犯罪、そして他の困った問題に悩んで居ます。東洋人はそのことを知っています。東洋人は西洋から悪い支配者、貪欲な帝国、そして地球を染めた恐ろしい戦争が起きて来たことを知って居ます。東洋人は、西洋はキリスト教であり、聖書は西洋の指導書であり、そして聖書の中には世界の問題に対する救済が書かれてあるということを聞きます。若し西洋諸国の結ぶ実

[9] が聖書の導きによって結ぶ実の見本ならば、これらの見本は嫌悪すべきものです。東洋人はそんな見本を一つとして欲しません。東洋人はそう考えて居ますが、それは当然なことです。

 しかし一寸(ちょっと)の間、このように考えて見ては如何ですか?家に本があるからといって、その本が読まれているとは限りません。人が・・・その人はその本に従がっていることを示しますか?若しその人が悪ければ、その本が悪いということになるでしょうか?・・・しかし彼らの全部は良い人ではありません。・・西洋の国と同じ様に不道徳と腐敗で悩まされて居ます。また正義という点について言うならば、・・・改良すべきものが残って居ます。・・・聖典が価値の無い、悪いものであるということを意味しますか?・・・聖典はその内容に基づいて判断されるべきであって、自称の追従者(ついしょうしゃ)たちのすることに基づいて判断されるべきではありません。

 それでこのことは聖書にも関係があります、東洋の国々は西洋の国は信用出来ないと考えています。若し信用しないなら、その西洋諸国が聖書に従っていると主張することを何故信じるのですか?・・文化はキリスト教に基づいていると西洋人が言う時に、何故・・言うことを受け入れるのですか?西洋

[10] は聖書に従っていると主張しているからといって、なぜあなたは聖書を非難し、聖書は西洋の悪い行ない許していると申すのですか?公平に考えるならば、聖書に従っていると主張する人や国家のすることに基づいて、あなたは聖書を判断することは出来ません。彼らの主張は多分偽(たぶんいつわ)りでありましょう。聖書は・・・むしろ非難しているのです。・・東洋に住んで・・・西洋に住んで・・・、聖書に対する偏見を取り除きませんか?・・聖書に関していくらかの点を考え・・・・・・西洋に住んでいるならば、科学者、歴史家、または牧師は・・・偏見を抱かせた・・・しかし科学の理論は・・変り易く、歴史は絶えず訂正を必要とし、・・牧師の教えは、・・聖書の教理と反対し衝突します。・・・しかし多くの場合国家の主張することは偽りです。聖書を拒否する前に、聖書を証明するいくらかの証拠を注意深く判断してください。

 人々や国家が自分は高く、そして力ある者と考えて、弱い者や低い者を見下げる時には、キリスト教であるという彼らの主張は偽りです。というのは・・・『この世から見れば、知恵者は多く召されない。権力ある者は多く召されない。また身分高く生まれた者も・・・ところが神は知恵者を辱める為に、この世の愚かな者を選び、・・強いものを辱めるために,・・弱いものを選ばれたのである。・・・身分の低い者や賤(いや)しめられている者を選ばれた。取るに足らぬ者を選ばれた。・・取るにたる者を無力にするためである。そしてこれは、すべての人間が神の前にあって誇ることのないためである。』--コリ

[11] ント第一1:26-29。新世訳(・・・新世訳とは英文新世[界]訳です。)

 人々や国家が金持ちに特別の恩恵を示すとき、それは階級差別をつけることです。・・腐敗しており、キリスト教とは全然違うものです。『あなた方は自分たちの間に階級差別をつけ、邪曲(よこしま)な決定を言い渡す裁くものと成っているのではなかろうか?』(ヤコブ2:1-4)・・・が必要以上に自分を富まそうとするとき彼らは・・聖書の原則を踏みにじって・『実に私たちはこの世に何ももって生まれてこなかった・・持ち出すことはできない。・・食物と着物を持っていれば、・・満足しよう。しかし、金持ちになりたいと強く願う人々は、誘惑と罠・・無意味で、有害な多くの欲望とに陥る。それは・・滅びと破滅のどん底に突き落とす。』(テモテ第一6:7-9)

・・・・・聖書によればお返しの出来る者に与えるよりは、

[12] 『ご馳走をするならば、貧しい人々、不具者(かたわ)、跛者(びっこ)、盲人(めくら)などを招く方がよい彼らはお返し出来ないから、・・祝福されるであろう。』・・・利害を離れた与え方であって、エホバ神から報酬を受けるのです。-ルカ伝14:12-14。

 人々や国家は善い原則をいく度も破って居ます。・・利己的な目的を得ようとするからです。・・キリスト教ではありません。正しく聖書に従う者達はその結果がどうであろうとも、・・原則に従います。・・・しかし結果彼らのメシアは死ななければならず、彼等は神の言葉に従はなかったのです。・・大祭司は『人々のために一人が死ぬ方がよい・・とユダヤ人に忠告した。』・・・国家の利害という名の下に一人の無実な人は殺されました。(・・ヨハネ伝18:14・・・)今日キリスト教の国であると主張する国々[:キリスト教世界]は、・・利益を得ようとしてキリスト教の原則を破って居ます。自由・・・政治上の利害のために人々を苦しめたり、・・圧迫する外国の支配を支持することも・・・。干渉する国は・・・原則を破り、独裁者に権力を与えます。・・一般大衆からは憎しみを受け、・・偽善であることを示して居ます。・・国は聖書に従っていると主張するだけです。実際は・・・利己的な利害の道に従って居ます。

・・・この一つのことは確かで

[13] す。・・・神の(ことば)に従っていないということです。聖書は・・『神は不公平な方では無く、神を畏(かしこ)み正義を行なうものは民族の如何(いかん)を問はず受け入れ給う方であることを。』・・『・・唯一人(ただひとり)の人からすべての民族を作って、地の全面に・・・』そしてさらに『ユダヤ人もなければギリシャ人もなく、奴隷もなければ自由人もない。男性も女性もない。実に、・・すべてはキリスト・・一つである。』(使徒19:34,35,17:26,ガラテヤ3:28)キリストにあって一つとなっている人々の他に、地上で幸福のうちに永遠の生命を受ける・・人は・・・偏見を持って居ませんから、彼らには分裂がありません。・・・共通の愛は・・一つに結び付けます。・・・

・・・聖書は、軍事力や国際戦争が地上に平和をもたらす途(みち)であるとは認めません。・・・

[14]・・ 『戦車多きが故に之(これ)にたのみ、騎兵甚だ強きが故に之にたのむ』者には禍(わざわい)が来るとイザヤは申して居ます。・・・『剣(つるぎ)を執るすべての人は剣によって滅びる』(マタイ26:52)・・・軍備撤廃(ぐんびてっぱい)こそ聖書の教えです。『・・・裁き、・・国を戒め、遠き処にまでも然(しか)し給うべし。・・剣を鋤に打ちかえ、その槍を鎌に打ちかえん。国と国とは剣を挙げて相攻(あいせ)めず、また重ねて戦争(いくさ)を習はじ。』-ミカ4:3 。

 多くの人々や国家が聖書に従っていると主張していますが、前に述べた事から実際は・・聖書から非難されているということが明らかではありませんか?多くの人々は聖書・・・を実際に行いません。イエスは・・・『私に向かって、主よ、主よ、と言う者がみな天の御国に入るのではない。しかし天にいます私の父の御意(みこころ)を行う者は入るであろう。』(マタイ7:21、新世訳)キリスト教国の牧師と・・・宣教師の多くは、イエスの時代の偽善的な宗教指導者のようです。というのは・・・彼らが当時の偽りの指導者達に言ったことは現在の指導者にも当て嵌(はま)ります。『あなた方の言い伝えによってあなた方は神の言葉を空しくして居る。偽善者よ、イザヤはあなた方についてよくも次のように予言したものだ。『この民は唇で私を敬うけれども、心は遠く離れ、無駄に私を敬っている。というのは彼らは人の

[15] 誡命(いましめ)を教えとして教えている。』(マタイ15:6-9)聖書の命ずる・従おうとする人は迫害されます。そのことはキリスト教の国であるといっている国々で見られる状態です。

 そしてこの間違った・・・結果は何ですか?聖書に対する非難・・結果となります。・・・・宣教師はいわゆる異教の地に行きます。しかし聖書の教えを伝道せず、・・・原則を実行しません。・・加えて、キリスト教である・・国々は異教の・・勢力を伸ばし、悪い事・・圧迫を加えます。聖書は・・導きであると言っていますが、実際には・・聖書を無視しています。・・聖書に一層の非難・・・。

・・結果はユダヤ人の場合と同じです。ユダヤ人はエホバの民であると主張していましたが、神の御意(みこころ)とは反対なことをしましたので、・・・国々に散らされました。・・・神の言(ことば)を説く者でありながら、・・反対のことをするものに対して聖書は・・『・・どうして他の人々を教えながら、自分自身を教えないのか。盗んではいけないと教え・・自ら盗むのか。姦淫しては・・・自ら姦淫するのか。偶像を強く憎む者であるのに、・・宮[神殿]の物を盗むのか。律法(おきて)を誇るものが、なぜ律法を破ることによって・・不名誉をもたらすのか。「神の名はあなた方の故に・・汚(けが)[:冒瀆(新世界訳)]される」と聖書に・・通りである。』(ローマ2:21-24)聖書の友の如くに装いながら、反対のことをする者はたしかに一番大きな敵です。

[16] 彼等の偽善の故に、西洋の何百万という人々は聖書に反対するようになりました。彼等の罪の故に、東洋の何千万という人々は聖書に偏見を持つ・・・正直な人は、聖書を非難すべきではありません。また聖書は悪いことをも支持しているなどと言うべきではありません。

 それで若(も)し真(まこと)のキリスト教に従うならば、西洋の国のようになるに違いないと、東洋人は考えるべきではありません。西洋諸国を真似るならば、それは破滅の結果となりましょう。というのは西洋諸国の結ぶ実は聖書の実ではないからです。聖書は西洋の本だからと考えて、東洋人は聖書に・・・聖書は西洋の本ではなく、大部分は東洋で書かれました。神が聖書を書くために用いた人は皆東洋人(みなとうようじん)であって、聖書の中の忠実な祭司達や、予言者たちは東洋人でした。 一つの真(まこと)の宗教は東洋で発達し、最初の真の崇拝者達は東洋に居りました。キリスト教は東洋で始まったのです。聖書も、聖書のすべての背景も東洋のものです。 東洋から聖書は世界中に拡(ひろ)まりました。しかし聖書の拡まった先々で、聖書は実際に行われては居りません。聖書を研究する人は居ます、多くの人は聖書を読みます。だが聖書を無視する人はもっと多く、実際に行なっている人は殆(ほとん)ど居ません。そして非常に多くの間違った説明がなされています。

 聖書が東洋から来ようと、西洋から来ようと、それは大したことではありません。というのは聖書の著者はエホバ神だからです。神はアメリカ人でも、イギリス人でも、支那人でも、パキスタン人でもありません。神は旧教徒(カトリック)でもなければ、新教徒(プロテスタント)でもありません。神は公平な方であって、偏見を持って居ません。全然偏見(ぜんぜんへんけん)の

[17] ないということは聖書に反映されて居ます。神は新しい世への救いの道を準備しており、そしてすべての種類の人々にその道は開かれています。神は人々の神であって、単に一つの国家、一つの人種、または一つの宗教の神ではありません。神は東洋の神でもなければ、西洋の神でもありません。神は全宇宙の神であります。神の言(ことば)すなわち聖書を通じて神は御自分について語って居ます。ですから、その本の中で神はあなたに何と言われているか調べなさい。神は何を宣明されているかということについて、聖書の中で神の述べていることを知りなさい。こう書かれています『たとえすべての人が偽りであっても、神を真(まこと)とすべし。聖書にこう記されている通りである。「それは、あなたがものを言われる時に、正しいとされ、裁きを受けられる時に、勝ちを得給(えたも)うためである」』(ローマ3:4、新世訳)聖書を神の言葉として認めるときに、偽りのクリスチャン達は虚言者であることをはっきり証明し、聖書に書かれてある神の言葉は真(まこと)であると立証されます。そして正しく公平に判断されるとき、聖書は認められるでしょう。

  どのようにして私達は聖書を得ましたか?

