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私が見た日本 編集

アメリカ兵が直接書いた日本の印象の記録

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日本のエホバの証者たち

私は日本の中で,エホバの証者は最も良い類の人たちだということが分かりました。それは私がマニラにいた時もやはり同じでした。彼らは皆,人民と国家にとって非常に危険とされるWatchtowerに所属するということで,投獄されていました。私が会った人たち全員は,少なくとも3年間は投獄されていました。東京のWatch tower事務所は,現在警察署長の家になっています。もう一つの建物は,今病院として使用されています。幾年もの間日本のWatchtowerの代表者である明石氏は,8年間拘留されていました。私がそこに到着した時,彼はまだ本州の北方で囚人のままでした。しかし全政治犯を釈放するマッカーサーの布告が出た時に,彼も自由にされました。ところが,そこで過ごした時間が彼を弱め,痛めつけたのでとても移動することなどできませんでした。私は彼と会うチャンスがありませんでしたが,彼の息子と他の家族には会うことができました。それで明石氏と日本のエホバの証者について大いに情報を得ることができました。明石氏は中年層の人物で,めがねをかけ,良い教育があり,英語を大変上手に話します。写真を見ると,投獄される前の彼は非常に健康でたくましい人のように思われます。

1938年,日本政府はエホバの証者の出版物と不動産全部を没収し,全員を投獄したということです。彼らの大部分がそこで3年間過ごしました。明石夫人は1943年にそこで亡くなりました。もう一人の人もやはり亡くなりました。他の人たちは釈放され,民間の仕事を与えられましたが,引き続き,グループの3人がお天気について話をするために寄り合おうものなら警察署に引きずり込まれ,尋問を受けるような厳しい監視下に置かれました。1938年以前には,およそ100人のエホバの証者がいました。そのうち40人はパイオニヤでした。彼らは全員刑務所で刑期を勤めました。彼らのうち誰も,自分の立場を引っ込めませんでした。証者たちの数は小さく思えるかもしれませんが,これらの人たちは異教徒で,かつ己のために考えることなど許可されない操り人形のような民族だったのだということを実感するにつれ,相当考慮に値することだと思えてきます。

エホバの証者たちと会うため,私は東京郊外の田舎のいくつかに出かけなければなりませんでした。ある箇所は,雨降りの日に行くに大変な場所でした。米の水田が広がる肥沃な田舎の田園地帯を抜けて,堤防上を歩きましたが,そこはもう大変泥まみれで,しかも風が文字通り私に向かって打ちつけてきました。それは3.2キロほどの田舎縦断旅行でした。暗闇の中を帰って行くのもいい気持ちがしませんでした。それはもう真っ暗な暗闇で,あの人たちの子どもの一人がいてくれなかったら,わたしは田園のどれかに迷い込んでいたと思います。私は未だに日本人というのは暗闇の中を透視できるのだと考えています。

こんな旅行の一つで,私はエホバの証者の他の二つの家族に会いました。別の機会には,技術会社を持っていて取り引きのために大阪から来ていたあるパイオニヤ(フルタイムの王国伝道者)に会いました。彼はかなり上手に英語を話せて,楽しいひと時を一緒に過ごしました。彼らは皆,ラザフォード判事の訃報を聞いて驚き,残念に思うと共にノア氏に対し興味を示していました。(Watch tower Societyの前会長と現会長のこと。)私は彼らに2冊のConsolationをプレゼントしました。全く文書がありませんでしたから,それらを入手できて彼らは喜んでいました。彼らは,土に埋めたタイプライターの幾つかを掘り起こしました。それはきれいで良い状態でしたけれども,印刷のためにはそれ以上のものが必要でした。

日本でエホバの証者たちと共にしたこのような体験を,他の何物にも変えがたく思います。私は彼らを助けるためにできるすべてのことをしましたし,彼らもそれを必要としていました。 

[編集者注:以降省略]

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