 しかし聖書を真のものとして認める前に、聖書の起源、年代、またどのようにして保存されてきたか、ある

[18] いは、聖書は真実のものであるか、そして近代の知識の光に照らして正確なものかどうか知り度(た)いと思う人は多いようです。それらを知って、人々は聖書の約束している新しい世を信ずる基礎が得られます。聖書は66の小冊子が集められて、一冊の大きな本となって居ます。すなわちそれは聖書です。『聖書(バイブル)』の文字通りの意味は『小冊子』です。この霊感を受けた小冊子は35人以上の人々によって書かれ、それを書くのはキリスト前1513年から西暦約98年まで1600年以上の年月がかかりました。最初に聖書の在る部分はヘブル語、またアラマイック語で書かれました。その他の部分は西暦一世紀の一般ギリシャ語で書かれました。今では聖書は1,125国語以上に翻訳され、地上で一番広く発行されている本です。

 ヘブル人の予言者モーセはキリスト前1513年に最初の五冊の本を書き始めました。そのことは聖書に記されて居ます。批評家たちはこの点について何時も嘲笑して来ました。批評家達によるとモーセの時には、書くことは知られて居なかったと言うのです。しかし書くことはモーセの時ばかりでなく、モーセの時より五世紀も前のアブラハムの時にも知られていました。今では批評家達もこれを認めて居ます。書くことは聖書に記されてあるキリスト前2370年のノアの洪水のときより前にも知られていました。いろいろと書かれてある何千という粘土の板が発見されましたが、それらはノアの時にもあったものです。キリスト前約4000年も前に書き記された石碑もあると考古学者は言って居ます。そうしますと、その石碑は最初の人アダムの時代にまで達して居ましょう。遺跡・道具・碑文・石碑そして他の遺物を見て昔の人間の生活を調べる学問は考古学です。そしてこの科学は、アダム自身が字を書いたと説明しています!これは聖書の述べていることとぴ

[19] ったり一致します。『これはアダムの歴史(或いは歴史的起源)の本である』(創世記5:1 新世訳)この点について判明されている考古学上の証拠を注意深く調べますと、次のことが判(わか)って来ます。すなわちモーセ以前の昔の人々、例えばアダム・ノア・セム・イサク・そしてヤコブは粘土の板の上に歴史を書きました。それでモーセはこの昔の板から聖書の最初の本である創世記37章2節までを編集したのです。(J-P-ワイズマン著『創世記に関するバビロニヤに於ける新発見』:英文)

 モーセが死んでから、他の忠実なヘブル人たちはエホバ神の霊感を受けて書き、モーセより一千年後、預言者マラキはヘブル語聖書(いわゆる一般に言われている旧約聖書)の最後の本を書きました。それはキリスト前約442年頃でした。それから約五世紀の後、キリストが地に来て死んでから、聖書はエホバの霊感を受けて又書き続けられました。そして使徒ヨハネは、キリスト教徒ギリシャ語聖書(一般に言われている新約聖書)の二十七冊の最後の本を、西暦約98年頃に書きました。これで聖書は書き終わり、完成しました。

 しかし聖書の原本や最初の写本で今日現存しているのは一冊もありません。それでは、現在ある写本が正確であって変っていないものであるということがどうして判りましょうか?聖書の述べるところによると、非常な注意を払ってヘブル人は聖書の写本を保存して来ました。そして聖書を保存し、聖書を広く拡(ひろ)める為に写本が作られました。(申命記17:18,31:9)原本に他の事を書き加えることも、また原本から何かを取り去ることに対しても特にきびしく警告が与えられていましたから、写本家達は非常に注意して正確に写本しました。(申命記4:2,ヨハネ黙示録22:18,19)今日では約1700のヘブル語聖書の昔

[20] の写本があります。最も古い日付の写本はキリスト後十世紀のものですが、しかし1947年にイザヤ書の古い昔の写本が発見されました。これはキリスト前二世紀に書かれたものと信ぜられています。この写本はヘブル語聖書の一番古い日附のついている写本より千年以上も古いものです。しかし綴(つづ)り字とかその他のほんの小さな違いを除いては、それらは日附のついて居る写本と同じです。これは何を意味しますか?本を写すのに1000年も経って居り、しかも目立つ変化はないということです!この事実はヘブル語聖書は正確に写本され、私達のところまで伝わって来たということを疑いなく確証づけるものです。

 ヘブル語聖書の場合と丁度同(ちょうどおな)じく、ギリシャ語聖書の原本についても多くの写本を作ることが必要でありました。約四千のギリシャ語聖書の写本は原(もと)の言葉のまま現存して居ます。これに加えて、九千の写本は他の言葉、主としてラテン語で書かれ、保存して居ます。非常に古いイザヤ書が発見されてヘブル聖書は正確であるということが確認されましたが、それと同じ様にキリスト後ニ、三世紀頃に羊皮紙に書かれたギリシャ語聖書が発見され、聖書は正確であって疑う余地がないと確認されました。英国の有名な学者フレデリック-ケニヨンの次の結論に注意してください。『最初に書かれた時の時代と、現存している一番古い確証との相違は非常に少しであるから実際には全然問題にする必要がない。聖書は書かれたときと同じく正しく我々のところまで伝わって来た、ということに対する疑いの最後の土台は今や無くなってしまった。』(フレデリック-ケニヨン卿著『聖書と考古学』(英文)288頁、299頁)

[21]   

   創造と洪水

 聖書に書いてあることと近代科学の言うことはどのように比較されますか?科学者の中で聖書は非科学的であると言う人がいます。ある歴史家や、また多くの牧師さえ聖書の歴史は不正確であって伝説や神話に基づいていると言って居ます。実際にはそのような人は聖書に偏見を持っているために盲目となり、この世の知恵の光にくらまされて見ることが出来ないのです。その人達の考える力は偏見と虚栄に縛られて居ます。そして聖書に対してはいつも悪く言い、虚言(うそ)を言いますので、何百万と言う人はその人達と共に束縛されて仕舞うのです。しかし十九世紀の終わり頃からこの二十世紀の間に或る科学は次から次えと多くの発見をしました。それらの発見は悪口や嘘を引っ込ませ、聖書は真実であることを立証しています。この事実は偽りによって盲目にされた人々の目を開きそして空しい人間の臆説のために打ち壊された信仰を再び立て起こすでしょう。聖書は科学的にも真であると証明している確証はますます増えて居ます。偏見を持たないで、その一部を十分に考慮し判断してください。

 聖書の最初の節はこう書かれて居ます『始めに神は天と地を創造された。』(創世記1:1・新世訳)聖書に基づかない或る宗教はこの聖句を認めません。そしてこの天と地の物質は現在あるように昔からも常に存在して居たのだと言います。これは始まりすなわち創造を否定するものです。聖書とこのような宗教とどちらの方が科学的でしょうか?勿論聖書(もちろんせいしょ)の方です。科学は地球と宇宙には放射状物質があると知って居ます。そ

[22] の放射状物質は或る定められた率で衰えます。そして最後には変化するのを止(や)め、安定して仕舞います。若しもこの物質が永久に存在していたならば、放射能はずっと昔に止まっていたことでしょう。しかし放射能は未だ止まって居ません。このことは次の説明で分かり易くなりましょう。ここに水の一杯入(いっぱいはい)っている桶(おけ)があります。その桶の底に穴を開けます。水は流れ出て来ましょう。そして時が経てば、桶は空になります。しかし水が穴から流れているのを見れば、その桶は水の流れている状態で永久に存在していなかったということが判ります。若(も)しその桶が永久に存在していたものならば、水はずっと前に出尽くしていたことでしょう。同じように、若し地球と宇宙が永久に存在していたならば、放射能はずっと以前に全部消えて無くなっていたことでしょう。又宇宙はだんだん止まって行く時計のようだと科学は言って居ます。科学によれば、若し時計が永久に存在していたならば、それは現在までにはすっかり止まって仕舞っていたでしょう。ですからそれには始まりがあると科学は申して居ます。非常に多くの科学者達は創造の時について語って居ます。有名な学者であるジョージ-ガモウは『宇宙の創造』という一冊の通俗的な本を書いた程(ほど)です。

 何時宇宙(いつうちゅう)は出来ましたか?聖書はそのことを述べて居ません。科学もその点はっきりしていません。しかし、科学者の放射能時計と宇宙拡張説から判断しまして、多くの科学者は宇宙の出来たのは30億年から40億年昔の間であって、天と地の両方の物質は同じ年数のものであると言って居ます『次のように考える天文学者は多い。地球・太陽・他の遊星・遠い星・そして宇宙のその他のものは大体同じ時に創造されたのである。』(国家地理学雑誌(英文)1952年1月号122頁。)此れは創世記1章1節と一致して居ます。その節は天

[23] と地の両方は『始めに』創造されたと申して居ます。宇宙の物質が創造された時以来、創世記1章2節から2章3節に述べられている創造の週の時までの間には何十億年という年月が過ぎたことでしょう。その週とは創造の業の六日間であって、ただ地球の完成される最後の時と、また地上に生命が置かれたことに就いてだけに関係があるのです。その上それらの創造の日とは普通の24時間の長さの日ではなく、何千年にも亙(わた)る長い年月のことです。そのことは聖書を注意深く研究しますと判(わか)ります。聖書では『日』という言葉が24時間よりも長い事を意味することがしばしばあります。--ペテロ第二3:8。

 若(も)し創造があるならば、創造者がいるに違いありません。丁度家(ちょうどいえ)があるならば、必ずその家を建てたものが居るのと同じことです。美しく建てられた家は、建てた人の能力を表わします。それと同じく私達の周りの創造の驚異は、たとえ私達の肉眼をもって創造者を見ることが出来なくても、創造者エホバの智と力を表わして居ます。(ローマ1:20-25。ヘブル3:3,4。)有名な学者アルバート-アインシュタインは宇宙の秩序に強く心を打たれましたので、新しい理論を発表して、次のように述べました。なお、その理論は宇宙に於ける単なる偶然とか不安定に反対するものです。『神が宇宙を骰子遊(さいあそ)びしているとは私たちには信じられない!』(ニューヨーク-タイムズ、1953年3月30日)

 聖書が神の創造について話す時、それは正確です。聖書が書かれた時代の昔の人は、地球の形について、また地球を支えることについて奇妙な考えを持って居ました。エジプト人は地球は五本の柱で支えられていると考えました。しかし何がそれらの五本の柱を支えましたか?ギ

[24] リシャ人は彼等の神の一人であるアトラスが地球を支えていると考えました。しかしだれがアトラスを支えましたか?他の人たちは地球は一匹の象の背の上に支えられて居り、そしてその象は宇宙の海を泳いでいる一匹の亀の上に立っていると考えました。(ハリー-リマー著『科学と聖書の調和』(英文)92,93頁、)地球は人類の目に見える様なもので支えられていないという事を科学は知って居ます。聖書もずっと以前にそのことを知って居ました、すなわちエホバは『地を物なき所に懸(か)けたもう。』(ヨブ記26:7)ずっと以前に聖書は科学者が現在知って居ることを述べていました、すなわち人間には宇宙の拡(ひろ)がりを測ることも出来ず、地球の基(もと)いを理解することも出来ないということです。(エレミヤ記31:37)人間の作った望遠鏡の中で最も力のある望遠鏡は20億光年(一億光年とは約6,000,000,000,000マイルです)を見ることが出来ます、しかし宇宙の果てを見ることは出来ません。人間には引力についても、また引力の作用が行われる引力界をも理解出来ません。昔の人は地球が平らであると考えましたが、聖書は、エホバが『地球の円』の上に坐られていると述べて居ます。(アメリカ標準訳)『円』と翻訳されたヘブル語はフグです。そしてダビドソンの索引によれば、それは『球』とも翻訳されます。それでイザヤ書40:22をモハットは次のように翻訳しました。『彼は円い地の上に坐られている。』これはキリスト前8世紀の時に書かれました。その当時には人々は、地球は平らであると考えていたのです。

 創造についての聖書の説明を証明する有力な確証がここにあります。在る時期に、熱した地球はガスと水蒸気で覆われていて、地球の表面は暗黒であったと科学は申して居ます。地球が冷えるにつれて、水蒸気は凝結(ぎょうけつ)

[25] し、地球全域に及ぶ海を作り、大気が出来、拡散していた光は地の表面に達しました。その後に乾いた土地は出来て、水の中の植物や陸地の植物は始まりました。それから原始的な草のようなものが出来、種子(たね)を結ぶ草が出来、果の中に種子を結ぶ木が出来ました。この時期では、地球は丁度地球全体が一つの大きな温室のようであって、その植物の種類は北極帯から南極帯のものまでを含んで居ました。大気がだんだんに澄むにつれて、太陽・月・星の外形が地球の表面からでも・・・。温暖な季節が始まりましたが、暖かい気候帯は現在よりも極地近くまで拡がっていました。植物の後に動物が現れました。・・水中に住むもの、次に空を飛ぶもの、最後に陸上の哺乳動物(ほにゅうどうぶつ)です。人間は一番最後です。さて驚くような真理とは次のことです。すなわち聖書の最初の本、創世記の第一章ではこれと同じ出来事が同じ発生の順序で書かれていることです。科学者たちはこのことを極く最近に学んだにすぎません。この聖書の章を書いた人は昔どのようにしてそれを知りましたか?想像してそれを書いたのだとは不合理です、というのはそんなことは百万の中(うち)に一つあるかないかの偶然でありましょう!宇宙すべての創造者である神から霊感を受けるか、または知らせてもらうかによって、そのことを知ることが出来たのです。

 この聖書の同じ章はいろいろの生物が創造されたことを示して居ます。そして又生物が繁殖(はんしょく)した時に『その類に従って』繁殖したと述べて居ます。進化論者は生命は命の無い地球からヒョイと出来上がったものであると申して居ます。ですが生命は現在出来ませんし、進化論者は研究所で生命をつくることが出来ません。彼等によると、簡単な最初の形は、それが繁殖するにつれて、変って新しい形になり、更に繁殖して、変化し複雑な

[26] 形となり、今日知られているような植物や動物の形になったと申して居ます。真(まこと)の科学はこの理論を支持しません。化石とか、また地層や地の岩の中(うち)に発見される生物の昔の遺跡(いせき)は多くの異なった複雑な生物(せいぶつ)が突然に現れ、それらの生物の前に簡単な生物は居なかったことを示して居ます。またこの化石は一つの形から次の形へというような遅い変化や、進化を示して居ません。昔の化石は、類としては現在生存して居るものと同じです。聖書は生命は『その類に従って』その子孫を産み出すと言って居ますが、真(まこと)の科学はその点を確証して居ます。(創世記1:11,12,24,25。新世)科学者の中で進化論は証明されて居無いし、また証明することの出来ないものであると認める人は多く居ます。(進化論と聖書について、更に深く考察したい時は、ものみの塔協会の冊子『進化論対新しい世』を参照してください。)

 聖書の創造と大洪水の物語はバビロンの伝説から来たのであると言って聖書批評家は聖書にケチをつけます。しかし考古学の科学はこの非難を真っ向から否定して居ます。考古学は次のように示して居ます、すなわち約六千年前最初の人アダムは創造について書き、そして約四千年以上前にノアとその息子たちは洪水の事実を記録しました。それは未(ま)だバビロンが存在した時よりも以前のことです。世界的な大洪水の後、人々は散りましたが、その時に、洪水についての誇張され、ゆがめられた物語が出来るようになりました。またいろいろの宗教の発生と共に、新しい偽りの神々も出て来ました。一神教とは一つの神を信仰することです。また多神教とは多くの神々を信仰することです。一般に多神教が最初であったと言われていますが、一神教が最初にあったのです。時代を古く遡(さかのぼ)れば遡るほど、昔の人は少ない神々に信仰を持って居ました。スメリヤ[シュメール?]人を例にとりま

[27] しょう。スメリヤ[シュメール]人は考古学上では、おそらく最も古い民族です。彼等の文化の終わりには五千の神々が居ました。しかし最初の頃には唯だ一つの神、空の神が居ただけです。清い一神教、それから創造と大洪水に関する正しい記録は最初にありました。後になってこの記録は不純になり、多神教や、また信頼出来ない伝説になったのです。(チャールス-マーストン著『聖書は生存する』(英文)(六版)20,21,189-200頁。)しかし聖書には真(まこと)の記録が保存されて居ます。それらは不純のものではありません。

 しかしまた、そんなにも多くの異なった伝説があるということは、実際に洪水があったからそのような伝説が生じたということを強く確証づけるものです。あらゆる国の言い伝えを調べますと九十以上の似かよった物語があります。調査されたどの種族も、その昔話の中に大洪水に就いての話を入れて居ます。これらの伝説は各国の異なった洪水に関するものであって、ノアの時代の大洪水に関するものではないと言うことは適当ではありません。それらは聖書に書かれてある大洪水だけに見られる或る大きな点で全部一致して居ます。それらの伝説の中で共通点を持っているものは多くありますが、ほとんど全部の伝説は生存者が避難した一艘(いっそう)の方船(はこぶね)について、また方舟の外に居たすべての生物は水で滅ぼされたことについて、そして人間の種族が保存されたことについて述べています。(ビー-シー-ネルソン著『石に書かれてある洪水物語』(英文)166-168頁、ハリー-リマー著『科学と聖書の調和』(英文)222,223頁、)

 地質学とは特に岩に記録されている地球の歴史と、その生物の歴史を研究するものです。地質学は大洪水を支持しています。海の貝は高い山々の上に発見されて居ます。洪水によって生物は滅ぼされましたが、このこ

[28] とは生物の遺跡が沢山に残っている地球の地層に、はっきりと表われています。マンモス象の場合を見ますとマンモス象は不意に滅ぼされたようです。マンモス象の腹の中やまた口の中にさえも青草が発見されて居ます。災害はマンモス象が食物を食べている時に突如としてやって来たのです。そのようなマンモス象は何千何万も遠い北部の地方で土の中に凍っている状態で発見されます。その地方は現在では草が生えて居ません。(『石に書かれてある洪水物語』(英文))このことは洪水以前にはもっと暖かい気候が極地の近くまで達していた事を示します。現在の気候では駄目ですが、植物も動物も以前は極地の近く迄入り込んでいたという事を科学ははっきりと認めて居ます。(『近代科学とクリスチャンの信仰』(英文)21頁、ジョージ-ガモウ著『地球の生物学』(英文)171,218頁。)何故気候の変化があったのですか?ノアの時の洪水のためです。聖書によれば、上にある『大水の天蓋』が物凄い雨となって降り注いだので大洪水になったと示されて居ます。(創世記7章11,12節、新世訳)創造の三日目に地球全体を一つの大きな温室とした重い天蓋は四日目になると薄くなり、季節と気候帯は温暖なものになりました。それでノアの時代にこの天蓋の残存していた部分がすっかり落ちてしまったために、現在のきびしい季節が生じたのです。天蓋がありませんから、太陽の光は何等妨(なんらさまた)げられません。ですから太陽の光は強くなり、極地と赤道との間に温度の差を非常に大きくしたのです。

 気候がそのように変化したことは人間の寿命にも影響したことでしょう。大洪水の前に人間は何百年も生きていたと聖書は示して居ます。しかし洪水の後に人の寿命は急速に短くなりました。聖書はそれが何の理由であるか述べていませんがそれについての適当な説明を科学はして居ます。或る科学雑誌はこう述べて居ます。

[29] 『年をとるということ、すなわち何故植物や動物や人間が年老いるかという理由は、宇宙線の放射に多く晒(さら)されているからではなかろうかと考える人も居る。』(『通俗メカニックス』(英文)1949年8月号。)両親を宇宙線に晒(さら)すとその子孫は変化が生じ、その変化は有害なものであるということは知られていることです。(イー-エー-フートン著『猿人間そして痴者』(英文)、『科学のニュースレター』(英文)1950年11月4日号。)洪水以前には水の天蓋(てんがい)は宇宙線をいくらかは喰い止めたことでしょう。しかし洪水后(こうずいご:後)に天蓋が無くなってから、多くの宇宙線は地上に来るようになりました。ですから前の科学の見方が真(まこと)ならば、洪水の後に急速に年をとることについて、また方舟を出てから、各々の類の中での植物や動物の変種の増加についても説明出来るでしょう。

 それから叉、洪水については考古学の方でも或る証拠があります。昔の石碑には非常に多く『洪水』や『洪水前の時代』そして『洪水前の碑文』について述べられて居ます。(H-ハリー著『ポケットハンドブック』(英文)(19版)76-79頁。)洪水後17世紀以上

[30] 経ってアッシリヤの王アシャバニパル(聖書ではエズラ書4:10でオスナパル[文語:現行新世ではアセナパル:塔出版物ではアシュルバニパル]と呼ばれています)は非常によろこびながら次のように叫びました『洪水以前の石碑の碑文を読んで非常によろこばしい』17世紀経った後でも、その洪水について定義する必要が無かったのですから、その洪水は非常に有名なものであったに違いありません。それは明らかにあの大洪水でした。近東のいろいろの場所で洪水の土の堆積が発見されて居ます。その中でも最も有名なのはカルデアのウルにあるものでしょう。考古学者が古代文明の残っている遺跡を掘っていた時に、突然に全く汚れのない粘土の地層にぶつかりました。その粘土の地層は水があったために、そこに作られたものであって、8フィート以上の厚さでありました。その粘土の層の下に人が住んでいたということを示すものが発見されました。しかしそれは前のものよりずっと古いものです。洪水はこの粘土層を堆積し、生命をしばらくの間中断しました。このことはスメリヤ[シュメール]人の石碑によっても証明されています。スメリヤ人の石碑には伝説的な王の統治が記されて居ますが、それが中断されて居り、その中断は洪水のためであると説明されています。(レオナルド-ウーレー著『カルデアのウル』(英文)17-23頁。)土の堆積はノアの時代に洪水があったことを示す証拠であるとは必ずしもすべての考古学者は認めて居ませんが、しかし多くの有名な考古学者は認めています。

   聖書に就いてのもっと多くの考古学的証拠

 洪水後130年以上経ってから、エホバに反対する人たちがシナルの平地に一つの宮[神殿]の塔を建て始めました。

[31] それは彼等を一致結合させて神に反対させる為でした。彼らを止めさせるために、エホバは彼等の一つの言葉を乱して多くの言葉にいたしました。それで彼等は互いに理解することが出来ず、その仕事は止まり、人々は散らされました。(創世記11:1-9)その未完成の塔はバベルの塔と呼ばれました。考古学者はバビロンでその様な宮の塔の遺跡を数ヶ所で発見していますが、しかしどれが原(もと)の塔であるかははっきり判(わか)りません。伝説によるとバベルの塔はボ[ル]シッパにあります。その場所はバビロンの中心から10マイルの処(ところ)です。(『ポケットバイブルハンドブック』(英文)82ページ、ジー-アール-タボイス著『ネブカデネザル』(英文)46,47,69,70頁。)この巨大な塔の一部は現在でも残存して居ます。しかし原(もと)のバベルの塔の遺跡はバビロン市の中にあると考える人は多いようです。それは『キリスト前3千年に建て始めたものであってネブカデネザルの統治の時までには完成しなかった』と考えられて居ます。(『聖書についてのウェストミンスター歴史地図』(英文)25ページ。)英国博物館の幹事であるジョージ-スミスは古代の石碑を発見しました。その石碑には次のように書かれて…『この大きな塔を建てたことは神々を怒らせた。一夜にして神々は彼等の建てたものを打ち壊した。神々は彼等を遠く散らした、そして彼らの言葉を奇妙にした。神々は彼等の発展を阻止した。彼等はバビロンのために熱い涙を流した。』(『ポケットバイブルハンドブック』(英文)82,83頁。)聖書…石碑とは別に、バビロンについて書いた何世紀も後の歴史家達は昔の人々の事を次のように言って居ます。『彼等は天にまで登るために大きな塔を建てた。しかし神は風を吹き起し彼等の計画を無にした。そして異なった言葉を生ぜしめた。それでその都市はバビロンと呼ばれたのであ

[32] る。』(『ジョージ-ローリンソン著『聖書に関する歴史的証拠』(英文)70,278頁。)

 バベルの塔の出来事より3世紀以上経って、ロトとその家族はソドムを逃れて『硫黄と火』の破壊的な雨から脱出しました。エホバは悪い『其の地方の都市』を滅ぼすために『硫黄と火』を降らせたのです。その地一帯は『シデムの谷、すなわち塩の海』と呼ばれました。其処(そこ)には瀝青(れきせい)の坑(あな)やアスハルトの堆積(たいせき)がありました。ロトとその家族が逃げた時に、ロトの妻は後ろを振り回(かえ)り、塩の柱に変わりました。ロトは…子孫はモアブ人、アンモニ人となりました。(創世記13:12,14:3,10,19:1-38。新世訳)…出来事が確認されるでしょうか?

 聖書はシデムの谷が塩の海になったことを述べて居り、その場所をはっきり示して居ます。南部の部分は浅く現在水に沈んでいる森林は、水がいつも其の地を覆っていなかったことを示しています。『その地方の都市』が其処にあったことは明白な事です。塩と硫黄の堆積もありますが、アスハルトの堆積は今でも其処にあります。考古学者は次のように言って居ますが、それは非常に重要な意味を持って居ましょう。考古学者によると、其の地の住民は突如として居なくなりましたが、その時は大体聖書が火の破壊について述べている時期です。またモアブ人の文化はその後間もなく近くの山々で始まりました。その山々にロトは二人の娘と共に逃げたのです。(『聖書考古学者』(英文)1942年5月、エム-ジー-カイル著『ソドムに於ける発掘』(英文)75-80ページ。)

 この事を明白にする或る引用文は項申して居ます。『文学、地理学、そして考古学の証拠を注意深く調

[33] 査すると次のような結論に到達する。すなわち不名誉な『低地(くぼち)の邑(まち)』(創世記19:29)は現在水の中に沈んでいる地域にあった。その地域は死海(塩海)の南部の水が徐々に増水したので水の中に沈んだのである。その邑(まち)は大地震や、爆発、電光、自然ガスの燃焼、そして大火によってすっかり荒廃してしまった。トランスヨルダンで以前には賑やかであった居留地や要塞は、キリスト前1900年頃、用いられなくなった、というのは或る知られない理由で人々は町に住むことを止め、再び遊牧の生活に戻ったからである。』(『古代過去よりの光』(英文)126頁。)聖書の年代を調べますと、この破壊が起こったのは、キリスト前1919年より少し後(のち)であるということが判ります。考古学はその年代を確かであると証明して居ます。

 地質学者の見解をここに引用してみましょう『地質学者はこの地がアスファルトで燃焼された地域であるということを発見した。…………そのような状態の起こるところでは、莫大(ばくだい)なガスの堆積(たいせき)があるものである。地質学者によれば、はっきりした判明しないときに、この地に於いて莫大なガスが爆発した。地質学者にはその方法は判らないが、それは非常な爆発であった。最初は大激動であったが、後に地層は鎮まった。破裂した地層の特質も今では研究され、非常に興味深い結論が得られた。低地(くぼち)の低い部分に沿って、塩の岩石の大きな層がある。その塩の岩石の層は低地(くぼち)の西側にある大きな塩の山(現在のジュベル-ウスダムとして知られれている)に表われている。その山の麓(ふもと)には150フィートの厚みのある塩の岩石の層がある。それは殆(ほとんど)ど純粋な塩であるが、違った厚みの層を形成して居る。散在する多くの硫黄で出来ている泥灰土があるが、それは塩の層の混入していたり、……

[34] ・・ガスの爆発が起こった時に、この硫黄の混入している塩の層は他の層と共に破裂し、塩と硫黄は天に向かって赤く灼熱して吹き上がった。そしてソドムとゴモラやその地方全体に降り注いだ。それは聖書が天から火と硫黄の雨が降ったと述べている事と全く同じである。塩と硫黄の混合していたものにアスファルトがあったが、それも非常な高温に熱せられたであろう。……避難民の一人はポンペイの避難民のように長くぐずぐずしていたので、降り注ぐ火と硫黄に巻き込まれ、塩に覆(おお)われて仕舞った。その状(さま)は丁度付近の山々の頂上が今日に至るまで塩に覆われているのと全く同じである。』(ソドムにおける発掘』(英文)127,134頁、『聖書に関するウェストミンスター歴史地図』(英文)20,26,65,66頁。)

 一科学雑誌は前述のことを真であると証明しています。そして爆発が始まったのは電光によったのだと申して居ます。或る歴史家達はその地方が水に覆われる以前にその地の廃墟を看ましたが、その科学の雑誌はそれら歴史家達を正しいと証明して居ます。ギリシャの地理学者ストラボはキリスト前の時から西暦一世紀にかけて、その頃のことについて書きました。ユダヤ人の歴史家ジョセハスは西暦一世紀の人でした。彼らについてその科学雑誌は次のように述べています。『ジョセハスは明らかにその災害の場所を訪れた、というのは彼によればソドム人とソドム人の土地に就いてこの物語は十分信用の置けるものであって、彼の観察したことと一致していたのである。以前の著者たちは天から降ってきた火について話しているが、雷と電光がジョセハスの物語に入っている。ストラボは火事や燃焼の跡、そしてまた破壊された町の遺跡を見たと言っているが、ジョセハス[ヨセフス]はストラボの言っていることを支持して居る。ストラボはここかしこで荒廃した居住地を見たが、

[35] ジョセハスはまた五つの都市の『痕跡(こんせき)』は見られると言っている。西暦一世紀の時には低地全部が水の下に沈んで居なかったようである。』有名な歴史家タシタス[タキツス]も彼の本の中でその地方に関する報告を書いて居ます。(『聖書考古学者』(英文)1943年9月、ジョセハス[フラヴィウス-ヨセフス]著『古代事物』[ユダヤ古代誌](英文)第1巻25:4、『戦争』[ユダヤ戦記](英文)第4巻8:4、タシタス[タキツス]著『歴史』[Annals:歴年代記](英文)第5巻7章。)

 キリスト前1,473年にイスラエル民族はエジプトの束縛から解放され、ヨルダン河のところに来て、その河を渡って神の約束した土地カナンに入ろうとして居りました。(カナンは現在のパレスチナのことです)聖書によると川の水は流れは止まり、堰止ったので、イスラエル人は乾いた河床を渡る事ができました(ヨシュア記3:14-17,4:18)……

 河を渡った後、エリコの石垣は崩れ落ち、イスラエル人は町を占領することが出来ました。その石垣の一ヶ所は崩れずに立ち残っていました、というのはその場所に忠実なラハブの家があったからです。また町は詛(のろい)の下にあり、イスラエル人はその町を掠奪せず、焼きました。その町を再建した人は誰でも詛はれました。(ヨシュア記2:15,6:5,17,18,20,22-24,26)聖書にはすべてのことが書かれてい

[36] ます。そして考古学はそのことを確かであると証明しています。ガースタング教授は西暦1930年にエリコの発掘を始めました。教授によるとニ重の石垣が傾斜に沿って崩れ落ちていることが判りました。丁度目に見えない一つの手で平らにされたようでした。石垣の一部は未だ立って居ました。そこは恐らくはラハブの家があったところでありましょう。残っているものを見ますと、その町は異常にひどく焼かれたということがはっきり判ります。その町が掠奪(りゃくだつ)されなかったということは、ナツメ椰子(やし)、大麦、オート麦、オリーブその他の食糧貯蔵品が発見されていることから判ります。それらは全部火のために、炭のように黒く焦げていました。それに約五百年後までにはその町の再建は実際に行なわれませんでした。(『エリコ物語』(英文)136,141,142,146,150頁、『聖書は生存する』(英文)85-89頁。)再建された時は大体イスラエルの王アハブの時ですが、聖書はその時に町は再建されたと述べて居ます。--列王記第一16:33,34。

 エリコを攻略したことを始めとしてへブル人はカナンの土地を占領してゆきました。カナンは神がヘブル人に与えた土地です。ヘブル人がやって来て、その土地の人々の心には非常な恐れが生ずるということは前もって予言されていました。(出エジプト記15:15。申命記2:25)ラハブやカナンに住んでいた人々は予言の通りであったと証明して居ます。(ヨシュア記2:9,-11。5:1。9:4)考古学はこのことを確証して居り、またへブル人がカナンを征服した時を示しているようです。その当時カナンはエジプトの支配の下にありました。そしてカナン全地に散在していた町の王達はエジプトに依存して権力を受けていました。エジプトのテレルーアマナという所で助けを求める嘆願状が発見されました。これはカナンの町の

[37] 王達がエジプトに宛てて書いたもので、ハビル人の侵入の事を告げて居ます。エリコに近いエルサレムの町の王は特に切願して居ました。その王は次のように書いて居ます。『ハビル人は王の町々を取っている。彼らは王の土地を全部荒らしている。今年軍勢が居るならば、すべての土地は王のものとして残るであろう。しかし、若(も)し軍勢が来なければ、王の土地は失われるであろう。』(エー-レンドル-ショート著『近代発見と聖書』(英文)155頁。)

 はっきりとした確信をもっては言われませんが、考古学者の中で、ハビル人はヨシュアの指導の下(もと)にあったヘブル人であったと信ずる人が多くいます。ヨシュアと言う名前すら一つの手紙にあらわれて居ます。この点に関してある学者はこう述べて居ます。『かりに偶然というものがあるならば、歴史的な人物ヨシュアの名前がアマナの手紙に述べられているということは偶然すぎる程(ほど)の偶然である。名前、場所、そして時代を考察すると歴史的人物のヨシュアとその書かれているヨシュアとは全く同じであると結論せざるを得ない。』(イナス著『過去の不思議な声』(英文)64頁に引用されている、オルムステッド著『パレスチナとシリアの歴史』(英文)197頁。マーストン著『聖書は生存する』(英文)64頁。)

 聖書の歴史は単なる神話であり、聖書には全然生存しなかった王の名前が多く記されているといって、聖書批評家は聖書を常に非難して居ました。考古学の一書物に拠ると、聖書はイスラエルとユダの王たちの他に47名の君主の名を記しているが、しかしそのような名前は一般に歴史には述べられていないということです。それで、もともと偏見を持っている批評家達はこれらの君主は全然存在してなかったのだと言います。この点に

[38] 関し、その本は次のように述べています。『この理由のために「高等批評家」の学問ある指導者はこの47人の君主を神話の部の中に追いやって仕舞った。彼らはこの47人の君主を「旧約聖書の昔話と伝説」に出てくる者の部に入れて仕舞ったのである。そしてこの間違った学派は、この点が聖書に関して最も弱いところであると誤って教えたのである。だがこの問題となった君主たちは考古学的復活に於いて次から次えと死人の中から甦り始めた。ある場合は埋葬の塚が発掘された。他の場合には年代記の記してある牌札(ひさつ)、境界標、または君主の名前が彫(きざ)まれている大きな建物が発掘された。それで、以前には昔話に出て来る人物と考えられていたこれら47人は現在では「神話」の部から出て、確定された歴史の記録の中に入っているのである。』(ハリー-リマー著『死人は語る』(英文)22ページ。)ここでもまた考古学の科学は聖書を真(まこと)であると証明しているのです。

 考古学が聖書の正確さを確証している方法は何百となくもあるのですが、紙数の関係上その他の事実を記すことは出来ません。しかし、ここに考古学者または他の学問の権威が述べた事を引用してみましょう。ヘブル語聖書についてこう述べられて居ます。『旧約聖書に書かれてある物語は細かい点に至るまで非常に正確である。正確ということについて、現在では、あるいはそのことを否定することが出来るかも知れないが、間もなく否定出来なくなるだろうと私は思う。今まで伝説と見做されて来た事柄も最近の発見によって歴史的なものと言う事が判った。……全ての物語の後ろには実際の歴史が在る。』(ジェー-ガロウ-ダンカン著『最近のパレスチナ考古学の光における旧約聖書の正確』(英文))『次のことを述べるのは適当なことである。すな

[39] わち十九世紀の後半に旧約聖書の或る部分はいろいろの批評によって攻撃を受けた。しかし考古学の証拠は聖書の権威を再建しており、また聖書の背景と状況についての更に深められた知識を得ることによって、聖書を合理的なものとし、聖書の価値を高めているのである。考古学は未だ最後の言葉を言っていない。だが今までになされた結果から判断すると、信仰の示すところのものは真実であるということは確かに証明される。すなわち知識が増加すればするほど聖書は有利になる一方である。』(『聖書と考古学』(英文)279頁。)

 聖書全体に関係して述べられていることを次に引用しましょう。『聖書の中の問題となっている大きな点は全部歴史的であると証明されている。』(ダブリュー-エフ-アルブライト著『考古学とイスラエル』(英文))『聖書の述べていることについて、考古学は否定出来ない証拠を有している。聖書の中に書かれてある土地で、古代の墓や埋没された都市を鶴嘴(つるはし)や鋤(すき)で掘ったが、数え切れない程の発見物が得られた。それらについての詳細な研究は間違い無く聖書を支持するものである。』(ジェー-エー-パートン著『考古学と聖書』(英文))『この著者は以前に創世記を熟読した。そして50章ある中でどの章も、或る考古学者の発見によって説明されているか、または証明されているということが判明した。旧新約両方の聖書の他の大部分も同じく真(まこと)であるということが言えよう。』(ジェー-ピー-フリー著『考古学と聖書歴史』(英文)340頁。)聖書に関しては非常に多くの考古学上の発見物がありますが、それらについて一人の考古学者は次のように申しております。『これらの驚く程多くの証拠を一緒に量ったなら恐らくなんトンもの目方になるであろう。従がってその数を計算するならば途方も大きなものとなろう。しかしその中に、聖書の本の一行でも否定するか、またはそれと反対する言

[40] 葉や証拠はただ一つも見当たらないのである。(『死人は語る』(英文160頁。)

 終りに引用する次の三つは聖書の高等批評に関するものです。そして高等批評の間違いである事を示して居ます。『ダニエル書が歴史的に正しくないという主張は、歴史によって証明されていない。その主張は、単に一般の歴史家の不十分な記事と合致する事が困難と思われたからなされたのである。歴史的に不正確であると言う主張は、クロス時代の知識が増すにつれて弱まって来た。………この時代の知識が増すに連れて、我々は非常に慎重でなければならぬ、そして聖書の記録が歴史的に正確であるかどうかなどとみだりに疑うべきではない。』(『ウェストミンスター聖書辞典』(英文)130頁。)『最近十年間に聖書に関する考古学の科学は聖書批評はその前提に於いて誤っており、その結論に於いて間違っていることを示している。』(チャールス-マーストン卿著『旧約聖書に関する新しい証拠』(英文))『最も才気に溢れた現代の考古学者の一人は世界最大の大学の一つで代表しイラクで次のように語った。「私は『高等批評家』に育てられた。その結果聖書に出ている初期の物語に関する実際の真理を信じなかった。何千と言う書碑を私は読んで、解明してきたが、学べば学ぶほど聖書は真(まこと)であることを信ずるのである。」(『創世記に関するバビロンの新発見物』(英文)140頁。)

    聖書と医科学 (若(も)し特に支持されていない場合は、この節の参考資料は『近代科学とクリスチャンの信仰』(英文)の第8章と『近代発見と聖書』(英文)の第5章から引用されて居ます。)

[41] 今日の原始的の人々のように昔の人は病気と治療について奇妙な、そして迷信のような考えを持って居ました。モーセ以外の人たちは医術について殆(ほとん)ど知って居ませんでしたが、どうしてモーセは医術についてそんなに多くを知って居たのでしょうか?モーセはエジプト人の学問を良く知って居ました。傷とか外科的な事は良いのですが、医術のことについてエジプト人達が書いていることは迷信であって馬鹿げたものです。しかし細菌病の始まりと伝染を予防することについてモーセは非常な知識を示しました。これは驚くべきことです。科学者のパスツールが細菌の存在することを近代医学に示したのは丁度前世紀のことでした。しかしモーセは細菌の存在をパスツールよりもずっと以前に知っていたものと考えられます。その理由は何もそう難しいことでは在りません。モーセは他の者からではなく、エホバ神自身から指示を受けたのです。神の導きの下に、モーセはこのような事について3,500年前に書いたのです。健康についてモーセが書いたものは聖書の出埃及(エジプト)記から申命記の中に在ります。その中に書かれてある律法(おきて)は普通にモーセの律法(おきて)と呼ばれています。

 この律法(おきて)によると、蹄(ひづめ)が分かれており、反芻(はんすう)する動物は喰(た)べることが出来ました。そして鳥や魚についてまでも誡(いま)しめがありました。このことは賢明なことであると科学は認めて居ます。そしてこの類に属さない動物は清潔に飼育されるか、良く料理されなければ安全でないと科学は言って居ます。(レビ記11章)最近の研究によると豚は旋毛虫病(せんもうちゅうびょう)に罹(かか)るということが判りました。また兎は野兎病、鸚鵡(おーむ)は鸚鵡病、そして或る魚は条虫(さなだむし)を持っていることが判りました。モーセの律法(おきて)はそのような危険な食物を食べてはならないと命じて居ます。肉は検査され、若し二日以上経っている古いものであるならば喰べませんでした。若し動物が自然に死に

[42]ますと、その動物は用いられませんでした。というのは多分その動物は細菌の伝染があったか、寄生虫を持っていたことでしょう。(申命記14章21節)血を食べることは禁ぜられていました、それは霊的理由からでもありましたが、また健康の見地から見ても、禁ぜられていたことは正しいことでした。というのは、血を食べると敗血病とか寄生虫のような病気に罹ることが多いからです。--創世記9章4節。レビ記3章17節。7:26.17:11,14.19:26.使徒行伝15:19,20,28,29.21:25.

 死んだものに触ることは禁ぜられていました。もし誰かが触りますと、その人は清められねばなりませんでした。このことは特に𪘂歯類(けっしるい)の動物の場合に強調されました。(レビ記11章24-40節)死んだものにはノミ、ダニ、南京虫がたくさんついて居ましょう。そしてこの虫は腺ペスト、斑点(はんてん)熱、発疹チフスのような病気を運ぶということを現在の科学は知って居ます。ネズミは腺ペストの原因になりますが、そのことを医科学が発見したのはやっとこの二十世紀のことで、1907年の時でした。ネズミが死にますとネズミについている、疫病を運ぶノミは他の動物や人間にたかって、病気を伝染するのです。しかし聖書はこのことを何千年も以前に知っていました。疫病が流行した時に、聖書は『地をあらす鼠(ねずみ)』のことを述べています。この鼠と訳されたヘブル語は野ネズミのことをも含んで居ます。あちこちで死んで横たわっていた『鼠』は地を汚しました。そしてその鼠に付いていたノミは疫病を伝染しました。死んだ鼠が疫病を伝染したと言ったことは全く正しいことです。--サムエル第一5章と6章。

 癩病(らいびょう)は東洋の大きな疫病です。モーセは癩病については注意を多く払ったようです。そしてレビ記13章

[43]と14章にそのことを書きました。癩病を診断すること、また癩病に罹っている者を隔離させることなどについてモーセは注意を与えました。病人の衣服、寝床、そして家までも消毒されました。癩病患者は口に覆いをし、『汚れたる者』と叫ばなければなりませんでした。それは他の人たちに注意させ、傍(そば)に近寄らせず、感染させないためです。現在の療法はエステル療法ですが、モーセは多分その事をも予想して居たのかも知れません、というのはヒソプと香柏(こうはく)を用いてモーセは清めました。モーセは細菌の存在を知っていたかどうかは判りませんが、このモーセの治療の方法は細菌に良く利いたものです。またレビ記十五章には身体(からだ)からの流出のことが述べられて居ます。汚れているか、または病気を伝染させるような流出をする者達に対して、非常に強い誡命(いましめ)が与えられています。

 衛生についての措置も取られました。水の供給の場合には衛生の事が考えられ、汚れた水は病気の源であるということは知られて居ました。(列王記第二2章19-22節)若し死んだ動物が水の中に居ますと、その水は飲むことを禁ぜられて居り、流れている水または大きな水溜りは危険が無いと考えられて居ました。(レビ記11章29-36節)チブス、コレラそして他の病気は主として汚れた水から伝染されるということを医科学が知ったのはやっと五十年前にすぎません。これに関係していることは、下水が完全に処分されていたということでした。赤痢とかチブスのような病気は水を通してか、または空中を通って伝染します。そして過去に非常な苦しみをもたらしたものです。特に戦場の軍隊に害を与え、戦闘の時よりも多くの人がそのような病気で死にました。第一次世界大戦(1914-1918年)になって始めて有効な予防の注意が取られた

[44]ぐらいです。しかし簡単な治療法はずっと以前から聖書に書かれてあり、イスラエル人は3500年前にそれを行いました。--申命記23章12-14節。

 精神病の分野に於いても聖書は実際的です。山上の教え(マタイ伝5-7章)の中で、イエスはすべての人に愛を示すことを強調しました。世間一般の人はこれを弱いものであると嘲笑して居ます。しかし科学は別の見解を取って居ます。科学によると精神病の多くは愛の不足によるということが判(わか)りました。その愛とは自分自身に対する愛と、他の人達に対する愛、及び他の人達から受ける愛です。何千年も前に聖書は人々に自分自身を愛し、またそれと同じく他の人達を愛すべきであると教えています。(レビ記19:18。マタイ22:39。ヨハネ13:34)この事を述べているその記事は次のように結論して居ます。『たしかに科学者たちはイエスに追い附こうとしている。イエスは二千年前に「私はあなた方に新しい誡律(いましめ)を与える。互いに愛し合いなさい。」と言ったが、この時にイエスは人間の将来をすでに見透(みとお)していたのである。」(リーダーズ-ダイヂェスト(英文)1950年9月、115-118頁。)

 イエスの山上の教えについて、ある有力な精神病の医者はこのように言って居ます。『仮に次のことを仮定してみよう。精神病に関してもっとも資格ある心理学者と精神学者の書いた権威ある記事を全部集める事にしよう。そしてその記事を接(つな)ぎ合はせ、改良し、余分な言葉を取って仕舞う。そのことは丁度肉だけ全部取ってしまって野菜(パセリー)を全然取らないのと同じ具合である。それから最も巧みな現代の詩人達がこの交ざり物のない純粋な科学の知識を簡明に書き表すならば、大体山上の教えのあらましみたいなものが出来るであろう。山上の

[45] 教えと較(くら)べて、勿論(もちろん)それには変なところもあり不完全であるのは已(や)むを得ない。』(ジェームス-タッカー-フィッシャー博士著『少しのボタンは失われている。精神病師の臨床手記』(英文))人類にとって聖書は確かに実際的です。

   成就した予言は聖書が霊感を受けたものである事を証明する

 人間は間違います。しかし神の言葉は間違いません。人間は科学に基(もとづ)いて書きますが、知識が増すにつれて、直さなければなりません。聖書は科学的にも正しいという事を、ますます多くの人は発見して居ます。人間の歴史の中には着色してあるところや、自分の都合の良いように事実をねぢ曲げて仕舞ったところがあります。あるいは全然事実を省略して仕舞ってあります。しかし聖書に書かれて在る歴史は事件を正確に記しており、神の僕だからといって大目に見て居ません。聖書は歴史的にも正確であるということを考古学は証明して居ます。しかし別の分野で、聖書の中だけに書かれてあるものがあります。それは将来を予言するということです。人間は予言しますが、惨めにも失敗します。私達の代(だい)に於いても、第一次世界大戦は世界を安全にし、民主化するであろうと人々は言っていました。だがそうなりませんでした。国際聯盟は地上に於ける神の御国の政治的表現になるべき筈(はず)であると人々は言いました。しかしそうなりませんでした。人々の言うことによれば、第二次世界大戦は地上から独裁支配を取り除くべき筈でありました。しかしそうなりませんでした。国際連合は平和な協力の中(うち)に国々を結合することでした。しかし多くの国は東と西の群れに分裂して仕舞い、国際

[46] 連合では言葉の戦争をし、朝鮮では流血の戦争をしました。東と西の衝突の中にあって中立を保とうとする少数の国は両方側から大きな圧迫を受けて居ます。確かに人間は真(まこと)の予言者ではありません。もしも聖書の中に真(まこと)の予言があるならば、それは神の導きの下(もと)に人間が書いたものです。聖書には多くの予言の成就がありますが、そのいくらかを研究しましょう。

 バビロンの王ネブカデネザルはツロの陸の町を滅ぼしましたが、それ以前にイザヤ、エレミヤ、そしてエゼキエルのような聖書の予言者はそのことを前もって予言しました。その町が滅ぼされても、予言者ゼカリヤは矢張(やは)りツロの陥落を予言しました。何故でしょうか?なぜならば、ツロには島の町もあったからです。そしてネブカデネザルはツロのその島の町を滅ぼさなかったからです。しかしアレキサンダー大王はキリスト前333-332年にその町を滅ぼしました。滅ぼすために、アレキサンダー大王は突堤(とってい)すなわち陸橋を作り、岸から島に迄その橋を架け渡しました。この突堤は古い陸の町の残物で作られました。(『考古学と聖書歴史』(英文)262-264頁。リマー著『霊感についての内面的の証拠』(英文)202-204頁。この事はエゼキエル書の言葉を全部成就して居ます。『汝の石垣を打ち崩し、汝の楽しき館(やかた)を毀(こぼ)ち、汝の石と木と土を水に沈(しず)めん。』(イザヤ書23:1-13。エレミヤ記27:1-11。エゼキエル書26:1-14。ゼカリヤ書9:2-4)ゼカリヤがその事を予言してからは約二百年たって完全な成就は見られました。エレミヤとエゼキエルがその事を予言しからは約三百年経って居ます。そしてイザヤがその事を予言してからは400年以上も経っているのです。!

[47] 古代のニネベはアッシリヤの首府でした。そのニネベの没落する以前に、予言者ナホムは、ニネベは火と洪水と敵の軍勢によって滅ぼされるであろうと予言しました。(ナホム書1:8。2:6,8。3:13)其の後その町はカルデヤ人とメデヤ人で破壊されましたが、其の時にはチグリス河が町に流れ込み、大火が起きて破壊されました。発掘によって現在その町は知られて居ます。しかしニネベの荒廃はあまりにもひどかったので、その話しは神話のようになりました。このように録(しる)されています。『チグリス川が突然増水したので、彼らは非常な利を得た。その増水のために町の石垣の大部分は流され、町を守ることは出来なくなった。その荒廃はあまりにもひどかったので、ギリシャとローマの時代では亡びたニネベは神話のようになった。しかし町の一部はずっとその間塵芥(ちりあくた)の下に埋もれて居たのである。』エホバは予言者ナホムを用いて、ニネベの運命とその没落の状態を予言しました。(『ウエストミンスター聖書辞典』(英文)428,429頁。『ネブカデネザルの序言』(英文)を参照せよ。また『霊感につ

[48] いての内部的証拠』(英文)の204-206頁を参照せよ。)

 バビロンの就いての予言はもっと際立ったものです。キリスト前607年にバビロンはユダヤ人の国であるユダを属国としました。このことが起こる数年前にエレミヤはその事を予言しました。またイザヤはそれより百五十年以前に予言し、さらにまた、ユダヤ人は捕われから解放しました。エレミヤもそのように予言しました。エレミヤはユダは荒廃が七十年続いていてからその土地に復帰すると言いました。メデヤ人とペルシャ人がバビロンを攻略して、始めてこのことは出来るでしょう。バビロンの兵士たちは戦う戦意がなく、抵抗しない婦女子のようであろうとエレミヤは予言しました。イザヤはバビロンを征服したペルシャの将軍クロス[キュロス:現行新世界訳。英語:サイラス!!Cyrus!!]の名前すら予言し、またクロスはバビロンの門が開いているのを見出すであろうと言いました。--イザヤ書13:17-22。14:1,4,8,12-16。39:6,7。44:24-28.45:1,2。エレミヤ記29:10。51:30。

 クロスはキリスト前539年にバビロンを征服しました。これはこれらの予言の成就でした。バビロンは酒宴の最中で、その門は不注意にも閂(かんぬき)がはずされたままであり、不意を衝(つ)かれたバビロンの兵士たちは全然抵抗しませんでした。バビロンを陥落してからすぐ後にクロスは命令を出し、ユダヤ人がエルサレムに戻るのを許し、エルサレムでエホバの崇拝再び行う事を許可しました。それでその結果、キリスト前537年に復帰は行なわれました。ユダの地が荒れ果てて丁度七十年後の事でした。(歴代誌略下36:22,23。エズラ書1:1-3)現在ではバビロンは人の住んでいない全く荒れ果てた場所です。エレミヤは実にこのこと

[49] をも予言しました。『バビロンは頽塚(くずれづか)となり、山犬の巣窟(すまい)となり、詑異(おどろき)となり、嗤笑(わらい)となり、人なき所とならん。』--エレミヤ記51:37。

 人間の政府が隆盛に向い、そして没落することに関するエホバの予言は更に続いて居ります。バビロンは三番目の世界強国であって、その地位は全然変わらないように見えましたが、預言者ダニエルは第四次、第五次の世界強国が来るであろうと予言しました。またダニエルは、時が来ればそれらの強国がどのように没落するかも予言しました第四次世界強国を表わすものとして、ダニエルは二つの角を持つ牡羊(おひつじ)を用い、第四次強国を滅ぼす第五次強国として一つの角を持つ牡山羊(おやぎ)を用いて表現しました。しかし後には、その牡山羊の大きな角は折れ、四つの小さな角がその角の代わりに出来る筈(はず)でした。--ダニエル書8:3-8。

 このダニエルの象徴的な言葉は正しく解釈されます。その解釈が正しいことについては、全然疑いを挟(さしはさ)む余地はありません。『汝が見たるかの二つの角ある牡羊はメデアとペルシャの王なり。またかの牡山羊はギリシャの王、その目の間の大いなる角はその第一の王なり。またその角折れて、その代わりに四つの角生じたれば、その民よりして四つの国起こらん。されど第一の者の権勢(いきおい)には及ばざるなり。』(ダニエル書8:20-22。)ダニエルがこのような大きな予言をして何年か後に、メデヤ-ペルシャの同盟国はバビロンを征服して第四次世界強国となりました。そのことは二つの角を持つ牡羊で良く象徴されています。その予言によれば、高い角は後から来ることになって居ましたが、それも善く表わしています。というのはメデヤの国が最初に起りましたが、続いて起こったペルシャの国のほうが勢力はずっとメデヤより上だったからです。ダニエルがこの予

[50] 言を書いてから、二世紀以上経った後に、ギリシャの征服王アレキサンダー大帝が勢力を得て、メデヤ-ペルシャの両国を亡ぼして仕舞いました。しかしキリスト前323年にアレキサンダーが死んだ時に、ギリシャの第五次世界強国は四つの部分に分かれ、それぞれアレキサンダーの四人の将軍達によって支配されました。それで牡山羊の大きな角が折れてから四つの小さな角は続いて出来たと言うことはぴったり事実と一致します。何世紀も前に、そのような驚くべき予言をすることは人間にはとても不可能です!そしてこれらの予言は、聖書が神の霊感のであることを、何とはっきり証明していることでしょう!

   私達の時代に於ける成就

 エホバの聖書には、政府に関する予言がありますが、その予言は私たちの現代の政府についても述べて居ります。約1900年前にローマ帝国は第六次世界強国でした。聖書はすでに滅びた五つの強国について述べ、また第六次強国に続いて起る第七次強国について述べられました。その第七次強国は存在して居ます。しかし私たちの今日の時代について、予言は第八次世界強国の事を述べています。その第八時強国は他の七つの強国から出ることになって居ました。この第八次強国は多くの国々が集まって構成されて居ますが、それは出来てから無活動の状態になり、それから後に再び回復し、国際支配の手段となる筈でした。(ヨハネ黙示録17:8,10-14。)多くの国々から起こって来た第八次強国は国際聯盟であり、それは予言されたとおりに消滅しました。しかしまた予言されているように、国際連合として復帰しました。

[51] 現在では多くの予言の成就が見られます。その予言の成就はおもに、キリスト再臨に関係して居ます。イエスは最初人間として来ましたが、ダニエルはイエスの来られる正確な時を何世紀も前に予言しました。聖書を書いた他の人たちも、地上に於けるイエスの生活の詳細な点にいたるまで予言しました。実際に、或る聖書学者は計算して次のように述べている程(ほど)です。『旧約聖書の中にはキリストについての予言が書かれてあるが、キリストが文字通りに成就したはっきりした予言の数は332もある。』(『考古学と聖書歴史』(英文)284頁。)イエスが十九世紀前最初に来た時、予言の成就は明瞭に見ることが出来ました。それと全く同様にキリストの再臨している現在でも予言の成就は明瞭に表われて居ます。キリストは人の目では見えませんが王座に就いた王として再臨しています。その再臨の時を示すのはやはりダニエルの予言の書です。その予言の年代を詳しく述べることはあまり深く行き過ぎますので、ここでは書きません。しかし1877[:6年?バイブル-イグザミナー誌にラッセルの寄稿:ラッセルの1914年に言及した最初のもの!!出典ー「ふれ告げる人々、」、p,635頁。、…初期の出版パンフレット1877年『キリストの帰還の目的とその有様』塔出版物索引ライブラリに拠って'51-'85年の索引]年にはものみの塔の初代会長は書物を出版し、キリストの御国は1914年に完全に設立されるであろうと発表しました。キリストの再臨は

[52] 丁度風が目に見えないのと同じように、人の目には見えません。(ヨハネ伝14:19)それでイエスの弟子達はイエスに次のように尋ねました。『あなたの臨在と、この組織制度の終りの徴(しるし)はどんなものですか?』(マタイ伝24:3、新世訳)イエスは弟子達に徴(しるし)を与えました。1914年以来、その徴は見えますか?

 多くの出来事が一緒に引き続いて起こることが、王としてのイエスの再臨の徴を表わすのであるとイエスは教えました。最初にイエスは、民族は民族に、国は国に相反(あいはん)して立つような世界戦争が在ると申しました。その戦争の後に、飢饉、疫病、そして地震が多くの場所で起こります。丁度1914年に第一次世界戦争が起こりました。その戦争による破壊は非常にひどく、それ以前の戦争には全然見られないものです。しかし戦争後の飢饉と疫病の為に戦争よりももっと多くの人が死にました。地震は多く増加し、非常な災害をもたらしました。地上の人々に及んだ影響はイエスが予言した通りです。『諸国家は、海の鳴り轟きと海の動揺のために、とるべき途を知らず、不安に悩むであろう。また人々は地上に来ようとする事柄を心配し、懸念するために気を失う。』人々は地上に平和をもたらそうと努力をして居ますが、それは無駄なことです。人人は国際統治機関、すなわち国際聯盟と国際連合を作りました。しかしこれらは失敗です。これらはキリストの御国がなすことを為し得ません。--イザヤ書8:9-13。マタイ伝24章。マルコ伝13章。ルカ伝21章、新世訳。

 今日の状態を見る時に、終りの日とキリストの再臨に就いての予言はなんと完全に成就しているのでしょう!『終りの日には、非常に苦しい時が来るということを知りなさい。と言うのは人人は自分自身を愛する者となり、金を愛し、虚栄になり、高慢で、悪い事を言い、両親に不幸で、感謝の気持ちを持たず、親切な心

[53] を失い、自然の情を持たず、和解し難く、人を誹り、自制心なく、残酷で、善を愛さず、人を裏切り、頑固で、自尊心のために思い上がり、神を愛するよりは快楽を愛し、敬虔な形だけは持っているが、その力に対しては偽りであることを証明している。こういう者達からは離れ去りなさい。実際に、キリスト-イエスと共に敬虔を以って生活しようと欲するすべての人人は迫害を受けるであろう。之に反して、悪い人々や詐欺師達は、ますます悪くなり、人を誤って指導したり、されたりする。』--テモテ第二3:1-5,12,13、新世訳。

 エホバ神はこのような苦しみをもたらして居ません。エホバの敵がもたらしていると聖書は示して居ます。(ヨハネ黙示録12:12)エホバは正直な心を持つ人人に逃げ道を示して居ます。イエスが予言した通り、この古い世の終りの日、そして新しい世の始まる直前には、エホバの証者は設立された御国の良い音信を伝道します。またエホバの証者はハルマゲドンのエホバの戦いはどのように悪い地を清め、そしてその戦いはどのように終わりない平和、幸福そして生命えの道を開くかを伝道します。この伝道の仕事によって人人は分けられます。それで或る人は来る所の新しい世を認め、また或る人は反対します。(マタイ25:31-46)証者たちはこの良い音信を発表し、弘(ひろ)めて居ますが、反対者達は証者たちを迫害します。そして発表されている警告を嘲り、馬鹿にします。この世的に賢明な人は全然信仰を持たないであろうということも叉予言されて居ました。『このことを先ず最初に知りなさい。すなわち終わりの日には、嘲るものが自分自身の欲望に従がって歩みながら、嘲りを持ってやって来て、こう言うであろう。「約束された彼の臨在はどこにあるのか?私達の祖先が死んで眠って以来、すべてのものは創造の最初の時と全く同じく続いているではないか。」』

[54] --ペテロ第二3:3,4、新世訳。

 予言されていたこれらの出来事の始まりを見る世代の人人は、死なずにその終りを見るであろうとイエスは言いました。『説明として無花果(いちじく)の若い枝が柔らかくなり、葉を出し始めるとすぐに、あなた方は夏が近いことを知る。これと同じように、あなた方がこれらの事すべてを見る時に、彼は戸口の近くにいると知りなさい。まことに私はあなた方に言う、これらのことすべてが起こらない中(うち)は、この世代は決して過ぎ去らないであろう。』(マタイ24:32-34、新世訳)別の言葉で言うと、次のような意味です。これらの出来事は1914年に起こり始め、現在まで引き続いて居ますが、その時に生存している人の中で或る人はハルマゲドンの終わりの来る時にも生存して居るでしょう。そして今日神とキリストに従う人人は、悪しき者が滅ぼされる正しい破滅の中を通って生き続け、そして決して死なないという希望を持つことが出来るのです。(ヨハネ8:51)これらの重大な出来事はこの現在の世代のうちに最高潮に達します。ですから私達の時代は非常に切迫しているのです。それで、神の言[葉]は真(まこと)なることを今調査し、あなた自身で知り、証明することと、そしてまた神の言[葉]に従うことは永遠の生命か、または永遠の死の問題である訳なのです。

 聖書はハルマゲドンの後(のち)に新しい世が来ると約束しています。私たちはなんら疑うことなくその約束に頼ることが出来ます。公正な態度をもって調査した後ですから、その約束を頼らないことは愚かなことです。若し或る人があなたに百回真理を語ったとしましょう。今その人が何か新しい事を話せば、あなたは急にその人を

[55] 疑いますか?その人は嘘言者(うそつきもの)でないということをあなたは知っていて、百度以上もその人は正しかったならば、何の理由もなく、あなたはその人の誠実を急に疑いますか?その人を疑うことはなんと不合理で道理に合は無い事でしょう!この冊子の前の頁(ページ)で、聖書は歴史と科学の点で全く正確であるということが示されて居ます。さて、将来これから成就されようとしている他の予言もあります。例えばエホバの約束されている正義の新しい世に関する予言などです。過去の記録は、今までエホバの為されて来たことは真実であり、また信頼するに足りるということを示しています。このことを考える時、私達はこれらの予言が神の予定の時に成就されるということに確信を持って頼れないでしょうか?神の過去の記録は、神の将来の約束を信ずる固い基礎を私達に与えます。それで約束の成就ということを十分に信頼して、新しい世に関するエホバの約束を考えてごらんなさい。

   新しい世の生命を選ぶこと

 密林の中にあなたは庭園を作りますか?この古い世は密林のようになりました。血腥(ちなまぐさ)い軍国主義、不正の利を貪る政治家、詐取している大経済機構、偽善を行なう寄生虫のような宗教指導者達、信頼の置けない条約違反者達、道徳心のない怠慢な者達、険悪になった犯罪者達でこの世は満ち満ちています。そしてこの只中には、刺、茨、そして毒のある植物、例えば人種的な憎しみ、宗教上の偏見、国家の依古贔屓(えこひいき)、冒瀆する教え、頑固な無神論、そして神の[葉]の永遠の真理を抹殺するよう目論まれている空しい哲学が植えられているの

[56] です。確かに、この悪い世は地球上至るところ悪いことや、また悪い行いをする人人で満ちている密林のようになりました。しかしエホバはハルマゲドンの時に、これらを鋤き返して仕舞い、地上の隅隅まで、歓(よろこ)びの園といたします。密林を庭園に変えるのに、これは実際的な方法ではありませんか?

 エホバは人間を創造しました。そして人間が幸福な家庭を持ち、従順な子供達を養い育て、正しい人類で地球を充たすことが出来るようにしました。人間は地を美しい状態で保つべきでした。また人間は愛をもって鳥や、動物や、そして海の魚をも支配すべきでありました。しかし最初の人間の夫婦が神に反逆したために、神のこの目的の達成は延期されねばなりませんでした。人間は生命の権利を失いました。そして不従順でしたので、罪の価である死をもたらす結果となりました。(創世記2:17。3:3,6。ローマ6:23)ですから、その子孫達は彼らから生命の権利を受け継いでは居らず、罪と死を受け継いでいます。『一人の人によって罪は世に入り、その罪によって死が世に入った。それで死はすべての人に及んだ、というのはすべての人は皆罪を犯しているからである。』しかしちに関するエホバの目的が覆され、駄目になるようなことはありません。エホバはアダムの子孫達のために贖いを用意されました。ですから彼らは最初の両親が失ったものを再び得ることが出来るのです。『一つの罪によって、すべての人人への結果は、生命を受けるために義であると認められるであろう。』--ローマ5:12,18、新世訳。

 贖いのことをはっきり理解するために、次の説明を考えてください。一人の人が罪を行い、悪いことをしま

[57] す。そのために病気にかかります。その人の子孫も病菌に感染して、病気にかかり、この病気で死ぬばかりとなります。別の人が来ます。その人は医者です。その医者はその病気を治療する薬を持って居ます。罪を犯した人の子孫は全部病気にかかって居ますが、この医者はその薬で全部の人を治すことが出来ます。しかし一つの条件があります。それは、その子孫は処方箋に書かれてある通りのことをよろこんでしなければなりません。その医者は強制して人を治そうとしません。彼は単に治療を提供しているに過ぎません。それを受け入れる人も居りましょうし、拒絶する人も居りましょう。贖いもそれと同じです。アダムは罪を犯し、完全と生命の権利を失い、子孫に不完全と罪を伝えました。イエスは来て彼の生命の血を贖いとして提供し、自分のことを医者になぞらえました。(マルコ2:17。ルカ4:23)彼はその救済を無料で提供して居ます。しかし死の宣告の下から逃れ、永遠の生命の権利を再び得るためには、医者であるキリストによって書かれた処方箋に、アダムの子孫は従わねばなりません。彼はすべての人に強制して押しつけようとはしません。一つの薬は同じ病気に罹って悩んでいる何百万と言う人人を治すことが出来ます。それと同じように、キリストの一つの犠牲は、従順にエホバに奉仕することを好む多くの人が生命と完全さを再び得るのに十分です。

 聖書には人人への要求が書かれてあります。その要求通りに行なう人は、書き記せない程(ほど)の祝福で満ちる新しい世で永遠に生きるでしょう。権力欲に狂った政治家が人人を圧迫するということも無く成るでしょう。キリスト-イエスは『民のくるしむ者のために審判(さばき)をなし、乏しき者の子等をすくい、虐げるものを壊(くだ)きたまわん。彼は刈りとれる牧にふる雨のごとく、地をうるおす白雨(むらさめ)のごとくのぞまん。かれの世にただしき者はさかえ、

[58] 平和は月のうするまで豊かならん。』(詩篇72:4,6,7) 戦争で人間の血が意味もなく流されるということもなくなるでしょう。『エホバはもろもろの国のあいだを裁き、多くの民をせめたまわん。かくて彼らはその剣(つるぎ)をうちかえて鋤(すき)となし、その槍(やり)をうちかえて鎌(かま)となし、国は国にむかいて剣をあげず、戦闘(たたかい)のことも再びまなばざるべし。』イザヤ2:4。

 その新しい世では素晴らしい平和が、人と動物の間にも見られるでしょう。『その日には我かれら(わが民)のために野の獣そらの鳥および地の昆虫(はうもの)と誓いをむすび、また弓箭(ゆみや)を折り戦争(いくさ)を全世界よりのぞき、彼らをして安らかに居らしむべし。』(ホセア2:18)創造の時に、エホバはあらゆる種類の動物は草木を食物とすべきであって、肉を食してはならないと命じました。(創世記1:29,30)新しい世では動物は草木を食物として食べるようになり、そして素晴らしい平和が支配しましょう。『狼は子羊とともに宿り、豹は子山羊とともにふし、犢(こうし)肥たる家畜とともに居りて小さき童子にみちびかれ、牝牛と熊とはくいものを同(とも)にし、熊の子と牛の子とともに伏し、獅子は牛の如く藁(わら)をくらい、乳児(ちのみご)は毒蛇のほらにたわむれ、乳ばなれの子は手をまむしの穴にいれん。そは水の海を覆える如く、エホバを知るの知識、地にみつべければなり。』--イザヤ11:6-9。65:25。

[59] そして温順(おとな)しいこれらの生物のために、地は豊かに産出するでしょう。『荒野(あれの)と潤いなき地とは楽しみ、沙漠(さばく)はよろこびて番紅(サフラン)の花の如くに咲きかがやかん。松の樹(き)はいばらにかわりて生(は)え、岡枯樹(もちのき)は棘(おどろ)にかわりて生(は)ゆべし。』(イザヤ35:1。55:13)『地は産物(なりいでもの)をいだせり、神、わが神はわれらを福(さきわい)たまわん。なんじ御手をひらきて、もろもろの生けるものの願望(ねがい)をあかしめたもう。』--詩篇67:6。145:16。

 病気によってこのよろこびが害(そこな)われるとか、死でもってみじかくされるということもないでしょう。『かしこに住める者の中(うち)、われ病(や)めりというものなし。』『視よわれ巻布(まきぬの)と良き薬をこれに持ちきたりて人人を医(いや)す。』『神は彼等の目から涙を全部拭い去られるであろう。死はもはやないであろう。そして、歎きも、叫びも、苦しみもないであろう。以前のものは過ぎ去ったからである。』(イザヤ33:24。エレミヤ33:6。啓示21:4、新世訳)老人も居なくなるでしょう。その時には、『彼の肉は小児(こども)の肉よりも瑞瑞(みずみず)しくなり、その若き時の形状(ありさま)に帰らん。』(ヨブ33:25)何百万と言う人が復活を受けて生命に戻りますから、墓でさえも空になるでしょう!--ヨハネ5:28,29。使徒24:15。

 それはすばらしい新しい世の生命です。人々は今それを選ぶことが出来ます。それは花のように萎(しぼ)む生命でもありませんし、草のように枯れてしまうものでもありませ

[60] ん。その期間はわずかなものでなく、果てしなく永遠のものです。苦しみはなく、表現出来ない喜びで一杯です。現在の世には、痛みや悩みがありますが、それにもかかわらず人々はこの今の世を愛着するならば、猶更(なおさら)一層に新しい世に生きるように努めるべきです!しかし必ずしもすべての人はその生命を好みません。若しも喜びというものが食べ過ぎや、飲み過ぎのことであると考えるならば、そのような人はその新しい世を好みません。いつも隣人の妻を得ようと思っていたり、自分の妻を離縁しようと思っていたり、仲間の者から盗もうと思っていたり、大砲で誰かを撃ったり、火炎放射器で人を燃やして仕舞ったり、爆弾で女や子供たちをちりぢりに吹き飛ばして仕舞おうと思ったりするならば、それらの人々はその新しい世を好みません。他の人々を踏み付け、犠牲にしてまでも、出来るだけ多くの富を得ようと強く望むならば、また尊大ぶった牧師になれば人人から多くの称賛が得られるだろうと願うならば、また威張りまくる軍人になれば多くの人を命令したり、殺すことが出来るだろうと願うならば、そのような人はその新しい世を全然好みません。そのようなことは一つとして新しい世にはありません。

 しかし、これに反して、もしあなたが地を治めたいのであれば、地を変えて食物を産する場所が、美の溢れる園としたいならば、砂漠にも花が咲き出るようにしたいならば、棘やいばらがなくなって、その代わりに椰子の樹や、バナナの樹の生えるのを見たいならば、また密林や山野を正しく保護して、多くの動物の棲息地にしたり創造者を無言のうちに讃美するものにしたいならば、あなたはその新しい世を好むでしょう。若しあなたが鉄砲とか、鞭(むち)とか、棍棒(こんぼう)を用いずに、愛と相互の信頼を持って動物を支配したいならば、またもしあなたが熊と

[61] 牡牛がともに伏し、豹と山羊が食物をともにし、獅子が牛のように藁(わら)を食べる時を待ち望むならば、そしてまたすべての動物が小さな子供に温順(おとな)しく導かれる時を見たいならば、あなたは新しい世を好むでしょう。若しも剣(つるぎ)が鋤(すき)に打ち変えられ、やりが剪定鎌(せんていかま)になる時、また軍隊の学校も、戦争を学ぶ事も、爆弾を造ることも、戦争を惹(ひ)き起こす人もなくなる時、そういう時をあなたが待ち望むならば、神の新しい世に対して、あなたは神に感謝するでしょう。その新しい世に、そのような変化は起こるのです。過酷な政治支配者が消え去り、経済上の貪欲もなくなり、人人が各自の家を建て、葡萄と無花果(いちじく)の樹(き)の下(もと)で平和に住むことが出来、地は子供たちの楽しいさざめきや、鳥の朗(ほが)らかな囀(さえず)りで満ち、空気は花の良い香りで爽(さわ)やかになる時、そのような時をあなたが望むならば、あなたはその新しい世に強く心が惹(ひ)かれるでしょう。跪(びっこ)の人が牡鹿のように跳ね、唖(おし)の人が歌い、盲目(めくら)の人の目が開き、聾(つんぼ)の人が聞こえるようになり、歎(なげ)くこと、泣くこともなくなって微笑となり、涙も悲しみもなくなって、笑いとなり、痛みも死もなくなって健康と永遠の生命となる時、そのような時をあなたが心から見たいと思うならば、あらゆることにも勝って、祝福されたその新しい世に入るように努力しなさい。その新しい世にはそのような状態は永遠に存在するのです!--イザヤ2:4。11:6-9。35:1-10。55:13。65:17-25。啓示21:1,4。

   考え、そして生きるためにあなたの心を自由にしなさい

 このことは単に一個人に関してだけの重要な事柄ではありません。これは世界全体についての重要な事柄です。

[62] この古い世は死につつあります。そしてその古い世と一緒にいる人たちもそれとともに死にます。新しい世は来つつあります。そしてその新しい世の側に立つ人は、それとともに永遠に生存します。それを認めるに、あなたの心は全く自由ですか?それとも、あなたの心は馬鹿らしい偏見ですっかり束縛されて仕舞って、そのことを考えることすら出来ませんか?あなたは誇りを捨てることが出来ず、そのために滅亡へと向って居ますか?それともあなたは無意味な誇りを捨てて、正しい考え方をしますか?考えるためにあなたの心を用いますか?それとも盲目(めくら)になるためにあなたの偏見に従いますか?自由の一番の根拠は心です。しかし多くの人は間違った誇りとか、馬鹿げた偏見のために自分自ら囚われ人となっています。彼らは祖先や国家や民族や宗教や政治や、また親密な関係にある人たちの行なっている通りのことに、盲目的に従い勝(が)ちです。独立して自由に考える心の命ずることに、彼らは従いません。人々のことを心配し、人々からどう思われるだろうかなどと恐れていますから、多くの人々は、社会や国家に広く見られる偏見を固く持ち続けて仕舞うのです。多くの人々は一般大衆と妥協して、容易に怯気(おじけ)ついて仕舞います。私達が理性を持って考察して、大衆の嘲笑を敢然としてはねのけることは難(むづか)しいのです。

 そのような方法で、この悪い世の神は人人の心をくらまして、自分の支配の下(もと)に置こうとしているのです。(コリント第二4:4)この力から解放されるためには、私たちはこれらの偏見を取り除かねばなりません。その時に私達の心は自由になり、来るところの新しい世についての事がらを十二分に検討することが出来ます。しかし事実を知らせる者に対して偏見を抱くならば、非常に大切な事柄を私たちは拒絶して認めないこと

[63] になりましょう。その偏見というものは、其の人を信頼することが出来ないために、当然に生じるものではなく、ただその人の国籍、宗教、または人種を好まないということから持つ偏見なのです。そのような偏見を持てば、私たちは新しい世に入ることは出来ません、というのは、新しい世にはそのような偏見が入ることも、また存在することも許されないからです。ですから、意見の相違や、分裂、頑迷や不正、そして差別や死が二度と再び生ずることはないでしょう。もし私達が理性を有する者であるならば、また若し私達が新しい世についての証拠を十二分に判断するならば、新しい世を認めなさい。それを伝道しなさい。それに入りなさい。そして永久にそこで生きなさい。これらのことをするためには、私たちは束縛されている心を自由にし、古い世の偏見を取り除かねばなりません。

 あらゆるものに勝って、聖書は必要なものです。聖書は新しい世を信ずる基礎です。それは正しい基礎です。この冊子の前の部分に書かれてある事柄は、聖書は科学的でないという理由から生ずる聖書に対する偏見は間違いであることを示して居ます。聖書は歴史的に正確ではない

[64] という理由で生ずる聖書への偏見は同じく間違いです。聖書に従っていると主張している多くの人が悪いからといって、聖書に偏見を持つ事は、考えが浅すぎます。聖書は全然西洋の本ではないからです。天と地の大いなるエホバ神は偏見を持って居りません。エホバ神は依古贔屓(えこひいき)をしません。エホバ神は公正無私な方です。若し人が正義を愛する者で、そして自分が間違っていることを知る時に、自分の道を変える程(ほど)に柔和で謙遜であるならば、その人の国籍、人種、皮膚の色、富、貧乏、社会上の地位などは問題でなくなります。神にとって、これらのものでも、また他のどんな分類の物でも、全く重要でありません。エホバには偏見がありません。エホバに従いましょう。人や国家は偏見で満ちて居ますから、彼らに従ってはなりません。若しあなたが、この世の智慧で盲目になっている人達に従うならば、あなたは彼らと共に破滅の淵に落ち込むでしょう。(マタイ7:13,14。15:14)まことに賢い人達は、エホバの[葉]、すなわち聖書を自分自ら研究するでしょう。そして自ら聖書を説明するでしょう。聖書に従って生活し、そして新しい世を信ずる固い基礎の上にしっかりと自らを立てるでありましょう。--マタイ7:24-27。

広告ブロッカーが検出されました。


広告収入で運営されている無料サイトWikiaでは、このたび広告ブロッカーをご利用の方向けの変更が加わりました。

広告ブロッカーが改変されている場合、Wikiaにアクセスしていただくことができなくなっています。カスタム広告ブロッカーを解除してご利用ください。